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高山寺
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高山寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
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概略
高山寺(こうざんじ)は、京都市右京区梅ヶ畑栂尾(とがのお)町にある寺院。山号は栂尾山。本尊は釈迦如来、宗派は真言宗?御室派系の単立である。創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基(創立者)は、鎌倉時代の明恵上人である。高雄(高尾)の神護寺、槇尾の西明寺、栂尾の高山寺を合わせ「三尾」とも呼ばれる。国宝7件、重要文化財50件を所有し、指定を受けている典籍の総数は1万点を超える。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。
高山寺(こうざんじ)は、京都市右京区梅ヶ畑栂尾(とがのお)町にある寺院。山号は栂尾山。本尊は釈迦如来、宗派は真言宗?御室派系の単立である。創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基(創立者)は、鎌倉時代の明恵上人である。高雄(高尾)の神護寺、槇尾の西明寺、栂尾の高山寺を合わせ「三尾」とも呼ばれる。国宝7件、重要文化財50件を所有し、指定を受けている典籍の総数は1万点を超える。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。
歴史
高山寺のある栂尾は、紅葉の名所として知られる高雄山神護寺からさらに奥に入った山中に位置し、古代より山岳修行の適地として、小寺院が営まれていたようである。平安時代には、近隣の神護寺の別院とされ、「神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)」と称されていた。これは、神護寺本寺から離れた、隠棲修行の場所であったらしい。高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされるのは、鎌倉時代の華厳宗の僧、明恵(1173~1232)である。明恵の父は平重国という武士であり、母は紀州の豪族湯浅家の娘であった。幼時に両親を亡くした明恵は、9歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚のもとで仏門に入った。明恵は、法然?の唱えた「専修念仏」の思想を痛烈に批判し、華厳宗の復興に努めた。「専修念仏」とは、仏法が衰えた「末法?」の時代には、人は菩提心(さとり)によって救われることはなく、念仏以外の方法で極楽往生することはできないという主張であり、これは菩提心や戒律を重視する明恵の思想とは相反するものであった。建永元年(1206)に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の額を下賜された。これが現・高山寺の創立と見なされている。「日出先照高山(日、出でて、まず高き山を照らす)」とは、「華厳経」の中の句で、「朝日が昇って、真っ先に照らされるのは高い山の頂上だ」という意味であり、そのように光り輝く寺院であれとの意が込められていると思われる。高山寺は中世以降、たびたびの戦乱や火災で焼失し、鎌倉時代の建物は石水院を残すのみとなっている。
高山寺のある栂尾は、紅葉の名所として知られる高雄山神護寺からさらに奥に入った山中に位置し、古代より山岳修行の適地として、小寺院が営まれていたようである。平安時代には、近隣の神護寺の別院とされ、「神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)」と称されていた。これは、神護寺本寺から離れた、隠棲修行の場所であったらしい。高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされるのは、鎌倉時代の華厳宗の僧、明恵(1173~1232)である。明恵の父は平重国という武士であり、母は紀州の豪族湯浅家の娘であった。幼時に両親を亡くした明恵は、9歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚のもとで仏門に入った。明恵は、法然?の唱えた「専修念仏」の思想を痛烈に批判し、華厳宗の復興に努めた。「専修念仏」とは、仏法が衰えた「末法?」の時代には、人は菩提心(さとり)によって救われることはなく、念仏以外の方法で極楽往生することはできないという主張であり、これは菩提心や戒律を重視する明恵の思想とは相反するものであった。建永元年(1206)に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の額を下賜された。これが現・高山寺の創立と見なされている。「日出先照高山(日、出でて、まず高き山を照らす)」とは、「華厳経」の中の句で、「朝日が昇って、真っ先に照らされるのは高い山の頂上だ」という意味であり、そのように光り輝く寺院であれとの意が込められていると思われる。高山寺は中世以降、たびたびの戦乱や火災で焼失し、鎌倉時代の建物は石水院を残すのみとなっている。
伽藍
石水院
鎌倉時代の建築。入母屋造、こけら葺。後鳥羽上皇の学問所を下賜されたものと伝え、明恵の住房跡とも伝える。外観は住宅風だが、本来は経蔵として造られた建物を改造したものとみられる。
金堂
開山堂
明恵が坐禅修行の日々を送り、そこで没したという禅堂院を、没後に開山堂として改めた。享保2年(1717)に焼失したため、現在の建物は享保8年(1723)に再建されたもの。内部には重文の明恵上人坐像が安置されている。
開山廟
境内の一番北側にある明恵を祀る御霊舎。毎年11月8日には、宇治の茶の製造業者から新茶が開山廟前に献上する献茶祭が行われている。廟前には宝篋印塔、如法経塔の2基の石塔があり、共に重要文化財に指定されている。
茶園
宋から帰朝した栄西が開いた建仁寺に明恵が参じた際、栄西から贈られた茶の種を高山寺の対岸に蒔いたのが栂尾茶園のはじまりである。中世のあいだ、この茶園から京都御所?へ献茶が行われた。また宇治や静岡などの茶は、ここを起源とするため、栂尾の茶を「本茶」、それ以外を「非茶」と呼んだ。境内の茶園は復興されたもので、「日本最古之茶園」の石碑が立つ。
文化財
国宝
石水院 紙本墨画鳥獣人物戯画 絹本著色仏眼仏母像 紙本著色華厳宗祖師絵伝(華厳縁起) 紙本著色明恵上人像 玉篇巻第廿七 冥報記 篆隷万象名義
高山寺が所有する宝物として特に有名なのが「鳥獣人物戯画」である。甲乙丙丁の4巻からなる絵巻で、すべて墨画で彩色はない。普通の絵巻のように絵と詞(ことば)が交互に現われる形式ではなく、絵のみで構成される。甲巻は兎、蛙、猿などの動物を擬人化したもので、4巻の中でもっともよく知られる。乙巻は写生風の動物絵、丙巻は前半が各種の競技やゲームに興じる人物の戯画で、後半は動物戯画、丁巻は荒々しいタッチの人物戯画である。制作年代は甲・乙巻が平安末期、丙・丁巻は鎌倉時代と推定される。制作事情、主題等については諸説あるが、特に甲巻のユーモラスな動物戯画は秀逸で、現代日本の漫画文化のルーツとも見なされる。本絵巻は東京国立博物館に寄託されており、寺で見られるのは模本である。
重要文化財(建造物)
宝篋印塔 如法経塔
重要文化財(美術工芸品)
木像明恵上人坐像 乾漆薬師如来坐像 木像狛犬 木像神鹿一対 木像白光神 木像善妙神立像 高山寺典籍文書類 高弁夢記 絹本著色明恵上人像ほか多数
史跡
高山寺境内
拝観情報
住所 京都市右京区梅ケ畑栂尾町8
電話番号 075-861-4204
拝観時間 8:30~17:00
拝観料 600円(紅葉時期入山料 別途400円)
アクセス JRバス「栂ノ尾」下車徒歩3分
駐車場 徒歩圏内(約2分)に市営駐車場あり(無料)
住所 京都市右京区梅ケ畑栂尾町8
電話番号 075-861-4204
拝観時間 8:30~17:00
拝観料 600円(紅葉時期入山料 別途400円)
アクセス JRバス「栂ノ尾」下車徒歩3分
駐車場 徒歩圏内(約2分)に市営駐車場あり(無料)
主な行事
1月1日 新年法要(修正会)
1月8日 明恵上人誕生会
1月19日 明恵上人命日忌法要
2月15日 釈迦涅槃会
彼岸中日 春季彼岸会
4月8日 釈迦誕生会(仏生会)
5月中旬 茶摘み
8月15日 盂蘭盆会、施餓鬼会
彼岸中日 秋季彼岸会
11月8日 献茶式
1月1日 新年法要(修正会)
1月8日 明恵上人誕生会
1月19日 明恵上人命日忌法要
2月15日 釈迦涅槃会
彼岸中日 春季彼岸会
4月8日 釈迦誕生会(仏生会)
5月中旬 茶摘み
8月15日 盂蘭盆会、施餓鬼会
彼岸中日 秋季彼岸会
11月8日 献茶式
毎月19日 写経会、明恵上人資料購読・法話
その他
京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「猿や蛙などを人間に見立てた絵巻物「鳥獣人物戯画」を所蔵する寺院はどこか。」
「猿や蛙などを人間に見立てた絵巻物「鳥獣人物戯画」を所蔵する寺院はどこか。」
平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「鎌倉末期から南北朝期にかけ、種々の産地の茶を飲み分け、本茶と非茶を識別し、賭け物を争う茶寄合(闘茶会)が武家や庶民に流行したが、この時期本茶とされたのは、どこで生産された茶か。」
「鎌倉末期から南北朝期にかけ、種々の産地の茶を飲み分け、本茶と非茶を識別し、賭け物を争う茶寄合(闘茶会)が武家や庶民に流行したが、この時期本茶とされたのは、どこで生産された茶か。」
平成17年(2005)第2回京都検定3級出題
「宇治茶は中世以来銘茶として全国に知られているが、播種したと伝えられる高山寺の僧は誰か。」
「宇治茶は中世以来銘茶として全国に知られているが、播種したと伝えられる高山寺の僧は誰か。」
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