翻訳記事 > アーグラス――“彼ら”は何者だったのか?

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&ls_line(翻訳記事,sep=|) http://www.glorantha.to/~tome/lib/argrath1.htm **アーグラス――“彼ら”は何者だったのか? by ジェーン・ウィリアムズ(Jane Williams) 原文:[[ここ>>http://homepages.nildram.co.uk/~janewill/gloranth/argrath/index.shtml]] まず、私がアーグラスに興味を持つ主な理由は、彼がカリルの物語に強い影響を与えたからだ、という事は言明しておいた方がよいかもしれません。彼女が1630年に亡くなった後については、私は興味がありません。ここでは、議論の末に導かれた結論を別々に述べることにしました(何人かを集めてすばらしく簡明な解答を求めたところ、それが信じられるものだったので)。 まず、「アーグラス」というのは、名前ではなく称号です。それはサーター語で「解放者」を意味します。誰でもそれを使うことができますし、何人かは実際に使ったようです。後の時代には彼らの物語は一つとなって語られ、相当の混乱を来すようになります。サーターの皇子、そしてドラゴン・パス王となり、ついにはルナー帝国を滅ぼした“真の”アーグラスは一人の人物です。しかしながら、アーグラスについて「一般に知られていること」のほとんどは、間違いか、あるいはひどく誤解を招くものである事が証明できます。これは多くの疑問を生みますが、ここでそのいくつかに答えてみようと思います。 **“アーグラス”は何人いたのでしょうか? [[少なくとも3人>http://www.glorantha.to/~tome/lib/argrath2.htm]]。“鋭き剣の”ガーラスが“真の”アーグラスです。“白い雄牛の”アーグラスは、プラックス人のリーダーでした。“パヴィスの”アーグラスは、最も小者(そして不愉快)なリーダーで、1620年代のパヴィスにおいてのみ活動していたようです。 **原典について:どれがどの人物のことを説明し、どのくらい信頼できるのでしょうか?残念ながら、これについて簡略に述べることはできません。しかしながら、もし「グローランサ年代記」(以下「年代記」)を読んでいないのなら、一読をお勧めします。完全に信頼できる原典はありません。中には故意に嘘を述べているものもあります。私が見つけた主な原典(コメント付き)については、こちらをご覧下さい。 **“鋭き剣の”ガーラスについて:彼の血筋は? どのようにして育ったのでしょうか?彼の本当の両親は彼がとても幼い頃に死んでいます。彼の養い親は、彼が14歳の頃に亡くなりました(少なくとも、その歳に彼はステッドを逃げ出しました)。彼は母方にサーターの血を引いていると噂されています。しかしながらこれは非常に面倒な問題――主に、カランドリ氏族とそのさらに込み入った歴史に関するもの――が絡んできます。 **ガーラスが生まれた年を特定できますか? はい。1588年頃です。 **“白い雄牛の”アーグラスについて:彼について分かるのは?(また私はどれくらい話をでっち上げられますか?) 祖先がサーター人のプラックス人です。彼は部族を連合させ、パヴィスとコーフルーを解放し、その後にカリルと同盟しました。 **パヴィスとコーフルーの解放について:何が起こったのですか? 遊牧民の大軍勢を率いる“白い雄牛の”アーグラスと、そのとき「ゆりかご」の旅から帰還し、数十人の“狼の海賊”を率いていたガーラスとの同盟です。ガーラスはルナー帝国は聖王国で手一杯だということを知っていました(彼はちょうどそこからやって来たところだったのです)。また彼にはパヴィスに市門を開けた同盟者がいました。 **褐色のドラゴンについて:アーグラスはどのようにしてそれを召還したのですか? 彼はドラゴンを召還していません。アーグラス“たち”の誰もそれを行ってはいません。彼らはそのときパヴィスにいたのです。私はカリルの物語を分類している時にこれについて調査し、後にパトリック・サンドベルグ(Patrik Sandberg)氏などと議論を行いました。私の結論とパトリック氏の結論の両方を読むことをお勧めします。 **アーグラスが「サーターの王」となったのは何年ですか? カリルがハレックに殺された後、1631年です。しかしながら、彼は1627年以降、サーター北部(かつてターシュ王国の一部だった地方)の支配者であったようです。 **アーグラスが「サーターの炎」を灯したのは何年ですか? 言えるのは、彼は灯していないということです。カリルは1627年にそれを再び灯しました(少なくともアーグラスのうち2人はそこにいましたが、炎は灯していません)。彼は1631年の戴冠式に、何らかの方法でその「ふり」をしたのです。 ---- #comment_num2(vsize=10) ----
&ls_line(翻訳記事,sep=|) http://www.glorantha.to/~tome/lib/argrath1.htm **アーグラス――“彼ら”は何者だったのか? by ジェーン・ウィリアムズ(Jane Williams) 原文:[[ここ>>http://homepages.nildram.co.uk/~janewill/gloranth/argrath/index.shtml]] まず、私がアーグラスに興味を持つ主な理由は、彼がカリルの物語に強い影響を与えたからだ、という事は言明しておいた方がよいかもしれません。彼女が1630年に亡くなった後については、私は興味がありません。ここでは、議論の末に導かれた結論を別々に述べることにしました(何人かを集めてすばらしく簡明な解答を求めたところ、それが信じられるものだったので)。 まず、「アーグラス」というのは、名前ではなく称号です。それはサーター語で「解放者」を意味します。誰でもそれを使うことができますし、何人かは実際に使ったようです。後の時代には彼らの物語は一つとなって語られ、相当の混乱を来すようになります。サーターの皇子、そしてドラゴン・パス王となり、ついにはルナー帝国を滅ぼした“真の”アーグラスは一人の人物です。しかしながら、アーグラスについて「一般に知られていること」のほとんどは、間違いか、あるいはひどく誤解を招くものである事が証明できます。これは多くの疑問を生みますが、ここでそのいくつかに答えてみようと思います。 **“アーグラス”は何人いたのでしょうか? [[少なくとも3人>http://www.glorantha.to/~tome/lib/argrath2.htm]]。“鋭き剣の”ガーラスが“真の”アーグラスです。“白い雄牛の”アーグラスは、プラックス人のリーダーでした。“パヴィスの”アーグラスは、最も小者(そして不愉快)なリーダーで、1620年代のパヴィスにおいてのみ活動していたようです。 **原典について:どれがどの人物のことを説明し、どのくらい信頼できるのでしょうか? 残念ながら、これについて簡略に述べることはできません。しかしながら、もし「グローランサ年代記」(以下「年代記」)を読んでいないのなら、一読をお勧めします。完全に信頼できる原典はありません。中には故意に嘘を述べているものもあります。私が見つけた主な原典(コメント付き)については、こちらをご覧下さい。 **“鋭き剣の”ガーラスについて:彼の血筋は? どのようにして育ったのでしょうか? 彼の本当の両親は彼がとても幼い頃に死んでいます。彼の養い親は、彼が14歳の頃に亡くなりました(少なくとも、その歳に彼はステッドを逃げ出しました)。彼は母方にサーターの血を引いていると噂されています。しかしながらこれは非常に面倒な問題――主に、カランドリ氏族とそのさらに込み入った歴史に関するもの――が絡んできます。 **ガーラスが生まれた年を特定できますか? はい。1588年頃です。 **“白い雄牛の”アーグラスについて:彼について分かるのは?(また私はどれくらい話をでっち上げられますか?) 祖先がサーター人のプラックス人です。彼は部族を連合させ、パヴィスとコーフルーを解放し、その後にカリルと同盟しました。 **パヴィスとコーフルーの解放について:何が起こったのですか? 遊牧民の大軍勢を率いる“白い雄牛の”アーグラスと、そのとき「ゆりかご」の旅から帰還し、数十人の“狼の海賊”を率いていたガーラスとの同盟です。ガーラスはルナー帝国は聖王国で手一杯だということを知っていました(彼はちょうどそこからやって来たところだったのです)。また彼にはパヴィスに市門を開けた同盟者がいました。 **褐色のドラゴンについて:アーグラスはどのようにしてそれを召還したのですか? 彼はドラゴンを召還していません。アーグラス“たち”の誰もそれを行ってはいません。彼らはそのときパヴィスにいたのです。私はカリルの物語を分類している時にこれについて調査し、後にパトリック・サンドベルグ(Patrik Sandberg)氏などと議論を行いました。私の結論とパトリック氏の結論の両方を読むことをお勧めします。 **アーグラスが「サーターの王」となったのは何年ですか? カリルがハレックに殺された後、1631年です。しかしながら、彼は1627年以降、サーター北部(かつてターシュ王国の一部だった地方)の支配者であったようです。 **アーグラスが「サーターの炎」を灯したのは何年ですか? 言えるのは、彼は灯していないということです。カリルは1627年にそれを再び灯しました(少なくともアーグラスのうち2人はそこにいましたが、炎は灯していません)。彼は1631年の戴冠式に、何らかの方法でその「ふり」をしたのです。 ---- #comment_num2(vsize=10) ----

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