――――降臨 ◆O4VWua9pzs



「お…なかなか強そうじゃん…」
目の前に大柄の男と銀髪の女が視界に映る。
この二人は自分を楽しませてくれそうな人材なのか。DIO様が喜んでくれそうな食料なのか。
刃牙は軽い笑みを浮かべ、前に現れた二人に拳を構える。
準備は万端、闘争はすぐに始められる。

突然の刃牙の戦闘態勢に鳴海とエレオノールに緊張が走る。殺し合いに乗っているのは明らか。
殺し合いに乗っているであろう刃牙にエレオノールは指貫をはめ、刃牙目掛けオリンピアを向かわせようとする。
「エレオノール、ここは俺に任せてくれないか」
だが、鳴海は右腕でエレオノールを遮る。

突如の鳴海の行動に驚いて、エレオノールは鳴海のほうを振り向く。
そこには、真剣な面持ちで男を見据える鳴海がいた。
「……ああ、いいだろう」
エレオノールは一旦引くことにした。本来なら二人で戦ったほうが合理的である。
一対二ではこちらの方が有利である。
しかし、刃牙に向けられている鳴海の鋭く強い意志を持った目。
何かをやり遂げそうな頼りがいのあるそんな眼だ。
何か思うところがあるのであろう。そう思い、エレオノールは鳴海の動向を見守ることにした。
「すまねえ」と小さく呟いて、鳴海は刃牙の前に出る。

「こっちは別に二人して相手していいんだけど」
刃牙は両手を構え、ファイティングポーズを決める。
「いきなり戦闘態勢にはいるなんて穏やかじゃねえな。
……その前に聞かせてくれないか、あんたは殺し合いに乗っているのか?」
「ああ、もちろんさ」
間髪いれず答える。
「そうか、だったら……」
刃牙の答えに呼応するかのように鳴海も静かに拳を構える。
「―――容赦はしねえ」

お互いに同じ半身半立ちの構え。
刃牙は両拳を胸の前に構える西洋式の構え。
鳴海は右手を突き出し、左手を腰に置く東洋式の構え。
だが、その二人の構えから培ってきたものは違う。
今この場所で二人の歩んできたものがぶつかり合う。
「しゅッ」
先に攻撃を仕掛けてきたのは刃牙だ。最初に繰り出す第一打。
軽く体重を乗せたジャブを放つ。そのジャブは的確であり、素早い。
鳴海はそれを避けずに両手で受け止める。
しかし、これは囮である。

本当の狙いは下半身にあった。刃牙は相手がガードした瞬間に蹴りを放っていた。
全体重を乗せた重い蹴り。
その蹴りは鳴海の両脚の間、つまり一撃で相手を粉砕する急所攻撃――金的を狙っている。
刃牙のスピードの乗った蹴りは生半可な格闘家では防ぎきれない。

最初の囮に気づかないような実力なら戦う価値もない。
自分は今すぐにでもDIO様に食料を渡し、親父を殺せ得る力をさっさと得たいのである。
勇次郎との戦闘で疲労も蓄積していたので、実力がないならすぐに決着を付けたかった。
相手の実力を試す意味で蹴りを打つ。
それは確実に鳴海の股間を捉えていた。
思った以上に簡単に決着が付くな、見た目は強そうに見えるがつまらない相手だなと、
刃牙は心の中で溜息を付く。
だが、鳴海は両足を絞り込み、内股の形でその重い足刀を防ぐ。
硬い部分である両膝で防御を固めているので、ダメージもほとんど通らない。
そのうえ、刃牙はその蹴りに全身を乗せたためにすぐに次の動作に移れない。

鳴海の実力なら刃牙の攻撃を避けることもできた。
相手の動作から相手の蹴りの軌道を見極め、脚でガードする。
鳴海はあえて防御した。全力攻撃は強力な威力を誇るが空振るとその勢いを殺せず隙を作ってしまう。
それは、相手に攻撃を続かせる軌跡へと繋がる。

鳴海はその一瞬の隙を見逃さず、前突きを刃牙の顔面にお見舞いする。
刃牙はすぐにガードを固めよとするが、鳴海の腰を入れた俊敏な突きに対応できず、重い衝撃と共に大きく吹き飛ばされる。
この激戦が予想される戦いの中、最初に有効打を決めたのは鳴海であった。
重い前突きを喰らった、刃牙は柔らかい肢体を捻らせ、地面に激突する前に受身を取り、上体を起こす。

刃牙はおもいっきり突きを貰ったのに、その表情は清々しい。
スポーツ感覚で武道を嗜む腑抜けた輩ではない。
対急所攻撃を心得ている、その上、素早く重量感のある突き。
しかも、見た目よりも身体に響き渡る衝撃。中国武術特有の気の使い方。
気を練ることによって瞬間的な爆発を生み出す発勁の使い手である。

自分を心の底からわくわくさせる。
こいつは楽しめそうだ。
DIO様にさっさと食料を持っていこうと、少し焦っていたようだ。
だが、ここからは……。
刃牙はもう一度体勢を立て直し、拳を構える。
「すこしアンタを舐めていたようだ」
本気だ。

刃牙は身体を傾け、滑るように鳴海に突撃する。
鳴海も重心を落ち着かせ、刃牙の攻撃を開手で待ち構える。
刃牙の拳が鳴海の顔面を狙う。腕の撓りを利かせた鮮やかなフックである
鳴海はそれを右手で捌き、襖を摺らすように水月に掌打を打つ。
刃牙は類稀なる反射神経で回避。すかさず、ローキックを放つ。

刃牙のローが直撃。
しかし、鳴海は蹴りに合わせ脚を逸らし、打軸をずらしていたので、有効な一撃にならない。
鳴海も同じように蹴りの動作には入る。
利き脚を軸に身体を捻らせ、踵から斜めに刃牙の首を狙う、上段廻し蹴り。
これを喰らえば、戦闘不能は間違いない。
刃牙はバックステップを踏み込み回避。同時に距離を離し、間合いを測る。

ほんの数十秒の攻防。
鳴海と刃牙はお互いに視線を絡ませ、間合いをじりじりと詰めていく。
二人は感じ取っていた。緊張が途切れたほうが敗北する。
まさに一触即発の戦い。

「これは長引きそうだな……」
刃牙は笑みを浮かべる。この緊張感ぎりぎりの死線が楽しくて仕方がないのだ。
鳴海は表情を変えない。今度は鳴海が先に刃牙に攻撃を仕掛ける。
戦いはまだ始まったばかりだ。
二人の攻防が鳴海の地の蹴る音をゴングに開始される。
+++

風が見惚れるほど滑らかな銀髪を靡かせ、陽光が反射し辺りを銀色に煌かせる。
エレオノールは闘争の成り行きを見守っていた。
戦闘の構えを解かず、いつでも鳴海を助け出せるようにしている。

エレオノールは鳴海の真意が掴めないまま、戦いを眺めていた。
なぜあの男は一人で向かったのだろうか。二人で立ち向かうほうが効率的である。
なのに、なぜだ。

エレオノールは鳴海を凝視する。
真剣な面持ち…いや、表の表情とは裏に何かを潜めた表情。
あの男は何を思い考え戦っているのであろうか。
それに、どうしてだろうか。奴の顔から眼が放せない。
胸のうちから湧き出る熱い想いはなんだろうか。
分からない。

「でも……なぜか心地よい」
エレオノールは初めて感じる想いに戸惑いと心地よさを覚える。

その不思議な快さから青空を眺める。青雲が形を変えながら流れていく。
鳴海がいてから私は変だ。私の中で何か変化が起こっているようだ。

そう思いを馳せていると、突然鈍い爆発音が高鳴る。
と、同時に低いうめき声が聞こえる。すぐに視線を戦いに向ける。
そこには――――

「鳴海っっ!!」
+++

二人は闘争を続けていた。二人の身体は軽い打撲の跡、肌にところどころに擦り傷が刻まれる。
二人の猛攻は刃牙が不利であった。
元々DIOのダメージも癒しきれていない状態での勇次郎の戦闘。
そして、勇次郎との戦闘による疲労。それが今になって刃牙の身体を軋ませていた。
まるでシロアリのようにじわじわと家屋を蝕んでいくように。
それに加え、鳴海の攻撃は少しずつだが、自分の防御が破られ、ダメージが蓄積されていく。

鳴海の攻撃は形意拳特有の直線的な動きである。
その攻撃の軌道は純粋なほど真っ直ぐである。
武器に例えるなら槍と表現できる。だが、鳴海の攻撃は直線的だが決して単調な動きではない。
矛盾しているが、真っ直ぐの動きの中に変形自在に形を変え、刃牙に攻め入ってくる。

鳴海の拳法はただの槍ではない。
真っ直ぐに伸びた刃の側面にもう一つ刃が光る槍―――鎌槍。
捻りを加えるだけで幾重にも軌道を変え、恐ろしく多彩な動作に変えていく槍である。
刃牙は攻撃が届かず、歯痒いまま有効打を決められないでいた。
このままでは刃牙の敗北は自明であった。
DIO様のためにも、親父を殺すためにも負けるわけにはいかない。
この悪い流れを変えなければならなかった。
刃牙は流れ変えるために思案する。DIO様のためにも卑怯な手も辞さない。

刃牙は短パンのポケットに手をいれ、あるものを握り締める。
そして、すぐにノーモーションのアッパーを鳴海に向けて放つ。
鳴海はそのアッパーを警戒しつつ、左腕で捌くように防ぐ。

「くっ!」
刹那、鳴海は仰け反る。突然視界が奪われ、眼に激痛が走る。
そのはず、鳴海の眼に粉状のものが無理矢理混入させられたのだ。

刃牙は一切武器を持っていない。
最初に支給されたものは強化外骨格「零」と核鉄(ソードサムライX)であった。
強化外骨格「零」は自分にとって武器とは言いがたい。トレーニング器具としては最適だが武器ではない。
核鉄(ソードサムライX)は武器であるが、自分は己の肉体で戦っていきたいので、これも武器ではない。
刃牙は全参加者が絶対に支給されている物―――食料を使ったのだ。
刃牙の食料はほんの数秒で栄養分をチャージできるカロリーメイトであった。
それをいつでも摂取できるよう短パンに入れてあった。
刃牙は包装ごとカロリーメイトを握り絞め、粉末にする。これだけで目潰しの出来上がりである。
少し卑怯な手であるが、防げない方が悪いのである。
そして、鳴海のガードと共に手首のスナップを利かし、カウンター越しにその粉末をお見舞いしたのだ。
その目潰しによって鳴海の身体が強張り、隙だらけの肉体が露になる。

鳴海は咄嗟に顔面をガードする。
が、刃牙はそんな好機を逃すわけもなく、露になったみぞおちに鉄拳が振り抜かれる。
剛体術 。
拳が当たる瞬間、全ての関節を固定し、体を硬直させて、拳に体重を乗せ、強力な一撃が炸裂する。
鳴海は内勁と呼ばれる爆発的に防御力を上げる気功によって、ダメージは軽減されたが。
とんでもない威力で鳴海の巨躯は大きく吹き飛ばされ、アスファルトを転がる。
受身を取ることも出来ないほど重い衝撃。

「ぐはあ」
あまりの一撃で視界が歪んで、鳴海の意識が朦朧とする。
このまま道路の上で意識が飛びそうになる。
だが、

「鳴海っっ!!」

悲痛な声で一気に覚醒する。
すると目の前には今にも顔面に振り下ろそうとする踵が映る。
刃牙の止めの一撃。
鳴海はすぐに身体を回転させ、打点を逸らす。
耳元でバキィイとコンクリートが砕ける音が弾ける。
間髪入れず二度目の体重を乗せた刃牙の踏み落とし。鳴海は道路を転がりまたもや回避。
鳴海は咄嗟に地面に手を付き、それを軸に身体を回転させ、刃牙の脚を払う。
刃牙は軸を崩され、地面に手を付く。鳴海はその間に体勢を立て直し、間合い離す。
刃牙は地面に付いた手をバネに大きく後ろへと飛び跳ね間合い離す。
距離が大きく離され、刃牙と鳴海が対峙する。
「鳴海!! 大丈夫か!?」
すかさず、エレオノールが鳴海に安否を尋ねる。
鳴海の口元から血痕が滲み出ていたからである。
「ああ、大丈夫だ…」
喋ると口元から鮮血が溢れ出る。鳴海は刃牙の一撃で胃を破壊され、肋骨を折ってしまったのだ。
そのうえ、折れた骨が肺に突き刺さった。そのため肺にたまった血が押し上げられ口元から零れる。
鳴海はエレオノールの心配をよそに血を拭う。

「ありがとうよ、エレオノール。あんたの声がなかったらやられていた」
鳴海はエレオノールににっこりと笑みを浮かべる。
「!? ……ああ、気にするな」
エレオノールは刃牙に振り向きオリンピアを構える。
「鳴海、ここからは私が戦う。貴様は休んでおくんだ」
「いや、まだここは俺に任せてくれないか」
エレオノールは驚いて鳴海に振り向く。

「何故だ!? そこまでケガをしておいて、まだ戦おうとするんだ。ここは私に任せておけ!」
「すまねえが、ここは俺にやらしてくれ」
真剣な眼差しが向けられる。言葉を失うほどの真っ直ぐな瞳。
どう見ても戦えるような状態ではない。合理的ではない。
でも……。
エレオノールはしぶしぶ鳴海の要求を受け入れる。
これで最後だぞと、ピンチになればすぐに飛び出すと、念を押す。
「かまわない」
鳴海はそう言うとすぐ刃牙の元へ踏み出す

「あの攻撃を喰らって立てるなんて心底驚いたよ。それに待ちくたびれた」
刃牙はつまらない口調で迎え撃つ。
「けっ、卑怯者相手に逃げやしねえよ」
「口先だけは立派だね」

ノーモーションの拳を放つ。鳴海はそれを避けきれず、防御を固める。
すかさず攻撃動作に移ろうにも、刃牙の拳の連打で遮られてしまう。
「でも、さっきまでの俊敏な動きがなくなっている」

先ほどまでの鳴海優位の攻防が一転、刃牙が主導権を握っていた。
それほどまで鳴海の傷は深い。
気を練ることに不可欠である器官―――丹田を潰されたのは致命的であった。
刃牙の体重が籠められた拳は鳴海の俊敏さを奪いとったのだ。
機関銃のような連撃の前では、鳴海はただただ全身を防御に徹するしかなかった。

鳴海はもうもたない。
少し離れていたところで鳴海を見守っていたエレオノールは指貫をクロスさせる。
鳴海はもう戦えない。今こそ、オリンピアを傀儡させるべく構える。
「まだだ!」
だが、鳴海に声に遮られる。どう見ても敗北色は濃厚であった。
暴風のような攻撃の前に成す術もないのに。どうしてそこまで戦おうとするんだ。
奴の無謀な行動には理解に苦しむ。

「お喋りする余裕なんてないッッ」
その瞬間、刃牙は鳴海のガードを崩し、露になった首元に遠心力と共に回転蹴りをねじり込む。
確実に延髄を捉えている。刃牙の経験上、これを受ければ確実に意識を失う。そして、捉えた。
鳴海に延髄に重い衝撃が伝わる。蹴りの威力で巨躯はまたもや吹き飛ばされ電灯に激突する。
電灯に支えられるように鳴海は地面にずり落ちる。
肢体は突っ伏したまま立ち上がらない。

「意外にあっけないもんさ、勝負って奴は…」
つまらない表情で刃牙は鳴海を見下ろす。

「鳴海いいい!」
エレオノールは鳴海が倒れると同時にオリンピアを刃牙に向かわせる。
刃牙は待っていましたと頬を緩ませる。
今度は人形と戦うとは今までにはない戦いだな、と舌を舐める。
人形遣いと範馬の血が激突する。
その瞬間、
「まだ……戦える」

突然の声に、二人は戦闘を留める。
「鳴海!」
「へえ、あの攻撃を受けて、立ち上がれるなんてすげえや」
そこには加藤鳴海が起き上がっていた。電灯に寄り掛かり、ふらふらになりながらも、刃牙を睨みつけていた。
ハアハアと息を切らしているのが痛々しさを感じる。

「聞かせてくれ…そんなに実力を持っているのにどうして殺し合いに乗っているんだ?
 なぜ……光成に抵抗しない? なぜだっ!?」
鳴海の疑問に間髪いれず答える。
「すべてはDIO様のためさ。俺がDIO様の血をぶちまけてしまったから、食料が必要なんだ。
 必要な分だけ人間を調達したら力を授かってくれるって約束したんだ。
 DIO様と同じ吸血鬼の力をもらえば、親父だって殺せる。DIO様ためにもなるし、俺のためにもなる。
 こんな美味しい話はないだろ?」
さも当たり前のような口調で。

「な…ん…だと…」
鳴海は絶句した。そんなくだらない理由で殺し合いに乗っているのかよ。
あまりのくだらなさに驚きが隠せない。それに、所々に現れるDIOという存在。
参加者名簿に一人だけ英語表記で原動機付自転車の名前と一緒だから何となく印象深い。
だが、そいつは自動人形とよく似た、人間の血液を糧にしている吸血鬼だと。
鳴海は忌々しい感情を覚える。
「全く、くだらねぇ…」
自然と言葉に溢れ出る。こんな馬鹿げたことに乗った刃牙に呟く。
鳴海の皮肉を無視して刃牙は言葉を続ける。
「それにDIO様はすげえんだッ。たった六時間の間で三人も殺しているんだ」
「な…に…」
またもや絶句。
「着物を着た成人男性に俺と同じ年代の女子高生、
 そして―――十歳も満たない少女も血液を奪い殺している。
 さすがDIO様! 俺のできない事を平然とやってのけるッ。そこにシビれる!あこがれるゥ!」
刃牙は目を輝かせ、自慢する子どもように鳴海に語りかける。
「まあ、今なら女も殺せるし、子どもだって殺せる。全てはDIO様のためにならッ。
 そして、俺は力を貰って、親父を殺す。
 本当に最高だ、DIO様は―――」
そう最後に付け加えて、刃牙は腹を抱えて馬鹿笑いする。

無人の街に刃牙の高笑いが木霊する。
遠巻きから刃牙の言葉を聞いて、エレオノールは怒りで眉を顰めていた。
なんとも馬鹿馬鹿しいと、あまりの愚かさに反吐が出る。
そう思い、オリンピアを刃牙に構えていた。
だが、彼女以上に思い詰めている人物が近くにいた。

―――加藤鳴海である。

「い…すぐ………お…えろ」
+++

――――男を殺しただと。
――――女子高生を殺しただと。
――――年端も満たない少女を殺しただと。

鳴海は思う。
DIOに殺されたものがどんな想いを抱いて死んでいったのか?
吸血鬼に追われ、殺される。
何を思って死んでいったのだろうか?
言いようのない絶望を思いながら死んでいったに違いない。
笑顔、家族、夢、人生をやりたいことを残して死んでいったに違いない。
死んでいった者の無念さを思うと涙が零れそうになる。
だが、涙はあのときにもう捨てた。

鳴海はある出来事が脳裏を過ぎっていた。
アメリカのイリノイ州のゾナハ病棟。
その時の出来事が鮮明に映し出される。
そこには自動人形が撒き散らすゾナハ病を患った人たちが収容されていた。
自分はそこで小児病棟の子供達を担当していた。
子供たちは病気を患っていても、普通の子と変わりなかった。
一人一人性格は違うし、体格も違う。感情もあるし、将来の夢もあれば家族もいる。
自動人形の情報を聞き出すための勤務だが、仕事はそっちのけであった。
子供達と共に遊び、共に笑った。
戦うしか能がない自分に子供達は慕ってくれた。
本当に楽しかった。一生ここに居ていいぐらい楽しかった。
だが、楽しかった日々は簡単に崩れ去った。
次々と死んでいく子供達。
そのとき、自分にとって特に印象深い人物が駆け巡る。

『ナルミ、今、描いてよ。もう寝る時間なんだよ』
絵を描くのが上手で、俺の下手な絵を大切に持ってくれていたマーク。
マークの死の前日に絵を描いてせがまれた。俺は「明日」に描いてやるよと言った。
だが、マークに明日なんてなかった。今でもマークの寂しい表情は記憶に残っている。

『うふふ…ナルミは…おもし…ろいね……ハリ……』
よく俺を慕ってくれた女の子――ベス。
ベスは最後に大切な熊のぬいぐるみ――ハリーを俺にあげると言った。
ベスは俺を心配させないよう第三段階に入る最後までずっと微笑んでいた。
ベスは笑っていた。笑うことが特効薬であるゾナハ病に患っているのに。
ベスは笑顔だった。本当は俺が笑うべきなのに。

俺はただただ無力だった。何も出来ずただ子供達の死を見送るしかなかった。
俺は無力な自分を呪った。

そのときと同じ感覚が蘇る。

俺は――――
+++

「い…すぐ………お…えろ」

光悦に満たされていた刃牙は鳴海の呟く声に反応する。
「よく聞こえないな、何を言っているんだ?」
「今すぐ教えろ……」
ゆらりと刃牙を見据える。
その瞬間、周囲の空気が変る。

「――――DIOの居場所だ」

そこには凄まじいほど怒りに満ちた形相をした鳴海がいた。
鳴海から発せられる只ならぬ黒いオーラ。眼に見えないが、感覚で分かる。
どんな一般人でも、肌で感じられるぐらい鳴海は怒気を舞い上がらせていた。

「ああ、連れて行ってやるよ。アンタを死体にしてからなッ」
暴風と共に鳴海が刃牙へと迫ってくる。先ほどのふらふらな体調が嘘のように素早い。
身体能力が最初の比ではない、爆発的に上昇している。
憤怒という感情で身体の限界値の枷が外れたのであろう。
だが、そんな中、刃牙は余裕の笑みを浮かべていた。
前にいる男は明らかに野獣であった。いわば暴走状態である。
幾ら身体能力を上げようが、それは藁を燃やすこと同じぐらい一瞬で儚い。

怒りは、精神を滞らせ、視界を狭くする。
つまり、冷静な判断が鈍くなり―――いずれ負けてしまうのだ。
敗北は時間の問題である。

だから、自分のすることは冷静に相手の出方を見極めることだ。
暴風を前に防御に徹し相手の自滅を待つか。
もしくは単調の動きに合わせて冷静にカウンターを決め、一瞬で勝負を決するか。
前者は少し難しいかもしれない。奴の機動力はかなり異常だ。
身体能力の上昇率が半端じゃない。
そう何度も防御や回避仕切れそうにない。
後者を狙うべきだ。

刃牙は構える。鳴海は両手を構えながら迫って来る。
案の定、軌道が読みやすい左突き。素早い突きだが、見切るのは簡単だ。
刃牙は瞬時に相手の攻撃ポイントを読み取る。
そして、鳴海のパンチを体捌きで逸らし、脳天にカウンターを射掛ける。
「!?」
だが、鳴海を狙い打つ刃牙のパンチは擦り抜け―――

――――劈

「自動人形がいないから忘れていたぜ
 ――――俺が本当にしねぇことをなぁッ」
刃牙の脳天に巨大な衝撃が叩き込まれ、全身に衝撃が行き渡る。
刃牙の身体は凄まじい爆音と共に建物コンクリートの壁に叩きつけられる。
いままでにない壮絶な衝撃に意識がなくなりそうだ。

――何が起こったんだ?
崩れたコンクリートから刃牙が立ち上がる。
突然鳴海の突きの軌道が歪んだのである。……いや違う、俺の軌道が捻じ曲げられた。
左手は囮。俺のカウンターパンチを左で逸らし、それをすり抜け右手から開手を放たれた。
それだけなら、見切れないこともないだろう。
しかし、鳴海のしなやかな体捌きが打点を逸らさせたのだ。
単調ではない、相手の動きに合わせ、完璧に同調した緻密な動きだ。
暴走状態の男がやる技とは思えない。

刃牙は何かの間違いだと、崩れた塀から飛び出す。
左右に軽やかなステップを踏みしめ、鳴海へと進行する。
残像が残りそうなぐらい軽快なフットワーク。
フェイントを小出しに放つ。隙を狙う。相手を疲弊させる。
だが、鳴海は刃牙の思惑を全て回避する。

刃牙は驚愕していた。
フェイントに反応にせず、隙は一切見当たらない、疲弊を感じさせない肢体の動き。
むしろ、所々に重い捻りの効いた小突きの拳と脚を的確に自分に叩き込まれる。
感情で動けば、動作一つ一つが大きくなるのに、こいつはそう感じさせない。
いや、むしろこいつは怒るたびに、

―――攻撃が
―――防御が
―――研ぎ澄まされていく。

分からない。分からない。
この男は何者だ。
刃牙は珍しく焦っていた。
鳴海の攻撃はじわじわと刃牙の身体にダメージを積もらせた。
刃牙の精神に疲弊と焦燥を蓄えていった。
素早いジャブが捌かれ、避けられ、受け止められる。
そっと手に触れるように軽やかにだ。歯痒さだけが圧し掛かる。
ついに刃牙の焦燥が臨界点を超える。

小振りのフェイントを無視し、大振りの全身が乗った正拳突きを放つ。
タイミングも流れも無視した明らかに場違いの一撃。

「遅い!」
鳴海は軽やかにそれに合わせる。突きを捌き、身体を回転。
そして、背中に刃牙の右腕を固定、そこに鳴海を支点に両手に力を加える。
すると、ポキリと乾いた音が爽快に鳴り響く。
刃牙の左肘関節を折る音だ。
梃子の原理を利用した相手の力を大幅に削ぎ落とす技である。
刹那に鳴海は腰を沈め、折れた腕ごと刃牙の身体を放り投げる。
その瞬間、刃牙の腕は完全に破壊された。
「ぐあぁ」
またもや刃牙はコンクリートの塀に全身を叩きつけられる。
完全に自分に動きを見切った攻撃。
刃牙はネックスプリングで跳ね起きると、折れた腕を摩る。激痛が走る。
完全に折れている、いや破壊されている。腕ごと投げられた時に完全に砕かれたのであろう。
修復できないほどに。

屈辱が沸き起こる。
格闘家にとって腕をへし折られることは最も屈辱なことである。
刃牙の身体に変化が巻き起こる。

全身の痛みがなくなる、あれほどあった疲労が綺麗さっぱり感じられない。
脳内に麻薬が広がる。エンドルフィンが体中に闊歩する。
それは、戦士にとって甘美な美酒。

全身に広がる闘争本能。
漲る闘争の意志。
抑えようのない力。
心身が爆発しそうだ。
身体の爆発と共に刃牙は鳴海へと飛び出す。
まさに手負いの虎ように駆け出す。
刃牙の嵐のようなラッシュ。拳や蹴りを織り交ぜた乱撃。
並の人間には到底見切れない攻撃の数々。
だが、鳴海はそれを全てかわし避ける、時には捌き落とす。
全く決定打が与えられない。むしろ、隙あらば、少しずつ自分にダメージを与えていく。
まるで、羽衣を相手にしたような浮遊感。何もない空気と戦っている感覚。

なぜだ、なぜだ、なぜだ。
なぜ当たらない。俺とお前は身体能力を上昇させ、同じ土俵にたった。
――のに、なぜだ?
疑問が沸き起こる。しかし、まだ、チャンスはある。
奴を追い詰めた。

刃牙の猛攻によって鳴海は壁際へと追い詰められる。これなら、避けられない。
刃牙のパワフルな右拳が鳴海の顎へと振り上げられる。
だが、捉えていた鳴海を見失ってしまう。勢いの付いた拳は壁を砕くが鳴海を捕らえていない。
コンマ一秒の瞬間、標的を失った刃牙は棒立ちになる。

鳴海は空気を大きく吸い込み、気を整える。
腰を沈め、両手を腰に沿え、勢いよく刃牙の胸元に開手で叩き込む。
その二つを同時に組み合わせ、気を練り込んだ、双掌打を放つ。
胸に響く振動。刃牙の身体は後方に吹き飛ばされ、ボロ雑巾のように硬いコンクリートを転げ回る。
脳内麻薬によって痛みはないが、呼吸が乱れる。
口元から血が溢れ出る。
双掌打によって肺を圧迫されたからだ。
半ば意識を失いながら、刃牙は立ち上がる。

このままでは負けてしまう。それだけはあってはならない。
「俺は。俺は。俺は」
負けられない。
「すべてはDIO様ために―――DIO様ためにだ。
 DIO様と約束したんだ。俺に力をやるって親父を殺すための力をやるって。
 DIO様が、DIO様が――――」
刃牙は壮絶な速さで突進してくる。壊れたハーモニカを奏でるように声を張り上げる。
まるで暴走した機関車のように、全てを薙ぎ払うように。

鳴海は半身半立ちで構え、
「DIO様、DIO様、うるせぇえんだよ。
この原付野郎がぁッ!」
接近してくる刃牙の喉元に足刀を放つ。
クポとカエルが喘ぐような呼吸音と共に刃牙の喉仏が砕かれ、衝撃に地面に押さえつけられる。
ヒューヒューと頭に掠れた呼吸音が聞こえる。

大の字に寝転んだ刃牙はすぐに闘争を再開するため首を持ち上げた。
だが、ノイズ交じりの視界に凄まじい形相をした男が映る。感情を震わせながら、
刃牙に例えようのない恐怖が満ちる。
鳴海は殺し合いに参加させられてから何も考えていなかった。
具体的なプランもなく、ただ赤木の言う通りに流されるだけだった。
赤木の冷たい対応にいらいらしながらも、何もしなかった。
いまいち信用ならなかった赤木のほうが殺し合いについて一番深く考えていた。
赤木は自分の命を捨ててでも、このふざけた殺し合いを止めたいと考えている。
それに、
信念 決意 希望 考察 努力 理想 現実 策略
これらの全てにおいて赤木が勝っている。
俺は迷っていた。俺はここで何が出来るのか。
だから、俺は迷いを払拭するために一人で戦いに挑んだ。
答えを見つけるために。

だが、決意が足らなかった。
目の前に殺し合いに乗っている奴がいるのに聖ジョルジュの剣や核鉄を使うのを躊躇った。
殺し合いに乗っているにかかわらず、相手が人間というだけで使えなかった。
聖ジョルジュの剣や核鉄を使用すれば、戦闘の幅が広がり、勝利への道が近くなるのに、自動人形でないというだけで使用しない。
それに、使用してしまったら卑怯だというつまらない格闘家の意地もあった。
敵のほうが決意が固かった。
俺と比べると敵のほうがまだ戦闘に徹していた。俺は甘かった。
俺は道化だった。不満があるのに何もしない。
だが、目が覚めた。

―――俺が本当にすべきことを。
今ここに戦いの幕が閉じる。
刃牙の完全敗北という結末。
鳴海は龍、刃牙は虎であった。
いや、鳴海は龍ではない…でも、虎を超える生物であった。
刃牙は鳴海の強さである逆鱗に触れてしまったのである。
逆鱗を触れられたソレは真の強さを露にする。
そして、遅れるように虎は傷を負うこと真の力を発揮。

虎を超える――ソレ対虎。
虎が負けるのは自明であった。
刃牙の最大の敗因は鳴海の強さの本質を見誤ったこと。

鳴海の強さ―――感情の昂ぶりが鳴海の強さの根源である。
感情の昂ぶり―――鳴海は怒っている。
誰のため―――戦うことの出来ない「弱い者」のために。
戦う―――「弱い者」から全てを奪い去った者に戦っている。
そして―――鳴海は今何かを捨て去って、変ろうとしている。

この男は―――

刃牙は掠り切れた声で問いかける。
「あ゛、んだは…いっだいだ、何もんだ…?」

歪んだ視界に黒い影が点滅する。振り下ろされる怒りの鉄槌。