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「5スレ>>267」(2008/03/04 (火) 20:48:51) の最新版変更点
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春。
凍えるような冬を越え、うららかな日差しと共に生き物たちが眠りから目を覚まし、
索漠とした大地には花が咲き乱れ、草が強く、大きく根を張る。
木々の枝先には新芽が芽吹き、新芽たちはやがて青々とした木葉へと成長する。
新たな生命の誕生、希望に満ち溢れた、そんな季節。
「三月も中旬となり、昨日、各地の学校では卒業式のピークを迎え……」
ラジオから聞こえる鼻声の男性の声を聞きながら、俺は外を眺めていた。
例年ならこの時期、暖かな春の日差しが、積もりに積もった雪を解かしてくれるのを待つだけ……という時期だというのに、
外は豪雪。無数の雪が地上へと降り注いでいる。
その景観を見ていると、今が三月中旬だとは到底思えなかった。
- episode 3 スロースターター -
テーブルの上には、昨日仕事帰りにスーパーで買ってきた裂きイカと缶コーヒー。
暖房の効いたキッチンで椅子にもたれかかって、休日の午後を堪能する。
ラジオから聞こえる声は、先程までの男性の声から、やけに明るい女性の声へと移り変わった。
タイトルコールと共に、これまたやけに明るい音楽。
その声がやかましく感じた俺は音量を少し下げると、両腕をだらん、と垂らして、目を瞑った。
きっと今の俺はおっさんにしか見えないだろう。缶コーヒーがビールだったりしたら尚更に、である。
「……はあ」
ちょっと気の抜けた溜息を一つ、つく。
――溜息を吐いたときが一番リラックス出来る気がする。全身から力が抜けていくような感じがして。
よく、溜息をすると幸せも一緒に逃げていくぞ、と誰かが言っていたが、吐ける幸せなど既に無いような気がするので気にしない。
そう、野心満々な二十代前半の人間が考えることじゃなさそうなことを考えるあたり、俺って年齢よりも老けていると思う。
「ま、別に思想が老けてようが関係ないよな」
独り呟いて、裂きイカに手を伸ばそうとした俺の肩を、とんとん、とジュペッタが叩く。
手を引っ込めて振り返ると、ジュペッタが目を輝かせて俺のことを見ていた。
大方予想は付く。散歩に行きたいのだろう。
しかし外は大雪。いくら俺でも流石にこの中で散歩をしようとは思わない。
「今日は駄目だ。大雪だろ? また今度にしような」
なるべくジュペッタの気に障らない様に優しく断ったのだが、ジュペッタは頬を膨らませて俺の肩を強くゆすった。
こうやってジュペッタに何か願い事をされて、断ったとき、本来ならこうやって肩を揺すられ、結局渋々了承する俺だが、
今日の俺は一味違う。
ちょっとは俺が断るときはしっかり断る男だということを証明しなければいけない。
それに、毎度毎度ジュペッタの尻に敷かれるわけにもいかないから。
「いつもみたいにやれば行ってくれるってわけじゃないぞ。とにかく今日は行かない。分かったろ?」
俺はジュペッタの両手を両肩から離して、ジュペッタから視線を逸らした。
左肘を立て、頬杖をつき、散歩には絶対に行かないという固い意志をアピールする。
頬杖を付きながら、ちょっと冷たくしすぎたかな、と胸の中に罪悪感が生まれ、なんだかうやむやな気持ちになったので、
その気持ちを紛らわそうと空いた右手で裂きイカに手を伸ばそうとした、その瞬間だった。
「ッ!? なんだ……?」
右手を動かすことができない。いや、右手だけじゃない。
全身が石になったかのように、全く動けなくなってしまったのだ。
しかし、微かに首は動かすことが出来た。動かせる、とは言っても、力を込めないと動かせない。
俺は精一杯の力を込めて首を反対側へと回した。
そこには、
輝く真紅の瞳を見開き、周りから紫色のもやを発しているジュペッタの姿。
顔からはいつもの快活な雰囲気は失せ、怨色を露にしている。
俺の背筋が怖気に襲われると同時に、今度は体が宙に浮く。
ジュペッタが玄関の方へ動き出すと、ジュペッタの方へ体が引きずられる。
「おおっ……」
――宙に浮いてる。無重力ってこんな感じなのかな……
って、そうじゃなくて。
――俺が外に行かないって言い張るから、実力行使に出たのか。というか、こんなんで怒るなよ……
などとこの状況になっても冷静になれる程俺はクールじゃない。
「ちょ、ジュペッタ、悪かった! 悪かったから!」
俺は完全に気が転倒していた。声が時々裏返る。
必死になって叫ぶも、ジュペッタは俺の方を振り返らずに玄関へ行き、
ドアの前に差し掛かると、ドアノブに手をかけずにドアを開き、外へと向かう。
俺を引きずったまま。
「分かった、外、行くから、だから……」
徐々に俺と極寒の世界との距離が縮まる。
「コートぐらい、羽織らせてくれ――――――ッ!」
声を限りにして叫んだ俺の哀願は、家の中、それと冬日の空に虚しく響いたのであった……。
外に出たあとも、必死にジュペッタに泣き願ったのが功を奏したか、
ジュペッタは俺にコートを羽織ることを了承してくれた。
そのついでに暖房とラジオの電源を切り、そして靴を履かないままジュペッタに引きずられていったので、
玄関に置き去りにしてしまった靴を履いて、再びジュペッタの下へと向かう。
もう行きたくて行きたくてしょうがないのか、遅い、と言わんばかりにジュペッタは腕を組んで俺を出迎えた。
「……仕方ないだろ。出かけるときは戸締りをしっかりする、基本はしっかりしておかないと」
そう言って俺は歩き出す。
ジュペッタも俺の話を分かってくれたのか、突っかからずに俺の隣に並ぶ。
外はこの天気のせいか、薄く霧がかかっていて、微かに視界が狭められていた。
隣にいるジュペッタを見ると、彼女は雪を手に集めると、一つ一つの結晶をまじまじと眺め、
自らの体温で溶けていく雪を見ては興味深そうに掌を見つめている。
そんな子供っぽいジュペッタの仕草を見ると、こんな豪雪の日に散歩をするのも悪くはないと思った。
しかし、結局のところ、ジュペッタの尻に敷かれ、平気で哀願するプライドの欠片も無い自分が情けなくも思えた。
市街地はすっかり春の装いをしていた。
それぞれの店が春らしい新商品や、薄手の春服を売り出しており、中心部に鎮座するデパートには、セールの宣伝か……大きな垂れ幕が下がっている。
その風景は、この天気にはかなり不釣合いである。
そんな中、いつものように足早に市街地を通り過ぎ、路地裏へと向かう。
相変わらず周囲の冷たい目を浴びた俺たちであったが、最近になってはあまり気にならなくなった。
三ヶ月ぐらい前までは、怯えて俺の腕を掴んできたジュペッタも、今ではけろりとしてる。
きっとそれは表面上だけであって、本心はまだ怯えているのだと思うけど。――俺だってそうだ。
「……」
市街地を歩く間、俺とジュペッタの間には会話が無い。
それはきっと、互いに、この視線に耐えるだけで手一杯だからだろう。
――いい加減俺たちには構わないで欲しい……
俺は終始、懲りずに視線を向ける周囲に憤りを感じたまま道を歩き続けていた。
路地裏を歩くこと約二十分。
狭い小道を抜け出て、公園にたどり着く。
ここは俺とジュペッタが散歩に行く際に、必ず立ち寄る場所である。
この公園を含む一帯は、周りからは「旧市街地」と呼ばれ、20年くらい前まではここが市街地として栄えていた。
しかし今の市街地の様子を見て分かるとおり、僅かな期間で急激な発展を遂げた現在の市街地に人が流れ、
こっちの市街地は次第と廃れていってしまった。
この公園の先に行くと、旧市街地の中心部である商店街に着くのだが、既にすべての店のシャッターが閉じられていて、
この公園も同様に、市街地に出来た新しい公園の影響で人が来なくなり、管理する者もいなくなってしまった。
それは、
色がはげて何と書かれているか分からない看板。長い時間をかけて錆び、鎖が折れているブランコ。
素材の木が朽ち、原型を留めていないベンチ。誰の足跡も無い雪原に、端的に表れている。
ぼふっ。
その雪原にジュペッタはダイブして、
ごろごろ、ごろごろ……
右に左に転がり始める。
あっという間にジュペッタの黒フードは雪のせいで真っ白になった。
寒くないのか、ジュペッタはとても楽しそうに転がっている。
何回か転がり終わって、ジュペッタは仰向けになって満面に喜悦の色を浮かべた。
「……楽しいか?」
聞いてみると、ジュペッタはこれまた満面の笑みを浮かべて頷いた。
――そんなに楽しいのだろうか。
俺は雪原をじっと眺めた。
そして。
ぼふっ。
俺もまた、雪原にダイブした。
顔に雪がくっついて冷たい。
でもその感触はどこか心地よかった。小麦粉へ飛び込んだ時もこんな感触なんだろうな、と思いつつ、
ジュペッタと同じように転がってみた。
ごろごろ、ごろごろ……
コートに雪が付く。
転がった時の感触もまた、飛び込んだときの感触と同じように、言い様の無い心地よさがあった。
それに、自分の転がった跡が残り、それはそれで面白い。
気づけば、俺はジュペッタ以上に雪と戯れることを楽しんでいた。
何度も、何度も転がり続ける。
ごろごろ、ごろごろ。
ごろごろ、ごろごろ……
「……へくしっ」
三十分後。
俺は身を縮こませて肩を震わせていた。
全身雪まみれになって、それが溶け、コートはびしょ濡れになり防寒具としての機能を果たせなくなってしまった。
靴の中に雪が入り込み、足が冷たい。手も同様に冷え切って、なんだか指と指がくっついている感じだ。
――やるんじゃなかった。
俺はさっきの自分の行いを激しく後悔した。
一方のジュペッタはというと、相変わらず雪の上に寝そべり、雪と戯れている。
寒くないのか、と心配になるが、当の本人は寒くないのだろう。
「なあ、ジュペッタ……そろそろ帰らないか?」
寒さで声が震える。
ジュペッタは起き上がると、俺のことをじっと見つめた。
「……まだいたいのか?」
そして頷く。
それを聞き届けた俺は溜息をついた。
ここでしつこく食い下がったところで、たまに以上に頑固になるジュペッタのことだ。
引き下がらずに、最終的にはさっきのように実力行使に出るだろう。
まあ、やってみなくちゃ分からないと思うが、何もそこまでするほど家に帰りたい、って程のものではないし、
流石にこの程度で凍死なんかしないと思うし。
それに、冬だってそろそろ終わりだろう。今はこうやって大雪が降ってるけど、もう数週間したら雪は止む。
その内にジュペッタには思う存分冬を満喫してもらいたいし。
「……分かった。帰りたかったら言ってくれ。俺はあっちに行ってるから」
俺は公園の中央にそびえたつ大木を指差し、ジュペッタはそれに頷くと、再び雪の上に寝転んで、
ごろごろ、ごろごろ。
と、転がり始めた。
膝上ぐらいまで積もった雪を掻き分けながら、俺は大木の真下へと辿りつく。
とても大きな木だった。
俺が両手を広げてもまだまだ足りないほど幹は太く、見上げると無数の枝が空を遮っていた。
その迫力に、俺はほお、と感嘆の声を漏らした。
――この木は、一体何十年もの間、ここに居続けたのだろうか。
楽しく遊びまわる子供たちの姿を見守り、
夏日には青々と茂った葉達が皆に安らぎを与える影となり、
秋は赤や黄に色を変えた無数の落ち葉が足元を彩って。
やがて時は経ち、
新たな市街地が出来て、人々はそこへ流れるように移り、
次第に公園にも人は少なくなってくる。
それでも尚、この木は葉を身につけ、葉の色を変え、
訪問者が来るのをじっと待ち続けていた。
まるで意思の無いロボットのように、自らの義務を淡々とこなしている。
これからも、きっとそうだろう。
自らが朽ち果て、生命が終わりを告げるまで、ずっと。
「……」
大木の枝先に、小さな芽が出ているのを見つけた。
芽からは微かに緑色の葉が顔を覗かせ、今にも飛び出さんとしている。
それを見て、ようやく俺は春がすぐそこまで迫っていることを実感した。
頭に積もった雪を手で払い落として、しばらく俺はそこに立ち尽くしていた。
いつしか周りが仄かに薄暗くなる。
――そろそろ夕飯時かな。腹も減ったことだし。
俺は大木を離れ、ジュペッタの所へと戻っていった。
「ジュペッタ、そろそろ帰るぞ」
先程のように起き上がってちょっと残念そうな表情をするジュペッタ。
今度は雪原を離れて、俺の隣へとその体を寄せる。
俺はジュペッタのフードについた雪を優しく払って、彼女の頭を撫でた。
「楽しかったか?」
ジュペッタは目を細めて、にっこりと笑う。
「そうか……」
その笑顔に俺は顔をほころばして、公園に背を向けて家路を歩き出した。
――号砲が鳴り響く。
春はスターティングブロックを勢い良く蹴りだした。
前傾姿勢を、ゆっくりと起こしながら、徐々に風を味方につけ、加速していく。
今年の春はスロースターター。
始めは遅いが、徐々にその速度は上がり――最後の最後で相手を抜き去る。
純白のゴールテープはすぐそこ。
そこへ向かって、春はラストスパートをかける。
新たな生命と希望を、この世界にもたらす為に。
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第三話。シリーズ化しました。いつの間にか。
ここまで書いてみて、なんだか街の構造がすっごく複雑になっているような。
路地裏を挟んで、市街地と旧市街地……一回地図にして書いてみよう。
そして後半の大木とスロースターターの件は何かの衝動に駆られ。