5スレ>>872


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 それは、宇宙に手が届きそうな、とても透き通った夜だった。
 マサラを見下ろす小高い丘。その中腹の斜面に寝転がっていたヒロムは、夜空に浮かぶ月が、いつの間にか二つになっていることに気がついた。
 三日月だった。
 それが、とうやら遠くにある天体ではなく、傍らに立っている何かの額にかかる、一握ばかりの金糸であることに気づくのに、暫くの時間を要した。
 綺麗だった。
 その一束の巻き毛は、緩やかな曲線を描いていた。ふわふわと夜風に揺れ、とても柔らかそうに映った。
そして、暗闇の中でぼんやりと美しく光っているようだった。
 まるで満月の光を吸い込んだような、冷たく淡い色だった。それともそれは、その金髪以外の、真っ黒な毛並みがそう見せるのだろうか。
明るい月夜に追いやられた闇を凝縮したように、底知れぬ漆黒に満ち満ちたそのシルエットは、どこまでも透明なこの夜、そのものであるような気がした。
 ヒロムは、思わず耳につけていたイヤフォンを外した。
 その光景だけではない。音も、温度も、辺りに満ちる空気ですら、一瞬でも逃すのが勿体無くなるような、そんな漠然とした焦燥感に駆られていた。
「にんげん」
 夜が、ぽつりとつぶやいた。
 それは夜風のように涼やかな声だった。そして、決して声量は大きくないのに、まるで耳元でささやかれたようにこそばゆく、よく通った。
 それは、静かに中腰になり、ヒロムの目を食い入るように覗き込んだ。
 存在感が危うすぎるコントラストの中で、緋色の双眸だけは、強烈な色を放っていた。
  少しばかり尖った、物憂げな感情を湛えたまぶたの奥にある赤色は、鉱物的な冷たい輝きを湛え、じっとヒロムを見つめて放さなかった。
 ヒロムは、まるで金縛りにあったように、その瞳から視線を外すことができなかった。
  魅入られる、とは、こんなときに使う言葉なのかもしれない。
「きみの、とうめいなひとみに、ねがいごとをしたい」
 彼女はそういって、静かに手を差し出してきた。
こんな、この世界で一番透き通っていると思えるものにそう言われるのは、正直、お世辞でも悪い気はしないと思った。
「わたしに、いちどだけちからをかしてほしい」
 だからだろうか、差し出された手を、ヒロムは思わず握り返していた。
  底抜けに柔らかいくせに、どんな色もはね返してしまいそうな、銀に近い白い肌。
  触れた先の体温は、冷たく、華奢なくせに、吸い込まれるような魅惑に満ち満ちていた。
 一陣の風が吹き、遠くに草木のざわめく音が聞こえた気がした。

 ◇ ◆ ◇

 こんな夜更けにも関わらず、研究所の明かりはまだ灯っていた。
  ヒロムは、心強い存在感にほっと胸をなでおろしながら、静かに呼び鈴を鳴らした。
やがて、慌しげな足音と共に玄関の照明が灯り、扉が開いて、初老の男性が顔を覗かせた。
「おぉ、ヒロムか、どうしたんじゃ、こんな遅くに」
 線の太い白髪に、黒色の濃い眉が印象的な、朗らかそうな人物だった。ここ、マサラタウンでは知らない人などいない、もえもん学会の権威、オーキド博士だ。
何分多忙な為か、その顔には若干疲労の色が見て取れたが、人懐こい笑顔は相変わらずだった。
 だれ? とヒロムの傍らに立つ『夜』が抑揚の無い声で尋ねた。
  ヒロムはその問いかけに、オーキド博士だよ、と簡単に紹介をしてから、丘から連れてきた『彼女』の細い肩をとって、自分の前に立たせた。
  オーキドは、それを見て一瞬だけ怪訝な顔をしてが、直ぐに驚きに目を見開き、大きな声を上げて驚いた。
「これは、一体どうしたことじゃ!」
 オーキドはそう言って、酷く慌てた様子でそれに駆け寄ると、小さな頭のてっぺんから、可愛らしい裸足のつま先まで、しげしげと観察をはじめていた。
 それから、「間違いない、信じられん!」と声を張り上げると、感極まったように、ひしとそれに抱きつく。
 そんなオーキドの反応に、ヒロムはやっぱりか、と安堵の息を吐く。
 そうだ。この人がこんな反応を示すものといえば、もう、たった一つしかないだろう。
  まぁ、確かに日頃よりは、愛情表現が大げさなきもするけれど。
 ヒロムは、少し躊躇いがちに、連れてきた生き物にすっかり夢中になってしまった研究者に向かって、おずおずと声をかけた。
「……あの、それってやっぱり、もえもん、なんですか?」
 たずねながら、確めるように、問題の方に視線を向ける。
  そう、ヒロムは彼女がもえもんであるという事に、少しばかり疑問を抱いていたのだ。
  だが、今それは、もえもんを愛してやまない人間にもみくちゃにされている。
 なるほど、彼女は見た目に違わず大分おとなしい性格をしているようだった。無遠慮なスキンシップを図るオーキドにずっとされるがままだったが、
さすがに一晩中ほったらかしらしい無精ひげには辟易しているのか、少し渋い顔をしていた。ここにくるまでずっと感情の色を表さなかったが、
なるほど、極限まで鉄面皮というわけではないらしい。
  ヒロムは、そんな生き物らしい面をやっと垣間見れた気がして、一瞬吹き出し、
「なんと、ヒロムはそんな事もわからんのか!」
 直後、オーキドの放った、驚きと落胆を最高レベルで混成したような素っ頓狂な声に、すみません、としゅんと頭を垂れる。それでも、首を捻るばかりではあったが。
  もちろん、ヒロムにだって、それが人間でないことくらいは、直ぐに分かった。
  自分の胸下くらいまでしかない背丈。小さな頭のやや後ろから、ツインテイルのお下げのように伸びるまとまった黒毛や、何よりお尻から顔を覘かせる尻尾。
  一見すれば、きっと誰もがもえもんだと判断するだろう。
  それはヒロムとて例外ではなかった。例え、彼女の外見が、オーキドから学んだ、一五〇種のもえもんの知識の中に該当しなくても、
もしかしたら、他の地方から流れてきたか、それとも新種かなんて、突拍子も無いことすら考えたりする頭くらいは持っている。
  だが、それにも増して、いくつか不自然な点があったのだ。
  その一つの要因は、毛並み。
  問題のもえもんの体毛は、とてもよくくしずけられており、月夜にもつややかな光沢すら放って見えた。仮に野生のそれとするならば、
これほどまでに身なりが整えられていることは無いと言っていい。
その日を生きるのに必死な野生のもえもんは、そうした見た目になど、ほとんど気を使う余裕は無いからだ。
それに、彼女の場合は、その所作も言動も、粗暴なもえもんと一線を臥している。この時点で、ヒロムは彼女が、野生のもえもんではないと判断しのだが。
  ところが、飼い主と逸れたのかと思えば、どうやらそれも違うらしい。
  逸れたのか? との問いに、彼女はふるふると首を横に振った。
  どうやら彼女は、数の少ないもえもんであったが、そこだけは頑なに否定する素振りを見せていた。もちろん、飼い主と喧嘩したとか、あるいは逸れたなんて事例も、
無いことは無いらしいが、それでも、人に飼われているもえもんがそれを隠すなどという話は、聞いたことがなかった。
  ならば、野生でありながら、相当の強さと気品を兼ね備えたもえもんだということになる。そんなのが果たして存在するだろうか。
  ――それとも、まさか。
  そこで、ヒロムは一つの結論に辿りついた。
  そういえば、居るんじゃないのか? 生きるための余裕に満ち溢れ、そして何人に服従することも無いといわれる、それこそ絶対的なな存在が。
  そう、それは属に「伝説」とも称される、一般のもえもんとは一線を画すもの。
  ――圧倒的な能力を持つ自然界の結晶。自然そのものと言ってもいいかもしれない。
  三年前、この街から旅立ち、それこそ伝説的なトレーナーとなった人物の言葉が、ヒロムの脳裏に蘇る。
  オーキドの、日頃にない大げさな反応も、少年の妄想に拍車をかけた。
「それって、もしかして、伝説のもえもん、とか言うやつですか?」
 ヒロムは、僅か声を震わせてオーキドに問いかけた。
  旅立ちを間近に控えた少年の下に、ある日突然伝説のもえもんがやってきた、なんて、幼い頃に見たアニメの話そのままだ。
  男なら、こんなシチュエーションに燃えない訳が無い。
  ヒロムは、全力で夢見る少年になって、思わずオーキドに詰め寄った。
「いや、そういう類の問題ではないの」
「――ま、そうですよねー」
 もちろん、人が夢を見ると書いて、儚いと読むわけだが。
  少年をとうの昔に卒業したオーキドの言葉は、空気が読めない上に底抜けに辛辣で、少年の心をた易く気づけた。ヒロムはまさかとは思いつつも、
心のどこかで期待していた淡い希望に軽く絶望して、がっくりと頭を垂れる。
  オーキドはそんなヒロムの様子をみて、どうしたんじゃ? と首を傾げていたが、
「ふむ、じゃが、何かの結晶、という意味では、強ち間違いではないかもしれんのぅ」
 と、ヒロムすらびっくりするようなことを、ぽろっと口にした。
「ほ、ほんとですか!?」
「ああ、本当じゃとも」
「い、一体、何の結晶なんですか?」
 そういって続きを促すヒロムに対し、オーキドはおほん、と大げさな咳払いを介してから、
「愛じゃよ、ヒロム。愛じゃ」
 もったいぶった上に、やおら臭い台詞を真顔で言い放った。
  ヒロムは、それに一瞬、はぁ? と怪訝な表情を返したが、
「……すいません、あとよろしくお願いします」
 そう言って、直ぐにぺこりと頭を下げると、さっさと帰宅の途につこうとした。
「あああ、いやいや。待て、待たんか」
 オーキドは、そんなヒロムの服の襟を慌てて掴み取る。
「せっかくここまで来たんじゃ。お茶の一杯でも飲んでいかんか? うん?」
 そういって引き止めるオーキドに対し、ヒロムは「えー」と、あからさまに不機嫌である。
「お茶でもって、どうせ僕が入れるんじゃないんですか? それ」
「まぁ、そう言わんとな。ほれ。何なら、わしがトレーナーだった頃のしてやってもいいぞ? 
旅立ちの日を間近に控えたお前さんにとっても、決して悪い話ではあるまい。うん?」
 オーキドはそういって、ヒロムの好む一人旅の話をちらつかせる。
  ヒロムがしぶしぶ頷くと、オーキドは「決まりじゃ!」と嬉しそうに笑って、例のもえもん共々、研究所の中に押し込むように招待した。

 ◇ ◆ ◇
 
 研究所の奥には、申し訳程度に据えられた応接用のソファーとテーブルが置かれていた。
  ヒロムは手持ち無沙汰に、その部屋をぐるりと囲んだ本棚を眺めていた。
最小限の照明に照らされた、ずらりと並んだ分厚い背表紙は、どれも手垢に塗れて、重厚な雰囲気を醸し出している。
  それは、人間ともえもんの、歴史の蓄積とも呼べる、膨大な情報の山だ。
  だが、これだけの研究を積み重ねても、まだまだ分かっていない事は、沢山ある。
「不思議じゃ、普通では考えられんことじゃ」
 そんなヒロムの心の声に同調するように、オーキド博士が渋い顔をしてやってきた。
 博士はソファーに座ると、重苦しいため息をついて冷め切った緑茶を手に取り、それを一気に喉に通す。
 それから、相変わらず渋いのを入れおる、とますます顔を顰め、天井を仰いだ。
  ヒロムは、そんなオーキドの様子を怪訝そうな顔で見ながら、おずおずと声をかけた。
「……すみません、たぶん置いてけぼりを食らっていて、何がそんなに深刻なのか、分からないんですけど。一体どうしたんですか?」
 オーキドは、いつも笑顔を絶やさない人だ。
  特にもえもんのこととなると、まるで子供みたいに、楽しげに話をする。
  ギャロップに頭を焦がされようが、ウツボットにばっくりと噛み付かれようが、眉間に皺一つだって寄せたりはしない。
それどころか、そんな反応に大喜びして、三たびスキンシップを図りにいくような、盲目的なところすらあるのだ。
  しかし、そんな大人が今、他ならぬもえもんのことに対して、こんなにも難しい顔をしている。
その、恩師の普段とのギャップは、ヒロムを萎縮させるには十分だった。
「そういえば、さっき、あれはこの地方のもえもんではないといってましたけど、あのもえもんがここに居るのって、そんなに不味いことなんですか?」
「……うむ、その言い方も間違えてはおらんが、別に存在そのものが不味いと言っておる訳ではない。おかしなのは、あの子の行動じゃな」
「行動、ですか?」
「そうじゃ」
 オーキドは重い所動作で顔を上げると、ゆっくりと振り返って、玄関先にいるブラッキーに視線を移した。
  彼女は、絨毯の上にぺたんと座り込んだまま、近くに転がっているさいころのおもちゃを、そのしとやかな尻尾で弄ぶように転がしていた。
  だが、その表情はやはり物憂げなままで、とても遊んでいる、という雰囲気では無かった。
「ヒロムは、イーブイというもえもんなら、知っておるじゃろう」
「イーブイですか? ……はい、それは、もちろんですけど」
 ヒロムは、オーキドから、意外なもえもんの名前が出てきたことに驚いた。
  イーブイと言えば、特殊な進化、――レベルではなく、石で変化するもえもんとして有名だ。
  とりわけその種類によって三つの異なるタイプに分化するとなれば、どんな教科書にだって写真つきで載っている。
 そういえば、一番可愛く写ってたのは、確かシャワーズといったかしらん。
  ヒロムは記憶を探りながら、ふとどうでもいい事を考えていた。だが、そんな浅ましい値踏みは、次のオーキドの言葉で簡単に吹き飛んだ。
「あれはな、そのイーブイの一つの進化体系の中にいると言われておる」
「へ?」
「驚きじゃろう?」
 そこで、オーキドはここに来て初めて、少し悪戯っぽい笑みを浮かべて見せた。ヒロムは二、三度目を瞬かせてから、
そういえば、と、それまでずっと疑問に思っていた事の一つを、先生であるオーキドにぶつける。
「……あ。じゃあ、やっぱり、イーブイは他の石にも反応を示すって事なんですか? ほら、特別な力を持った石は、リーフやほのお、みず以外にもあるのにって、
博士に聞いたことありましたよね?」
 他のもえもんと異なり、多様な石に反応を示すイーブイ。
  しかし、特別だと言われる石は、その進化形よりも多く存在するのだ。
  つまりは、イーブイでも反応を示さない石があるという事になる。
  ヒロムはその理由が全く分からずに、過去にオーキドを質問攻めにしたことがあった。
  オーキドは、その当時のことを思い出したのか、しまったな、と困惑した表情を浮かべたが、目線を逸らしつつも、その一つの可能性について、初めて口を開いた。
「いや、そういう訳ではないのじゃが、それ以外にも要因があるのじゃ」
「――と、いうと?」
「さっきの、あのもえもんは、愛の結晶だと言ったよの?」
「はい、……冗談ですよね?」
「いいや、本当のことじゃ」
 オーキドはそう言うと、僅か上半身をかがめて、両膝の上に手を組んで見せると、そこから真剣な眼差しをヒロムに放つ。
「……やっぱり帰ります」
 だが、それに対し、ヒロムは深くため息をついて席を立とうとした。
「や、や、まちたまえ」
 オーキドは、ヒロムに冗談に付き合うつもりがないことを悟ったのか、慌てて姿勢を崩すと、その続きを矢継ぎ早に口にする。
「別に持論を展開しようとしておる訳ではない。ただ、正確にわかっている事では無いというだけの話なのじゃ。何しろ、愛情というものは目に見えんものじゃから、
確実に証明する手段など無いのじゃ。それに、信頼できるデータを統計として打ち出せるほど、実例も少ないしの」
「……はぁ」
「もえもんが、飼い主に寄せる愛情。わしらはそれを、なつき度、と呼んでおるがの」
 オーキドは、そういって、何かを思案するようにゆっくりと目を閉じ、言葉を選ぶように、ゆるやかな口調で説明を続ける。
「この値が極端に高いと思われるイーブイが、これまで知られていなかった系統に進化するという理論が提唱されたことがあるのじゃ、
ブラッキーは、その内の一種だといわれておる」
「――愛情で、進化する」
「そうじゃ」
「でも、それが、一体どんな風に問題だっていうんですか?」
 ヒロムには、さっぱり話が見えなかった。
 何だ、そんな進化の話に、ことさら大きな問題があるとは思えないし、むしろ喜ばしい結果なんじゃないかとすら思える。
  それはトレーナーともえもんの、最上の絆の証みたいなものじゃないのか。
「大有りじゃとも」
 だが、オーキドはさも当然のようにそれを否定してみせると、険しい顔をして呟く。
「それほど飼い主に懐いておるはずのもえもんが、どうして今こうしてたった一匹でおるのか。お前さんはそれを、大した問題ではないと思えるかの?」
「……あ」
 そこで、ヒロムはやっと気づいた。
 そうか、その通りだ。
  オーキド博士の言っていることが正しいとするならば、その飼い主がなぜ、この場にいないのか。
その関係に深い愛情があるというのなら、なぜあのもえもんは、まるで飼い主の存在を否定するような、あんな態度を取り続けているのか。
「まず、あのもえもんは、間違いなく野生では無いじゃろう、それは確かじゃ。ヒロム。お前さんの判断は正しい。
それに、彼女の進化要因には、飼い主という存在が必要不可欠じゃからの。じゃがそれ故に、この状態は異常なのじゃ、わかるの」
「まぁ、それは、僕も、あの子の身なりから、ある程度想像はしましたけど、……でも、それなら、飼い主を探してあげるって、
すごく適当な解決策があると思うんですけど?」
 それは、至極当然の帰結にも思えた。だが、オーキドは渋い表情を崩さない。
「……、一つだけ可能性があっての」
「何ですか?」
 素朴な疑問を抱くヒロムに、オーキドは言いにくそうに二、三度唸ったが、ヒロムの視線が揺るがない事を察したのか、やがてため息混じりに口を開いた。
「例えば、そうじゃな。飼い主と、死に別れた可能性じゃ」
「――あ」
 それを聞いて、ヒロムは少し、自分の無鉄砲さを反省した。
 そんな事、考えた事なかったな。というより、考えないようにしていたのだろう。
  それは、きっとペットを飼おうとするときような、あの期待ばかりに膨らんだ気持ちに似ているのかもしれないと思った。
きっと誰だって、その動物の最後を想像しながら、新しい家族を迎え入れたりはしないだろう。
「じゃからな、かなり気をもんだよ。なにしろああいうもえもんは、すべからく主人の後を追うことが大半だと聞いておるからの、
まさか死に場所を求めて彷徨っておるんじゃないかと」
「そ、そこまでですか?」
「何をそんなに驚く必要があるのじゃ? 愛とは最も深い感情じゃ。そしてもえもんと人間を結びつける最終的な絆でもあり、最高位の感情であろう。
そう考えれば、そうした結末に至るのは、何ら不思議なことではない。お互いに長い年月を共に過ごしてきたもえもんと人間とは、もうそういうところまで来ておるのじゃ」
 だから、生半可な覚悟でトレーナーになるものではない、というオーキドの教戒に、ヒロムは静かに頷く。
「そしてな、ヒロム、彼女はお前の力を貸してほしいと言っておる。それがなぜかはわからぬ。じゃが、そこには必ず理由があるはずじゃ。
お前さんがわしを頼ってここに来てくれたことは嬉しい。
じゃが、今わしがしてやれるのは、お前さんの親御さんに、捨てもえもんを持ち帰る息子さんのフォローをすることくらいじゃ」
「――はい。って。ち、ちょっとちょっと! 待って下さいよ! いつのまに僕がお持ち帰りすることになってるんですか!?」
「……ふむ、帰りたくないか? では、ここに泊まっていくかの?」
 いいのう昔を思い出すわい、とにやり笑うオーキドに、ヒロムは連れて帰ります、と根負けしたようにうつむき、白旗をあげた。
本当に、旅立ちをすぐに控えた微妙な時期に、妙なことに巻き込まれたものである。
  加えてヒロムは別れ際、オーキドに、よろしく頼む、と頭を下げられた。
  それは、間違いなく、もえもんを愛してやまない人間のそれで、ヒロムは慌ててそれを制止しながら、わかりました、と確かな決意を持ったのだった。
  
 ◇ ◆ ◇

「なぁ、願い事って何なんだ?」
 研究所からの帰り道。
  ヒロムは、頭のどこかで、帰りが遅くなったり、こうしてはぐれもえもんを拾って帰ることの、母親への言い訳を考えながら、
隣を歩くもえもんに向かって、ふとした疑問を呟いた。
 それは、これまでのことではなく、これからのこと。
  ヒロムは、乗り気でないまでも、とにかく一つだけ、強く意識していることがあった。
  飼い主の事や、あんなところに一人でいた理由。そうした、彼女の過去を掘り下げるようなことについて、できるだけ触れないようにすることだった。
  それは、オーキドが無言の内にヒロムに向かって投げかけてきたお願いであったし、ヒロムもその問題に触れるのは、何となくいけないような気がしていた。
  だが少なくとも、彼女が自分に近づいてきた理由だけは、聞きたいと思ったし、同時に聞かなければいけないだろうと感じていた。
  だから、ヒロムはあくまで、このブラッキーというもえもんが、これから自分に何をお願いしたいと言っているのか、それを話して欲しいと思ったのだ。
「うん」
 彼女は、……ブラッキーというもえもんは、ヒロムの問いに、少し迷うような仕草を見せた後、思い切ったように口を開いた。
「おこらないでね」
「うん?」
 ヒロムはそこで、ブラッキーがいつの間にか立ち止まっていることに気づいた。歩くのをやめると、彼女の方を振り返る。
「たすけたい娘がいるの」
 その視線の先、すこし俯いた姿勢で立つ彼女は、その小さな体に、あらん限りの強い意志を漲らせていた。
「助けたい?」
「そう」
「……一体なにから?」
 ブラッキーの言葉は、一々断片的過ぎて、ヒロムはその本位を汲むのに難儀していた。
 ただ、彼女のいう助けたいというものが、恐らくはいま、彼女の手の届かないところにいるのであろうことは、
その切羽詰ったような表情から、なんとなく、汲み取ることができた。
 ブラッキーが口を開いたのは、それからどれだけの時間が経ったことだっただろうか。
「わたしの、かいぬし」
「え?」
 そう、それは、彼女の口から、触れてはいけないはずの過去が漏れた、正にその時だった。
  ブラッキーは、その続きを紡ぐか紡がないかの境目で突然体を低くすると、間髪いれずに、ヒロムの方に向かって飛んだ。
「え?」
 その体が自分の顔の直ぐ側を掠め過ぎるまで、ヒロムは一体何が起きたのか分からなかった。
「きっ!」
 同時、直ぐ側から、何かのうめき声のようなものが聞こえ、それが風と共にあっという間に後ろにぶっとんで行ったのが認識できただけだった。
  ヒロムは、慌てて後ろを振り返り、そして、飛び込んできた光景に思わず息を呑んだ。
  そこにあったのは、土がむき出しのあぜ道、その隅に四つ足で立ち、何かを組み伏せるような体勢をした、ブラッキーの姿。
まるで、獲物を捕えた肉食動物のような、野性味に溢れたその姿勢に、ヒロムは認識を新たにした。いやむしろ、その時初めて意識したのかもしれない。
  ――もえもんだ。
  そう。ブラッキーがもえもんであるという、確かな現実を、少年はその時強烈に意識した。
  今まで、普通に会話を交わし、歩調を合わせて歩いていたのは、決して人間ではない。
  そして、その口元、黒い何かがうごめいている何かを認識して、ヒロムは我が目を疑う。
  ズバット!?
 そう、ブラッキーに組み伏せられていたのは、他でもなく、ズバットと呼ばれるもえもんの一種だった。普段なら洞窟などにしか生息しない。
こんな海沿いの田舎町では、まず見かけることのないい、その種類。そんなもえもんが、どうしてこんなところに?
「――きをつけて」
 だが、そんな常識との照合も、ブラッキーの冷ややかな忠告に、あっという間に霧散する。
  慌てて周囲を見渡す。
当然街灯の一つだってない宵闇の中では、闇にまぎれる事に特化したもえもんの姿など、ヒロムのような人間の肉眼では、とても捉えることができない。
  だが、わかる。
  夜に溶け込むような微かな羽音、その音は、ヒロムの聴覚を四方八方から埋め立てている。一匹や二匹なんて生易しい数じゃない。
何十、いや、既に恐怖感に縛られつつある少年の五感には、それは何百とも感じられた。
「おこらないでね」
 それはフラッシュバックか、それとも彼女が再び放った断りなのか。
  ただ、ヒロムはそのとき初めて、自分が巻き込まれつつとんでもないことを、心のどこかで何となく察していた。
ツールボックス

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