マスターと私――ニドリーナ(愛称:ニーナ)――はまだ見ぬ萌えもんを捕まえるため、サファリゾーンに来ていた。
が、
「……はぁ」
今日何度目かも分からないマスターの溜息が耳をつく。
普段から、明るいとは決して言うことの出来ない性格のマスターだけど、ここ最近の様子は特におかしかった。
ジムバッジを見つめては嘆息し、あらぬ方向を眺めては嘆息し、道端の石や花を見ては嘆息し……。
そんなわけで、溜息の数は増えていく一方だった。
トレーナーがこんな様子では捕まるものも捕まらない。
暗くなるばかりの彼を見ているのは耐え難いことだったので、
「マスター、一旦あの休憩所で休みましょう」
数十メーター先の小屋を指差し、私はそう提案したのだった。
「……きっと、長旅の疲れが溜まっています。目を閉じて横になっていてください」
休憩所は思ったよりも広く、空いていた。おそらく、他のトレーナーは休むことなく萌えもんを捕まえているのだろう。
私が言うと、マスターはコクリと一度だけ頷き、自分の腕を枕にして眠り始めた。
……やっぱり、疲れてもいるんですね。
すぐに大人しい寝息を立て始めた彼を見て、静かに微笑を一つ。
「いつだったでしょうか……」
彼が不器用な笑みをなくしてしまったのは。
不器用ながらも、私を励まし、元気にしてくれたあの笑みを忘れてしまったのは。
私は彼と初めて出会った時からのことを一つ一つ、確かめるように思い出していった。
……あぁ、あの時から。
そうだ。彼が笑みを見せなくなったのはあの時からだった。
そうして、夢とも現とも取れぬ意識の中、私は過去を回想していた。
『一言で述べるならば、「辛勝だった」というに及ぶものはない。
マスターは衰弱した私を抱えて走っていた。
三つ目のバッジまではさほど困難はなかったように思われる。
と言っても、二つ目まではフルメンバーで戦っていたのだが――。
三つ目からは私一人でジムを攻略するようになった……何が理由なのかは知らないのだけれど。
そして、四つ目、タマムシシティのジムリーダー、エリカとの戦い――
最初のうちは優勢だった。
こちらが力で押し切るのに対し、相手は補助的な技ばかりだったからだ。
いよいよ最後の一体、そうなった時に問題が発生した。
戦っていた私からすれば、最後の一体だけが異常にレベルが高かったように錯覚した。
それほどまでに、補助技の効果が効いてきていたのだった。
だが、こちらとて、並の覚悟でやってきていたわけではない。
マスターのサポートを受けながら、私は辛うじて敵を倒すことに成功した。』
その後からだった。
マスターがどこか魂の抜けたような状態になってしまったのは。
私が何度呼びかけても反応せず、ただぼんやりとバッジを見つめては表情を暗くする。
ようやく反応したかと思えば、私の話を耳から耳へと聞き流す。
数日のうちは体調でも悪いのだろうと思っていた。
一週間過ぎるころになって私はマスターの症状に対して一つの可能性を見出していた。
かつて、マスターはこんなようなことを言っていた。
「元気で騒がしいよりは、落ち着いていて静かな方が好きだ」
と。そして、
「だからニーナが気に入ってるのかもな」
このうち前者と、バッジ、タマムシのジムリーダー、マスターの年頃を考慮に入れると、すんなりと答えが姿をあらわした。
……恋煩い。
ズキリと胸に痛みが走った。その理由に思い至る前に私は痛みを無視した。
出会った時から心に決めていた。彼のやることを全力でサポートすることを。
彼の行く道を阻む物があれば取り除くことを。
たとえそれが、自分自身であってもだ。
この決心は曲げられない。曲げるべきは己の心。
……でも。
マスターがその気持ちにどう決着を付けようとも。
……今だけは……。
そう、今だけは、その時までは。
せき止めていた感情が決壊する。胸の痛みの代わりに涙が零れた。
「私だけを……」
そして、そっと、マスターの頭を私の膝に乗せた。
つづく?
最終更新:2007年12月13日 22:51