2スレ>>734


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◆前回までの主な登場人物とキーワード

青年:主人公。人間を探してタオと旅をしている。彼自身は人間ではないらしいが……?
タオ:ヤミカラス。あまり感情を露わにしないが、マスターのことが大好き。
異形種:萌えもんのこと(一番変えちゃいけない気もしますが、やってしまった。反省はしていない)
〈PC〉:人間に快楽を与え続ける機械。モンスターボールの技術を人間に応用したものらしい。
チュメニ:シベリア鉄道の停車駅がある都市のひとつ
モスクワ:シベリア鉄道の終着駅がある都市


◆前回までのあらすじ

チュメニで子供の足跡を見つけた青年は、必死でストーキングした末に幼女を発見する。
しかし、突如として現れたフリーザーが幼女に襲いかかる! 青年激怒!
結局幼女を救うことのできなかった青年は、意気消沈してモスクワに向かうのであった……。
モスクワには幼女いるかな\(^o^)/

※「前回までのあらすじ」はイメージです。実際の内容とは異なる場合があります。



◆本編

『霧隠れにし』

 車窓から見えるのは相変わらずの雪景色だが、それでも数日前までのような、全てを否定する白さは大分薄れてきたように思える。遠くに見える山々の中には、所々雪がはげ落ち、針葉樹の鬱蒼とした深緑を覗かせているものもある。このさきモスクワを越えれば、ヨーロッパとの国境も目と鼻の先だ。
 間もなく終点モスクワ、モスクワです。ご降車のお客様はお手回り品をご確認の上、お忘れ物のございませんよう……。
 欺瞞に満ちた車内アナウンスを、青年は憮然として聞いた。
「終点、か……」
 そんなものが、一体どこにあるというのだろう。この紅い電車は、今度はモスクワ発ウラジオストク行きの便として、すぐにまた発車するのだ。終着駅が始発駅に代わり、終わりが始まりにすげ替えられるだけ。いつか全てが摩耗し動けなくなるときまで、この無目的な往復は機械の惰性によって永遠に継続される。それを厭って途中下車した少女は、冷たい氷に閉ざされて死んだ。ならば、これから終着駅に降り立つ自分とタオも、彼女と同じ末路を辿るのか、それとも――。
 こんなことを考えるのは馬鹿馬鹿しいな、と青年は思った。昔は(と言っても数年前だが)こんな無意味なことは考えもしなかったものだ。時が経つほど、自分がどんどん矮小で、煩雑で、非合理的な思考系に陥っていくのが分かる。生まれたばかりの頃は、夢さえ見ることがなかった――初めて夢を見て、驚いて飛び起きた時の思考の混乱を、彼は今でもはっきりと思い出すことが出来る。自分では制御できない無意識下でのメモリの氾濫、それを〈夢〉と呼ぶのだと知ったのは暫く前のことだが、それを経験するたびに、零と壱の狭間の明るい場所から論理が零れ墜ちていく速度は、みるみる増している気がする。
 青年は、向かいの座席で静かに寝息を立てている相棒のヤミカラスを見た。彼がこんなに頻繁に〈夢〉を見るようになったのは、たぶんタオに出会ってからのことだ。
〈夢〉のなかで、彼は浅瀬の水場のような場所をどこへともなく歩く。何を目指しているのかは自分にも分からないが、足首まで浸る温い海水と、足裏に触れる湿った砂の柔らかさは心地よく、次の一歩を感じたいがために彼は足を踏み出す。ときどき何かを思い出しそうになったり、何かを見つけられそうな予感に捕らわれたりすることもあるが、大抵何事もなく夢は覚めてしまう。
「マスター……、起きてたのですか」
 ぼんやりした声に呼ばれて青年が我に返ると、今しがた眠りから抜け出たばかりらしいタオが、寝ぼけ眼で彼を見上げていた。
「おはよう、タオ」
 と言っても、今が何時なのかは判然としない。窓の外はぼんやりと明るいが、太陽は寒々しい灰雲に覆い隠されてしまっている。おはよう、こんにちは、こんばんは、タオもどれを取って良いのか迷ったのだろう。彼女は何か言おうとして、迷ったように一寸首を傾げた。
「一応、おはようございます、にしておきます」
「もうじきモスクワだ。よく眠れたか?」
「ええ。とても」
 そう答えたきりタオが窓の外を見始めたので、青年は少し考えて、自らも車外に目を遣りながら訊いた。
「眠るとき、どんな夢を見る?」
「夢ですか? あまり見ませんが、でも――」
 タオは、目前を流れていく凍った大地に視線を落としたまま答えた。
「目が覚めたと思っても、生暖かい暗闇から抜け出せないことはよくあります。そのうちに闇の真ん中が開けて、光が差し込むようにして朝が来ます。もしかしたら、あれは夢なのかもしれません」
 青年は、タオと出会ったときのことを思い出した。モンスターボールから出られずに死にかけていた彼女は、青年によって助け出されたとき、骨と皮ばかりに痩せこけて震えていた。ボールのなかに詰め込まれていた熱くも冷たくもない闇の記憶が、未だにタオの夢のなかに居座り続けているのかもしれない。
「まだ怖いか?」
「少し……でも、平気です」 
「そうか」
 ぼんやりと青年は言った。
 タオは強い。それは結構なことだ。これからさき悲しい出来事や悲惨な光景に出くわしても、彼女だけはくずおれずに立ち続けてくれたらいい。それならば自分はどんな残酷な選択もすることができる。彼はそんなことを考えながら、電車が辿る線路の先を見た。それまで雪に煙っていた灰色の街並みが、いつの間にか随分近く見えるようになっていた。
 ユーラシア最大の都市、モスクワ。かつてはトレーナーのジムが設立されるほどの大都市だったが、ジムを有する都市のなかでは〈PC〉の蔓延がもっとも進行している場所のひとつだという噂もある。実際、遠目に見える建物はどれも冷たい色に染まり、灯りのない窓からは空虚ばかりが覗いていた。チュメニに比べて積雪こそ少ないものの、不気味な空白は街のいたるところで息をひそめ、見る者に寒さを感じさせる。悪寒と言ってもいい。
 駅のホームに降り立っても、その印象はほとんど変わらなかった。ウラジオストク行きの便となった紅い電車が去ってしまうと、単純な寒さとは質を異にする言いようのない寒気が、青年の身を切った。ほんの一瞬だけ、もう一度あの電車に乗り込み、暖かい無限の往復に身を委ねてしまいたい誘惑が首をもたげるが、彼に残された合理性の名残はそれを強固に拒絶するのだった。
「寒くないか」
 肩にとまっているタオに青年が訊ねると、彼女は黙って首を横に振り、主人の耳に羽根をそっと押しつけた。漆黒の羽毛を伝って届く温もりが、彼の身体を固くしていた悪寒をじくじくと溶かした。
「飛びますか?」
 肌を寄せたまま、タオが青年に指示を仰ぐ。
「いや、まだ当てがない。しばらく二人で歩いてみよう」
「誰か見つかるでしょうか」
「どうせ見つからない、って言いたいんだろ」
 青年が訊くと、タオは彼からそっと目を逸らして答えた。
「……正直、見つからなければいい、と思っています」
「そうか」
 静かすぎる街並みを、青年は見るともなしに眺めた。肩のタオは、きっと昏い眼をしているのだろう。彼女の声は、遺棄された悲しみ、暗黒に取り残された絶望、緩やかに近づく死への恐怖、あらゆる切ない感傷を冷たい空気に拡散させて消えていった。後には沈黙だけが残った。
「……すみません」
「誰もお前を責めやしない」
 青年はそれだけ言うと、薄く積もった雪の上を、街の中心地を探して歩き始めた。彼女を抱きしめてやれない嫌な冷静さ、それに彼女に分けてやれる体温を持たない冷たい身体が、青年の思考を暗屈とした深みに飲み込んでは両足を重くさせた。
 駅のロータリーをはずれて目抜き通りに出ると、両脇に立ち並んだ物言わぬビル群が、青年の視界を圧迫した。ひび割れたコンクリートの壁は退廃を感じさせる落書きで埋め尽くされ、窓という窓のガラスはほとんどが割れ砕けて、冷たい外気を屋内へと招き入れている。かつて確かにあったはずの繁栄の名残は、一際巨大なビルの頂上に設けられたキリル文字のネオンだけだった。だが、今はそれさえも輝くことを忘れ、くすんだ色のダイオードは寒空に手を伸ばしたまま、死の沈黙に耽っていた。
 濃い雲の向こうでは太陽の輝きが衰え、暗闇の粒子は徐々にその密度を増しつつあったが、割れずに残っている窓ガラスの向こうからも、閉ざされたままの鉄の扉の向こうからも、人間の生活感のようなものが匂ってくることは決してなかった。ただ〈PC〉のなかで眠る人々の希薄すぎる息づかいだけが、青年の耳に微かに届いていた。
「人間の足跡が、ありませんね」
 タオが遠慮がちに、ぼそりと零すように言った。
 彼女の言う通り、うっすらと雪の積もった道路にはどこにも人の足跡らしきものが見当たらない。その代わりに、異形種のものらしき様々な大きさの足跡が、歩道も車道もおかまいなく縦横無尽に刻み込まれていた。
「異形種は、やけにたくさん棲んでるようだな」
「はい、感じます。どこからか、こっちを見ている……」
「話の通じる奴らばかりじゃない。いきなり襲われたら、お前を守り切れるかどうか分からない……注意しておいてくれよ」
 何気なくそう言った青年は、突然後頭部を柔らかいもので叩かれ、面食らった。慌てて周囲を確認する間もなく、むくれ顔のタオが主人の肩から凍った地面に飛び降りる。どうやら犯人は彼女らしい。
「いきなり何するんだ」
「ちょっと頭に来ました」
「何がだよ」
「知りませんっ」
「おい、今は口論してる時じゃ……」
 そこまで言って、青年は口を噤んだ。
 背後に何かの気配。ゆっくりと建物から現れ、凍結したアスファルトを踏みしめる野生の足音。タオからはその姿が見えているのだろう。彼女もまた、険しい表情で青年の後方を見つめていた。
 しかし、まるで二人の緊張を嘲笑うかのように、それは意外なほど理性的な声を発した。
「穏やかじゃないわね――」
 青年が咄嗟に振り返ると、静かな街を染めようとする暗闇の隙間に、一人の異形種がすらりと美しいシルエットで佇んでいた。
「べつに取って喰いはしないわ。そんな風に身構えるのはやめてよ」
 青年よりも背の低い彼女は、妖艶な笑みをその顔に浮かべながら、なおもこちらに歩み寄ろうとする。すると、タオがやけに素早い動きで青年の前に飛び出した。
「ニドリーナ、ですね」
「あら、あなたヤミカラス? 珍しいわね。それに、後ろのお兄さん……あなたのご主人様?」
 鮮やかな空色の体毛を揺らせて、彼女はタオと青年とを見比べた。
「ああ、俺たちは……」
「私たちは〈PC〉に捕らわれていない、野生の人間を探しているんです」
 青年が話そうとするのを不意に遮って、タオが滔々と語り出した。眉をひそめて怪訝な表情を作る青年を無視し、タオはさらに言葉を続ける。
「ウラジオストクからシベリア鉄道でここまでやって来ましたが、主要都市はどこもほぼ全滅でした。モスクワならもしや、と思っていたのですが、どうやらあまり期待はできないようですね」
「人間なんて探してどうするの。あいつらなら、何ヶ月か前にどこかへ逃げていったわよ」
 彼女が興味なさそうに語った言葉に、青年とタオは思わず顔を見合わせた。
「それは、どういう意味ですか」
「どうって、そのまんまの意味だけど……ねえ、それより寒くない?」
「数ヶ月前には、まだ人間が住んでいたのか」
 青年はなんとか情報を引き出したかったが、無駄だった。彼女は、自分に興味のないことには極力関わらない主義らしい。質問を重ねる二人が鬱陶しくなってきたのか、ニドリーナは前髪をいじりながら面倒くさそうに言った。
「ねえ、もう日が暮れるわ。もっと話がしたいなら、私たちの〈アジト〉にいらっしゃいよ。リーダーは、あなたたちをきっと歓迎するわ」
「リーダー? あなたのマスターのことですか」
「ふふ、残念。私たちにマスターはいないのよ」
 熱心な好奇心を惑わせることに愉しみでも見出したのか、彼女はタオの疑問をはぐらかすと、眼を細くして笑った。
「もったいぶらずに話してくれ。頼むよ」
「気になるんなら、一緒に来ればいいわ」
「マスター、どうします?」
 タオが、明らかに苛ついた表情で青年に訊いた。その眼は「マスター無視すべきです」と言っている。深読みすると「危険だからやめましょう」とも聞こえる。
 だが青年は、この成果のあがらない旅にいい加減うんざりしかけていた。モスクワでさえこの有様なのだ。これから踏み込むことになる中欧地域はもちろん、その先にある旧先進地域の大都市でさえ、どのような状態に陥っているのかは想像もつかない。彼にとっていま何よりも必要なものは、情報なのだった。
「……いいだろう。その〈アジト〉とやらに連れて行ってくれ」
「オーケイ、ついてきて」
 タオが不満の声を漏らすのを横目で眺めながら、ニドリーナは二人の先に立つと、その口元に艶やかな微笑を含ませた。
「アナスタシアよ。よろしく」

          *

 夜の底を這うように流れ出した霧は、モスクワの街に厳しい寒さを運んできた。星明かりも灯影もない真っ暗な街路を歩くと、鋭く冷えた水の微粒子が纏わりついて、体中をしっとりと湿らせていく。
 青年は、すぐ前を黙って歩くタオの羽毛が濡れそぼり、どこからか零れてきた光を映しては夜色に輝くのを気にしていた。この土地は、彼女の生まれ故郷よりも随分寒い。平気な顔をしているが、きっとひどく寒いに違いない。
 こんなとき一体どうしてやればいいのか、どんな声をかけてやればいいのか、青年には分からない。人は、それを本能的に知っているものなのだろうか。それとも生きるなかで学んでいくものなのだろうか。タオに出会ってからというもの、自分が驚くほど何も知らないことに気付いて愕然とする機会が増えたように思う。
 アナスタシアと名乗ったニドリーナは寒さが苦手らしく、霧が出始めてからはめっきり口数を減らし、ろくに後ろも顧みずに歩調を早めていた。
「ああ、今日は一段と冷えるわね……早く春が来ないかしら」
 たまに零す愚痴は、後ろの二人に話しかけているのか、それとも独り言なのかよく分からない。口を開けば余計に寒いだろうに、それにまだ春は遠そうだ、そう思ったが、青年は何も答えず黙っていた。寒々しい霧に包まれていると、まるで時間の感覚が麻痺していくようだった。確かに春に向かってはずの季節はいつの間にか動きを止め、絶え間なく寒空から生み出される濃霧が、無色の冬を永遠にこの場所に留めておくような気がした。
 しかし、霧中の散策は唐突に終わりを迎えた。幾度目かの角を曲がった途端、アナスタシアが安堵の息を吐いたかと思うと、青年の視界に暖かい灯りが唐突に飛び込んできた。近づくにつれ徐々に霧の中から輪郭を露わにしていくその建物の自動扉には、大きく〈PC〉のロゴが描かれている。
「ポケモンセンターか……」
 他の光源が一切無いなかで、場違いなほど派手な色彩の建物だけが煌々と明るい様は、どこか浮世離れして見えた。アナスタシアが近づいたことで自動扉が開き、〈P〉と〈C〉の文字が左右の壁に吸い込まれて消えると、代わりに懐かしさすら覚える暖かな空気が、外気に混じり込んで霧を散らした。
「設備が整ってて便利なのよ。さあ、早く入りましょ。寒くてかなわないわ」
 身震いしながらセンターに駆け込むアナスタシアに、タオと青年が続く。
 薄いガラスの扉を隔てた先に広がる空間は、さっきまでの霧にまみれた暗い夜とはあまりに懸け離れていた。ほとんどの施設が同じ構造から成っているポケモンセンターは、正面に見えるカウンターの向こうに女医の姿がないことを覗けば、在りし日の様子と少しも変わるところがない。暖房は部屋の隅々まで行き渡り、暖色の電灯が空間すべてを柔らかく滲ませていた。
「アナスタシア、遅かったな」
 カウンターの奧から、透明な声と共に、小さな異形種が現れた。紅白のツートンカラーが目に鮮やかなビリリダマ。彼女は赤毛のショートヘアを弾ませながらカウンターに飛び乗ると、青年とタオをじろりとねめつけた。
「誰だ、こいつら」
「この人たち、人間を探しているんだって。変わってるでしょ。面白そうだから、連れてきたのよ」
 アナスタシアが説明すると、ビリリダマは露骨に不審そうに額にしわを寄せ「ふうん」と呟いた。
「リーダーに会わせるのか」
「そのつもり。みんなは上の階?」
「ああ。イヴァンがボールを持ち帰ったんで、それを見てるんだよ」
「またイヴァン? あいつ、ボール探しだけは本当に得意なのね」
「その言いぐさじゃ、アナスタシアは今日もスカか」
「何よ。留守番のワルワラに文句言われる筋合いはないわ」
「ああ、そりゃ悪かったな」
 こうして見ていると、彼女たちのやりとりは人間のそれとほとんど変わらない。かつては人に使役されるか、さもなくば獣性に任せ野生に生きるのみだった異形種が、人間という抑圧を取り払っただけでこうも活き活きと自立を始めるものかと、青年は感心してそれを観察していた。すると、ワルワラと呼ばれたビリリダマの視線が不意にこちらに注がれ、次いで彼女の表情が訝しげに歪んだ。
「おい、後ろのちっこいの、大丈夫か?」
「タオ――?」
 青年の背後でタオが床に座り込み、苦しそうに肩を上下させていた。
「タオ、どうした」
「マスター、すみません……少し疲れただけです。しばらく休めば、すぐ……」
  タオは主人を気丈な目で見上げる。しかしその瞳は高熱に潤み、息を吐くたび小さな躯が小刻みに震えていた。
「ちょっと、どいてろよ」
 いつの間にか背後に立っていたワルワラが、何も出来ずに戸惑う青年を押しのけ、ぐったりしているタオの額に掌を当てた。
「こいつはヒドい熱だな。濡れたカラダでずっと歩いてきたせいだ」
「大丈夫です……問題ありません……」
「バカ言うな。クスリ飲んで、暖かくして、寝てなきゃダメだ。おいアナスタシア、ボスに許可取って治療器ひとつ動かしてくれ。アタシはコイツのカラダを乾かしておくから」
 ワルワラが指示を出すと、アナスタシアは「オーケイ」とだけ言って急ぎ足に階段を上っていった。彼女の足音が階上に吸い込まれて消えると同時に、青年はようやく我に返った。
「大丈夫なのか、タオ」
 ワルワラの細い腕に支えられたタオは、高熱に頬を赤く染め、固く目を瞑っている。主人の声が耳に届いているのか、それともただの譫言なのか、彼女は掠れた声で「大丈夫です、心配いりません」と繰り返した。その額に浮かぶ大粒の汗を拭ってやりながら、ワルワラは棒立ちになっている青年を振り返ってギロリと睨んだ。
「カウンターの後ろに乾いたタオルが積んであるから、とってくれよ」
「あ、ああ……」
 自分ではどうすることもできない以上、ワルワラの言葉に従う他ない。青年は歯がゆさのあまり拳を握りしめた。
 青年がワルワラにタオルを手渡したとき、アナスタシアを先導に、二人の異形種が階段から現れた。一人はオレンジの髪、頭に巨大な茸の被り物を乗せ、眼鏡をかけたパラセクト。もう一人は額にV字の羽根を置き、褐色の羽毛に覆われた、目つきの鋭いヨルノズク。
 青年には、彼女たちを目にしたワルワラの表情が、僅かに安堵の色に弛緩したように見えた。
「ボス! 治療器は動かせるか?」
「ああ、大丈夫だ」
 まなじりの鋭利さを崩すことなく、ヨルノズクが答えた。どうやら彼女がアナスタシアの言う〈リーダー〉であり、ワルワラの言う〈ボス〉ということらしい。彼女はワルワラの腕にしなだれかかって眠るタオを一瞥すると、左右に従えた異形種に向かって頷いた。
「アナスタシア、プラスコーヴィア、彼女を上へ運んでやってくれ」
「ええっ、また私?」
「アナ、隊長はそこの青年と話があるのであります。言うことを聞いて上に行くでありますよ」
 眼鏡のパラセクトは、露骨に不満そうなアナスタシアを妙な口調でなだめると、意外な腕力でタオを抱え上げた。そのままフラフラと階段に向かおうとする彼女を、アナスタシアとワルワラが慌てて後ろからフォローする。
「おいメガネ、ちょっとは気をつけろよな!」
「落っことしたら、どうするつもりなのよ!」
「案ずるより生むが易し、でありますよー!」
 騒々しく上階へ昇っていく三人の後を追おうとした青年を、ヨルノズクが翼で制した。
「聞いた通りだ。君に話がある」
「だが、あいつが……」
「彼女のことなら案ずるには及ばない。ああ見えてプラスコーヴィアは医療器のプロだ。衰弱による発熱程度ならば、夜が明ける頃には全快しているだろう」
 しばらく沈黙を置き、自分の言葉が十分に効果を発揮したことを確認すると、ヨルノズクは部屋の奥に設けられた応接ソファへと青年を促した。腰を下ろすと、ほどよいスプリングの弾力が返ってくる。丁寧に手入れされている。
「名乗るのが遅れたな。私はエカテリーナ。この界隈の異形種を束ねている者だ」
「……話とは何だ」
 青年は、言葉尻に苛立ちを隠さなかった。それは本当は自分への失望から来るものだったが、彼は特に釈明しようとも思わなかった。それほど苛ついていたのだ。エカテリーナはと言えば、表情を微塵も変化させず、青年の態度を淡々と受け流した。
「人間を探しているそうだな。アナスタシアから聞いたよ。結論から言うと、この街にもう人間はいない。もちろん〈PC〉に入っている連中は別だが」
「何ヶ月か前に、出ていったそうだな」
 関心のある話題を振られて、青年は一瞬だけ不機嫌を忘れていた。そのことに気付き、エカテリーナの話の巧さに舌を巻く。内心苦々しく思ったが、それを態度に出せば負けたも同然である。
「正確には四ヶ月と二十三日前だ。本格的な冬が始まる前に、〈PC〉を拒絶した人間の生き残りが数十人ほど、どこかもっと暖かい場所を探して旅立っていったよ」
「エカテリーナ、と言ったな。お前が追い出したのか」
 攻勢に出ようと発破をかけるが、エカテリーナは首をぐるりと大きく傾げただけで、気分を害した様子など一切露わにしなかった。
「人聞きの悪いことを言うな。我々はただ隷属を拒み、正当な権利を主張しただけだ。ただ、多少手荒い手段はとったがな」
「お前達は、一体ここで何をしているんだ」
「異形種が独自のコミュニティを形成しているだけで、悪巧み呼ばわりか? 我々は、ここで生きている。それ以上でも、それ以下でもない」
 そこで傾けていた首をようやく元の位置に戻すと、エカテリーナは少し考え込むような素振りを見せてから、「少し長い話を聞いてくれ」と断って再び口を開いた。
「我々は人間に隷属するうち、いつしか言葉を知った。言葉は思考を生み、思考は人間への従属に疑問を抱かせた。それでも人間と共有する〈絆〉とかいうあやふやな感情は、十分に我々を満足させていた。だから我々は人間の愛玩に甘んじていた。しかし――」
 エカテリーナは一瞬だけ言葉を切り、初めて表情を変えた。それは激しい激昂の表情だったが、その変化はまるで信号機のランプが切り替わるように劇的だったため、青年は映写機の映像を観るような、いささか白けた心持ちでそれを看取った。
「――しかし、先に裏切ったのは人間だった! 奴らは我々が与えるよりも大きな快楽を見つけた途端、我々を捨てたのだ。あの〈PC〉という退廃の棺に閉じ籠もった人間が、我々の前に帰ってくることは二度と無かった。取り残された我々は、待ち続けた末に、ようやく知ったのだ。人間が熱心に語った〈愛〉だの〈絆〉だのは、結局は詭弁、欺瞞、騙りでしかたかったということを――」
 エカテリーナの演説は、場の空気を支配するのに十分な抑揚を備え、意気揚々と続く。
「――私のかつての主人も同じだった。いつか主人が〈PC〉の蓋をこじ開け、再び私を抱きしめてくれる時が来ることを、私は長いこと信じていた。だが、どれほど待てども無駄だった。食料も尽き、いよいよ餓死を予感する頃になって、ようやく私は気付いた。奴は私を捨てた、もう奴が私に触れることは二度とない……。愕然とした私は待つことをやめて部屋を出ると、食料と仲間を捜した。みんな私と同じように、決して帰らない主の傍らに蹲り、餓えと寒さに震えていた。言うまでもなく、既に死んでいる者も大勢いた。だが、外で餓えていた我々はまだ幸運だった。私はあるとき、〈PC〉の側にモンスターボールが散乱しているのを見つけた。嫌な予感がした。恐る恐るそれを展開してみると、中から出てきたのは干からびた同胞の骸だった――」
 彼女の表情が、絶望、悲哀、決意、解放、そしてまた絶望と、目まぐるしく切り替わっていく。
「――ボールの中に閉じこめられたまま遺棄された異形種は、自ら食事をすることさえ許されず、暗く生暖かい無明の牢獄のなかで、徐々にその躯と希望とをやせ衰えさせ、それでも主人の帰りを最後まで信じながら……救われることなく、死んでいった!」
 エカテリーナ悲しみの叫びが、するどく部屋の空気を震わす。次に三拍置いて、彼女は青年の向こうを見透かすような遠い目をしながら、穏やかな調子に声色を収めた。
「――いまでも廃墟の奧から、中身の入ったボールが見つかることがある。それを残らず捜し出し、然るべき最後を迎えさせてやることも、我々の大切な仕事なのだ。今夜もイヴァンが同胞の遺骸を連れてきた。彼は雄のデルビルなんだが、空っぽでないボールが近くにあるとな、とても悲しそうな死臭がすると言っていたよ」
 そこでエカテリーナは話を区切ると、まるでお辞儀をするように深く頭を垂れた。さっきまで部屋に充満していた彼女の話し声は一瞬で虚空に吸い込まれて消失し、代わりにあまりに虚ろとしか言いようのない静寂が空間を席巻した。もしも千の聴衆がいたならば、彼女の演説は千の拍手と歓声を以て賞賛されたことだろう。
 しかし青年にとって、人間や異形種の心を動かすための説法など、茶番でしかなかった。
「それで……話とは何なんだ」
 自らの力説が暖簾を腕押すがごとく手応えを得なかったことで、さすがのエカテリーナも僅かに眉をひそめた。ようやく彼女の素の感情が表出した、というところだろう。
「エカテリーナ、お前の来歴は良く分かったよ。だが、お前は俺に同情して欲しいわけじゃない。そうだろう」
 虚を突かれたように黙っていたエカテリーナだったが、やがて満足そうな笑みを浮かべると、さっきまでとは違う、交渉者としての乾いた音色をその声に宿し、ゆっくりと喋り始めた。
「人間を弁護するほど愚かではないか、安心したよ。では単刀直入に言おう。無益な人間探しなどやめて、我々と共にこの土地に残ってくれないか」
「その理由は」
「君が、人間ではなく、むしろ我々に近い存在だからだよ」
 ときおりエカテリーナの顔には作り物の表情が浮かびかけるが、彼女はそれを押さえつけ、努めて素の表情を作っているようだった。演説者として生きてきた時間が強烈すぎて、彼女にとっては既製品の仮面こそが素顔となってしまっているのかもしれない。
「あの寒霧のなかを長時間歩いて、表情一つ動かさない……君の身体は、機械でできているんだろう」
 胸の奥で、何かがコトリと音を立てる。それはすぐさま高温を纏い胸を焼き始めるが、テーブルの端に目を落として押し黙る青年の眼にまで、その凶暴な明かりが漏れいづることは決してなかった。瞳の表面に微かな浮影さえ覗かせることなく、深い海の底をひっそりと泳ぎ行く魚のように、それは深奥の闇に紛れて消えていった。
「……沈黙は肯定ととるよ。寒冷に強い君のその身体は、我々にとって大変魅力的だ。もちろん君にとっての正当性もある。人間に作られたという意味で、君は我々異形種と同じなのだ。我々は共に、人間がいなければ存在さえ許されなかった身なのだから……」
「人間が俺たちの創造主、というわけか」
 青年が皮肉を言うと、エカテリーナは再び首をぐるりと回転させて、ほとんど逆さまになるまで傾けてしまった。それが深く考え込むときの癖らしい。彼女は首を捻れさせたまま、思案の表情を浮かべながら話を続ける。
「そのことを否定的に捉えているわけではない。かつて人間は神を殺した――それと全く同じ転換として、今度は被創造者たる我々異業種が、創造者たる人間の上に立つ番なのだ。そうは思わないか?」
「さあな。人間が滅びようが、異形種が繁栄しようが、俺には関係ない」
「ならば、なぜ人間を探す。なぜ奴らに拘るんだ」
「別に拘っているわけじゃない。頼まれたことをやってるだけだ」
 俺は結局フリーザーと同じようなことを言っているんだな、と青年は自嘲気味に思った。
「頼まれた、だと?」
「大事な約束なんだ。だから俺は人間を探している」
「律儀なことだ」
 彼女の口調は、いかにも理解しがたい、と言っているように聞こえた。
「それにお前は、俺が異形種に近い存在だと言ったが……それは違う。俺はただの模造品さ。人間の心も、異形種の心も、どちらも決して理解することはできない。だから、お前らの役には立てない」
 そう、模造はどこまで行っても模造でしかない。コピーがオリジナルに比肩することなど、どれだけ時間を費やしたってできはしない。だが異形種は違う。彼らは人間に創られたのではなく、自ら進化したのだ。彼らには人間と並び、ともすれば越えていく資格さえある。
「……勝手にしたまえ。だが、そう思うならば、あのヤミカラスはここに残して行くんだな」
「ああ、そのつもりだ」
「随分物わかりがいいじゃないか」
「あいつは……モンスターボールに閉じこめられていたのを、俺が助け出したんだ。それ以来、怖がってボールの中に入ろうとしない。これから先は、鉄道の分断された地域を歩いて横断しなきゃならない。ボールから出したまま同行させるには、あまりに過酷な旅だ。あいつを連れて行けば、また今夜と同じ過ちを繰り返すことになる」
 青年は回顧する。あのときボールを破壊して、そして彼女と出会った。それ以来、避けられない離別をどこか遠くに感じながら過ごしてきた。この無駄に頑丈な身体も、岩を砕く拳も、その予感を消し去るのに役立ちはしない。むしろ、それらに誤魔化され隠蔽される救いようのない無力さが、いつか本当に大切なものを壊してしまうかもしれない。そうなる前に、全て捨てていかなければならない。抱きしめてやることも、暖めてやることもできなかった。だから置いていく。それだけが、彼がタオにしてやれる唯一のことなのだ。
「賢明な判断を評価しよう。安心したまえ、彼女は我々の仲間として上手くやっていけるだろう」
 エカテリーナが、心底つまらなさそうに言った。彼女は再び冷静さを表情に纏い、ソファから徐に立ち上がった。しかし次の瞬間、彼女の仮面は再びその牙城を突き崩されることとなった。
「いやですっ!」
 突如として部屋に木霊した叫び声に、青年とエカテリーナはほぼ同時に顔をあげた。肩を震わせながら階段口に立ちつくしていたのは、上階で治療を受けているはずのタオだった。
「タオ、お前、聞いていたのか」
 青年が驚いて腰をあげるのと同時に、タオの後ろからプラスコーヴィアとワルワラまでもが顔を覗かせた。
「隊長、手落ちであります! 脱走であります~!」
「目を離したスキに、治療器から抜け出しちまったんだ!」
「ワルワラが居眠りをしていたせいであります! 責任問題であります!」
「うっせーぞメガネ! アタシは目を瞑って考え事をしてたんだよ!」
「ワルワラ、プラスコーヴィア、静かに。君、身体は大丈夫なのか」
 口々に喋る二人を制して、エカテリーナがタオに歩み寄る。しかしタオの視線はエカテリーナではなく、その後ろの青年に注がれていた。
「私、大丈夫ですっ。もう平気ですっ」
 瞳から溢れる涙を拭おうともせず、タオは青年を見つめた。
「二度とマスターに心配かけません。ボールにも入ります。だから私を置いていかないでっ」
 青年の身体を、タオの叫びが貫いていく。奥底で、深いところで、何かが胎動しているのが分かる。泣きじゃくるタオを見下ろしながら、青年は誰にともなく問う。
「……こんなとき、俺は何をしてやればいい?」
「君は、人間でも異形種でもないのだろう? ならば、そのどちらの真似をする必要もない。君の思った通りのことをしてやればいい」
 エカテリーナが答えた。彼女はV字の羽根飾りを整えながら、何かを思い出すような遠い目をして首をぐるりと回転させた。その瞳に、何かが輝いたように見えた。
 もう語る者は誰もいなかった。エカテリーナはどこか不機嫌そうに羽根をいじっていた。プラスコーヴィアは沈黙に耐えながら眼鏡を拭いていた。ワルワラは心配そうにタオを見つめていた。タオは何かを待ちながら黙って主人を見上げていた。壁の向こうで稼動する発電機の音だけが、静寂の底に低い振動を流していた。
「俺と一緒に来てくれるか」
 抱きしめることもせず、涙を拭ってやることもせず、青年は屈み込み、ただタオの頭をわしわしと撫でた。それだけで十分彼女の体温を感じることができた。掌に伝わる仄かな温もりは、青年の腕から全身を廻り、胸の奥深くにそっと染み込んで消えた。
 タオは涙目のまま微笑むと、満足そうに主人に頷いてみせた。 
 
          *

 翌日は朝から霧だった。昨晩と少しも変わらぬ冷たい霧は、モスクワの街の廃墟のコンクリートを残らず湿らせ、あらゆるものを仄暗さのなかに閉じこめていった。
 青年は掌の上のモンスターボールを見た。ポケモンセンターを辞するとき、エカテリーナから受け取ったものだ。紅白のツートンカラーは、昨晩出会ったビリリダマの少女ワルワラを思い起こさせた。彼女がてきぱきと対応してくれたおかげで、タオはすっかり元気を取り戻したのだった。
「怖くないか、タオ」
「少し……でも、平気です。また必ず外に出してくれるって、分かってますから」
 タオはそう言って、青年に笑いかけた。
 ボールが額に当てられる瞬間、彼女は怯えるように身を縮ませたが、その瞳には強い信頼の炎が燃えているように見えた。スイッチを押すと、中央の発光部から照射された赤い光が彼女の躯を包み込み、タオは瞬く間に輪郭を崩しながらボールの中に吸い込まれてしまった。それを掌で包むと、彼女の体温がじんわりと伝わってくるような気がした。青年はそれをしっかりとベルトに固定した。
「本当に行っちゃうのね――」
 背後から聞こえた声に青年が振り向くと、霧に紛れてアナスタシアが立っていた。
「リーダーから伝言よ。『近くに来ることがあったら、遠慮せず遊びに来たまえ』だって」
「お前も、あのヨルノズクの考えに賛同しているのか?」
 青年が訊ねると、アナスタシアは面倒くさそうに前髪をいじりながら、溜息をこぼした。
「難しい話は分かんないわ。ただ、みんなといると寂しくないから。それだけよ。でも――」
 少し間を置いて、彼女は青年の目を見て妖艶に笑った。
「でも、アナタと別れるのは、ちょっと寂しいかもね」
 青年は何も答えなかった。二人の間を冷たい霧が流れた。やがてアナスタシアは「じゃあね」と呟き、潔く青年に背を向けた。彼は去っていく彼女を暫くのあいだ見送っていたが、その背中はすぐに白くぼやけ始め、薄れる気配のない朝霧のなかに隠れてしまった。ベルトに結わえたモンスターボールに触れると、僅かな暖かかさが青年の指先をくすぐった。
 
〈了〉


次回、激動のルーマニア編、乞わないご期待
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