かんかんかん、と高い音が規則的に。
息が切れるのも構わずに、建築ウン年でも塗装がサボられる事はない、その灰色の階段を駆け上る。
ちらりと視界の端に恰幅の良さそうなおじさんを見かけて、会釈をしてから走り去る。
1、2、4、6、……見つけた。
404。
その扉を開いて、中に早速入ってみる。
「こ、ここが……」
ぜいぜいと息をつきながら見回せば、小さなキッチンが付いた十分な広い生活空間。
ベランダ付きで小部屋もあり、日当たり良好、床に軋みなし。
リビングを抜いて部屋は二つ、一つは和室で、一つは洋室。
小綺麗にはしてあるものの、やはりちょっぴり埃やら何やらは残っているが、その点含めても余りある!
何よりヤバイ、何がヤバイって洋室にあるあの大きくて柔らかそうなベッドが! ベッドがぁ!
さあ行くぜLet's Rocket Dive!
「うお、やわらけぇーっ……!」
飛び込んでみれば、深く包み込んでくるように弾力で応えてくるこのベッド。
両手を広げても端に届かないってなんぞこれ?
顔を押し付けたまま深呼吸をすると、新品独特の、他の空気に染まらない新鮮というより異質な臭いが入ってきた。
十分吸い込むと、そのまま仰向けにねっころがる。
あーきもちい。
「それにしても、よくこんな場所が空いてたよなぁ……」
もう一度深く深呼吸をしてまんまるの白熱灯を眺めながら、ぼんやりと今までの事を思い返した。
この部屋は今日から俺の城。
誰気兼ねなく寛ぐことが出来る、俺の城。
18歳になったのが、一ヶ月ほど前のこと。
独り立ちさせてほしいという子供の頃からの願いが通じて、両親はとうとう俺の一人暮らしを認めてくれた。
ただしちゃんとした部屋を先に自分で見つけることを条件として。
しかし、いくらなんでも費用は出してくれるといったって、無駄に負担をかけるのは俺の心労的にも良くない。
仕事のこともあるし、出来るだけ働き口がありそうなところで、なおかつそれほど高くなくて、俺の快適な暮らしが出来る場所……。
そう簡単に見つかるはずがないと思っていた。
思ってたんだけど、どうやら俺は運が良かったらしい。
かのタマムシシティのマンションに偶然空きがあって、しかもそこが格安の家賃で出されているなんて。
俺はまだ買われていない事を祈って、即座に電話口に番号をたったきこむ事になった。
結果、この素晴らしい部屋を格安で手に入れたのである。
両親にも詳しい話をしたところ認められたので、先に買ってくれたベッドだけがこうして送られてきたというわけだ。
それにしても、これだけ大きいベッドは元より、色々と一式揃えてくれるとは。
いずれ出世払いで倍返ししなくてはなるまい。
「……さて! 早速先に届いてる荷物の片付けでもするか」
とりあえず配置はまたじっくり決めるとして、生活空間だけでも作らないとな。
◇ ◇ ◇
「……っあー疲れたぁー……!」
ぱちん、と電気のスイッチを切って。
もう一度ベッドに身を埋めたときには時刻はあっという間に夜、片付けって本当に時間かかるのな。
知ってたけど、これだけ量があるとやはり親がいる時にどれだけ助かってたか分かるな。
「もう今日は眠る、か……」
疲れたし。
何より一度入ってしまうと、どうにもこのベッドは俺の睡眠欲を程よく促進してくる。
仰向けになって寝てしまうと、ぽっかり闇の中に開いたほの暗い光の輪に魅入られてしまいそうになる。
……ああ、疲れた。
でもその疲労感が、また何かやり遂げた感があって気持ちいい――って、こんな気持ちになるのはまだ早いんだけど。
(そういえば……あの管理人……)
ぼんやりとした眠りかけの思考の中で物切れのシーンが流れていくと、一つのシーンで回転が止まる。
それは些細なこと。
些細なこととして受け流したことではあったけれど、眠りかけの思考で考えるにはその程度の問題が一番いい。
(……なんだか、妙な感じだったような)
電話して問い合わせた時に感じた、妙な違和感。
何か向こう側に用事があったんだろうと思ってあの時は受け流したんだけど。
やけにテンションが高かったというか、何というか……俺も焦ってたからよくわからないけど、急いてる感じがした気もする。
入る前に顔合わせもした時は特に何もなかったし、始終にこにこしていたから、別に変な人とかそういうわけではないんだろうけど……。
(……何、だろう?)
気のせいか。
人の性格まで、まだ分からないし、色々と管理人という仕事は思った以上に大変な事があるのかもしれない。
住人への気配りとか……あー、そういえば明日にでも近隣については挨拶しておかないとなー……。
(……ねむ………ぃ……)
――
――?
◇ ◇ ◇
眠ったままの意識が、ぱちっと何かに弾かれて。
頭は半分すっきりしないまま、目だけが感覚を感じるより先に開いて、差し込む光を取り入れようとする。
後についてきた意識で見つめる視界には、差し込むきらきらとした朝の光が影に当たって溶けていた。
ああ、朝がやってきたんだなあ――
――影?
「……あ、やっと起きた。おねぼうさんだー、えへへ」
「……。……って、何ぃっ?!」
思わず布団を跳ね上げて、俺は見つめた。
昨日整理したばかりの部屋の、その中空に漂う『それ』を。
「みんなー、起きちゃったよー」
そう言って、その黒い影はふよふよと浮遊しながら部屋の向こうへと去っていってしまった。
残された俺はごしごしと目を擦る間もなく、掛けていた布団をその場で蹴り飛ばして意識を無理矢理覚醒。
「な、何だってんだ……?!」
ぐらりと頭が歪むけど、そんなものは無視、ひたすら無視。
両脚をベッドの脇に投げ出して、ベッドに手をついて勢いをつけて飛び降りて、そのまま――
――ふにゅ。
ふにゅ?
妙な感触を手に憶えて、俺はすっと視線を走らせる。
何故だか妙な悪寒を感じながら、ゆっくりとゆっくりと、肩口から視線を下へ走らせて。
「――えっち」
ぴしり、と自分の中の何かが欠けた気がした。
いつの間にか横たわっていたのは漆黒のローブがそのまま染め上がったような髪。
髪の先端だけがどこか奇妙さというか、禍々しさを感じさせるような紫と、ぎらつく紅い瞳の子供の感触が今この右手にあうあうあ――
「あ、セクハラだ!」
「幼女誘拐」
「その右手を離せぇ~♪」
慌てて右手を離して後ろを振り向いた俺に飛び込んできたのは、もっとワケのわからない状況。
……何だッ、こいつらッ?!
数人というべきか何というべきか、どいつもこいつも夜に出てきたらホラーとしか思えないような連中が宙に浮いてたり何してたり!
一匹だけ足を地につけているヤツが却って恐ろしくなってくる辺り、この光景の異常さが窺える。
……とにかく……!
「ここは俺の家だぞ?!」
「それ、違う違う」
即座に否定してくる宙に浮いたよく分からない生物一匹。
妙に青白いが、ちゃんと足と手がはみでてる割にしっかり地面に根をおろさない、つーか壁に斜めに立ってる。
「私達が先に棲みつき始めてたんだよ。後から来て居座ってるのが、アナタ」
「ですよねー」
「ねー」
斜めになったまま指差してくるそいつに、先程向こうへ飛んでいった影と、もう一つ浮遊物が頷く。
どうも尋常ではない事態であるというのは確かだが、寝起きから多少経ったことで俺の頭も段々働いてきた。
足がなかったり、妙に青白かったり、全員統一したかのように赤紫黒なんかの暗い色で統一してたり、何か亡霊みたいな気がするが。
なんというか、こいつらからはむしろ小悪魔みたいなものしか感じられない。
そこで、俺はピンと来た。
……そのテのタイプを見た事なんて、全くなかったけれど――ニュースを見てないわけじゃない。
「まさかお前ら、もえもんかッ!」
「ぴんぽーん」
ぼそりと呟いて、ベッドに寝そべっていた『それ』がふわふわと、そのゴーストタイプの群れへと戻っていった。
そうと分かれば大して怖くはない、幽霊話は苦手だがこいつらは幽霊とは違う。
無い知識をひねり出して、なんとか個体名を特定しようとする。
……壁に斜めに立ってるのはゲンガー、さっきから動かない二足歩行はサマヨール、宙吊りカルテットはゴース、ゴースト、ジュペッタ、ムウマ……か!
「って多すぎッ?!」
「アナタみたいなロリコンがいるからねぇ。独りじゃ危ないでしょう?」
「ちげーよ?! 俺健全だよ!」
「し○の涼とか持ってる奴が何か言ってるよ、おねーちゃん」
「おいちょっと待てクソ餓鬼、どこから見つけてきたそれ。アレは厳重にプロテクトを掛けて――」
「私達、ゴーストだよ?」
ああそうでしたね、そうでしたね。
「プライバシー守れよ?!」
「知らないよー、そんなもの。ゴーストには法律も試験も学校も関係ないんだよ!」
「ちっ、このッ……」
銀色のチャックでぱっくりと開いた服から顔を見せてけらけらと笑いながら、ジュペッタはくるりとその場で360度回転した。
駄目だ、やってらんねぇ。
まさかこの部屋がこんな状況になってるとは……いや、待てよ。
(……あの管理人の反応!)
「何かピンと来たところ悪いけど、私達がいることをここの住民は知らないよ?」
え、と思わず声が出た。
それじゃ、やっぱり大家さんは単純に俺の勘違いで、こいつらが棲みついていただけって事なのか。
「まぁ、ただし前の住民が首を吊っちゃってるけどね」
「……ああ、なるほど」
そういう理由だったわけだ。
ゲンガーはそのまま壁に垂直に上ると、ぐるりと反転して逆さまに俺の事を見つめてくる。
「おかげでこの場所は私達にとって棲みやすくなってねー。色々と集まってきたってワケだ」
「なんて傍迷惑な連中だ」
思わず呟かざるを得ない。
いくらゴーストだからって先住権を認めるわけにはいかない、そもそも金払ってるんだし。
「幼女の胸を揉んだ奴が何言ってるの」
「揉んでねーよ! 揉むまでいってねーよ、ほんのちょっと、不慮の事故で触っちゃっただけだろ?!」
「たけしはそのあついといきをふきかけるとあえぐかすみんのやわらかなむねにてをのばしt」
「てめえこのクソ餓鬼ッ、その本どっから持ってきた?! つーか朗読すんな!」
ああ、駄目だ、まともな話し合いが通じそうにない。
こういう奴らには、実力本位で思い知らせてやるのが一番。
半ば熱くなりすぎた雰囲気のある思考回路を引きずって、俺は部屋の隅っこに置いておいたちょっとした荷物を引っ張り出した。
確か俺の記憶が正しければ……
「あった!」
「おや」
「まあ」
「それは……モンスターボールだね」
その通り。
俺にはもえもんマスターになるなんて崇高な夢はないが、青春の1ページ的な意味で友達と一緒に一つだけ買った事がある。
これさえあれば、こいつらにも火を吹かせてやれるはず。
「捕獲するつもりなのー?」
「そうだ!」
せめて一匹でも捕獲すれば、どうにか状況を脱せられる気がする。
そう思って俺は、自分でもなかなか迂闊にも、にやにやと笑いながらボールを手で弄んでいるうちに――
「ゴース、やっちゃえっ!」
「らじゃ!」
奇襲。
突然飛びついてきた――というより、宙を漂ってきたその黒い体が、霧状になって視界を覆う。
「ちっ、はな……せッ!」
「やん♪」
無茶苦茶に手を振り回すと離れていく霧状のそれ、慌てて周りを見渡して。
その時に初めて気付いた。
右手にもっていたものが。
「ざーんねん。投げる前に奪われちゃったね」
くつくつと笑いながら、さも愉快そうにモンスターボールを、俺と同じように右手で弄ぶゲンガー。
はっきり言って完全に油断していたと認めざるを得ない。
気付いた瞬間に駆け出すと、その実体のない体めがけて突進する。
「はいよー、パス」
ぴっと山なりに投げ放たれたボールは、見事に灰色の体を持つサマヨールの大きな手の中へ。
慌てて反転する俺の目の前で、その長い腕を後ろ向きに回転させ始める、その視線の先は。
「サマヨールピッチャー、振りかぶって第一球! 投げましたっ!」
凄まじい勢いでスイングされたボールが、そのアンダースローから投げ放たれる。
ゴースのコールを受けながら飛んでいったボールが向かう先は、窓。
さらにその窓をタイミングよくムウマが、がらりと開け放って――解放されるのは、青空。
「すとらいーく!」
「あ、あああああああっ?!」
ぱちぱちと鳴る拍手の中、俺は慌てて窓に駆け寄って首を伸ばす。
モンスターボールは遠くの茂みの中に落ちてしまったのか、何処にいったのか分からない。
な、なんてこった……俺の青春の1ページが……。
「お……」
「お?」
「お前らあああッ!」
『きゃー♪』
遅れて沸いてきた怒りを声に全て乗せて叩きつけると、面白おかしな声を出しながらゴースト達はどいつもこいつも壁に引っ込んでいった。
ええい、馬鹿にしやがって。
全く。
「……ん?」
「……あ、あうう……」
ふと部屋の隅っこを見つめると、何故だか壁に入らずにふるふると震えている一匹のもえもんが目に入った。
ゴーストだ。
なんだか涙目になっている、そういえばさっきからこいつだけは空中でおたおたあわあわしてたような気が……。
騒がしすぎて目に入らなかったけれど。
「そ、その……ごめんなさい。みんな、ちょっと意地悪だから……。迷惑かけてしまって」
「あー……まあ、気にするな。お前が悪いわけじゃないからな」
あー、どれだけアレな集団でもまともな奴ってやっぱり一匹はいるものなんだな。
これがバランスっていうやつか。
「ち、違うんです……その……だから……だから……」
何が?
そんな事を思っていると、そのゴーストは後ろを向いて、びくびくと震える背中をこちらに向けた。
そのまま顔だけ振り返ると、怯えたような、小動物的な瞳で俺を見つめて。
「お仕置き、してください……」
「まともじゃねえッ?!」
だめだこいつら早くなんとかしないと。
唯一の良心がいたかと思った俺の救われた気がした心はどこかへ飛んでいってしまった。
「あー、その子は死ぬ前から生粋のドMでね」
「何その恥ずかしい過去」
いつの間にか壁からにゅっと出てきたゲンガーが、しみじみと呟く。
そんなに深刻な顔をされても、俺にはよく分からない。
て言うかさっきから『まだですか? まだ?』的な視線をゴーストがぶつけてくるんだがどうすればいい。
「死ぬ前からMのあの子は、激しい責め苦を望んでて……でも現実にはそんなものには耐え切れるはずもなくてね。
体が耐え切れずに、倒れてしまった」
「どんな表情をすればいいのか分からねーんだけど」
笑ったら怒られそうな気がするが、真面目に聞くのも馬鹿馬鹿しい気がする。
この微妙な感情を一体どうすればいいんだ?
ゲンガーはそのまま全身を壁から現すと、さらに神妙な面持ちで言葉を続けた。
「っていう設定」
「設定って何?!」
「いや、そこらへんはご自由に」
「創作かよ! っていうか結局作り物かよ?! ちょっとでも悲しい話だと思った俺の純粋な心返せ!」
「藤●まなとか持ってる奴が一体何を」
「もういいよ! もうそれはどうでもよくないけど、いいよ! ちょっと色々と――」
瞬間、今度は妙な音が聞こえてきた。
「な、何だ――?」
部屋全体に響き渡るように、外からがんがんと何かを打ち付ける音。
忙しないことだ。
ただ外で誰かが何かやってるだけかもしれないが、この状況でそんな悠長なことが考えられる筈もなく。
俺は起きたままの格好にも構わず、擦り寄るようなゴーストの視線を振り切って玄関に飛び出る!
そこには――
「あは、あはははははは、アハハハハハハハ!」
……気が狂ったように五寸釘をマンションの壁に打ち付けている、ジュペッタがいた。
「何やってんの?! ねえ、何やってんの?!」
「ごっすんごっすんごすんくぎー♪」
なんとか後ろから羽交い絞めにして止めようとするが、思った以上に力が強すぎて止まらない。
これがもえもんの底力ってやつなのか。
「一体何だってこんな事やってんだよッ?!」
「ここに住んでるヤツがむかつくから」
「やめて?! 俺の近隣関係にヒビを入れないでやめて?!」
一心不乱に打ち付ける五寸釘の先には当然のように藁人形。
さらに目線を引けば、既に無数に打ち込まれた藁人形があった。
あああああこの下のコンクリは一体どんな惨状になっているんだ?
そんな事をふと思っていると、さらに大きな音が隣から響いた。
「なんじゃあ、こりゃあ?!」
それは扉を開けた音――というより、蹴り放った音。
扉が吹っ飛ぶんじゃないかと思うぐらいの音と共に、何か人が出てくる。
黒のスーツにサングラス、俺より遥かに大柄なその姿は、俺でもわかる威圧感や風格を備えていた。
この人は、ヤバイ。
男の人は壁の惨状を見ると、ずんずんとこっちに向かって歩いてくる。
逃げようかとも思ったが、足がすくんで動かないし、そもそも逃げたって何の解決にもならない――隣人なのだから。
やべー視線すげー怖えー!
「い、いや……これは俺じゃないんです! こいつが……」
こいつが、と俺は指をさした。
「……何いっとるんじゃ?」
――何もない、空間を。
「あれ?」
あれ?
よく見ても何もいない、目を凝らしても何もいない。
落ち着け俺、よーし落ち着け俺、深呼吸して状況を確かめよう。
さっきまでいたはずのジュペッタも誰もいない、五寸釘と藁人形だらけの壁、そして俺は当然無実無根、証拠だってありゃしない、その証拠に何も持ってないんだし。
何も――
「あれあれ?」
その、左手には、
「おい、兄ちゃん……お前」
しっかりと握られた、藁人形と五寸釘が。
あれあれ、あれ?
……まさか、これは。
「ちょっと来てもらおうか」
がしりと、その野太い腕で掴まれて地獄への階段を一段飛ばしで駆け下りる。
「は、謀ったな! ちくしょおおおおおおおおおッ!!」
遠くでくすくすと笑い声の重奏が、聞こえた気がした。
最終更新:2008年01月12日 23:26