粗悪人、そして

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  ──あく 【悪】   1.よくないこと。天災・病気などのような自然的悪、人倫に反する行為などのような道徳的悪の総称。     正義・道徳・法律に反すること。仏教では五悪・十悪などを立てる。   2.みにくいこと。不快なこと。   3.おとること。   4.たけだけしく強いこと。   (『広辞苑・第六版』(岩波書店)より引用)       * * *  夜は更けて、間もなく丑三つ時も過ぎようとしていた。 ほとんど真上にあった半分の月も、今ではかなり低いところまで傾いていて、窓枠から見える景色の中に収まっている。  そこは、とあるアパートの一室だった。 窓辺に凭(もた)れていた彼は、血のように紅い葡萄酒が入ったグラスを、慣れた手付きで軽く揺らす。 紅玉のような雫が硝子の曲面上を踊るように滑っていく。白皙の指が、グラスの括(くび)れを撫でる。 そんな気取った真似は、余裕ある大人がやれば様にもなろうが、齢十にも満たないような『少年』がやったところで、所詮は気障なお遊戯にしかならなかった。  少年──アルス・ソロモニアは嘆息した。 大して綺麗とは言えない住宅街の夜景を眺めることにも倦んで、彼は葡萄酒を一口含み、喉へ通す。 その小さな身体にたちまち酒精が巡りゆき、意識がじんわりと酩酊してくると、漏れ出す吐息が微熱を帯びる。 身体が火照って自然と脱力していくが、しかし、今の彼にとっては何故か、それはあまり心地良いものでもなかった。  凭れている壁は、ひたすら無口で、硬く冷たかった。 クソったれな壁め。お前は一体何が出来るんだ。そんな風だからお前はいつまで経っても壁のままなんだよ。 酒精にやられた脳が、ひたすらに理不尽な罵倒を心の中で吐き出す。続けているうちに、段々と興が乗っていく。  ──クソったれと言えば回顧する最近のこと。 この貧弱な餓鬼の身体に変わり果て、あまつさえあらゆる『能力(ちから)』が霧消してから早くも数ヶ月が経った。 魔力も一切使えないものだから、あの異空の館に帰ることも出来ず、気付けば隠居となんら変わり無い有様にまで落ちぶれている。 この貧相な借家は、いつかに街で会ったとある人間のものだ。人間の家の下で暮らすことなど心底虫唾が走ったが、 既に野垂れ死にかけていたこともあったせいか、当面の良い召使いを得たと思えばそう悪くはない──と、その時は思っていた。  思ってしまった。致命的な誤算だった。あの規格外暴力指数は。 そう、あの偉そうに踏ん反り返った赤毛のアマ。名は忘れた。苗字が八だか九だか、十だっけ。下の名は、ヤゴだかタコだか。そんな感じのやつだ。 片目には眼帯。きっと節穴だと露見するのが怖いから隠してやがるんだろう。 ただでさえ幸薄そうな風をしているくせに、何がそんなに腹立たしいのか、いつも眉間に皺まで寄せてやがるものだからもう存在自体が大殺界。  そして兎角、暴力の権化だ。 何やら毎晩壁の向こうから「メキィ」とか「バキィ」とか悲鳴みたいな怪音がすると思っていたら、あいつが寝返りついでに目覚まし時計を破砕している音だった。 どうやら重度の睡眠時暴力症候群のようだから、俺が今作った完全治療法マニュアルに従い、 檻に入れて海底六万メートルに沈めるか、或いは砂利道に寝かせておいて地均しの道具として使うべきだ。  それぐらいにあいつという存在は暴力だ。 きっと前世は金棒で、来世は黒色火薬に違いない。早急に転生して爆ぜろといつも思う。  と、放っておけばいつまでも吐き出していそうな罵詈讒謗の数々は、酒の勢いが多少あるのも事実だが、しかし、彼は素面でもあまり変わりはなかった。 街で行き倒れかけていたのを救われた上、居候まで受け入れてもらったというのに、彼はその恩義など微塵も感じていないらしく、 家主と顔を合わせる度に内心で罵り放題しては、「正確にやつの身体を発破するには何gの爆薬が必要だろうか」などといったことを考えているのである。  その当の家主は既に就寝しているようだが、彼はこれ幸いと言わんばかりに、 彼女のいる寝室の方へ向けて悠々と足を伸ばした。それからもう一口、葡萄酒のグラスを仰ぐ。  ……いくら力が使えなかったからとは言え、この俺の頭に拳骨を喰らわせやがったのは、 今まで生きてきた三百年の中でやつが初めてだ。ひっく。 力を取り戻ひたら、絶対に拳骨を返してやう。 準一級魔導技師特製の装甲義手は、てめんの拳の数倍は硬いろ。 しょた×ショタ☆時価三億パーンチ。  突然、何もない虚空に向けて、拳を突き出した。 その瞳は、二億光年先にあるブロッコリー星人の盆踊り大会準決勝戦を見ていた。 どうやら、とうとう完全に酩酊しきった脳髄が言語中枢を狂わせ、更にはあらぬ幻覚を見せているようだった。 「げ、げ、げげげの……」  やがて意味もなく立ち上がり、未知の宇宙言語を呟きながら部屋の中を徘徊し始める。 段々呼吸するのが愉快になってきたらしく、横隔膜を痙攣させながら笑みを浮かべる。 緑黄色野菜秘奥義<とりあえずマヨっとけ>が炸裂したのが見えて、オランウータンのように喝采する。 そこから勝利のダンスを共に踊ろうと、大きく前に一歩足を踏み出した瞬間、彼の視界が反転した。  その足は、床のチラシを踏んでいた。勢いよく体勢が崩れる。 強烈な鈍い音が響く。後頭部を強打、視界が一瞬白く染まる。 くぐもった呻き声をあげながら頭を抱えて転げていると、 箪笥の角と脛が感動的な対面を果たした。声にならない断末魔が迸った。  それから、数十分が経過した後のこと。 白く燃え尽きた廃人が壁際にへたり込んでいた。 瞑目したその顔は何故かいやに満ち足りていて、何かをやり遂げたような達成感が漂っている。  だが、やがてその瞳がゆっくりと開かれ、数度瞬きをした。 記憶の混迷が見られ、自分が今まで何をしていたのか思い出すことが出来ず、ただ何となく頭が重い。  彼は虚ろな眼差しを窓の外へと投げ出した。 街中は、皆が死に絶えたように静かだった。透き通るようなその静謐に、彼は僅かばかりの心地良さを覚える。 もし自分がこの世界を支配できたなら、朝を滅ぼして永劫夜の続く世界にしよう。そんな気にさえなった。  かち、と、長針が時を刻む音が響く。 身体は重い倦怠感に包まれていたが、かえってそれが落ち着かなくておもむろに立ち上がる。 それから、窓に手をかけて、横に引く。室内に夜気がなだれ込む。 僅かに湿り気のある冷風が、彼の髪を弄んでいく。  彼はしばらくの間、そろそろ地に堕ちそうな半分の月をぼんやりと眺めていた。 そのうちに部屋の酒気は外へと追い出され、淀んでいた空気もいくらか鼻通りの良いものに変わっていく。 彼はようやく、窓を閉めた。意識は完全に醒めていた。  何故だか、彼に眠気が訪れることはなかった。 このまま外へと繰り出してもよかったのだが、もうじき夜が明けて人間どもが騒がしく活動を始めるであろうことを考えると、その気にはなれなかった。  どうしたものか、と思っていると、ふと、床に転げている市松模様の長方形の薄箱に視線が向いた。 縁にはabcだの123と言った英数字が連なっている。要するに、折り畳み式のチェスセットだった。 つい先日、そこらの雑貨屋から暇潰し用にと思って拝借していたことを思い出した。 彼がそれを拾い上げ、二つ折りになっている八×八のモノクロ盤面を開くと、中には白と黒の騎士団総勢三十二名が転げていた。  丁度良い遊戯だと思い、彼は盤面の上に駒たちを配置する。 当然のことながら、チェスとは二人零和有限確定完全情報ゲーム──つまりは相手がいないと始まらないものである。 この部屋にいるのは彼一人だけ。対戦人物の候補がいなかった。 家主が起きていれば候補になり得たかもしれないが、彼にとっては、その可能性は最初から排除されていた。  酔いが醒めたのをいいことに、また内心で不毛な罵倒が始まる。  ──あの暴力装置に物質を殴殺する以外の機能が備わっているかどうかが甚だ疑問であることは言うまでもないが、 もし万が一奇跡的にあれがチェスを打てるだけの知能を授かっていたとしても、その一局を最後まで無事に終えられる確率は、 何度計算しても、小数点以下に零が数億桁と連なった後にようやく一があるかないかにしかならなかった。つまり多分無理だ。 というのも、こちらが余裕綽々と追い詰めてチェックメイトでも掛けようものなら、あの核爆弾のような拳が全てを灰燼に帰し、 盤上の戦争がたちまちに現実のものへと変わるビジョンが脳裏にちらついて離れないのだ。  子供──そう扱われるのは癪だが──相手に盤面遊戯(ボードゲーム)程度で 実際ムキになるのかどうかはやってみるまで分からないし、そしてそうでないことを耳掃除ついでに祈るばかりだが、 僅かとはいえ致死のリスクを背負ってまであいつとチェスをする利点(メリット)は、第一世界から第七世界の果てまでを探しても全く見つからない。 誰がダイナマイトの前で炎舞道芸(ファイアーダンス)を踊るだろうか。  結局、彼は一人でチェスを打ち始めた。 白を一手、黒を一手。手を打つ度に思考を切り替えて、どちらにも最善手を置いていくが、先を読もうとしてもそれは結局自分の思考でしかない。 そこに勝ち負けなど無意味なので、どうすれば上手く引き分けに持ってけるかをシミュレートすることにし、それを黙々と進めていった。  月が段々と薄れ始め、地平線の向こうから陽が頭を出した。その頃になっても、未だどのメイトも訪れてはいなかった。       * * *  はっと意識が醒めた時、世は夕刻だった。 鮮やかな橙色をした斜陽の光が、部屋の中に満ちている。  ──くそ。寝ちまったのか。  アルスは頭を掻きながら気だるい身体を起こしたが、その時、自分の身体に毛布がかけられていたことに気付いた。 それが誰の仕業か即座に推測できた彼は、忌々しげに吐き捨てる。「……余計なことしやがって」 寝起きのむくれた表情も相まって、ひどく苛立たしげにその毛布を取り払うと、しばしそれを横目で睨み付ける。軽い舌打ち。  それから、窓の外へ視線を逸らした。 自分が惰眠に沈んでいる間に、一日が終わりを告げている。盤上の駒は全て斃(たお)れていて夢の跡。 何となく自分だけが世界から取り残されたような感覚がして、彼は一抹の物寂しさに似た何かを覚えた。  昨晩の悪酔いがまだ少し抜けきっていないのか、頭に鉛の塊を乗せているような気分だったが、 これ以上怠惰な空気を貪る気にはなれなかったので、部屋から出て一度顔を洗う。 鏡で見た自分の顔と身体は、やはり何度見ても、幼い少年のものでしかなかった。  一通りを終えて居間に戻ると、彼は酷く空腹していることを思い出した。  以前までは、七日に一度、ひとかけのパンと一杯のワインを口にすれば生きていける身体だったのに、 このしみったれた人間の餓鬼の身体は、すぐに腹は減るわ喉が乾くわ疲れるわで、全く不便極まりない。 このままでは動くことさえも億劫になりかねないので、まずは腹に何かを詰めることにしよう。そう思い立つ。  彼は冷蔵庫の前に椅子を引きずっていって、その上に乗ってから扉を開いた。 暫く物色し、一番手前にあった袋を引っ張り出してくる。『えびグラタン』──表面には、そう大きく印字されていた。 それを、今となっては慣れた様子で、電子レンジと呼ばれる箱の中に放り込み、スイッチを押す。  腕を組みながら、その場を動かず、箱の中をじっと見つめる。 別段、グラタンが出来上がるのが待ち遠しいわけではなく、その意識は箱の方に向いていたのだ。 今までの数百という年月を、魔術が主となる環境で過ごしてきた彼にとって、家電のような生活科学技術は、まさに未知のものであった。 つい最近まで──といっても数十年単位だが──人間なんて未だに木を擦り合わせて火を起こす生活を営んでいると思っていたものだから、 このように摩訶不思議に進歩した人間文明に間近で接した時、密かに驚きを禁じえなかった。  ──意味が分からない。何故、魔力を使わず、火を熾したわけでもないのに、物が温かくなるのか。 科学など所詮は人間の浅知恵だと思っていた時期もあったが、正直、これは想像以上だった。 原理が気になるところだが、ここの家主その正体を六王番外<馬鹿王ボウリョーク>が知っているとはあんまり思えないので、他の誰かに聞こう。  とは言え、この俺にまともに語り合える人間の知り合いなどそうは居ない。別に欲しくもないが。 ただ、あいつならばもしかしたら詳しく解説してくれるかもしれない。 あの街にいた偏屈な機械技師(メカニック)。科学についてはまさにうってつけだろう。  しかしただ一つ難点なのが、俺があいつの話を理解するにはあと脳味噌が二つか三つほど必要なところだ。 確か二回程会って話をし、分厚い科学書記録(レポート)まで貰ったことがあるが、あいつの言うことを全て理解すると俺は恐らく解脱する。 それぐらい難解だ、少なくとも俺にとっては。  原理を聞き出せたら、爆弾でも壊れない頑強さを備えた人間サイズの電子レンジを発注したいところなのだが、 果たして俺はそこまで辿りつけるだろうか。涅槃に至ってしまわないだろうか。 そんなもの何に使うのかなんて、言うまでもない。  俺の推測が正しければ、これであの暴力村の村長を正しく爆発に導けるはずなのだ。 この前ゆで卵を作ろうとしたときにそうなったという実例がある。 やつの脳味噌は卵白みたいな何かと空気で出来ているはずだから、きっと同じことが起こるはずだ。 この純然たる真理に基づいた不確定性の入り込む余地のない、そう、まさに完璧なプロセスが完成したと言える。 ま、詭弁ですがね。と、偏屈機械技師の口調を真似てみる。少し賢くなったような気になれる。  空想を一区切り。 たった数分でも、ただこうして立ちんぼをしていると時間が長く感じられた。 彼は何となく、冷蔵庫の方を一瞥した。  ──それにしても、人間というのは食べ物を全て冷凍しなければいけないという規律でもあるのだろうか。 奇怪なことに、この家にある食物はことごとく凍らされているのだ。 氷河期に備えでもしているのか、或いはここの馬鹿家主が実は氷の能力者なのか、一体何なのかまるで分からないが、 とにかく、野菜の彩り、肉の旨み、酒の香り等といった、魔ノ眷属と人間が共有し得るであろう極々希少な価値観が絶滅してしまっている。 別に、クソったれたホモサピどもと分かち合いたいものなど俺には蝿の糞ほども無いが、やつらは確実に大きな損失をしているように思える。 人間どもの持つ技術の高さはそれなりに認めるが、その暮らしぶりが悲惨であるということは、旧石器の時代からあまり変わりはないのだな。至極、哀れだ。  そうして無尽蔵の無駄思考を重ねているうちに、ようやく箱から電子音が鳴った。 彼は両手に鍋掴みをはめると、表面がぐつぐつと煮えているそのえびグラタンを、箱の中から取り出し、テーブルに置いた。  着席し、スプーンを握り締める。 「相変わらず、貧相極まりないな」  呟きながら、グラタンの中に入っている小さな海老をスプーンで掬い上げた。 彼はそれを初めて見た時、そのあまりの小ささに、何かの幼虫が紛れ込んだのではないかと驚いたが、 よくよく見てみるとそれは海老のような形をしており、そして実際に海老だった。 こいつらはこんな屑みたいな海老しか食べたことがないのかと思うと、一層人間が哀れになった。  兎角文句の尽きることがない彼であったが、他にどうしようもないので ──何しろ家主居候揃って家事の成績がオール『がんばりましょう』なのだから──しぶしぶそれを食す。  美食家を気取るつもりもなかったが、このあまりに殺風景な食事をしていると、何かがすごく嘆かわしい。 この安っぽいプラスチックの容器は犬の餌を彷彿とさせるし、表示通りに温めたはずなのに真ん中付近がまだ少し冷たい。 こんなものを毎日食っていれば、あんな鬼のように荒んだ暴力族が出来上がるのも道理だ。 思いながら、彼は綺麗に完食していた。  「戴きます」も「ご馳走様」も当然その口から出ることはなく、彼は黙ってナプキンで口を拭くと、水を一杯口に含む。 食後酒が出るわけもなければ、器を下げる従者もここにはいない。アルスはうんざりとした面持ちで席を立った。 爪先で背伸びしてようやく届く流しの蛇口を捻って、水を出す。終始仏頂面だったが、後片付けの手付きは皮肉にもいくらか慣れたものだった。  ──嗚呼、何なのだろうか、この胸を掻き毟りたくなるようなおぞましさは。 こんなことを続けていると、大事な何かを無慈悲に削り取られていくような気がする。 料理を運ぶのは給仕の仕事だし、食器を洗うのは家政婦の役目の筈だ。あゝ、あゝ、気が狂いそうだ!  そう心の中では堪らなく嫌でありながらも、家主の手にかけさせるのはもっと気に障るらしく、 まるで自身の痕跡を極力隠滅するかの如く、彼は身の回りのことは出来る限り自分で行うようになっていた。 時たま、洗濯機に殺されそうになったことなどもあったが、それでも出来ることは徐々に増えてきている。  吐き出される呻き声混じりの長い溜息は、流水の音と重なって妙な調和音を奏でていた。 最近実に溜息が多くなった、と気分はさらに淀んでいく。 やがて洗い終えたスプーンとコップを、『俺専用。触れると死ぬ。触れなくても死ね』と書かれた小さな箱の中に仕舞い終えて、一息つく。  ふと、その時、アルスは背後に何かの気配を察知する。振り向く。 「……あァ?」  思わず、上ずった声が出た。ソファの上に、何か大きな黒い毛の塊があったことに、たった今気付いたのだ。  彼が気付く前からそこにあったそれが、『黒豹』だということを認識するまで、数秒を要した。黒豹。ネコ科の大型肉食獣。  寝息を立てている様子から、どうやらそれは剥製ではないらしいが、この居間と黒豹との関連性が、とにかく行方不明だった。 ただでさえ理解し難い人間の生活であるのに、もうこれ以上シュールレアリスムで追い討ちをかけるのはやめてくれと言わんばかりに、彼は絶句した。 ペットだとすれば中々悪くない趣味だと、僅かばかりには思ったものの、 それにしてもこんな物置みたいな小さな借家で飼うとは、全く正気の沙汰とは思えなかった。 やっぱりあいつは人を殴りすぎて脳にも皹(ひび)が入ってやがるんだ! 内心で絶叫する。  見遣るにこの体格差、自分はあれにとって絶好の獲物ではないか。 自分が黒豹の側なら、この身体は間食には丁度良いサイズの肉だと思うに違いない。 「……冗談じゃねェ」全身の毛が逆立つような感覚を覚えて、彼はゆっくりと後退(あとずさ)りをした。  一歩一歩、芋虫が進むような速度でソファから遠ざかっていき、後ろ手で扉の蝶番を探る。 出来るだけ刺激しないようにと、少しだけ扉を開き、その隙間に身体を滑り込ませてから、音を立てずに閉じる。  その瞬間、無意識に止めていた呼吸が突風のように吐き出され、彼は廊下の壁に身体を凭れた。 そのまま水滴が滴るようにゆっくりと床に崩落し、茫洋とした眼差しで天井を見つめる。 暫くの間はただ危機から逃れられたことに対して安堵していたが、胸の早鐘が収まっていくにつれて、段々と言い知れぬ憤りが沸き上がってきた。  ──自分は一体、いつからあんな取るに足らないものに危険を感じる無様な存在に成り下がったのか。 つい最近まで、あれよりももっと巨大で禍々しい魔ノ者を従えていたではないか。  そう回顧するが、しかし、過去にどんな力を有していようとも、今、現在、本能が感じ取ってしまったものは否定しようがない。 例え、あの黒豹が人に従順で全くの無害だったとしても、その奥に見出せる純粋な力の強弱において、 今の自分はどうしようもなく弱者の側にいる、と彼は感じた。そしてそれが堪らなく腹立たしかった。  相手が強いのはまだ良い。しかし、自分が弱いことだけは、絶対に許せない。 「……クソったれが」  舌打ち混じりに零し、アルスは立ち上がった。  ──丁度陽も暮れてくる時間だ。 今日こそは、“探しもの”を見つけねばならない。  彼は思い立ち、いつものように、黙ってアパートを後にした。       * * *  夕暮れ時の街中は賑わっていた。 帰路へ着く者とこれから繰り出していく者たちが交錯して、その人ごみは朝ほどの定まった方向性を持たない。  その中を彼らよりも低い目線で歩くアルスは、まるで世界が今までと違うような感覚を覚えた。 普通の舗装路があのプレシール通り並に広く感じられたり、以前ならば魔力砲の一発で沈むであろう建物たちも、今ではやけに大きく見える。 そして雑然と行き交う人の群れは、大体どの個体も似たり寄ったりであまり判別がつかなかった。 前髪の生え際が僅かに後退しているあの男はさっきも見たような気がするし見なかったような気もする。  人間たちを上から見下ろしたことは数あれど、下から見上げることなど 過去にはそうそうあることではなかったので、彼は何とも奇妙な感覚と、そして微細な不快感を覚えた。  人の流れから外れ、もう少しだけ人間一人一人を観察してみるが、 ただ平凡な顔が次から次へと流れていくだけで、そこに果てない無機質さを感じた。  やはりこんなところに“探しもの”はいない。 そう思い、彼は早々にその街を抜けるべく、踵を返そうとした。 「ねえ、君。ちょっと良い?」  その時、彼の隣から声がかけられた。  視線を向けると、一人の少女が立っていた。 緩やかにウェーブのかかった橙色のショートヘア。動きやすさを重視したどこか少年的なパンツスタイルで、 キャスケット帽を被り、リュックを背負っていた。見た目では、十八歳程度だと伺える。 「君、さっきからここに居たでしょ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな。時間は取らせないから」  少女はそう言うと、中腰になって目線を彼と同じ高さまで下げた。  いいかな、と問う割にはどこか有無を言わせぬ落ち着いた声色と視線だった。 「……ンだよ」  出鼻を挫かれた気分になって、不機嫌そうに彼は答えた。 「ありがとう。実は私ね、今人を探してるんだけど、ここら辺でこういう人は見なかった?」  彼の纏う刺々しい負のオーラなど全く意に介さない様子で、少女はポケットから一枚の写真を取り出すと、彼に差し出した。  そこに写っていたのは、一人の青年だった。 目の前にいる少女と同じ、緩く波打った橙色の髪と、茜色の瞳。 見る限りでは二十歳かそこそこといった男である。自然体で眠たげな柔らかい目つきをしているが、雰囲気はどことなく眼前の少女と似ていた。 「さあ。知らないな」  彼はその写真を一瞥してから、ほぼ即座にそう答えた。 見分けのつかない人間どもの顔なんていちいち覚えてないし、 もし万が一覚えてたとしても教えてやる義理なんかない。彼はそういう性格をしていた。 「そう……分かった」  少女はそんな彼の悪意に満ちた応答も律儀に受け止めると、翳った瞳を僅かに伏せる。 「じゃあ、こっちは?」──かと思えば、すぐに二枚目の写真を出してきやがった。 そこに写っているのはまた男。こいつは男を追いかけてばっかりか。ロクな死に方しないぞ。 今度はさっきの昼行灯よりさらに年上だ。二十代後半か、あるいは三十路といったところ。 櫻国によく居そうな黒い総髪と黒い瞳。この写真を見る限りでは、彫りが深く無駄に整った顔立ちな気がしないでもないが、 それを爆殺するように、かなりひょうきんな表情をしている。踵で顔を踏みつけられても平然と笑っていそうな感じだ。 先のは大方家族か何かだろうが、こっちの野郎は何故だか色んな意味で危険な香りがしやがる。 写真とは言え何となく目を合わせたくない。  応答するのも億劫になりかけていた彼は黙って首を横に振る。 少女は再び「そう……」と零すと、二枚の写真をポケットにしまった。 三枚目はどんな珍獣野郎が飛び出してくるんだと身構えていたが、どうやら弾切れらしく、摩訶不思議な男カタログのプレゼンはそれっきり終了した。  少女は彼に合わせて屈めていた上体を起こして、流れゆく人ごみをどこか遠い眼差しで見つめた。 「……なんで男って、放っておいたら皆どっか行っちゃうんだろ」  殆ど溜息と同義の、蚊の鳴くような声が少女の口から零れる。  全世界の男を捕まえて統計でも取ったのかとアルスは詰ってやりたくなったが、 よく考えれば自分も『どっか行ったやつ』になっていることを思い出して、喉元で止めておいた。  仕方ないだろうが。男には男で色々あるんだよ。 いきなり旅に出たくなったり、身体が縮んだりすることもあるだろう。 男っていうのは、そういう生き物なんだよ。内心でそう言い訳する。  すると少女は、翳りを打ち消すように、咲きかけの向日葵に似た微笑みと共にアルスに視線を落として言った。 「ねえ、君、名前は? 私はカンナ。黒野カンナ」  応答を待つように、斜陽色の瞳が彼の真紅を覗き込む。  ──どうしてこういった人種はすぐに名乗りたがるのか理解に苦しむ。 そんなに名前のやり取りがしたけりゃ名刺で雪合戦でもやってりゃ良いのに。  数拍、不機嫌な沈黙が満ちた後、彼は言った。 「……“ゲ”だ。お前に教える名前なんかその一文字で十分だ」 「ふうん。ゲ君? 語呂が悪いね、ゲー君にしようか」  ミジンコの徒競走ぐらいどうでも良かったので、鼻で笑う。 「これ以上用が無いなら失せろ。忙しいンだ」 「そ、邪魔してごめんね。それじゃ、君も帰り道気をつけて」  少女──カンナは彼の酷く悪辣な態度にも唇で淡く微笑むと、そう言い残し踵を返した。  彼もその場を後にしようと一歩を踏み出す。 「あ……そうだ」  その時。 カンナは何かを思い出したように引き返してくると、彼の前で再び中腰になって言った。「チャック、閉めた方がいいよ。まだ寒いから」 彼女の人差し指が二度ほど下方を指し示したので、そこに視線をやってみると、確かにそれが全開であった。  彼は言葉を詰まらせ、慌てて閉窓してから罵倒と共に睨みつけようとしたが、 その時には既に、彼女は後ろ手を振りながら彼方へと歩み去っていた。 「ンの野郎……!」  周りに聞こえない程度の小声で言ってくれたことが幸いだが、 最早追いかける気にもなれなかったので、その背中目掛け、サヤインゲンに囲まれて死ぬ呪いをかけておいた。       * * *  陽が落ちて闇が降りてきた。 彼は、ひたすらに歩いていた。 つい先ほどまで街の明るい喧騒の中にいたのが夢か何かのように、辺りにはもう人の気配など無く、 黒い舗装路だけが、延々と先に続いていた。心なしか街灯同士の間隔も次第に広くなっている。 時折、何かの排気音が遠くから木霊してくる。  背に翼を纏って空を駆ければものの数分で着く距離も、今は歩かねばならない。 それも、大人よりも小さな歩幅で。かかる時間の割には、自分が思っているほど大した距離は進めていない。  だが、何かの目的があって進むその足取りは、遅くはあったものの、重くはなかった。 既に足の筋肉は強張り、一歩ごとにじわりと痺れるような痛みが滲み始めていたが、その足が止まる素振りは欠片もない。  それを健気と評すには、しかし、彼の双眸は些か邪に滾りすぎていた。 いやに据わりきって、尚且つぎらついた光を抱いている。 その根源が一体何であるのか、そこに問う者はいなかった。彼はただ、歩いた。  街を抜けてから、およそ三時間が経った頃、ふいに、潮の香りが風に乗って鼻につく。 途端、ただ舗装路を見つめていただけの顔が起き上がった。その視線の先にあったのは、水平線だった。海だ。 彼の歩調が僅かにテンポを上げる。その表情はというと、歓喜の色などは無く、どこか焦慮さえ滲むような様相だった。  舗装路沿いにずっと続いていた石塀を乗り越えて、彼は砂浜に降り立つ。そしてすぐさま、何かを探すように辺りを見回す。 磯の香りと波音だけが、冷たい夜の潮風に乗って吹き渡る。遠くの方の岬では、灯台の明かりが忙しそうに回っていた。 既に深い夜が訪れていたということもあり、見通しはあまり良いとは言えなかったが、 海面に反射する淡い月明かりを頼りに、波打ち際に沿ってひたすらに歩いた。  歩き回れる範囲内、砂浜の端から端まで足跡が連なったが、 彼がそこで“探しもの”を見つけることはなかった。そこはいるのはただの静寂だけだった。  ──今日も俺は絶好調に無様だな。  アルスはただ木偶のように立ち尽くした。吐き出される白い息は、少しだけ濃さを増している。  空虚感を覚えてはいたが、それも最早慣れたものだった。 今まで何箇所かの墓場や廃虚に赴いた際にも、同じ感覚を味わっている。  そして、見つからないのは、ある意味当然のことだとも彼は思っていた。 この広大な新世界に、一体いくつの海辺や墓場があるだろうか。 更に、そもそも“探しもの”は常に同じ場所にいるわけではないのだ。 そんな四次元的な探求に、そう短期間で解を得ようなどとは至極虫の良い話だ。  だが、反面で、彼はその虫の良い話を望んでいるのも事実だった。  何故か、胸のうちが、ざわついて仕方ない。 「……なあ」耐えかねたように、一人呟いた。「寒い、な」  ざあん、と波の砕ける音がした。返る声は無かった。  沈黙。それから、鼻で溜息を一つ。  潮風というのは、心の上辺(うわべ)まで湿っぽくさせる作用でもあるのだろうか、と彼は思った。 寒いだけのこの場所にこれ以上いる理由も見当たらないのに、何故だか帰るのも堪らなく億劫で、もう少しだけ案山子を決め込んでいたかった。  水平線を眺める。夜の海は、どんな漆黒よりも深く昏く見えた。 それに比べると、夜空というのは思っていたよりも鮮やかだ。黒と言うには濃さが足りず、藍色と言うにも少し暗い。 まさしく夜空色、と呼べる色彩。彼の思考は、柄にもなくそんな三流詩人めいたことを零していた。  ──例えば、夜空色にあいつを映すとする。 その血も腐肉も灰色の絹髪も闇にはよく馴染むが、その罪な碧眼だけがひたすらに不純物だ。 なんて、安っぽい感傷だ、我ながら。そろそろ神秘的な緑色の反吐が出る。  別に、悲観する資格なんて微塵も持ち合わせていないのは分かっている。 そんな、焼き回しのロミオとジュリエットみたいな綺麗さも美しさも無いし、あるべきではない。 一体どれだけの不純な血と屍の上に成り立ったものなのか、それがある限り寧ろ恨まれて当然ぐらいのものだ。 死ぬほどそれが分かった上で、なお、生きることを選んだのだから、無様ならいくらだって受け入れる。  沈黙。  だが、それにしたって、我ながら女々しい限りだ。 眠れぬ夜、だとか陳腐な言葉は使いたくないから、不眠症たちの出勤時間、とでも置き換えておくが、 そんな静謐の時間に決まって浮かんでくるのは、大体いつも胸の疼痛を催すものばかりだ。  つまり、俺は恐らく本当に、自分の伴侶を嫌悪するほど平和ボケした熟年はしていない。 嘆息。思考のうちでさえこんな遠回りな言い方しか出来ない我が脳味噌は、本当に黴でも生えてるんじゃないかと思う。  ざあん、と波が砕ける音がして、思考の空白を埋める。  ──あいつもあいつで、放っておいたら大分危険になっているような気がする。 例えば人探しの依頼なら、探偵でも雇うべきところを、殺し屋を雇っていたり。 例えば聞き込み調査なら、道行く人の肩を叩く代わりに、その身体を二等分していたり。 苛立つあまりそういう正気極まりないことをしていそうで、至極微笑ましい。  だが、そこで生死に関わる一つの微細な問題が浮かび上がる。 そんな状態のあいつに、仮に再び見(まみ)えることができたとしても、今のこんな情けない姿だと、中々に俺存続の危機なのだ。 被害予想を立てると。恐らく、ただいまの『た』の字を言う前に、腕の三本ほどは持っていかれそうな気がする。 一度もぎ取られて、再びくっ付けられて、そしてもう一度もぎ取られるから三本だ。 更に、無力だと分かるや、即刻玩具と言う名の屍体にされる気がしないでもない。  蟷螂(かまきり)の雄は、雌に喰らわれるだとか言う話を聞いたことがあるが、 悪そうな面して実は結構哀れだと言う点で、今の俺と大分良く似ている。  そこでようやく彼は、不毛な思考を重ねる作業をやめて、一人嘆息した。  潮風に吹かれ、髪が弄ばれる。 暗黒色の海に混じった、白い波飛沫のような、相反する髪の色。  世界の終焉にただ一人いるようなこの静寂と空虚さが、段々と身体に染み渡っていく。 寒さはより一層深みを帯びていた。  いい加減に戻ろうかと思ったその時、ふと、一瞬だけ鼓膜を圧迫する無音が通り過ぎる。  瞬間、彼は身の内側を氷塊が舐めていったような怖気を覚える。 そしてそれを嘲笑うかのように、ブランデーの香を孕んだ生暖かい微風が鼻を擽(くすぐ)った。  異変は彼のすぐ目の前で起こっていた。 海面のある一点が、不可視の球体を押し付けているかのようにへこみ、 その上に無数の黒い薔薇の花弁が舞い始めたかと思えば、それは収束、収斂。 次の刹那、その密集体が軽く弾けて消滅し、中から浮遊する人型が姿を現した。 〝──やっと、見つけたわ〟  肩が露出した漆黒のコルセットワンピースを纏い、琥珀色の髪と真紅の瞳を持った、痩身の女性だった。 そして、人あらざる者のように、表情を失った貌。 片手には、その身の丈程もある燻銀色の魔杖を携えており、靴も履かずに、屍じみて生気のない素足を外気に晒している。 その熟成した葡萄酒のような深い声色は、直接頭の中に響いてくる、念話によるものだった。  全く現世離れした風体を漂わすその人型と、それを見上げるアルスの、共に紅い視線が重なったまま硬直する。 ずっと心臓を握り締められていたようにその場を動けなかった彼が、肺の中の淀んだ空気を吐き出し、生唾を飲み込んでから、ようやく口を開く。 「……勝手に夜遊びを許可した覚えはないンだがな。  “序列ノ七十二”“最後の玩具”……リリセール」 〝名前だけは、忘れていないのね。私、とっても嬉しいわ〟  女性の人型──リリセールは、西洋人形のように無機な貌のまま言霊を紡いだ。 「……何故、喚んでもいないのに出てこられる。もう一度鎖で縛りなおしてやるからさっさと還れ」 〝今の主様には無理なこと、分かっているでしょう? それに、私がそれを望まないもの〟  アルスはしばし沈黙した。 奇妙な主従関係がそこにあった。 リリセールが彼のことを“主様”などと呼ぶ割には、どちらかと言うと気圧されているのはその“主様”の方だった。  彼の背には、じっとりと冷たい汗が滲み始めていた。 「……何しに来た」 〝主様と、同じよ。“探しもの”を見つけにきたの〟  何故、知っている。 「飼ってたフナムシにでも逃げられたのか」 〝逆よ。フナムシが居なくなった飼い主を探しに来たの〟  沈黙。  何とも身の毛のよだつ感動話だ、と吐き捨てる。  すると、リリセールがゆっくりと浮かび上がり、海上から浜辺へと綿毛のように音も無く降下していく。  自分の目の前に降り立つつもりだと即座に悟った彼は、腰の後ろに差してある冷たく硬い何かを握り締めながら、大きく数歩後退する。 〝何をそんなに、恐れているの?〟 「フナムシに集(たか)られて喜ぶ趣味はないンでな」  言い終えると同時、S&W M5906自動式拳銃の冷たい銃口がリリセールを見据えていた。 彼がかつて路地裏を徘徊していたときに手に入れてから、ずっと携行しているものだった。 リリセールは、その無機質の表情のまま小首を傾げる。 〝撃ち方、分かるの?〟 「昨日、トイレの中で覚えた」  安全装置が外され、小さな人差し指が引き金にかけられる。 その両手で握り締められた重厚な鉄の塊は、少年の華奢な身体には酷く不釣合いだった。 「勝手に出てきたことについては、今は捨て置いてやる。だが二度も聞かせるな。  ──名も亡き王の御名に於いてArs Solomoniaが命じる。  喚碑名<獄寵妃>、魔法名<Lilitherre>、答えろ。  何をしに、ここへ来た。三度同じことは言わない」  慣れない拳銃を握る手の平に、汗が滲み始める。 リリセールは、そんな彼の様子を、冬の湖面のように揺らがない瞳に映していた。 それから、平坦な言霊を紡いだ。 〝可笑しい。そんな仰々しい命令でなくても、答えるわ。  私は、主様に、会いに来たのよ〟 「何のために」 〝その魂を、貰うために〟  波の砕ける音が、両者の間に張り詰めた数瞬の沈黙を埋める。 「……人形も色気づく年頃なのか知らないが、物ははっきり言え。  つまりは、俺を殺しに来たンだろ? 今までさんざ贋造悪魔<Deofol>たちを死なせては苛んできたものだから、 とうとう見かねて俺が憎くなって、仲間の敵討ちに打って出たと。なァ」  彼は段々と饒舌になっていた。 内臓が握り潰されていくような感覚を覚えてはいたが、それを掻き消すように彼は口の端に歪んだ弧を滲ませる。  リリセールは一度鷹揚に瞬きしてから、応答する。 〝──いいえ。主様なら、分かるでしょう?  存在の構成要素。器と魂。その魂が、欲しいの。  他の能力者(ひと)たちは、全くくれないのよ。だから、主様から貰うことにしたわ〟 「知らないようなら教えてやる。大体の存在は、魂を取られると死ぬ」 〝死ぬって、何?〟  ざあん、と一際大きく波が砕ける。 いつの間にか夜空は曇り始め、海も幾らか時化(しけ)てきた。 「……哲学したけりゃ本でも食ってろ。とにかくお前にくれてやる魂などは無い。  寝言はそこで切り上げて、早く還れ。さもなければそのつまらない戯言どもを遺言と見なす」 〝皆、そう言うのね。少しぐらい、分けてくれる人がいても、いいとは思わない? 私、そういう優しい世界が好きよ〟  毒入り林檎を発酵させた果実酒のような声色が脳内に注がれる度、アルスは脳髄がじんわりと絆されていくような感覚を覚えた。 このまま身を委ねてしまえば、果てない快楽の園に落ちて行くことは呼吸するよりも容易い。 精神の弱いものならば即座に堕落させんとするその禁断の蜜声に抗う一方で、そのように造った過去そのものを恨んだ。  銃のグリップを強く握ることで、自我を保つ。 〝撃たないの? 昨日、トイレで覚えたことを、思い出せない?〟  アルスは沈黙を返した。もう既に、肩から先が別人のような感覚になっていることなど、死んでも悟られたくなかった。  強張る顔面の筋肉に命令し、歪んだ笑みを作らせる。 「……頭と心臓、どちらを撃ち抜くか迷ってンだよ」  彼の頬に、一筋の汗が伝った。  張り詰めた凛冽な空気の中にいると、今にも心臓を吐き出しそうだった。  リリセールは、笑わず、泣かず、骨董(アンティーク)人形のようにただ彼を見つめている。 そして、桜色の口唇が、音無き言霊を紡いだ。 〝──主様は、変わったわ。  星の瞬きが羊の数だけ巡る、その前の刻まで、柵を柵とも思わず、酒浸しの腐肉を貪っていたのに。  硝子色の悪意で烏(からす)を裂いて笑ったのに。もう、杯に注いだ鳩の血も仰がない。  服を裂くことしか知らなかったのに、何故今夜は毛布をかけるの?  いつだって栞を剃刀に変えたのに、何故今夜は本を読み聞かせるの?〟  その、朗々と謳い上げられた耽美で陳腐な呪詛は、内臓が逆流するようなおぞましさを運んできた。  この引き金を引きさえすればそこから解き放たれると、恨めしいほどに分かってはいるのに、 見えない茨が足元から絡みつき、棘から毒の蜜を注ぎ込まれていくような甘い吐き気と痛みに戒められて、 胸奥の何かを固持するだけで精魂が尽き果てそうだった。 「……決め、た。そのガラクタが詰まった頭部を、ブチ抜く」  ゆっくりと、その銃口が上向きになり、リリセールの額を見つめた。  絵画じみたその表情が、瞬きの真似事をした。 〝──ねえ? 思い出して、三百年と少し前。  入れるものが無かった鍵の引き出しに、何でも入れたかったのに、何にも入れなかった。  でも今は、違うの。そうでしょう?〟 「……下らないポエムごっこなら、冥土で好きなだけやらせてやる」  その言葉を最後に、彼は引き金を引こうとした。  が、ふいに続けられた嘘の言霊が、その指を硬直させる。 〝──私、知っているのよ。“探しもの”の場所を〟  彼が一瞬だけ呼吸を忘れる。リリセールは更に続ける。 〝そこへ連れて行ってあげたいのだけど、でも、主様も識っているでしょう?  その魂はもう、罪塗れだもの。そして、訪れない罰は無いわ〟  アルスは鋭い犬歯を強く食いしばった。人差し指が引き金を徐々に絞っていく。 〝だから、あの人間に殴られた時、本当は受け入れたかったの〟  リリセールは尚も言霊を継いだ。 「……やめろ」  途端、声が震えた。脊髄反射的にそれを拒絶する。  続きは無情に紡がれる。 〝甘美な、白い赦しの施しを。でも、拒むの。それは何故なら〟  やめろ。その先は言わせない。言わせてはならない。 〝施されたものを捧げることは出来ないから。だから、主様はきっと選ぶわ〟  黙れ。貴様が俺の中に踏み込んでくることは死んでも赦さない。  所詮貴様は鎖で縛られた犬であることを忘れてはならなかった。  さあ殺してやる。冥府へも還れぬ無間の深淵に叩き落してやる。  貴様は笑う事も泣く事も出来ないが永劫の業苦は存分に味わえる死ね臓腑を刻み脳漿を犯し死ねあり得る限りの死ね 凄惨さと絶望を死ね持って貴様の存在を否定してやる死ね紅い地の底を死ね這い骨を噛み死ね温き死ね血の雨で喉を 死ね潤し死ね肉色の狂気死ねと死ね死ね永久なる虚構の死ね悦楽に死ね閉じ死ね死ね死ね込めて死ねやる死ね嗚呼死ね──  ぶつっ。  〝──そう、贖いの闇を〟  乾いた銃声が、響いた。       * * *  夜が明けた。  水平線の上から、黄金色の太陽が顔を出し、空を朱に染めていく。 山吹色の鮮やかな暁光が、海面上を渡って浜まで伸びている。  波と波が抱擁して、小さく飛沫が舞う。 誰もいない、穏やかな静寂が満ちていた。  海辺には、まるで何かの抽象絵画のように、一体の彫像が横たわっていた。 十字架を抱いた漆黒の女神像だった。砂地に身を横たえ、遥かな水平線を臨んでいる。  無機質の慈愛を湛えたその横顔は、何故か、紅い血の化粧を纏っていた。 その豊かな起伏を描く女体の上にも、嘘のような量の赤い雨に打たれた跡が残っている。  重力に撫でられ、赤の雫たちが爛れるように落剥していく。  ざあん、と波が砕ける。 いつもどおりの、清々しい海の朝だった。  小さな蟹が、波打ち際を駆けている。 緩やかな波が押し寄せ、そして退いていく。 蟹の姿は消えていた。  その日から、彼はアパートに帰っていない。 [了] 【第三世界暦2011年2~3月のこと】
  ──あく 【悪】   1.よくないこと。天災・病気などのような自然的悪、人倫に反する行為などのような道徳的悪の総称。     正義・道徳・法律に反すること。仏教では五悪・十悪などを立てる。   2.みにくいこと。不快なこと。   3.おとること。   4.たけだけしく強いこと。   (『広辞苑・第六版』(岩波書店)より引用)       * * *  夜は更けて、間もなく丑三つ時も過ぎようとしていた。 ほとんど真上にあった半分の月も、今ではかなり低いところまで傾いていて、窓枠から見える景色の中に収まっている。  そこは、とあるアパートの一室だった。 窓辺に凭(もた)れていた彼は、血のように紅い葡萄酒が入ったグラスを、慣れた手付きで軽く揺らす。 紅玉のような雫が硝子の曲面上を踊るように滑っていく。白皙の指が、グラスの括(くび)れを撫でる。 そんな気取った真似は、余裕ある大人がやれば様にもなろうが、齢十にも満たないような『少年』がやったところで、所詮は気障なお遊戯にしかならなかった。  少年──アルス・ソロモニアは嘆息した。 大して綺麗とは言えない住宅街の夜景を眺めることにも倦んで、彼は葡萄酒を一口含み、喉へ通す。 その小さな身体にたちまち酒精が巡りゆき、意識がじんわりと酩酊してくると、漏れ出す吐息が微熱を帯びる。 身体が火照って自然と脱力していくが、しかし、今の彼にとっては何故か、それはあまり心地良いものでもなかった。  凭れている壁は、ひたすら無口で、硬く冷たかった。 クソったれな壁め。お前は一体何が出来るんだ。そんな風だからお前はいつまで経っても壁のままなんだよ。 酒精にやられた脳が、ひたすらに理不尽な罵倒を心の中で吐き出す。続けているうちに、段々と興が乗っていく。  ──クソったれと言えば回顧する最近のこと。 この貧弱な餓鬼の身体に変わり果て、あまつさえあらゆる『能力(ちから)』が霧消してから早くも数ヶ月が経った。 魔力も一切使えないものだから、あの異空の館に帰ることも出来ず、気付けば隠居となんら変わり無い有様にまで落ちぶれている。 この貧相な借家は、いつかに街で会ったとある人間のものだ。人間の家の下で暮らすことなど心底虫唾が走ったが、 既に野垂れ死にかけていたこともあったせいか、当面の良い召使いを得たと思えばそう悪くはない──と、その時は思っていた。  思ってしまった。致命的な誤算だった。あの規格外暴力指数は。 そう、あの偉そうに踏ん反り返った赤毛のアマ。名は忘れた。苗字が八だか九だか、十だっけ。下の名は、ヤゴだかタコだか。そんな感じのやつだ。 片目には眼帯。きっと節穴だと露見するのが怖いから隠してやがるんだろう。 ただでさえ幸薄そうな風をしているくせに、何がそんなに腹立たしいのか、いつも眉間に皺まで寄せてやがるものだからもう存在自体が大殺界。  そして兎角、暴力の権化だ。 何やら毎晩壁の向こうから「メキィ」とか「バキィ」とか悲鳴みたいな怪音がすると思っていたら、あいつが寝返りついでに目覚まし時計を破砕している音だった。 どうやら重度の睡眠時暴力症候群のようだから、俺が今作った完全治療法マニュアルに従い、 檻に入れて海底六万メートルに沈めるか、或いは砂利道に寝かせておいて地均しの道具として使うべきだ。  それぐらいにあいつという存在は暴力だ。 きっと前世は金棒で、来世は黒色火薬に違いない。早急に転生して爆ぜろといつも思う。  と、放っておけばいつまでも吐き出していそうな罵詈讒謗の数々は、酒の勢いが多少あるのも事実だが、しかし、彼は素面でもあまり変わりはなかった。 街で行き倒れかけていたのを救われた上、居候まで受け入れてもらったというのに、彼はその恩義など微塵も感じていないらしく、 家主と顔を合わせる度に内心で罵り放題しては、「正確にやつの身体を発破するには何gの爆薬が必要だろうか」などといったことを考えているのである。  その当の家主は既に就寝しているようだが、彼はこれ幸いと言わんばかりに、 彼女のいる寝室の方へ向けて悠々と足を伸ばした。それからもう一口、葡萄酒のグラスを仰ぐ。  ……いくら力が使えなかったからとは言え、この俺の頭に拳骨を喰らわせやがったのは、 今まで生きてきた三百年の中でやつが初めてだ。ひっく。 力を取り戻ひたら、絶対に拳骨を返してやう。 準一級魔導技師特製の装甲義手は、てめんの拳の数倍は硬いろ。 しょた×ショタ☆時価三億パーンチ。  突然、何もない虚空に向けて、拳を突き出した。 その瞳は、二億光年先にあるブロッコリー星人の盆踊り大会準決勝戦を見ていた。 どうやら、とうとう完全に酩酊しきった脳髄が言語中枢を狂わせ、更にはあらぬ幻覚を見せているようだった。 「げ、げ、げげげの……」  やがて意味もなく立ち上がり、未知の宇宙言語を呟きながら部屋の中を徘徊し始める。 段々呼吸するのが愉快になってきたらしく、横隔膜を痙攣させながら笑みを浮かべる。 緑黄色野菜秘奥義<とりあえずマヨっとけ>が炸裂したのが見えて、オランウータンのように喝采する。 そこから勝利のダンスを共に踊ろうと、大きく前に一歩足を踏み出した瞬間、彼の視界が反転した。  その足は、床のチラシを踏んでいた。勢いよく体勢が崩れる。 強烈な鈍い音が響く。後頭部を強打、視界が一瞬白く染まる。 くぐもった呻き声をあげながら頭を抱えて転げていると、 箪笥の角と脛が感動的な対面を果たした。声にならない断末魔が迸った。  それから、数十分が経過した後のこと。 白く燃え尽きた廃人が壁際にへたり込んでいた。 瞑目したその顔は何故かいやに満ち足りていて、何かをやり遂げたような達成感が漂っている。  だが、やがてその瞳がゆっくりと開かれ、数度瞬きをした。 記憶の混迷が見られ、自分が今まで何をしていたのか思い出すことが出来ず、ただ何となく頭が重い。  彼は虚ろな眼差しを窓の外へと投げ出した。 街中は、皆が死に絶えたように静かだった。透き通るようなその静謐に、彼は僅かばかりの心地良さを覚える。 もし自分がこの世界を支配できたなら、朝を滅ぼして永劫夜の続く世界にしよう。そんな気にさえなった。  かち、と、長針が時を刻む音が響く。 身体は重い倦怠感に包まれていたが、かえってそれが落ち着かなくておもむろに立ち上がる。 それから、窓に手をかけて、横に引く。室内に夜気がなだれ込む。 僅かに湿り気のある冷風が、彼の髪を弄んでいく。  彼はしばらくの間、そろそろ地に堕ちそうな半分の月をぼんやりと眺めていた。 そのうちに部屋の酒気は外へと追い出され、淀んでいた空気もいくらか鼻通りの良いものに変わっていく。 彼はようやく、窓を閉めた。意識は完全に醒めていた。  何故だか、彼に眠気が訪れることはなかった。 このまま外へと繰り出してもよかったのだが、もうじき夜が明けて人間どもが騒がしく活動を始めるであろうことを考えると、その気にはなれなかった。  どうしたものか、と思っていると、ふと、床に転げている市松模様の長方形の薄箱に視線が向いた。 縁にはabcだの123と言った英数字が連なっている。要するに、折り畳み式のチェスセットだった。 つい先日、そこらの雑貨屋から暇潰し用にと思って拝借していたことを思い出した。 彼がそれを拾い上げ、二つ折りになっている八×八のモノクロ盤面を開くと、中には白と黒の騎士団総勢三十二名が転げていた。  丁度良い遊戯だと思い、彼は盤面の上に駒たちを配置する。 当然のことながら、チェスとは二人零和有限確定完全情報ゲーム──つまりは相手がいないと始まらないものである。 この部屋にいるのは彼一人だけ。対戦人物の候補がいなかった。 家主が起きていれば候補になり得たかもしれないが、彼にとっては、その可能性は最初から排除されていた。  酔いが醒めたのをいいことに、また内心で不毛な罵倒が始まる。  ──あの暴力装置に物質を殴殺する以外の機能が備わっているかどうかが甚だ疑問であることは言うまでもないが、 もし万が一奇跡的にあれがチェスを打てるだけの知能を授かっていたとしても、その一局を最後まで無事に終えられる確率は、 何度計算しても、小数点以下に零が数億桁と連なった後にようやく一があるかないかにしかならなかった。つまり多分無理だ。 というのも、こちらが余裕綽々と追い詰めてチェックメイトでも掛けようものなら、あの核爆弾のような拳が全てを灰燼に帰し、 盤上の戦争がたちまちに現実のものへと変わるビジョンが脳裏にちらついて離れないのだ。  子供──そう扱われるのは癪だが──相手に盤面遊戯(ボードゲーム)程度で 実際ムキになるのかどうかはやってみるまで分からないし、そしてそうでないことを耳掃除ついでに祈るばかりだが、 僅かとはいえ致死のリスクを背負ってまであいつとチェスをする利点(メリット)は、第一世界から第七世界の果てまでを探しても全く見つからない。 誰がダイナマイトの前で炎舞道芸(ファイアーダンス)を踊るだろうか。  結局、彼は一人でチェスを打ち始めた。 白を一手、黒を一手。手を打つ度に思考を切り替えて、どちらにも最善手を置いていくが、先を読もうとしてもそれは結局自分の思考でしかない。 そこに勝ち負けなど無意味なので、どうすれば上手く引き分けに持ってけるかをシミュレートすることにし、それを黙々と進めていった。  月が段々と薄れ始め、地平線の向こうから陽が頭を出した。その頃になっても、未だどのメイトも訪れてはいなかった。       * * *  はっと意識が醒めた時、世は夕刻だった。 鮮やかな橙色をした斜陽の光が、部屋の中に満ちている。  ──くそ。寝ちまったのか。  アルスは頭を掻きながら気だるい身体を起こしたが、その時、自分の身体に毛布がかけられていたことに気付いた。 それが誰の仕業か即座に推測できた彼は、忌々しげに吐き捨てる。「……余計なことしやがって」 寝起きのむくれた表情も相まって、ひどく苛立たしげにその毛布を取り払うと、しばしそれを横目で睨み付ける。軽い舌打ち。  それから、窓の外へ視線を逸らした。 自分が惰眠に沈んでいる間に、一日が終わりを告げている。盤上の駒は全て斃(たお)れていて夢の跡。 何となく自分だけが世界から取り残されたような感覚がして、彼は一抹の物寂しさに似た何かを覚えた。  昨晩の悪酔いがまだ少し抜けきっていないのか、頭に鉛の塊を乗せているような気分だったが、 これ以上怠惰な空気を貪る気にはなれなかったので、部屋から出て一度顔を洗う。 鏡で見た自分の顔と身体は、やはり何度見ても、幼い少年のものでしかなかった。  一通りを終えて居間に戻ると、彼は酷く空腹していることを思い出した。  以前までは、七日に一度、ひとかけのパンと一杯のワインを口にすれば生きていける身体だったのに、 このしみったれた人間の餓鬼の身体は、すぐに腹は減るわ喉が乾くわ疲れるわで、全く不便極まりない。 このままでは動くことさえも億劫になりかねないので、まずは腹に何かを詰めることにしよう。そう思い立つ。  彼は冷蔵庫の前に椅子を引きずっていって、その上に乗ってから扉を開いた。 暫く物色し、一番手前にあった袋を引っ張り出してくる。『えびグラタン』──表面には、そう大きく印字されていた。 それを、今となっては慣れた様子で、電子レンジと呼ばれる箱の中に放り込み、スイッチを押す。  腕を組みながら、その場を動かず、箱の中をじっと見つめる。 別段、グラタンが出来上がるのが待ち遠しいわけではなく、その意識は箱の方に向いていたのだ。 今までの数百という年月を、魔術が主となる環境で過ごしてきた彼にとって、家電のような生活科学技術は、まさに未知のものであった。 つい最近まで──といっても数十年単位だが──人間なんて未だに木を擦り合わせて火を起こす生活を営んでいると思っていたものだから、 このように摩訶不思議に進歩した人間文明に間近で接した時、密かに驚きを禁じえなかった。  ──意味が分からない。何故、魔力を使わず、火を熾したわけでもないのに、物が温かくなるのか。 科学など所詮は人間の浅知恵だと思っていた時期もあったが、正直、これは想像以上だった。 原理が気になるところだが、ここの家主その正体を六王番外<馬鹿王ボウリョーク>が知っているとはあんまり思えないので、他の誰かに聞こう。  とは言え、この俺にまともに語り合える人間の知り合いなどそうは居ない。別に欲しくもないが。 ただ、あいつならばもしかしたら詳しく解説してくれるかもしれない。 あの街にいた偏屈な機械技師(メカニック)。科学についてはまさにうってつけだろう。  しかしただ一つ難点なのが、俺があいつの話を理解するにはあと脳味噌が二つか三つほど必要なところだ。 確か二回程会って話をし、分厚い科学書記録(レポート)まで貰ったことがあるが、あいつの言うことを全て理解すると俺は恐らく解脱する。 それぐらい難解だ、少なくとも俺にとっては。  原理を聞き出せたら、爆弾でも壊れない頑強さを備えた人間サイズの電子レンジを発注したいところなのだが、 果たして俺はそこまで辿りつけるだろうか。涅槃に至ってしまわないだろうか。 そんなもの何に使うのかなんて、言うまでもない。  俺の推測が正しければ、これであの暴力村の村長を正しく爆発に導けるはずなのだ。 この前ゆで卵を作ろうとしたときにそうなったという実例がある。 やつの脳味噌は卵白みたいな何かと空気で出来ているはずだから、きっと同じことが起こるはずだ。 この純然たる真理に基づいた不確定性の入り込む余地のない、そう、まさに完璧なプロセスが完成したと言える。 ま、詭弁ですがね。と、偏屈機械技師の口調を真似てみる。少し賢くなったような気になれる。  空想を一区切り。 たった数分でも、ただこうして立ちんぼをしていると時間が長く感じられた。 彼は何となく、冷蔵庫の方を一瞥した。  ──それにしても、人間というのは食べ物を全て冷凍しなければいけないという規律でもあるのだろうか。 奇怪なことに、この家にある食物はことごとく凍らされているのだ。 氷河期に備えでもしているのか、或いはここの馬鹿家主が実は氷の能力者なのか、一体何なのかまるで分からないが、 とにかく、野菜の彩り、肉の旨み、酒の香り等といった、魔ノ眷属と人間が共有し得るであろう極々希少な価値観が絶滅してしまっている。 別に、クソったれたホモサピどもと分かち合いたいものなど俺には蝿の糞ほども無いが、やつらは確実に大きな損失をしているように思える。 人間どもの持つ技術の高さはそれなりに認めるが、その暮らしぶりが悲惨であるということは、旧石器の時代からあまり変わりはないのだな。至極、哀れだ。  そうして無尽蔵の無駄思考を重ねているうちに、ようやく箱から電子音が鳴った。 彼は両手に鍋掴みをはめると、表面がぐつぐつと煮えているそのえびグラタンを、箱の中から取り出し、テーブルに置いた。  着席し、スプーンを握り締める。 「相変わらず、貧相極まりないな」  呟きながら、グラタンの中に入っている小さな海老をスプーンで掬い上げた。 彼はそれを初めて見た時、そのあまりの小ささに、何かの幼虫が紛れ込んだのではないかと驚いたが、 よくよく見てみるとそれは海老のような形をしており、そして実際に海老だった。 こいつらはこんな屑みたいな海老しか食べたことがないのかと思うと、一層人間が哀れになった。  兎角文句の尽きることがない彼であったが、他にどうしようもないので ──何しろ家主居候揃って家事の成績がオール『がんばりましょう』なのだから──しぶしぶそれを食す。  美食家を気取るつもりもなかったが、このあまりに殺風景な食事をしていると、何かがすごく嘆かわしい。 この安っぽいプラスチックの容器は犬の餌を彷彿とさせるし、表示通りに温めたはずなのに真ん中付近がまだ少し冷たい。 こんなものを毎日食っていれば、あんな鬼のように荒んだ暴力族が出来上がるのも道理だ。 思いながら、彼は綺麗に完食していた。  「戴きます」も「ご馳走様」も当然その口から出ることはなく、彼は黙ってナプキンで口を拭くと、水を一杯口に含む。 食後酒が出るわけもなければ、器を下げる従者もここにはいない。アルスはうんざりとした面持ちで席を立った。 爪先で背伸びしてようやく届く流しの蛇口を捻って、水を出す。終始仏頂面だったが、後片付けの手付きは皮肉にもいくらか慣れたものだった。  ──嗚呼、何なのだろうか、この胸を掻き毟りたくなるようなおぞましさは。 こんなことを続けていると、大事な何かを無慈悲に削り取られていくような気がする。 料理を運ぶのは給仕の仕事だし、食器を洗うのは家政婦の役目の筈だ。あゝ、あゝ、気が狂いそうだ!  そう心の中では堪らなく嫌でありながらも、家主の手にかけさせるのはもっと気に障るらしく、 まるで自身の痕跡を極力隠滅するかの如く、彼は身の回りのことは出来る限り自分で行うようになっていた。 時たま、洗濯機に殺されそうになったことなどもあったが、それでも出来ることは徐々に増えてきている。  吐き出される呻き声混じりの長い溜息は、流水の音と重なって妙な調和音を奏でていた。 最近実に溜息が多くなった、と気分はさらに淀んでいく。 やがて洗い終えたスプーンとコップを、『俺専用。触れると死ぬ。触れなくても死ね』と書かれた小さな箱の中に仕舞い終えて、一息つく。  ふと、その時、アルスは背後に何かの気配を察知する。振り向く。 「……あァ?」  思わず、上ずった声が出た。ソファの上に、何か大きな黒い毛の塊があったことに、たった今気付いたのだ。  彼が気付く前からそこにあったそれが、『黒豹』だということを認識するまで、数秒を要した。黒豹。ネコ科の大型肉食獣。  寝息を立てている様子から、どうやらそれは剥製ではないらしいが、この居間と黒豹との関連性が、とにかく行方不明だった。 ただでさえ理解し難い人間の生活であるのに、もうこれ以上シュールレアリスムで追い討ちをかけるのはやめてくれと言わんばかりに、彼は絶句した。 ペットだとすれば中々悪くない趣味だと、僅かばかりには思ったものの、 それにしてもこんな物置みたいな小さな借家で飼うとは、全く正気の沙汰とは思えなかった。 やっぱりあいつは人を殴りすぎて脳にも皹(ひび)が入ってやがるんだ! 内心で絶叫する。  見遣るにこの体格差、自分はあれにとって絶好の獲物ではないか。 自分が黒豹の側なら、この身体は間食には丁度良いサイズの肉だと思うに違いない。 「……冗談じゃねェ」全身の毛が逆立つような感覚を覚えて、彼はゆっくりと後退(あとずさ)りをした。  一歩一歩、芋虫が進むような速度でソファから遠ざかっていき、後ろ手で扉の蝶番を探る。 出来るだけ刺激しないようにと、少しだけ扉を開き、その隙間に身体を滑り込ませてから、音を立てずに閉じる。  その瞬間、無意識に止めていた呼吸が突風のように吐き出され、彼は廊下の壁に身体を凭れた。 そのまま水滴が滴るようにゆっくりと床に崩落し、茫洋とした眼差しで天井を見つめる。 暫くの間はただ危機から逃れられたことに対して安堵していたが、胸の早鐘が収まっていくにつれて、段々と言い知れぬ憤りが沸き上がってきた。  ──自分は一体、いつからあんな取るに足らないものに危険を感じる無様な存在に成り下がったのか。 つい最近まで、あれよりももっと巨大で禍々しい魔ノ者を従えていたではないか。  そう回顧するが、しかし、過去にどんな力を有していようとも、今、現在、本能が感じ取ってしまったものは否定しようがない。 例え、あの黒豹が人に従順で全くの無害だったとしても、その奥に見出せる純粋な力の強弱において、 今の自分はどうしようもなく弱者の側にいる、と彼は感じた。そしてそれが堪らなく腹立たしかった。  相手が強いのはまだ良い。しかし、自分が弱いことだけは、絶対に許せない。 「……クソったれが」  舌打ち混じりに零し、アルスは立ち上がった。  ──丁度陽も暮れてくる時間だ。 今日こそは、“探しもの”を見つけねばならない。  彼は思い立ち、いつものように、黙ってアパートを後にした。       * * *  夕暮れ時の街中は賑わっていた。 帰路へ着く者とこれから繰り出していく者たちが交錯して、その人ごみは朝ほどの定まった方向性を持たない。  その中を彼らよりも低い目線で歩くアルスは、まるで世界が今までと違うような感覚を覚えた。 普通の舗装路があのプレシール通り並に広く感じられたり、以前ならば魔力砲の一発で沈むであろう建物たちも、今ではやけに大きく見える。 そして雑然と行き交う人の群れは、大体どの個体も似たり寄ったりであまり判別がつかなかった。 前髪の生え際が僅かに後退しているあの男はさっきも見たような気がするし見なかったような気もする。  人間たちを上から見下ろしたことは数あれど、下から見上げることなど 過去にはそうそうあることではなかったので、彼は何とも奇妙な感覚と、そして微細な不快感を覚えた。  人の流れから外れ、もう少しだけ人間一人一人を観察してみるが、 ただ平凡な顔が次から次へと流れていくだけで、そこに果てない無機質さを感じた。  やはりこんなところに“探しもの”はいない。 そう思い、彼は早々にその街を抜けるべく、踵を返そうとした。 「ねえ、君。ちょっと良い?」  その時、彼の隣から声がかけられた。  視線を向けると、一人の少女が立っていた。 緩やかにウェーブのかかった橙色のショートヘア。動きやすさを重視したどこか少年的なパンツスタイルで、 キャスケット帽を被り、リュックを背負っていた。見た目では、十八歳程度だと伺える。 「君、さっきからここに居たでしょ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな。時間は取らせないから」  少女はそう言うと、中腰になって目線を彼と同じ高さまで下げた。  いいかな、と問う割にはどこか有無を言わせぬ落ち着いた声色と視線だった。 「……ンだよ」  出鼻を挫かれた気分になって、不機嫌そうに彼は答えた。 「ありがとう。実は私ね、今人を探してるんだけど、ここら辺でこういう人は見なかった?」  彼の纏う刺々しい負のオーラなど全く意に介さない様子で、少女はポケットから一枚の写真を取り出すと、彼に差し出した。  そこに写っていたのは、一人の青年だった。 目の前にいる少女と同じ、緩く波打った橙色の髪と、茜色の瞳。 見る限りでは二十歳かそこそこといった男である。自然体で眠たげな柔らかい目つきをしているが、雰囲気はどことなく眼前の少女と似ていた。 「さあ。知らないな」  彼はその写真を一瞥してから、ほぼ即座にそう答えた。 見分けのつかない人間どもの顔なんていちいち覚えてないし、 もし万が一覚えてたとしても教えてやる義理なんかない。彼はそういう性格をしていた。 「そう……分かった」  少女はそんな彼の悪意に満ちた応答も律儀に受け止めると、翳った瞳を僅かに伏せる。 「じゃあ、こっちは?」──かと思えば、すぐに二枚目の写真を出してきやがった。 そこに写っているのはまた男。こいつは男を追いかけてばっかりか。ロクな死に方しないぞ。 今度はさっきの昼行灯よりさらに年上だ。二十代後半か、あるいは三十路といったところ。 櫻国によく居そうな黒い総髪と黒い瞳。この写真を見る限りでは、彫りが深く無駄に整った顔立ちな気がしないでもないが、 それを爆殺するように、かなりひょうきんな表情をしている。踵で顔を踏みつけられても平然と笑っていそうな感じだ。 先のは大方家族か何かだろうが、こっちの野郎は何故だか色んな意味で危険な香りがしやがる。 写真とは言え何となく目を合わせたくない。  応答するのも億劫になりかけていた彼は黙って首を横に振る。 少女は再び「そう……」と零すと、二枚の写真をポケットにしまった。 三枚目はどんな珍獣野郎が飛び出してくるんだと身構えていたが、どうやら弾切れらしく、摩訶不思議な男カタログのプレゼンはそれっきり終了した。  少女は彼に合わせて屈めていた上体を起こして、流れゆく人ごみをどこか遠い眼差しで見つめた。 「……なんで男って、放っておいたら皆どっか行っちゃうんだろ」  殆ど溜息と同義の、蚊の鳴くような声が少女の口から零れる。  全世界の男を捕まえて統計でも取ったのかとアルスは詰ってやりたくなったが、 よく考えれば自分も『どっか行ったやつ』になっていることを思い出して、喉元で止めておいた。  仕方ないだろうが。男には男で色々あるんだよ。 いきなり旅に出たくなったり、身体が縮んだりすることもあるだろう。 男っていうのは、そういう生き物なんだよ。内心でそう言い訳する。  すると少女は、翳りを打ち消すように、咲きかけの向日葵に似た微笑みと共にアルスに視線を落として言った。 「ねえ、君、名前は? 私はカンナ。黒野カンナ」  応答を待つように、斜陽色の瞳が彼の真紅を覗き込む。  ──どうしてこういった人種はすぐに名乗りたがるのか理解に苦しむ。 そんなに名前のやり取りがしたけりゃ名刺で雪合戦でもやってりゃ良いのに。  数拍、不機嫌な沈黙が満ちた後、彼は言った。 「……“ゲ”だ。お前に教える名前なんかその一文字で十分だ」 「ふうん。ゲ君? 語呂が悪いね、ゲー君にしようか」  ミジンコの徒競走ぐらいどうでも良かったので、鼻で笑う。 「これ以上用が無いなら失せろ。忙しいンだ」 「そ、邪魔してごめんね。それじゃ、君も帰り道気をつけて」  少女──カンナは彼の酷く悪辣な態度にも唇で淡く微笑むと、そう言い残し踵を返した。  彼もその場を後にしようと一歩を踏み出す。 「あ……そうだ」  その時。 カンナは何かを思い出したように引き返してくると、彼の前で再び中腰になって言った。「チャック、閉めた方がいいよ。まだ寒いから」 彼女の人差し指が二度ほど下方を指し示したので、そこに視線をやってみると、確かにそれが全開であった。  彼は言葉を詰まらせ、慌てて閉窓してから罵倒と共に睨みつけようとしたが、 その時には既に、彼女は後ろ手を振りながら彼方へと歩み去っていた。 「ンの野郎……!」  周りに聞こえない程度の小声で言ってくれたことが幸いだが、 最早追いかける気にもなれなかったので、その背中目掛け、サヤインゲンに囲まれて死ぬ呪いをかけておいた。       * * *  陽が落ちて闇が降りてきた。 彼は、ひたすらに歩いていた。 つい先ほどまで街の明るい喧騒の中にいたのが夢か何かのように、辺りにはもう人の気配など無く、 黒い舗装路だけが、延々と先に続いていた。心なしか街灯同士の間隔も次第に広くなっている。 時折、何かの排気音が遠くから木霊してくる。  背に翼を纏って空を駆ければものの数分で着く距離も、今は歩かねばならない。 それも、大人よりも小さな歩幅で。かかる時間の割には、自分が思っているほど大した距離は進めていない。  だが、何かの目的があって進むその足取りは、遅くはあったものの、重くはなかった。 既に足の筋肉は強張り、一歩ごとにじわりと痺れるような痛みが滲み始めていたが、その足が止まる素振りは欠片もない。  それを健気と評すには、しかし、彼の双眸は些か邪に滾りすぎていた。 いやに据わりきって、尚且つぎらついた光を抱いている。 その根源が一体何であるのか、そこに問う者はいなかった。彼はただ、歩いた。  街を抜けてから、およそ三時間が経った頃、ふいに、潮の香りが風に乗って鼻につく。 途端、ただ舗装路を見つめていただけの顔が起き上がった。その視線の先にあったのは、水平線だった。海だ。 彼の歩調が僅かにテンポを上げる。その表情はというと、歓喜の色などは無く、どこか焦慮さえ滲むような様相だった。  舗装路沿いにずっと続いていた石塀を乗り越えて、彼は砂浜に降り立つ。そしてすぐさま、何かを探すように辺りを見回す。 磯の香りと波音だけが、冷たい夜の潮風に乗って吹き渡る。遠くの方の岬では、灯台の明かりが忙しそうに回っていた。 既に深い夜が訪れていたということもあり、見通しはあまり良いとは言えなかったが、 海面に反射する淡い月明かりを頼りに、波打ち際に沿ってひたすらに歩いた。  歩き回れる範囲内、砂浜の端から端まで足跡が連なったが、 彼がそこで“探しもの”を見つけることはなかった。そこはいるのはただの静寂だけだった。  ──今日も俺は絶好調に無様だな。  アルスはただ木偶のように立ち尽くした。吐き出される白い息は、少しだけ濃さを増している。  空虚感を覚えてはいたが、それも最早慣れたものだった。 今まで何箇所かの墓場や廃虚に赴いた際にも、同じ感覚を味わっている。  そして、見つからないのは、ある意味当然のことだとも彼は思っていた。 この広大な新世界に、一体いくつの海辺や墓場があるだろうか。 更に、そもそも“探しもの”は常に同じ場所にいるわけではないのだ。 そんな四次元的な探求に、そう短期間で解を得ようなどとは至極虫の良い話だ。  だが、反面で、彼はその虫の良い話を望んでいるのも事実だった。  何故か、胸のうちが、ざわついて仕方ない。 「……なあ」耐えかねたように、一人呟いた。「寒い、な」  ざあん、と波の砕ける音がした。返る声は無かった。  沈黙。それから、鼻で溜息を一つ。  潮風というのは、心の上辺(うわべ)まで湿っぽくさせる作用でもあるのだろうか、と彼は思った。 寒いだけのこの場所にこれ以上いる理由も見当たらないのに、何故だか帰るのも堪らなく億劫で、もう少しだけ案山子を決め込んでいたかった。  水平線を眺める。夜の海は、どんな漆黒よりも深く昏く見えた。 それに比べると、夜空というのは思っていたよりも鮮やかだ。黒と言うには濃さが足りず、藍色と言うにも少し暗い。 まさしく夜空色、と呼べる色彩。彼の思考は、柄にもなくそんな三流詩人めいたことを零していた。  ──例えば、夜空色にあいつを映すとする。 その血も腐肉も灰色の絹髪も闇にはよく馴染むが、その罪な碧眼だけがひたすらに不純物だ。 なんて、安っぽい感傷だ、我ながら。そろそろ神秘的な緑色の反吐が出る。  別に、悲観する資格なんて微塵も持ち合わせていないのは分かっている。 そんな、焼き回しのロミオとジュリエットみたいな綺麗さも美しさも無いし、あるべきではない。 一体どれだけの不純な血と屍の上に成り立ったものなのか、それがある限り寧ろ恨まれて当然ぐらいのものだ。 死ぬほどそれが分かった上で、なお、生きることを選んだのだから、無様ならいくらだって受け入れる。  沈黙。  だが、それにしたって、我ながら女々しい限りだ。 眠れぬ夜、だとか陳腐な言葉は使いたくないから、不眠症たちの出勤時間、とでも置き換えておくが、 そんな静謐の時間に決まって浮かんでくるのは、大体いつも胸の疼痛を催すものばかりだ。  つまり、俺は恐らく本当に、自分の伴侶を嫌悪するほど平和ボケした熟年はしていない。 嘆息。思考のうちでさえこんな遠回りな言い方しか出来ない我が脳味噌は、本当に黴でも生えてるんじゃないかと思う。  ざあん、と波が砕ける音がして、思考の空白を埋める。  ──あいつもあいつで、放っておいたら大分危険になっているような気がする。 例えば人探しの依頼なら、探偵でも雇うべきところを、殺し屋を雇っていたり。 例えば聞き込み調査なら、道行く人の肩を叩く代わりに、その身体を二等分していたり。 苛立つあまりそういう正気極まりないことをしていそうで、至極微笑ましい。  だが、そこで生死に関わる一つの微細な問題が浮かび上がる。 そんな状態のあいつに、仮に再び見(まみ)えることができたとしても、今のこんな情けない姿だと、中々に俺存続の危機なのだ。 被害予想を立てると。恐らく、ただいまの『た』の字を言う前に、腕の三本ほどは持っていかれそうな気がする。 一度もぎ取られて、再びくっ付けられて、そしてもう一度もぎ取られるから三本だ。 更に、無力だと分かるや、即刻玩具と言う名の屍体にされる気がしないでもない。  蟷螂(かまきり)の雄は、雌に喰らわれるだとか言う話を聞いたことがあるが、 悪そうな面して実は結構哀れだと言う点で、今の俺と大分良く似ている。  そこでようやく彼は、不毛な思考を重ねる作業をやめて、一人嘆息した。  潮風に吹かれ、髪が弄ばれる。 暗黒色の海に混じった、白い波飛沫のような、相反する髪の色。  世界の終焉にただ一人いるようなこの静寂と空虚さが、段々と身体に染み渡っていく。 寒さはより一層深みを帯びていた。  いい加減に戻ろうかと思ったその時、ふと、一瞬だけ鼓膜を圧迫する無音が通り過ぎる。  瞬間、彼は身の内側を氷塊が舐めていったような怖気を覚える。 そしてそれを嘲笑うかのように、ブランデーの香を孕んだ生暖かい微風が鼻を擽(くすぐ)った。  異変は彼のすぐ目の前で起こっていた。 海面のある一点が、不可視の球体を押し付けているかのようにへこみ、 その上に無数の黒い薔薇の花弁が舞い始めたかと思えば、それは収束、収斂。 次の刹那、その密集体が軽く弾けて消滅し、中から浮遊する人型が姿を現した。 〝──やっと、見つけたわ〟  肩が露出した漆黒のコルセットワンピースを纏い、琥珀色の髪と真紅の瞳を持った、痩身の女性だった。 そして、人あらざる者のように、表情を失った貌。 片手には、その身の丈程もある燻銀色の魔杖を携えており、靴も履かずに、屍じみて生気のない素足を外気に晒している。 その熟成した葡萄酒のような深い声色は、直接頭の中に響いてくる、念話によるものだった。  全く現世離れした風体を漂わすその人型と、それを見上げるアルスの、共に紅い視線が重なったまま硬直する。 ずっと心臓を握り締められていたようにその場を動けなかった彼が、肺の中の淀んだ空気を吐き出し、生唾を飲み込んでから、ようやく口を開く。 「……勝手に夜遊びを許可した覚えはないンだがな。  “序列ノ七十二”“最後の玩具”……リリセール」 〝名前だけは、忘れていないのね。私、とっても嬉しいわ〟  女性の人型──リリセールは、西洋人形のように無機な貌のまま言霊を紡いだ。 「……何故、喚んでもいないのに出てこられる。もう一度鎖で縛りなおしてやるからさっさと還れ」 〝今の主様には無理なこと、分かっているでしょう? それに、私がそれを望まないもの〟  アルスはしばし沈黙した。 奇妙な主従関係がそこにあった。 リリセールが彼のことを“主様”などと呼ぶ割には、どちらかと言うと気圧されているのはその“主様”の方だった。  彼の背には、じっとりと冷たい汗が滲み始めていた。 「……何しに来た」 〝主様と、同じよ。“探しもの”を見つけにきたの〟  何故、知っている。 「飼ってたフナムシにでも逃げられたのか」 〝逆よ。フナムシが居なくなった飼い主を探しに来たの〟  沈黙。  何とも身の毛のよだつ感動話だ、と吐き捨てる。  すると、リリセールがゆっくりと浮かび上がり、海上から浜辺へと綿毛のように音も無く降下していく。  自分の目の前に降り立つつもりだと即座に悟った彼は、腰の後ろに差してある冷たく硬い何かを握り締めながら、大きく数歩後退する。 〝何をそんなに、恐れているの?〟 「フナムシに集(たか)られて喜ぶ趣味はないンでな」  言い終えると同時、S&W M5906自動式拳銃の冷たい銃口がリリセールを見据えていた。 彼がかつて路地裏を徘徊していたときに手に入れてから、ずっと携行しているものだった。 リリセールは、その無機質の表情のまま小首を傾げる。 〝撃ち方、分かるの?〟 「昨日、トイレの中で覚えた」  安全装置が外され、小さな人差し指が引き金にかけられる。 その両手で握り締められた重厚な鉄の塊は、少年の華奢な身体には酷く不釣合いだった。 「勝手に出てきたことについては、今は捨て置いてやる。だが二度も聞かせるな。  ──名も亡き王の御名に於いてArs Solomoniaが命じる。  喚碑名<獄寵妃>、魔法名<Lilitherre>、答えろ。  何をしに、ここへ来た。三度同じことは言わない」  慣れない拳銃を握る手の平に、汗が滲み始める。 リリセールは、そんな彼の様子を、冬の湖面のように揺らがない瞳に映していた。 それから、平坦な言霊を紡いだ。 〝可笑しい。そんな仰々しい命令でなくても、答えるわ。  私は、主様に、会いに来たのよ〟 「何のために」 〝その魂を、貰うために〟  波の砕ける音が、両者の間に張り詰めた数瞬の沈黙を埋める。 「……人形も色気づく年頃なのか知らないが、物ははっきり言え。  つまりは、俺を殺しに来たンだろ? 今までさんざ贋造悪魔<Deofol>たちを死なせては苛んできたものだから、 とうとう見かねて俺が憎くなって、仲間の敵討ちに打って出たと。なァ」  彼は段々と饒舌になっていた。 内臓が握り潰されていくような感覚を覚えてはいたが、それを掻き消すように彼は口の端に歪んだ弧を滲ませる。  リリセールは一度鷹揚に瞬きしてから、応答する。 〝──いいえ。主様なら、分かるでしょう?  存在の構成要素。器と魂。その魂が、欲しいの。  他の能力者(ひと)たちは、全くくれないのよ。だから、主様から貰うことにしたわ〟 「知らないようなら教えてやる。大体の存在は、魂を取られると死ぬ」 〝死ぬって、何?〟  ざあん、と一際大きく波が砕ける。 いつの間にか夜空は曇り始め、海も幾らか時化(しけ)てきた。 「……哲学したけりゃ本でも食ってろ。とにかくお前にくれてやる魂などは無い。  寝言はそこで切り上げて、早く還れ。さもなければそのつまらない戯言どもを遺言と見なす」 〝皆、そう言うのね。少しぐらい、分けてくれる人がいても、いいとは思わない? 私、そういう優しい世界が好きよ〟  毒入り林檎を発酵させた果実酒のような声色が脳内に注がれる度、アルスは脳髄がじんわりと絆されていくような感覚を覚えた。 このまま身を委ねてしまえば、果てない快楽の園に落ちて行くことは呼吸するよりも容易い。 精神の弱いものならば即座に堕落させんとするその禁断の蜜声に抗う一方で、そのように造った過去そのものを恨んだ。  銃のグリップを強く握ることで、自我を保つ。 〝撃たないの? 昨日、トイレで覚えたことを、思い出せない?〟  アルスは沈黙を返した。もう既に、肩から先が別人のような感覚になっていることなど、死んでも悟られたくなかった。  強張る顔面の筋肉に命令し、歪んだ笑みを作らせる。 「……頭と心臓、どちらを撃ち抜くか迷ってンだよ」  彼の頬に、一筋の汗が伝った。  張り詰めた凛冽な空気の中にいると、今にも心臓を吐き出しそうだった。  リリセールは、笑わず、泣かず、骨董(アンティーク)人形のようにただ彼を見つめている。 そして、桜色の口唇が、音無き言霊を紡いだ。 〝──主様は、変わったわ。  星の瞬きが羊の数だけ巡る、その前の刻まで、柵を柵とも思わず、酒浸しの腐肉を貪っていたのに。  硝子色の悪意で烏(からす)を裂いて笑ったのに。もう、杯に注いだ鳩の血も仰がない。  服を裂くことしか知らなかったのに、何故今夜は毛布をかけるの?  いつだって栞を剃刀に変えたのに、何故今夜は本を読み聞かせるの?〟  その、朗々と謳い上げられた耽美で陳腐な呪詛は、内臓が逆流するようなおぞましさを運んできた。  この引き金を引きさえすればそこから解き放たれると、恨めしいほどに分かってはいるのに、 見えない茨が足元から絡みつき、棘から毒の蜜を注ぎ込まれていくような甘い吐き気と痛みに戒められて、 胸奥の何かを固持するだけで精魂が尽き果てそうだった。 「……決め、た。そのガラクタが詰まった頭部を、ブチ抜く」  ゆっくりと、その銃口が上向きになり、リリセールの額を見つめた。  絵画じみたその表情が、瞬きの真似事をした。 〝──ねえ? 思い出して、三百年と少し前。  入れるものが無かった鍵の引き出しに、何でも入れたかったのに、何にも入れなかった。  でも今は、違うの。そうでしょう?〟 「……下らないポエムごっこなら、冥土で好きなだけやらせてやる」  その言葉を最後に、彼は引き金を引こうとした。  が、ふいに続けられた嘘の言霊が、その指を硬直させる。 〝──私、知っているのよ。“探しもの”の場所を〟  彼が一瞬だけ呼吸を忘れる。リリセールは更に続ける。 〝そこへ連れて行ってあげたいのだけど、でも、主様も識っているでしょう?  その魂はもう、罪塗れだもの。そして、訪れない罰は無いわ〟  アルスは鋭い犬歯を強く食いしばった。人差し指が引き金を徐々に絞っていく。 〝だから、あの人間に殴られた時、本当は受け入れたかったの〟  リリセールは尚も言霊を継いだ。 「……やめろ」  途端、声が震えた。脊髄反射的にそれを拒絶する。  続きは無情に紡がれる。 〝甘美な、白い赦しの施しを。でも、拒むの。それは何故なら〟  やめろ。その先は言わせない。言わせてはならない。 〝施されたものを捧げることは出来ないから。だから、主様はきっと選ぶわ〟  黙れ。貴様が俺の中に踏み込んでくることは死んでも赦さない。  所詮貴様は鎖で縛られた犬であることを忘れてはならなかった。  さあ殺してやる。冥府へも還れぬ無間の深淵に叩き落してやる。  貴様は笑う事も泣く事も出来ないが永劫の業苦は存分に味わえる死ね臓腑を刻み脳漿を犯し死ねあり得る限りの死ね 凄惨さと絶望を死ね持って貴様の存在を否定してやる死ね紅い地の底を死ね這い骨を噛み死ね温き死ね血の雨で喉を 死ね潤し死ね肉色の狂気死ねと死ね死ね永久なる虚構の死ね悦楽に死ね閉じ死ね死ね死ね込めて死ねやる死ね嗚呼死ね──  ぶつっ。  〝──そう、贖いの闇を〟  乾いた銃声が、響いた。       * (『見上げた雲の切れ間から』に続く) *  夜が明けた。  水平線の上から、黄金色の太陽が顔を出し、空を朱に染めていく。 山吹色の鮮やかな暁光が、海面上を渡って浜まで伸びている。  波と波が抱擁して、小さく飛沫が舞う。 誰もいない、穏やかな静寂が満ちていた。  海辺には、まるで何かの抽象絵画のように、一体の彫像が横たわっていた。 十字架を抱いた漆黒の女神像だった。砂地に身を横たえ、遥かな水平線を臨んでいる。  無機質の慈愛を湛えたその横顔は、何故か、紅い血の化粧を纏っていた。 その豊かな起伏を描く女体の上にも、嘘のような量の赤い雨に打たれた跡が残っている。  重力に撫でられ、赤の雫たちが爛れるように落剥していく。  ざあん、と波が砕ける。 いつもどおりの、清々しい海の朝だった。  小さな蟹が、波打ち際を駆けている。 緩やかな波が押し寄せ、そして退いていく。 蟹の姿は消えていた。  その日から、彼はアパートに帰っていない。 [了] 【第三世界暦2011年2~3月のこと】

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