旅立ちの朝

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いよいよ今日、私はこの家を立つ。 既に空は白み始め、気の早い烏は鳶と喧嘩を始めている。 草木が風を受け、さざ波のように一定の間隔で鳴り続けている 部屋には何も残っていない。書物、衣服、机、全て他人の手に移った。 私と、ただ一振りの太刀、そして一冊の日記が有るだけだ。 家人、父の門下生、皆静かに眠っている。この家で今動いているのは私だけだろう。 屋根の上を猫が歩く音が聞こえる。明け方というのは面白いものだ。 襖を開け放ち、空気を肺に取り込む。 冷え切った空気が体中に巡り、思わず身震いする。 庭に足を踏み出す。私の姿に気づいた雀たちが一斉に飛び立つ。 羽ばたきの音と木の枝が擦れる音がやけに大きく響く。 一本の木の前に足を運ぶ。幼い頃は、この木が怪物のように巨大に見えた。 今は、木の幹に両手を回し、向こうで繋ぐことが出来る。 この木は既に枯れている。十三年間、ひたすらに私の打ち込みに耐えて来た為だ。 部屋に戻る。門下生が何人か目を覚ましたようだ。 調理場の方から喧騒が聞こえてくる。おおかた薪が足りないとか、その程度の話だろう。 余りにも変わらぬ日常に、思わず笑いが漏れる。この家は変わらない。 今朝の調理当番は、なかなか料理の腕が良いと評判の者の筈だ。 これは母上が気を利かせてくれたのだろうか? 適度に腹を空かせておくべきだろうか。いや、これだけ早く目を覚ましたのだ、特に必要もないだろう。 日記を手に取る。三歳の誕生日に、木刀と合わせて贈られたものだ。 母上の書いた手本をにらみながら、袂を真っ黒にして綴った記憶がある。 あまり細かく日記を付けない性質ではあったが、そのためといおうか、この一冊を使い続けることが出来た。 『きょうはちちうえにぼくとうをもらいました。ははうえににっきをもらいました。  ぼくとうでいっぱいたたきました。』 平仮名ばかり、字も拙かったが、読むことは出来た。自分の書いた物だから、当然と言えば当然か。 『立木打ち』の稽古を初めて行ったのもこの時だった。手の皮がむけ、筆をとるのにも苦労した物だ。 暫く頁を捲る。年を重ねるにつれ、日記をつける頻度が落ちているのが分かる。 己の不精に苦笑しつつ、適当な所で手を止める。 『寺子屋のお友達も、何人かは道場に入門してきました。それでもやっぱり私が一番強いです。  今日は、練習でお友達を泣かせてしまいました。明日あやまろうと思います』 九歳の時の日記だ。漢字を結構書けるようになっていることに、我ながら感心する。 書いている文章は、今の自分からは想像もできないほど純粋だ。 『人を斬った』 見開きに大きく、それだけが書いてある。それだけで分かる。十二歳の時の日記だ。 街中で暴れた狂人の処刑を私が受け持った、その時の事だ。 次の頁には、それなりに文章の体をなした物がある。 『一人目を斬った後には吐いた。二人目を斬った後には夕食を抜いた。  三人目を斬った後には震えた。四人目以降は何も覚えていない』 三年もの間、自分が日記をつけていなかったことに気づかされる。これは十五歳の時の日記だ。 この時点で、父上以外に剣術で私に勝るものは領内にはいなかった。 首切り役人としての熟練も、私ほどの者はいなかった。 『旅立ちの許可が下りた。父上も母上も、心よく承諾してくれた。旅立ちの日までに衣装を整えてくれるらしい。  何から何まで有難い事だ。』 今年の初めに書いた日記だ。これを書いたのが、ついこの間の事のように思えてくる。 己の剣を磨くために世界を歩きたい、父上も母上も、二つ返事で許可を下さった。 今身につけている服は、その時約束していただいた物だ。数日前に仕上がり、今日初めて袖を通した。 肩には我が家の家紋、轡十文字の、金糸の刺繍が施されている。 『食後、父上が部屋を訪ねてきた。何年ぶりの事だろう?  友人を部屋に連れ込んでいるのを見られてから三年、この様な事は無かった』 一昨日の夜書いた日記だ。私が最後に書いた日記という事になる。 『部屋に正座するや、腰の太刀を外して私の前に置いた。島津の家に代々伝わる太刀、「迅雷」だ。  暫くの沈黙の後、父上は立ち上がり部屋を出た。私達は一言も言葉を交わさなかった。』 日記を手に取り、門下生の部屋へ行く。筆と墨を借り、日記の最後の頁を開く 『父上、母上。十六年、世話になりました』 肝心な時に上手い言葉が出てこないのは、私の悪い癖だ。首をいくら捻っても言葉が出てこない。 仕方がないだろう、これが私なのだから。部屋に戻りながら、自分にそう言い聞かせる。 部屋の中央に日記を置く。 朝食をとり、再び部屋に戻る。「迅雷」を鞘から抜く。 刃渡り四尺の乱れ刃、多くの血を吸ってなお、切れ味は鈍っていない。 刃に己の顔を写す。映った顔は、笑ってもいなければ泣いてもいない。 髪をまとめ、髪留めで固定する。「迅雷」を腰の左に差す。 庭に降りると、木の前に父上が立っていた。もう部屋に戻るつもりらしい。 互いに無言のまますれ違う。 枯れてしまった木に手を触れる。十三年間、この木は何を考えていたのだろうか。 「迅雷」を抜き、蜻蛉に構える。 「手の脈が四回半鼓動する間を「分」、分の1/8を秒、秒の1/10を糸、糸の1/10を忽・・・  そして、忽の1/10をして「雲耀」・・・示現流・秘太刀・雲耀」 大きく息を吸い込み、ひたすらに速く、ひたすらに強く、「迅雷」を振り下ろす。 暫しの静寂、両断された木の倒れる音は、門下生たちの打ち込みの声に掻き消された。 見送りに出るものはいない。皆、道場で打ち合いをしているのだろう。 家に背を向けて歩きだす。太陽は既に高く昇り、私の後ろに影を色濃く作りだしている。 港へと歩く私の後ろを、猫が日陰を求めて追いかけ続けていた。
いよいよ今日、私はこの家を立つ。 既に空は白み始め、気の早い烏は鳶と喧嘩を始めている。 草木が風を受け、さざ波のように一定の間隔で鳴り続けている 部屋には何も残っていない。書物、衣服、机、全て他人の手に移った。 私と、ただ一振りの太刀、そして一冊の日記が有るだけだ。 家人、父の門下生、皆静かに眠っている。この家で今動いているのは私だけだろう。 屋根の上を猫が歩く音が聞こえる。明け方というのは面白いものだ。 襖を開け放ち、空気を肺に取り込む。 冷え切った空気が体中に巡り、思わず身震いする。 庭に足を踏み出す。私の姿に気づいた雀たちが一斉に飛び立つ。 羽ばたきの音と木の枝が擦れる音がやけに大きく響く。 一本の木の前に足を運ぶ。幼い頃は、この木が怪物のように巨大に見えた。 今は木の幹に両手を回し、向こうで繋ぐことが出来る。 この木は既に枯れている。十三年間、ひたすらに私の打ち込みに耐えて来た為だ。 部屋に戻る。門下生が何人か目を覚ましたようだ。 調理場の方から喧騒が聞こえてくる。おおかた薪が足りないとかその程度の話だろう。 余りにも変わらぬ日常に思わず笑いが漏れる。この家は変わらない。 今朝の調理当番は、なかなか料理の腕が良いと評判の者の筈だ。 これは母上が気を利かせてくれたのだろうか? 適度に腹を空かせておくべきだろうか。いや、これだけ早く目を覚ましたのだ、特に必要もないだろう。 日記を手に取る。三歳の誕生日に、木刀と合わせて贈られたものだ。 母上の書いた手本をにらみながら、袂を真っ黒にして綴った記憶がある。 あまり細かく日記を付けない性質ではあったが、そのためといおうか、この一冊を使い続けることが出来た。 『きょうはちちうえにぼくとうをもらいました。ははうえににっきをもらいました。  ぼくとうでいっぱいたたきました。』 平仮名ばかり、字も拙かったが、読むことは出来た。自分の書いた物だから当然と言えば当然か。 『立木打ち』の稽古を初めて行ったのもこの時だった。手の皮がむけ、筆をとるのにも苦労した物だ。 暫く頁を捲る。年を重ねるにつれ、日記をつける頻度が落ちているのが分かる。 己の不精に苦笑しつつ、適当な所で手を止める。 『寺子屋のお友達も、何人かは道場に入門してきました。それでもやっぱり私が一番強いです。  今日は、練習でお友達を泣かせてしまいました。明日あやまろうと思います』 九歳の時の日記だ。漢字を結構書けるようになっていることに我ながら感心する。 書いている文章は、今の自分からは想像もできないほど純粋だ。 『人を斬った』 見開きに大きく、それだけが書いてある。それだけで分かる。十二歳の時の日記だ。 街中で暴れた狂人の処刑を私が受け持った、その時の事だ。 次の頁には、それなりに文章の体をなした物がある。 『一人目を斬った後には吐いた。二人目を斬った後には夕食を抜いた。  三人目を斬った後には震えた。四人目以降は何も覚えていない』 三年もの間、自分が日記をつけていなかったことに気づかされる。これは十五歳の時の日記だ。 この時点で、父上以外に剣術で私に勝るものは領内にはいなかった。 首切り役人としての熟練も、私ほどの者はいなかった。 『旅立ちの許可が下りた。父上も母上も、心よく承諾してくれた。旅立ちの日までに衣装を整えてくれるらしい。  何から何まで有難い事だ。』 今年の初めに書いた日記だ。これを書いたのが、ついこの間の事のように思えてくる。 己の剣を磨くために世界を歩きたい、父上も母上も、二つ返事で許可を下さった。 今身につけている服は、その時約束していただいた物だ。数日前に仕上がり、今日初めて袖を通した。 肩には我が家の家紋、轡十文字の、金糸の刺繍が施されている。 『食後、父上が部屋を訪ねてきた。何年ぶりの事だろう?  友人を部屋に連れ込んでいるのを見られてから三年、この様な事は無かった』 一昨日の夜書いた日記だ。私が最後に書いた日記という事になる。 『部屋に正座するや、腰の太刀を外して私の前に置いた。島津の家に代々伝わる太刀、「迅雷」だ。  暫くの沈黙の後、父上は立ち上がり部屋を出た。私達は一言も言葉を交わさなかった。』 日記を手に取り、門下生の部屋へ行く。筆と墨を借り、日記の最後の頁を開く 『父上、母上。十六年、世話になりました』 肝心な時に上手い言葉が出てこないのは、私の悪い癖だ。首をいくら捻っても言葉が出てこない。 仕方がないだろう、これが私なのだから。部屋に戻りながら、自分にそう言い聞かせる。 部屋の中央に日記を置く。 朝食をとり、再び部屋に戻る。「迅雷」を鞘から抜く。 刃渡り四尺の乱れ刃、多くの血を吸ってなお、切れ味は鈍っていない。 刃に己の顔を写す。映った顔は、笑ってもいなければ泣いてもいない。 髪をまとめ、髪留めで固定する。「迅雷」を腰の左に差す。 庭に降りると、木の前に父上が立っていた。もう部屋に戻るつもりらしい。 互いに無言のまますれ違う。 枯れてしまった木に手を触れる。十三年間、この木は何を考えていたのだろうか。 「迅雷」を抜き、蜻蛉に構える。 「手の脈が四回半鼓動する間を「分」、分の1/8を秒、秒の1/10を糸、糸の1/10を忽・・・  そして、忽の1/10をして「雲耀」・・・示現流・秘太刀・雲耀」 大きく息を吸い込み、ひたすらに速く、ひたすらに強く、「迅雷」を振り下ろす。 暫しの静寂、両断された木の倒れる音は、門下生たちの打ち込みの声に掻き消された。 見送りに出るものはいない。皆、道場で打ち合いをしているのだろう。 家に背を向けて歩きだす。太陽は既に高く昇り、私の後ろに影を色濃く作りだしている。 港へと歩く私の後ろを、猫が日陰を求めて追いかけ続けていた。

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