夜叉面の辻斬り


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夜風が頬を叩く。撫でるなどという優しい事はしてくれない。
秋ならば、寺の小坊主が泣きを見る程に枯れ葉が飛び散っていただろう。
私の顔に吹き付けて来るのは桜。だが、春だからでは無い。
夏であろうが冬であろうが、この国に桜が絶える事は無い。

両肩と右手に持つ太刀で風を切り、見知った道を歩いていく。
幼い頃、今の自分の半分ほどの背丈も無かった頃より、歩き慣れた道。
だが、その頃と違うのは、己の身の丈だけでは無い。
時が流れれば人も街も変わる。或る家は無くなり、或る家が立ち、木が倒され、木が育ち。
これは、成長とは言わないのだろうが。

灯りなどは、持ち歩く事は無かった。
月明かりを抜き身の刃に移し、闇夜に目を光らせる。
息を殺し耳を澄ませ、何かが動く音を拾い上げる。
それは大抵は木々が風で揺れる音で、時々は獣の走る音で。
或いは、市中を見て回る同輩の足音。
そしてまた或いは、


「…来たか」


断末魔の悲鳴、だった。





両膝と両肩にそれぞれ一本ずつ、四本の短刀。
左肩から入り心臓にまで達する大きな刀傷。
切り開かれた腹部、圧し折られ掻き出され、組み上げられた肋骨。
そして、肋骨の上に供物の如く鎮座する、切断された頭部。


「…間違い無い、かと。手口も同じです」


夜の闇に慣れた目は、提灯の助けを借りずに検死を終える。


「…ええ、私は誰も見ませんでした。貴方は?」


上役―――職務には忠実、五尺と背は低いが肝も太いし腕も立つ。だが、どうもいけ好かない男―――の問いに答える。
答えるまでも無かったかもしれない。向こうも、この答えは予想していたようだ。
私より数分ばかり先にここについた、何も見ていない。なら、私が何かを見た可能性は低い。
理詰めですぐに結論を出しながら、私に敢えて尋ねる。職務に忠実、良い事では有る。

死体は自然に生まれる事もある。だが、死体が自然に破壊される事は無い。
ならば、この死体の現状を演出した何者かは必ず存在する筈であり、それは今此処には居ない。
悲鳴を聞きつけてすぐに上役が駆け付け、そして上役も私も、演出家の姿を見ていない。

また、だ。またなのだ。


櫻の国東部、小さな街「桜山」。その月に入って四人目の、犠牲者だった。






「桜山」。街の名であり、街を見下ろす小さな山の名でもある。
一時間ほど歩けば港街、そこから大陸へ渡る事が出来る。
街道も整備されており交通の便は良い。季節によってはそれなりの数の旅人も訪れる。
名士と呼ばれる類の人間は居ない。我々役人も嫌われていない。非常に住み良い土地だと、少なくとも私は感じている。
いや、私「だけは」感じている、なのだろうか?同輩たちは、この街に然程の執着は無いように見受けられる。
八代の血が染み込んだ土、私には良く馴染むのだが。

そこまで多くの桜が有る訳ではない。だが、この街の人間は、総じて桜を好む。
尤も、この国に生まれて桜を嫌う者も少ないだろう。常に隣にある物は、嫌う事も難しい。
道端の桜の枝を折り取る。「桜切る馬鹿」と言われようが、面の皮の厚さには自信が有る。



屋敷の庭の、池とは名ばかりの水溜りに顔を映す。徹夜明けとは言え隈なども無い、我ながら健康的な顔だ。
心の内はこの顔ほどには晴れ渡っていない、水面に映る空とは、比べ物にすらならない。
だが、そのような事は、今はどうでも良かった。腹の虫を黙らせる、それが何よりの優先事項だった。
あの屍を見た後では有るが、やはり腹は減るものだ。


『あなた、お帰りなさいませ。少し膝を折って頂けませんか?』


不意に背後から声をかけられ、小さな手が背中に置かれる。
言葉に従い、膝を折って姿勢を低くすると、


『だーれだ?』


背中に置かれていた手が、私の両目を覆う。


「分からん筈が有るまい?」


成程、六尺六寸の私の背では、小柄な妻の手は届かない。だが、他にやりようも有るだろうに。
わざわざしゃがむ様に頼み込んだ妻の行動に、思わず頬を緩めて振り向き、妻を高々と抱え上げてやる。
子供のような笑顔を見せる妻と、視線を合わせる。


『お疲れ様です。今日はこちらでお休みになれるのですか?』


「ああ、流石に四日も続けて詰め所は嫌になる。お前の顔も見たい、屋敷の飯も喰らいたい
煎餅のような布団での一人寝はやはり寂しいのでな」


そのまま耳を妻の腹に当て、赤子の心音を聞く。後三月程で生まれる予定、心音は力強い。
頬骨を蹴られて仰け反りそうになり、左足を一歩下げて支えにする。
その間に、妻は私の手からすり抜けて縁側へと歩いていく。


『今日も良いお天気ですね…この強風さえなければ。春だから仕方が無いとはいえ…』


「全く、この強風ではお前は吹き飛ばされかねんな。重りを載せておかねばならんか」


『あら、私も何時までも子供だと思っていませんか?あの頃とは身長も体重も随分違うのですよ?』


あの頃、この表現では、それが何時の事かを絞り込むのは難しい。
だが、私達の日常の会話とこれまでの経歴、それらを合わせて考えれば、おそらく六年前の事を指すのだろう。
六年前、私は十八、妻は十。家に決められた婚姻だった。
互いに憎からず思う…などという都合の良い事は無く、だが、仲が悪い訳でも無い。
そもそも年齢が年齢だ。私が兄、妻は妹。それ以外の接し方など分からなかった。

婚姻の儀が終わり、妻と共に庭を歩いていた。その時も、今日のように強風が吹いていた。
何枚も着せられた着物は、船の帆の如く風を受け、妻の体勢を崩して池に落とそうとした。
水に触れる一歩前に私が引き上げ、着物の裾を私が踏みつけて、重りの代わりとしたものだった。


『…昨夜も、事件が有ったそうですね。近所の方から聞きました』


「あまり聞かせたくは無い話だが…そうだ。これで何人目だ?」


『冬から数えて九人目、ですね…』


「九人…」


一二月、一人。一月、一人。二月、二人、三月、一人。今月、四人。
改めて、この犠牲者の人数に。そして、今月の異常さに驚かされる。
年の明ける前より始まった、この一連の事件。それは、今月に入り急激に加速していた。


『あの、本当なんですか?その…死体から、血が抜き取られているというのは』


「なんだ、その根も葉もない話は?確かに出血は激しいが、抜き取られているという事は無い
…噂話も良いが、話題を選べ。重ねて言うが、お前にも腹の赤子にも、聞かせたくはない」


『すいません…近頃は、この話以外に話題も無くて…』


夜間の外出を控える旨は街に通達されている。日中も、可能な限り集団で行動するようにと。
自由に動けなければ、心に余裕が無ければ、何かを楽しむ事も出来ない。主婦の噂話すら、やがては尽きてしまう。
だが、この話ばかりしているというのもあまり良いとは思えない。尾ひれが付いているなら尚更だ。
無関係とは言わない、誰一人狙われない保証も無いのだから。然りとて、積極的に係わって行って欲しくは無い。


「後三月…体をいたわれ、不快な話は耳に入れるな。大事な体だろう?
外の事は私に任せろ。私が、どうにかして見せる。それよりも、だ
昨夜から何も口にしていないので、腹の虫が催促をしている。何か用意してくれんか?
外の事なら大体は出来るが、炊事洗濯までは引きうけている余裕が無いのだ」


『はいはい、久しぶりですから腕によりをかけて…健康に良い野菜尽くしでも準備しましょうか?』


野菜は嫌いなのだが、とは口にするまでも無い。分かってやっているに決まっている。
悪意が有る訳では無いから、対処に困る。

結局、醤油と味噌で舌を騙しつつ、白米で流し込んだ。

昼寝を叩き起こされて些か不機嫌な状態のまま、詰め所へと向かう。
日光を吸った柔らかい布団は、結局今夜も楽しむ事が出来ないらしい。
太刀の鞘を左手で掴み、右手は柄に伸ばし、道に積もる砂埃を蹴散らして歩く。
職務に忠実な上役殿が、片足を地面にパタパタ打ちつけながら待っていた。
私はお前とは違って家庭も有れば屋敷も遠いのだ、と、言ってやりたいが我慢する。


「…今月で五人目?まさか…」


まさか、この白昼に?耳を疑う。
悲鳴を聞き付けたのは、今年任官したばかりの小役人。市中の見回り程度の職務しか無い男。
其処へ辿り着いた時は、丁度演出の最中だったらしい。
切り落とした頭部を肋骨の上へ、最後の一段落。そこを、発見したというのだ。
更に今回はもう一つ、これまでと違う点が有る。
死体は、見回りの男の同僚。つまり、武装した役人だという事だ。


「ならば…」


そう、演出家の姿を、白昼に見た、と言う事になる。
これまで誰も見る事が無かった、一連の事件の犯人の姿を、だ。
何故犯人はそのような失態をしでかしたのか?何故、白昼堂々と犯行に及んだか?
私には、犯人の心のうちは分からない。分かる気にならない。
最も、分かってしまえばそれは不愉快な事だろう。
上役の足が、規則的に地面を叩き続ける。

狭い詰め所、建物の中に詰め込む事は出来なかったのか、庭でだが。
この街の役人全てが集められ、そこで、犯人の特徴が告げられていく。


服装、頭から足までを覆う白い布。厚手の布らしく、その下に何を着ているかは見えない。

得物、刀二振り。一振りは手に、一振りは腰に。
死体に突き刺さる短刀、これは何時もの事。数える必要は無いかもしれないが、記載する。

腕前、死体の傷跡を見る限り、また、傷を負っていなかった事を鑑みるに、かなりのもの。
太刀筋からは、正式な剣術を学んだ者で有ると容易に推測できる。

体格、小柄。これだけでも随分と探す範囲を絞る事が出来る。
見回りの男も然程体格は良くない、身の丈は五尺と六寸程。それが小柄と言ったからには、少なくともそれよりは低い。


そして、何よりの特徴。

顔を隠す目的か、はたまた何か意味が有るのか、夜叉を象った面。
身に付けた者の狂気を―――犯人が狂人であると仮定するなら―――具現化したような、怖気の起こる面。


夜叉面の辻斬りか、上役がぽつりと漏らす。何か心当たりが有る訳でも無いようだが。
だが、こうして言葉に表すだけで、随分と正体に近づけたような錯覚が起こる。
いや、実際に相当に近づけたのだ。
刀を二振り揃えられる者で、成人男性と比べれば小柄な者。そして、ある程度以上の技量の者。
疑うべき相手は随分と減った。ならば、虱潰しに調べる事も、出来なくは無い。
そこでふと、今まで気にかけていなかった事に突きあたる。

集まった役人の中で、私一人だけが、脇差を刺していなかった。
皆、二振りを腰に差している。





この街に剣術の道場は一つ、だが、隣街にも道場は有り、然程困る事は無い。
そもそも、この街の道場は人を選ぶ。門下生は決して多くは無い。
その数少ない門下生の一人が私であり、私は二十で師範代と認められた。
剣の腕にはそれなり以上の自身が有る。辻斬り程度に後れを取るつもりはない。
だが、辻斬りの腕前がどれほどか、まだ正確には分からない。
いや、今はこれは雑念の内。振り払ってしまおう。
道場の中心で、木刀の素振りを繰り返す。

ここ数日、夜叉面の辻斬りは現れていない。街は、平和では無いが静かだった。
刀は手入れをしなければ錆びるように、腕も振るわねば錆びつく。
錆びつかせぬために行うのが鍛錬、文にする意味も無い程に当然の事だ。
だが、常に同じ相手と同じ鍛錬をしていては、そのうち鍛錬そのものに慣れてしまう。
手段では有るが目的では無い。それに慣れてしまっては本末転倒と言うものだろう。
だから、時折は種類の違う風を吹かせる。

つい先ほど話に出た隣街の道場との、親善試合。
人数が合わぬために双方五人ずつの勝ち抜き戦を行う事になる。
今日は、その為に朝からこうしている。
前回は私達が出向いて、今回は向こうが訪ねて来る。
尤も、この街に住む者も多いため、然程の時間はかからず到着する様だが。


真っ先に到着したのは上役殿。職務から離れて尚、真面目な事だ。
隣街の道場の大将を務めるのもこの男、負ける気はしないが、容易く勝てる気もしない。
小柄ではあるが、猿のように敏捷な男だ。

暫くして、残りの面子が集団で現れる。皆、木刀一本を手にしているだけだ。
私達の流儀は木刀、この道場で試合を行う以上、それに従ってもらう事となる。
寸止めの技量も上がると考えれば悪くは無いと、上役殿は常に前向きなご様子。
他の者達まで、そう前向きで居られるかどうかは別の問題だ。

こちらは既に揃っている。木刀一振りを手に、礼は交わさず、すぐさま試合に入る。


一人、二人と、こちらの先鋒が立て続けに抜く。やはり慣れぬ流儀ではやり辛いのだろうか。
だが、動き続ければ当然疲労も溜まる。三人目は抜けず、次。

相手方の動きは悪くは無い。が、こちらもどうやら調子が良いらしい。三人目は危なげなしに終わる。

四人目、やはり手強い。こちらも二人でどうにか倒し、最初の優位性は殆ど無くなっている。
私が出る事は無いかも知れないと思っていたが、やはりそう甘い話は無い。

こちらの四人目と敵の大将、つまりは上役殿との試合。速かった。
開始の合図と同時の、音もたてぬ踏み込みからの振り下ろし。
止めなければ左の鎖骨が砕けていた、真剣ならば心臓にまで達していただろう。
頭に浮かぶのは、仕事中に良く見るあの光景。よく見るようになった、と訂正しようか。


対峙、視線が急角度で交錯する。一尺六寸の身の丈の差、腕の長さも違う。
それは、向こうも十分に理解している筈。優位性は有る。だが、決定的な物にはならない。
合図、上役殿の小柄な体が、弾かれたように飛び出してくる。迎撃、真っ直ぐに、ただ速く振り下ろす。
懐に潜り込まれる一息前に相手の木刀を抑え、鍔迫り合いに持ち込む。
力と力で押し合うなら、そもそも勝負にはならない。一呼吸も、向こうは耐えられないだろう。
それを向こうも知っている、するりと身をかわし、喉元を狙って突きを放ってくる。

左足で体を右に押し出し、突きを首の横に素通りさせる。
ここから振り下ろされれば肩を砕かれる、ならば、逆に振り上げて腕を砕いてやろう。
上役殿の手首目掛けて、左手一本で持った木刀を振り上げる。
木刀の柄で受けられる。


「…見事」


感嘆と称賛の声が口から零れる。だが、既に試合は終わっている。
力任せの一撃を受けた相手の木刀は、天井にぶつかり鈍い音を立てた。
両手で自分の木刀を持ち直し、切っ先を喉元へ突き付ける。

真剣でこの試合を行えば、また結果は変わるのだろう。互いに、木刀だからこそ出来る事もある。
互いに、相手を殺そうとしない剣を振るう。平和で良い事だ。
少なくとも、今日は死人は増えなかった。


夕飯時。今日は試合が有った為、門下生達は当番を免除されている。
門下生の家人が、代わりに料理を持ち寄ってくれているが、それだけではやはり足りない。
それならどうするのかと言うと、至って単純な手を使う。


『御夕飯の時間ですよー』


茶碗に炊きあがった飯を盛る妻。その後ろには、風呂釜にもなりそうな大鍋が二つ。
白米と味噌汁が有れば夕餉には十分…とはいえ、これは極端な例だとは思うが。
私を筆頭に門下生は大食らい揃い、ましてや試合の後である。
この程度は訳も無い。


「ふむ、これだけの量を纏めて作るというのも楽な事では有るまい?あまりそうくるくると動きまわるな」


『あら、お料理は要領、慣れてしまえばそんなに疲れませんよ。それよりあなた、もっと沢山食べてください
ちょっと張り切り過ぎちゃって、何時もより多めにしてしまいましたから
皆さんも、まだまだおかわり有りますからね』


やはり風は強いが、上昇した体温を無くしてしまうほどではない。
皆それぞれに、食べては盛りつけ食べては盛りつけ、大鍋の中身を減らしていく。


「しかし、上役殿は強かったな。何時もの事だが」


『そうですね。あんなに小柄ですのに…顔を隠せば、本当に女性と区別がつかないのでは?』


「それは…流石に無理が有るだろう。男と女の骨格は違う。どうしても、違和感は出るものだ
…と、まあそれはどうでも良い。強かったな、と思っただけだ」


結果だけを見れば圧勝なのだろうが、あの振り上げを止められるとは思っていなかった。
勝ちに傷を付けられたような気がして、どうしてもその点だけがすっきりとしない。
あれだけの腕前の者は、この街どころか近隣の街を探してもそうはいないだろう。
それは分かっているのだが、こればかりはどうにもならない。


「…気にするまい」


気付けば、大鍋は見事に空になっていた。
十分に眠れると思い布団に入り、暫く眠り、


詰め所の者が来たと、妻に叩き起こされた。





「今月で六人目、合計で十一人目…」


手口は何一つ変わらない。ただ、同じような死体が増えるばかり。
検分には時間がかからない。一目見ただけで、もう全て判断出来る。
目撃者は無し、悲鳴を聞いた者も無し。尤も、今更目撃者を探す必要も無し。
探すべきは、夜叉面の辻斬りただ一人。


「…このままでは、どこまでも増え続けるでしょうな」


分かっている、上役は答える。放置していれば、何処までも。
だから止めようとしているのだと、改めて繰り返される。


「外出禁止令」


限度が有る、現状以上には無理だ。
町人の生活の基盤を崩すような命令を出す事は出来ない。


「見回りの増員」


人手が足りない。末端の役人だけでは何処にも足りない。
数人組での行動体勢を取りやめてしまえば、被害が増えるばかりだ。


「なら、私が出ます、暫くは。貴方は詰め所で座って居てくだされば結構
早々に片付けて休暇を頂きます…盗人の真似事をしますが、お構いなきよう」


余りおかしな事はしないように、と言われた。
私も出る、と付け加えられたが、それは丁重にお断りする。
外を動く人間は少ない方が良い。余り多ければ、目を向け切れない。
数分程の問答の末、上役の許可を取りつけた。





夜。普段とは違い、黒だけで構成された着物に着替える。
持つのは刀一振り、ただそれだけ。
詰め所を出て、暗い道を走りだす。

目に映った一本の桜の木、その幹を蹴りつけ、手近な塀に飛び乗る。
塀から高い位置の枝へ、枝から別な家の屋根へ。
そして、屋根から屋根へ、跳び移る。

人は本能的に夜の闇を恐れる。だが、あの辻斬りはどうなのだろう?
あの辻斬りも、闇を恐れるのだろうか?闇を恐れて光を持ち歩くのだろうか?
私には、そうは思えない。闇を恐れる程度の人間が、人間を斬り殺せるとは考えていない。
何故そう判断するかと問われれば、私自身がそうだからとしか答えられないのだが。

夜風に乗る桜の香り、家々の薄明かり、どちらも見慣れた物であり、
その中で静けさだけが、平常から離れて行くこの街を象徴するかのように際立つ。
この静けさは知らない。私の知る街には、このような静けさは無い。
夜だから?こちらは違うと断言しよう。
元凶は断たねばならない。


然程の時間は掛からなかった。音が、臭いが、流れて来る。
辻斬りが作った静寂は、重量の有る物が倒れる音を遠くまで届け。
桜の香りが血の臭いを薄めるも、これは違える事も無く。
唯一の誤算と言えば、察知した時には既にそれは近くに居た、という事だろうか。
民家から通りを見下ろし

それと、目が合った。
面の下の目と、目が合った。


《…………………………ハハ》


乾いた、そして渇いた嗤い。まだまだ血を飲み足りないと、渇きを訴えかけるような嗤い声。
表情こそ見えないが、おそらくは狂気に微笑んでいるのだろう。

成程、小柄だ。あれだけ小柄な者なら、確かに印象に残る。
腰に差した刀も、手に持つもう一振りも、何れも身の丈に釣り合わぬ長さだが。
被っている布は、報告に有った物とは違い、赤い。
いや、訂正する。報告に有った物と同じなのだろうが、今は赤くなっている。

近くに倒れているのは、見回り任務を行っていたと思われる下級役人。
左肩から心臓に欠けてを割られ、肩と膝に短刀を突き刺され。
おそらくは、これから解体に掛かる所だったのだろう、腹が切り開かれている。


屋根から飛び降り、腰の刀を抜く。両手で柄を固く握りしめ、正眼に構える。
足の裏を地に張り付けるように、摺り足で前へ前へと進む。
事此処に及んで、あの辻斬りが逃げ出す筈は無い。
保障は無いが、この場に居合わせれば、空気がそう告げていた事を理解出来ただろう。

相手の刀の刃を見る。私の使っている物とほぼ同じ、野太刀に近い長さが有る。
なら、腕の長さで優る私が、先手を奪える。

互いの前足の間隔は二間、ここで立ち止まり、深く息を吸い込む。


一度動き出せば、後は終わりまで動き続けるだけ。

右肩を狙っての突き、横へ一歩回避される。
低姿勢から、左膝を狙っての突き、右脚を軸に身体を反転させて回避する。
一瞬だけ姿勢が流れた、そこを狙っての左爪先蹴り、後方への跳躍によって回避される。
左足からの、体重移動を駆使しての急加速を加えての踏み込み。追いついた。
一太刀で仕留めんと、胴体を横に薙ぐように切りつける。
振り切った刀の峰に、辻斬りは片脚で立っていた。
その足だけで後方に飛び、間合いをまた離される。

尋常では無く、手強い。これ程の相手と戦える機会もそうは無い。
仕事など気にせず、何時までも斬り合いたくなる。
そんな感情の叫びを理性で制し、太刀を大上段に構える。


突然、辻斬りが、腹を押さえて蹲る。
好機、右足から大きく踏み込み、


「かああああああああっ!!」


その頭目掛け、太刀を振り下ろし、

ふと、或る事に気付く。


強引に太刀の軌道を捻じ曲げ、ギリギリの所で辻斬りから軌道を外し、切っ先で地面を穿つ。
そうだ、何故、私はこの事に気が付かなかったのだろう。
最初から、容疑者は限られていた。その中で考えるなら。
この答えなど、もっと早くも出ていてもおかしくは無かった。


《……………フフフフ…………蹴られてしまいました。
やっぱり喧嘩はいけませんよ。そうでしょう?怒ってますよ?》


夜叉面を捨てた辻斬りが、腹から手を離し立ち上がる。
首を仰け反らせて夜空を仰ぎ、口元を押さえて小さく笑い。
やがて、私の元へと歩み寄り始める。


《今夜も、お仕事ご苦労様です………》


ああ、見紛う事など有る筈も無い。
身の丈も、剣の腕も、太刀二振りを持てる環境も。
全て、完全に一致している。
最初に疑うべきだった、目が眩んでいたとしか言う他は無い。


『そろそろ帰りましょうか、あなた』


面の下から現れたのは、返り血を浴びて尚、艶然と微笑んでいたのは。
見る者を惹き付けつつ、本能の嫌悪を呼び起こす、この狂った嗤いを浮かべているのは。

私の妻の顔だった。


不意に耳に入る、誰かの足音。
走ってくるのは誰か?闇に慣れた目を細める。
一人だけ、大勢を連れてきている訳ではない。
無言で面を指さすと、妻はそれを拾い上げて被り直す。

刀を抜きつつ駆けて来るのは、上役殿。
なにやら私を指さして叫んでいらっしゃる、が。
その内容は、私には届いていない。

上役殿は、背が低い。
上役殿は、腕が立つ。
当然ながらの二本差し。

ああ、丁度良いではないか。

左足を、地を滑るように一歩踏み込み、顔の横で両手を合わせるように、太刀を高く構え、
目を見開いた上役殿の頭上へ、真っ直ぐに太刀を振り下ろす。

道場では、然程の差も無い。だが、此処は、制限の中で勝敗を競う場では無い。
頭部を二つに割られて、声も無く上役殿は崩れ落ちた。





桜山を騒がせた辻斬り騒動から、早三カ月。
身近で起こった血なまぐさい事件は、未だ街の人々の生活に尾を引いていた。
それでも、夜の外出は安全になり、屋台や酒屋は干からびずに済んでいる。
恐怖は心の中に残っていようが、腹が減るのは止められない。

役所は毎日が大騒ぎだ。
上役殿が辻斬りの正体だった、これが知れ渡った時の動揺は、尋常ではなかった。
何故あの人が、という声は少なかった。むしろ、動揺の元凶は、


「…この量は厄介だな。ふむ…」


山と積まれた捜査書類。
応酬していた証拠品などの返却や、方々への報告。
さらには殉職した者の家族への手当や、捜査に携わった者の功績の評価など。
それを、皆で分割して引き受けなければ無くなったからだ。
こうして考えてみると、改めて上役殿の優秀さが分かる。
まあ、過ぎた事。仕方が無いだろう。


昼過ぎに屋敷に戻り、縁側に腰掛ける。
パタパタと足音が聞こえて来る。


「今、帰ったぞ。どうだ?調子は」


『お帰りなさいませ。ええ、随分と身体は軽くなりました。
ですけど、合計の重量は結局変わらないんですよね』


「まあ、合計が軽くなってたら驚く。むしろ、日に日に重くなるだろう?」


数日前に生まれた赤ん坊を抱いて、妻が隣に座る。
私の家では何代ぶりか、おそらくは初めてであろう、女の長子。
まだ、どちらに似ているとも判断出来ない顔。だが、先の予測は難しくは無い。


「ふむ、良く寝ている…どれどれ」


『あら、寝てても物は掴むのですね……ふふ、可愛らしいこと』


赤ん坊の手に指を近づけると、予想以上の力で握られる。
親馬鹿扱いされても良い、気が早いと笑われても良い。
断言しよう、この娘は、きっと強くなる。


「ところで、名前をどうする?ずっと〝赤ん坊〟と呼ぶ訳にも行くまいが。
女なのだから、名前を取るとしたらお前からだが…
一文字目は、お前の家で継ぐ文字。すると、もう一つの方か?」


『ええ、今日の朝方に決めました。私の名前から一文字取って、ね。
この子の名前は〝綾菊〟』


「綾菊か…………良い名前だ、と私は思う」


街がどうあれ、我が家は平和だ。私は健康で、妻は美しく、娘には未来が有る。
娘はこの街で育ち、やがては世界を自分の足で巡るのだろう。
その後、どうするかは分からない。だが。

私は、この街に戻って来た。私の父も、その父も、そうだった。
島津の家は、この街に根付いた家。何処にいようと、此処に引き寄せられる。
この、桜山に。
魔物に魅入られたかの如く。
或いは、桜とは本当に魔物なのかも知れないが。


季節を間違えた花を、狂い咲きというのなら。
ならばこの国の桜は、全て狂っているのだろうか?
年中、休む事無く咲き続ける、この国の桜は?


いや


狂っていても、良いではないか。


桜の花に魅入られて、どうして狂わずに居られようか。
花弁より美しい刃に魅入られて、どうして狂わずに居られようか。

血の華をその身に咲かせ、どうして狂わずに居られようか。


菩薩の顔の裏に夜叉の面を隠す、母の如く。
実直な能吏の顔の裏に鬼の面を隠す、父の如く。


お前も狂え、綾菊。
散らぬ桜の如く、狂って狂って咲き誇れ。



七月二十八日、桜は未だに狂い咲きを続けている。