人ニ非ズ


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郊外、雨の降る丘。
月も星も見えぬ暗い空、遠雷と風の鳴り響く夜の闇。
ざあざあという音を立てて落下してくる滴の中、二つの生き物が対峙している。


『…やれやれ、全く間の悪い事だ。まあ、文句を言っても仕方が有るまいな』


白の小袖に漆黒の裃、夜叉の面を被り左腕を包帯で吊った女。
右の拳を固く握りしめ、鳩尾に当てて構えている。


「雨は嫌い。嫌な事しか覚えてないから。あなたは何?私と同じ≪人間の出来損ない≫?」


灰色の髪に金色の瞳、半袖シャツにジーンズの少女。
両手の爪を刃物のように変化させ、前に出した右足に体重を掛けている。

動かない。
睨み合ったまま、動かない。




―――人ニ非ズ




[どんな時だろうと鼻は嘘をつかない。必ず、正しい答えを見つけて来る。]
[その鼻がこう言っている、違う、と。]
[あれは違う、お前の知っているあの人間では無いと。]

[目は信用できない。かなりの頻度で間違いをする。]
[その目がこう言っている、そうだ、と。]
[あれがそうだ、お前の知っているあの人間だと。]


[右足で小さく踏み込み、左足を真っ直ぐに振るう。踵を抜いていた靴が、目の前の女の顔目掛けて飛んでいく。]



{まさか、今宵会おうとは思っても居なかった。今宵、こうして再び対峙しようとは}
{まさか、お前と戦う事になろうとは思わなかった。この力を、お前に向けて振るおうとは}

{近接戦闘しか行えないと思っていた相手からの、突然の遠距離攻撃。威力は無くとも牽制にはなる}
{私自身は使った事が無いが、お前には一度だけ教えてやった筈。覚えていたか}
{ああ、覚えているだろうとも。お前はもの覚えは良かったからな。}
{…覚えているのだろう?}


{靴を回避しようともせず、面で受けてそのまま前方に踏み出す。}
『存分に、殴り合おうか』



[耳にはあまり頼る事が無い。人間よりは優秀な耳だが。]
[その耳がこう言っている、そうだ、と]
[あれがそうだ、お前の知っているあの人間だと。]

[研ぎ澄ました魔力に対する感覚、先天的な才と、後天的な学習の賜物]
[それがこう言っている、違う、と。]
[あれは違う、あれは≪人間≫という生き物では無いと。]
[お前と同じ、化け物だと。]


[靴を脱いだ左足、地面に叩き付けると同時に爪を伸ばしてスパイクの代わりとする]
[靴も打撃用の凶器、まずは一撃、動きを止めようか]
[右足を突き出す。狙いは鳩尾、蹴るには丁度良い位置でも有る]
「…その口を閉じて」



{始めは、ただの明るい少女だと思っていた。怖じる事無く誰にでも接する、影の無い少女だと。}
{全く影を持たない物などそうは居ない。一度や二度口を利いた所で、影には気付けない。}
{気付いたのは何時だっただろう。何時、と明確に定義するのは無理なのかもしれない。}
{雨に降られて、そのシャツを濡らして帰って来た時か?腕試しにとせがまれて、庭で向かい合った時か?}
{覚えていない。だが、分かっているつもりだ。}

{そうだとも、私は人間では無い。お前が知っていた人間の私では。}
{姿形が同じで有ろうが、お前には分かるのだろう。私は私では無いのだと、な。}
{なあ、教えてくれ。何故お前は…}


{右手を用いて少女の右足を自分の左へ弾き、右足で一歩踏み込んで懐へ}
{弾いた右腕をそのまま用い、鳩尾への肘打ちを返す}
『…悲しいな。何故だ?』



[あの人は人間だった。]
[私とは違う、本当の人間だった。]
[違う。目の前のアレは、あの人とは違う。]

[化け物は化け物、それは何処まで行っても変わらない。]
[化け物に生まれたからには、化け物として生きていくしか無い。生きていたいのなら。]
[生きたかった。だからこそ、化け物のまま生きて来た。]

[戦いを、世界を巻き込む戦いを求めた。]
[戦いの中では、強いか弱いかしか、基準は無い。]
[強ければ生きていける。強ければ必要とされる。]
[全ての生き物が戦うなら、その中で強者として存在できるなら。]


[払われた右足を女の左足の外側へ下ろし、それを負うように体重を移動]
[するりと摺り抜けるように、女の後方へ回り込む]
「黙れ…」



{着替えに私の小袖を貸した。丈が合わないのは仕方が無い。何れ伸びる、問題も有るまいと、少々的外れな事を考えた。}
{その場でシャツを脱ぎ捨てたお前の体は、私のように傷だらけだった。}
{だが、明らかに違う。傷の数も深さも、種類も。}
{私の傷は胸と腹に。戦いによって付いた傷は、当然体の前面に集中する。}
{お前の傷は腹も背も同じ程の数。戦いの傷では無い、逃げる際に付けられた傷だとすぐに分かった。}

{手合わせの時、格闘だけでは物足りぬだろうと私が刀を抜いたあの時、お前は一瞬だが怯えを見せた。}
{出合ってすぐでは分からなかっただろうが、それなりの付き合い。それくらいは分かった。}
{あの後だったか、お前が全てを話してくれたのは。}
{…いや、全てでは無かったのか?}


{背後に回り込まれた事を即座に察知、右足を軸に反時計回りに回転し、間合いを離しつつ振り返る}
『何故だ?何故お前は…』



[化け物だからと、何度も殺されかけた。化け物だから、生きる事を赦されなかった。]
[なら、人間になろう。人間になって、人間と生きよう。そして、この街と、そこに住む人間に出会った。]
[私は人間に成れた、そう思っていた。あの雨の日まで。]

[私が悪いの?≪私だから≫嫌われたの?そんなのは嫌だ、堪えられない。]
[なら、私は化け物で良い。化け物だから、人間でないから嫌われたというのなら、私自身は否定されていない。]
[化け物である事だけが悪いというのなら、それは私にはどうしようもなくて。]
[だからこそ、その考えは。その考えは、私をこの世界に繋ぎ止める事が出来る。]
[人間に成れさえすれば。]


[振り向くという動作、それだけ有れば十分だった。この少女が、己の間合いを得るには。]
[右足の靴を脱ぎ捨てながら、地に手を付けて這うように走り接近。]
[金色の瞳が、雲間の薄明かりを捉える。]
「…聞こえないの?その口を閉じて」



{私が子を持つ事など未来永劫有りえず、お前には両親が居ない。}
{互いに代用品を求めていただけ。所詮はそれだけの事だったのかも知れない。}
{だが、お前は。我儘で幼くて、好奇心に満ち溢れていて、喧しいお前は。}
{子とはこのようなものかと、私に思わせるには十分だった。}

{「何で私は人じゃないんだろう。」お前はそう言ったな?答えなど、今でも見つからない。}
{だが、こうも答えた筈だ。『人だろうが獣だろうが魔物だろうが、お前はお前だ』と。}
{私にとってお前はお前、それだけの事なのに。}


{低い姿勢からの急激な接近により、少女の姿を見失うも。}
{幾度と無く手合わせを繰り返した相手、この手段すら読めている。}
{右の拳を固く握りしめ、後頭部へと振り下ろす。}
『…私を忘れた訳では有るまい…答えてくれ』

『なあ、吟雪』



[化け物、人、そんな種族に係わらず、私を受け入れてくれる人はそれなりにいた。]
[だけど、私が私自身である事、それだけで肯定してくれたのは一人だけだった。]
[皆が望む明るい私、良い私で無くても、≪私である≫だけで受け入れてくれたのは。]

[今でも夢に見る、あの森の朝。]
[血の臭いに引き寄せられ腹を満たすために走り、途中から良く知っている臭いが混ざり。]
[自分を欺く事の無い鼻をそれでも疑いつつそこへ辿り着いた、あの瞬間。]
[右腕は肘から千切れ掛け、脇腹には大きな穴が開き、そこからはもう血も流れ出さず。]
[治療しようと触れたその体は冷たく、決して動く事は無く。]
[名を呼んでもその口は答えようとせず、目に溜まる涙もそれ以上増える事は無い。]
[零れ落ちていく。何度目?もう分からない。]


[左腕を跳ね上げ、籠手で拳を受け止め、右の掌を女の鳩尾に触れさせ。]
[両足の爪が地面を強く捉える。]
「…黙れ…黙れ黙れ黙れ…!」

「その声で、私の名を、呼ぶな!」



右手を強く押しこむ。女の腹部が圧迫され、一瞬だが動きが止まる。
女の右腕を少女の左手が掴み、自分の左肩の上に担ぎ上げる。
両足が地面を蹴りあげ、少女の体が浮かぶ。



{寒かった。血を失って行く体に、秋の風は容赦なく吹きつけてきた。}
{痛かった。激しい痛みが、意識を失う事を妨げていた。妨げてくれていた。}

{怖かった。自分が死ぬという事が。一人で、誰にも看取られず死んでいくという事が。}
{悲しかった。私が得たもの全て、残して死ななければならないのが。}
{悔しかった。自分の力が及ばず、愛する者を嘆かせる事が。}

{あの時、私はお前の名前を呼んだだろうか?覚えていない。}
{だが、呼ぶ必要は無かった。お前にはあの手紙を預けていた。}
{何故お前だったのだと思う?何故、他の誰でも無くお前だったのだと?}


{浮いた少女の体、自分の力量であれば、斬るは容易い。}
{否、己の太刀≪白百合≫であれば、斬る事無く少女を打ち据える事が出来る。}
{だが、右手は動かなかった。少女の肩から引き戻そうとすらしなかった。}
{出来なかった。その表情を見てしまえば。}



少女の左の爪先が女の腹部に食い込み、ついで右の爪先が肋骨を捉える。
左腕は砕けていて右腕は掴まれ、防御を行う事も出来ぬままに、それらの攻撃を受ける。
少女の左足が地面に付いた、その次の瞬間。
踏み込みからの掌底重ね打ち、あばら数本を圧し折られ、女の体が後方に吹き飛んだ。



[両足を地面に付け、吹き飛んだ女に近づいていき。]
[何も言葉を発する事無く、ただ立ち尽くし、見下ろす。]


『…私が弱くなったのかお前が強くなったのか、或いは怪我のせいか…何れにせよ…』


[そうだ、こんな弱い筈は無い。あの人はこんな弱くは無い。]
[やっぱり違う。別人だ。いや、別の生き物だ。]
[あの人の筈が無い有り得ない絶対にあの人で有って欲しく無い]
[…何故?]
[あの人でないなら躊躇う事も無いから。]
[戦い、殺す事が出来るから。]


[私は人間が嫌いで、化け物である自分が大嫌いで。]
[だから、化け物も嫌いで、つまりは全ての生き物が嫌いで。]
[だけど、私は人間に成りたくて、人間である彼を誰よりも愛していて。]
[そして、私は私を受け入れてくれたあの人を―――]


[右手を振りかぶり、五本の爪を伸ばす。指を揃え、喉を引き裂くべく歩み寄る。]


次の瞬間、女は弾かれたように立ち上がり、少女に背を向けて走り出す。
その行動には何の迷いも無い。
何も迷うことなく、走り去る。
言葉の一つも残す事無く。


「…え?」


取り残された少女は、ただそれだけ声を発し。
空を見上げ、その本質である狼の如き咆哮を響かせる。
自分の顔を濡らすのが、雨だけでは無いと半ば気付きながら。
それを敢えて否定するかのように、灰色の空へ怒声を響かせる。



終わり。

そう、これで終わり。この邂逅はこれで終わり。
女は逃げ、少女は立ち去り、何もここには残らない。

たったこれだけの、世界に何も齎さない、小さな出来事。