見上げた雲の切れ間から


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【目次】
Ⅰ.Side:Ars──『Chapter0.5:血の報い』
Ⅱ.Side:D.Chrono──『Chapter1:曇りのち夜』
Ⅲ.Side:Kanna──『Chapter2:斜陽色の瞳』

(『粗悪人、そして』の直後からとなる時系列)


         ◆ ◇ ◆


  ◆Side:Ars──『Chapter0.5:血の報い』


 アルスは、世界が一瞬で逆転したような錯覚を覚えた。

 炸薬の爆ぜた重い反動、鼻に付く硝煙の臭い、夜気に反響する銃声。
それらは確かにこの小さな身に纏わり付いているのに、その結果が矛盾していることに暫く気付けなくて、呼吸を忘れていた。

 銃口から昇る小さな硝煙が音も無く揺らめいている。
リリセールは何も変わらずただ無機質の幽玄としてそこにいる。
心音が静かにうるさい。目の焦点は合っているのに、そこに現実味が無い。
視界が単なる映像にしか見えない。重力の向きが感じられない。

 熱い。
身体の何処かが焼け付くように熱い。

 それが腹部からだと気付いた時、
その熱さは気が遠くなるような痛みに変わって、
全身の力が一瞬のうちに溶解した。身体が崩落する。

 ぎいぃいん。

 骨董品の弦楽器を無理やりに弾いたような、
不協和の旋律が唐突に響いて、ようやく世界から音が戻ってきた。

〝──全ては遅すぎたのと、私は歌うわ〟

 リリセールの毒蜜酒みたいな声色が頭蓋の中で反響する。

 歯が砕ける程に強く食い縛りながら、砂に伏した顔を緩慢に起こす。
虚ろ半分、滾り半分の彼の眼(まなこ)が、自分を見下ろす冷たい人形の姿を映す。

 それから、空からゆっくりと降下してきた何者かが
両者の間に爪先から着陸し、彼とリリセールを結ぶ視線を嘲るように遮った。

 彼は腹底から喉へせり上がってきた熱い血の反吐を吐き出しながら、その何かを地面から睨み据える。

〝序列ノ四十九。声亡く奏でる者。
 喚碑名<唖奏徒>、魔法名<Lesteize>──詩(うた)だけでは、哀しいでしょう?〟

 リリセールが、彼の代わりにその者の名を紡いだ。

 二メートル超の、病的なまでの痩身。
まるで何かの切傷のように銀色のジッパーが表面上を無数になぞった、暗黒色のロングコート。
頭部を見れば、その皮膚はほぼ全てが赤黒く焼け爛れており、何故か、上下の唇は紅い糸で縫い合わせられている。
左目は黒い眼帯で塞がれ、異様に見開かれた紅い右目。そして、片手には純白の指揮棒(タクト)。

 そんな歪で醜悪なる人型の名を、レステイーゼと言った。

 ──<唖奏徒レステイーゼ>。名も無き序列の四十九番目に座する贋造悪魔<Deofol>。
 狂える異界の音階概念に受肉させた、怨嗟の形。顕現した事象は<狂奏の手繰る心無き魅了>、云わば念動力者(サイコキネ)。

 そうしっかりと記憶しているは良いものの、それをいつの間に喚び出していたのか、全く気付けなかった。
それに何故、俺の撃ったはずの銃弾が、俺の腹部に当たっている。──反射? ありえない。
あれの<旋律念動>でそんな芸当は、よほどの時間を掛けない限りは──嗚呼、そうか、よほどの時間を掛けたのか。

 俺が逡巡している間に。下らない戯言に耳を貸していたばっかりに。
頭に血が昇りすぎていたとか、そんな下らない過ちをこの俺が犯したのか。

 そもそも、あれは本来俺が従えるものだ。
何故、こいつが喚び出して遣うことが出来る。分からない。ただ愚弄されている気分だ。

 音が遠い。憎い。身体の芯を抜かれたような悪寒。頭の奥が火照る。
何処から何処までが自分の身体か分からない。這い回る焦燥。身が萎縮していく。目の奥が熱い。歪む、視界。

 彼の腹部に空いた穴から漏れ出していく鮮血の赤が、砂浜に染みると殆ど黒に近い錆色に変わる。
 その暗色よりも更に昏い絶望色の黒衣装を纏った二柱の悪魔たちが、地に這い蹲るかつての主を共に紅い瞳で見下ろしていた。

「……く、は、さぞ、良い眺め、だろ」

 彼は皮肉にも、存在を蹂躙することの何物にも勝る悦楽を知っていた。
故に、自分を見下ろす出来損ないの悪魔たちが今どんな思いでいるか、
推し量ることは吐き気がするほどに容易かった。

 無理に減らず口を叩いたので、ごぷ、と血のうねりが口内へと沸き上がり、呼吸が引き裂かれる。
 もうひたすらに沈黙して指一つ動かさずにいれば楽だったが、
何故かその手は拳銃を今一度握り締めて、銃口を前へと向けている。

 ただ、視界は既に、溶けかけの擦り硝子越しで見るように
どうしようもなく熱くぼやけていて、狙いなど全く定まりはしなかった。

〝涙を拭いてあげましょう、私の腕で。二百年前の夜と同じように。
 ねえ、主様。今は何が、それほどに怖いの? 
 死せることは怖くないと嘯いたのは、その唇と瞳なのに〟

 二百年前の黴が生えた戯言など、もう覚えてすらもいない。
あの時とはもう何もかもが違う。失う物が無い者の死など無と同義だ。

 死は、確かに恐ろしい。自分の抱くものを否応なしに全て連れ去っていくのだから。
それまでどんな者とどんな時間をどれだけ過ごそうとも、死ぬ時は皆一人を強いられる。
あらゆる事象から断絶され、世界が遠のく。急激な孤独が訪れる。そこに何の現実味を感じられないまま、無へと帰す。

 これほど心胆を寒からしめるものは無い。だからこそ抗いたい。抗わねばならない。

 そんな彼の心中を見透かすように、リリセールの無機の瞳は、彼の震える双眸を見つめていた。
そして枝垂れ柳が揺らぐように、白磁の小首を傾けた。

〝──そんなに“あの音色”が、大事?〟

 深窓の姫君が馬車から降り立つ様と良く似た風体を伴って、リリセールが一歩、彼に近づいた。

 刹那。自身の心臓に触れてくるその言霊が紡がれた瞬刻のこと、
彼は、胸の奥底から灼熱の闇が噴き上がり、そしてそれが猛り狂うまま頭脳を赤熱させたのを感じた。
まるで、視界が一度描き変えられたようだった。

「その腐れた脳味噌が、二度と、あいつに言い及んでみろ。一生、殺し続けてやる」

 リリセールが、一瞬だけ、呼吸を忘れて沈黙したように見えた。

 喉の奥で押し殺していた血の汚泥を咳で吐き出しながらも、
彼の形相は鬼さえ呪殺するような凄惨なものへと歪んでいた。

 熱い湖面と化したその瞳の最底から、
得体の知れぬ化生がその炯眼で悪魔を捉える。純粋な殺意が沸騰する。

 そして引き金に指が掛けられた。

 ぎぃいいん。

 無慈悲なる絶望の弦音が響いた。

 瞬間、前を向いていた拳銃が、駒のように鋭く回転する。
 引き金に掛けていた人差し指が用心金(トリガーガード)に巻き込まれ、
指の関節が根元から外向きに曲がって手の甲に触れた。視界が真紅に瞬き、絶叫が爆ぜる。

 幽玄な女体の悪魔は、微熱に微睡むように緩慢な瞬きをした。

〝──ねーえ? 私と、“あのひと”、何処が違うの? 
 聞いて、主様。私は沢山たくさん、“心”を集めたわ。“魂”にはまだ足りないけれど、もう何も冷たくないの〟

 自らの狂叫さえも透過して、その平坦な婀娜声は脳幹を揺さぶってくる。

〝悪魔に罪を赦すことは出来ないけれど、罰を与えることは出来るわ。
 他の誰に与えられるくらいなら、私こそが与えるに相応しいの。ねえ? そうでしょう──?〟

 海はいよいよ荒れ始め、波音が強奏記号(フォルテ)を重ねていく。
 生暖かいブランデーの香が一層濃厚になり、彼の周囲に纏わり付く。
リリセールがまた一歩、妖艶な白い素足で砂浜を踏んで、レステイーゼと並んだ。

 砂と血と涙が入り混じった化粧を纏う彼の虚ろな顔が、震えながら小刻みに歯を鳴らしていた。

 ──今この身を嘲る辱めは、今までだって自分が与えた、または誰かに与えようとしたものだ。
悲観する資格などは、それこそ砂の一粒ほども持ち合わせていない。無様は甘んじて受け入れる。
憤怒も憎悪も決して届かない。地の底で骨を噛むような虚しさが身を掻き毟る。それでいい。

 だが、重ねて来世と再来世を地獄に捧げてもいいから、ここで潰えることだけはしたくない。
眼球と心臓を抉られても、口と耳さえあればまだ生きたい。
命をいくら連ねたってもう得られないものを残していきたくはない。ただそれだけ、ただそれだけだ。

 そうだ、思え。今までに殺し合った能力者たちの中には、
ただの一人だって、諦観で戦いから背いた者は居なかっただろうが。
あの輝かしいクソどもの、何分の一、何十分の一、
いや何百分の一だっていいから、身を振り絞れれば、俺は。もう少しだけ。

 リリセールの周囲に黒風が渦巻き、魔力と夜気が攪拌され始めた。
 彼の口からは、吹き込む隙間風のような寒々しい吐息が不規則に漏れ出すだけで、それはもう殆ど呼吸とは呼べなかった。
 だが、体温が衰えていけば衰えていくほど、逆に心ノ臓の灯火(ともしび)は灼熱を湛えて滾りを増した。

 身体と精神を繋ぐ硬い鉄の連環が、その瞬間、音を立てて割れたような気がした。

(──聞け、鎖を纏いし臓を持つ、生まれ無き者よ)

 鉄臭い血の味しかしない、砂混じりの唾液を吐き捨てる。
遠のく意識に噛り付いて、身を灼くような痛みに震えながら、その唇はそれを紡いだ。

「──“OL SONF”“VORSG GOHO IAD ”“BALT LANSH ”“CALZ VONPHO...”」

 不思議なことが起きた。

 管弦楽団(オーケストラ)の旋律に酔いしれる指揮者の如く、
指揮棒を振り翳しながら彼を見下し嗤っていたレステイーゼが、
途端に硬直し、それから糸が切れたように脱力した。その手から純白の尖針が無音で滑り落ちる。

 リリセールは、人形(ドール)めいた無の表情のままだったが、本能的に一歩後退りをした。

 二柱の悪魔たちは、自らの意思とは全く関係のない現象が唐突に訪れたことに、二、三度瞬きを終えるまで思考が白紙と化した。

 途切れ途切れの詠唱は尚も続けられた。

「“SOBRA ZOL ROR I TA NAZPSAD,”“OD GRAA TA MALPRG;”、っ」

 そこまで紡いだ時、湿った雑音がそれを中断する。
彼の口から紅い泡を含んだ反吐が飛び出し、焼け付く喉が更に咳き込む。

 リリセールの意識が現界に戻り、即座、魔杖の先端を彼へと掲げる。今までにない早急さを伴った動作だった。

〝──神は信ずるに値しないとその唇は紡いだのに。
 今は、その御名を遣うなんて。卑怯で、最低ね〟

 その声色は、平坦な甘やかさとは打って変わって、僅かに揺らめく何かを内包していた。
 彼は苦し紛れに口の片端を歪めて、蚊の鳴く声で嗤ってみせる。

「……貴様ら、糞に、喰われるく、らい、なら、俺、は」

 重低音。

 水と泡が膨れ上がりそして潰れる音。
 彼の目が一度大きく見開かれ、硬直。

 それから、弛緩して、ゆっくりと、焦点を失った。

 沈黙と静寂が、満ちた。

 海面がうねり、波と波が激しく衝突を繰り返す。昏い雲は、飛ぶように闇の天空を駆けていた。

 無機なる幽玄の艶貌が、荒れる潮風に乱れた横髪を、耳の縁を撫でるように掻き揚げる。
 レステイーゼが、項垂れていた醜貌の面をゆっくりと起こし、縫われた唇の両端を吊り上げる。

 二柱の悪魔が見下ろす先。
 細く長い十字架を抱いた女神の彫像、ただし漆黒のそれが、脳天を下にする形で彼の上に落下していた。
十字架の先端が、彼の胴体を貫通して、砂浜に深く突き立ち、作法の異なる陰惨な磔刑を遂行していた。
頬に紅い返り血を浴びた黒き女神の横顔は、無機質の慈愛に満ち溢れていた。

 暫時の静寂の後、愛撫に身を捩る娼婦の如き、甘く切なげな婀娜声がそこに響く。

〝──さようなら、私の愛した主様。
 そう、これで私が次の<Goetia>になるの。
 死が何かは識らないけれど、その甘さは知っているわ〟

 謳い上げられたその昏くて嫋やかな葬送歌が、甘い香に乗り海に散っていく。

 彼は、光の消えた瞳で完全に沈黙していた。
半開きのまま硬直した瞼。呆けたように開いた血濡れの口も、もう何も言わない。

 逆さになった女神の身に纏う赤化粧が、重力に撫でられ爛れていく。
嘘のような血の量と、生々しい無言だけがそこに残された。

 もう夜風の唸る声しかそこには聞こえなかった。
 深夜の海は光の届かぬ深い闇を湛えて、更にうねりを増す。

 リリセールは、何処か満ち足りた風に鷹揚な瞬きをすると、海に視線を向けた。

〝眠っていれば、罪を犯さずに済んだのに〟

 激しい波音が砕け、そして退いていく。
 生温いブランデーの香と、潮の香りと、鉄錆の血の馨り。それらが黒い風で攪拌されて、昏く淀んだ渦を巻く。

 いつまでも、重い静寂が夜気を包み込んでいた。


         ◆ ◇ ◆


  ◆Side:D.Chrono──『Chapter1:曇りのち夜』


 黒野ダンドクだった何者かは思考する。

 ──人が最も恐れることは、果たして何なのだろう。
 死だろうか。孤独だろうか。それともまた、別の何かだろうか。
様々が思いつく。人によって、異なりはするのかもしれない。

 だが、僕という個人が恐れていることは確かに在った。
炎で身を焼かれるよりも、剣で臓腑を切り裂かれるよりも、遥かに耐え難い闇色の業苦。

 それが今、この身を苛んでいる。終わり無く、音も無く。


         * * *


 天蓋の高くにあった鋭利な三日月に、朧な雲がかかる。
 海は、依然としてささくれ立っていた。

 昏い水平線を眺めていたリリセールの幽玄な肢体が、円舞曲(ロンド)でも踊るように翻る。

〝──ねえ? 人の世界の海の底には、雪が降るそうよ〟

 素敵ね、と付け加えて、しかしそれに答える声はなく、波音だけが響く。
レステイーゼの醜悪な口の端が、歪むように吊り上がった。

 もうこの場にいる意味も無く、二柱がそのまま姿を消そうとしていたその時。
潮風に逆らう、小さな黒の魔力風が砂上に渦巻いた。

 その風は、黒や銀色をした無数の微細な多面体の群れを含んでいた。
そしてそれらが互いに収束し、収斂。すぐさま霧消すると、そこに一人の青年が現れる。

 乱雑に毛先が黒く染まった、緩く波打つ橙色の髪と、
夜空を映したような暗色の瞳。静閑なる暗い鋭さを抱く人物だった。

〝眠っていたのでは、なかったの?〟

 リリセールは言霊を紡ぎながら、鷹揚に彼へと身体ごと振り向く。

「何故、僕ではなく悪魔を遣った」

 氷の刃を振るうような声色が、リリセールを詰問する。
潮風が吹き抜け、彼が纏う鴉のような貫頭衣型の外套がはためいた。

〝妬いているの?〟

 無機質な骨董人形(アンティークドール)の貌が、小首をかしげる。
 青年は、リリセールの甘美な冗句などには一切耳を貸すことなく、沈黙で否定した。
そしてレステイーゼを一瞥し、それから陰惨な女神の磔刑へと顔を向ける。

 波と波が抱擁する音が、満ちる静寂の間を埋める。

〝死んだわ。報いを受けたの〟

 視線の行き先に気付いたリリセールが、青年が尋ねる前に言を紡いだ。
彼の眼差しがリリセールに戻り、言う。

「君に『死』が識るのか」

〝かつての主様は、魂を取られることだと言っていたわ〟

 平坦な言霊の流れに、何処か少しだけ嬉しげな色が混じる。
 リリセールはその魔杖を軽く掲げ、舞うように虚空を薙いだ。

 すると、彫像から粘性を孕んだ透明な液が染み出し、
物言わぬ小さな肉体の表面を、生物じみた動きで全て包み込む。
次いで、その肉体の表面が、極光のように、或いは水面に浮かぶ油膜のように、
様々な色彩が蠢き混ざり合う異物に変化していき、そしてそれは液状化して彫像の中に吸い込まれていった。

「その魂は、誰の物になる」

 特に瞳が揺らぐことも無く、青年は尋ねた。

〝私のものよ。ずっと欲しかった、宝物だもの〟

 リリセールは、淑やかに一つ瞬きをした。
 暇を持て余すレステイーゼは、波音を楽団の音色に見立てるかのように、指揮棒を海に向かって振るっている。

 青年はほんの僅かに焦点をずらして、浜に横たわる血塗れの拳銃を視界の端に映した。
それから再び焦点を戻し、言う。

「あれは僕が贖うべき魂だと、確かに契ったはずだ。名と記憶を喪っても、それだけは忘れない」

 深い夜色の視線が、リリセールの繊細に作り物めいた瞳を突き刺す。

 暫時、両者は佇んだ。

 曇天は音も無くうねり、暗い雲たちを遥かなる彼方へと押しやっていく。
月はますますその姿を奥へ潜め、海面に漂う淡い月光の幕も溶けて消えていた。

 動かない桜色の唇が、やがて沈黙を破って言霊を奏でる。

〝贖う理由を持たない貴方が、あの魂を得ても何にもならないわ。
 貴方は、純粋な黒色にはなれないの。貴方はずっと、曇りの華よ〟

 無音。

 その時、外套の下で青年の腕が僅かに蠢いた。

「不純な黒だって構わないさ」

 ばさり、と靡く外套の下から、鋭く腕が伸びる。
その手には、ソードオフされたレバーアクション式の魔銃が握られていた。
 漆塗りのように艶めく銃身、機関部に施された銀色の古風な意匠。連射小銃型心蝕銃、<終焉する新来 Ende=Neu>。

 刹那で異変に気付いたレステイーゼが、
風を斬る俊敏さで向き直り、銃口とリリセールを結ぶ直線上に割って入る。

 場が緊縛する。

〝──何をそんなに、荒れているの?〟

 微睡みの微熱を帯びた、リリセールの声色。

 反して、鋼線を張ったような空気の中、
青年の銃口がレステイーゼを見据え、純白の指揮棒は今にも狂音を奏でんと掲げられる。

 唸る強風が、肌を刺す沈黙の間を吹き渡っていく。

 青年が言う。

「もう、沢山だ。自身の名も生まれも知らないまま、掴み掛けたものを手放し続けていくのは。
 僕に終わりはいつ訪れる。このまま先が見えないのなら、僕の心を返してもらう」

 夜色の双眸の奥に、明暗の反転した零度の炎が渦巻いた。
静かなる憤懣(ふんまん)が夜気を歪めるように滲み出す。

 リリセールは、そこに表情があったなら微笑んでいたであろう声色で、言霊を紡いだ。

〝そう。貴方は、哀しいのね。なら、やってみる?〟

 息吹のような突風が、両者の間を駆け抜ける。

「ああ。ここで終わりにするんだ」

 青年が右へ一歩、砂を踏む。砂の擦れる音。レステイーゼもそれに合わせ、同方向に足を運ぶ。
一歩、一歩、互いの眼(まなこ)を見据えながら平行移動が続き、間合いが計られ合う。
静謐。場が耐え切れず悲鳴をあげそうな程に緊縛する。波音が砕ける。

 砂浜へと這いよった波が引き返していく、その刹那。

 魔銃の引き金が引かれると同時、狂った弦音が鳴り響き死闘の幕開けを告げた。

 甲高い魔力反応音と共に撃ち出された黒色の魔力弾がレステイーゼの頭部目掛け
飛翔するがしかし、念動力によって僅かに起動が逸らされ耳の横を掠める。
レステイーゼの返す手で追撃の強奏(フォルテ)が指揮され狂音が響く。

 その瞬間、青年は見る。
指揮棒を起点に、空気を歪ませる不可視の何かが放たれ飛来してくるのを。

 咄嗟に横へ飛び退き、数刹那前まで彼の身体があった空間を不可視の何かが過ぎっていく。
逃げ遅れた外套の裾がそれに当たった瞬間、まるで何かに引き千切られるように布地が裂けた。
その様を視界に捉え、須臾の間に思考が巡る。

 レステイーゼの念動力が作用する空間は、突然何も無いところに発生するのではなく、
あの指揮棒からの一直線上を進むもののようであった。
云わば、念力が作用する特異空間を作り出し、それを飛び道具の要領で放っている。

 彼はそう推測する。当然、それ以外の可能性も存分に在り得るため、
早急に決め付けるのは危険だが、一合で手掛かりを得たのは大きい。

 砂上を横転し、起き上がりざまにレバーを押し引き、再装填。
薬室(チェンバー)から排出された空薬莢が地に落ちる前に、銃口を前へ向けて引き金を引く。
 レステイーゼがまたも軌道を逸らさんと指揮棒を掲げるが、
念力が作用する前にその弾丸は足元の砂地に突き刺さって命中しない。

 撃ち損じたか、とレステイーゼが僅かに口の端を吊り上げたその時、
着弾点から紅紫、菫蒼、菊黄、純白、と煩い色彩たちが百花繚乱し、魔力光を纏う。
次の刹那、閃光と轟音が炸裂。

 彼の持つ植物生成変化系異能<Seed=Noir>の発動だった。
花が爆弾の性質を持ち魔力炸発、それによる爆風が足元からほぼ至近でレステイーゼを強襲、
灼熱の颶風を引き連れて異形を抱擁する。不意を突かれその醜悪な痩身が軽々しく後方へ吹き飛ばされる。

 舞い上がった砂塵が互いの姿を一時遮断する。
無音。青年がレバーを引き再装填、追撃の銃口を前方に向ける。

 ぎいぃん、ぎぃいん、ぎぃん。

 狂音が三重奏する。朧な紗幕の向こう側から砂塵を蹴散らしてくる重厚な気配。
號、と唸り煙幕を突き破ってきたのは十字架を抱く血濡れの黒き女神像だった。
横倒しの状態で迫るそれは足元が砂地ということと合わさって左右の回避を赦さない。

 どうっ、と鈍い音を立てて暴力的な慈愛の質量が青年の肉体を殴りつける。
が、咄嗟、青年は外套の下で異能を使役、腹部に現れた半球状の硬い何かが衝撃を僅かに緩衝し、
尚且つその力方向を横に逸らす。重い摩擦音を立てて青年の後方に墜落する女神像。

 青年が僅かに喀血しながら片膝を付くと、彼の腹部からそれが滑り落ちる。
黒い塊根であった。キッコウリュウと呼ばれる多年草のそれ。
その名の通り、亀の甲羅のようなコルク質の塊根を持つ植物で、それを咄嗟に盾にしたのだった。

 静閑に砂塵が晴れ、再び互いの姿が闇夜に浮かぶ。

 ゴシック調の黒いワンピースの裾を潮風に弄ばせながら、耳の縁を撫でるように髪を掻き上げるリリセール。
 そしてそのすぐ前方にレステイーゼは浮遊している。
先の爆炸により暗黒色の衣装の端々が焦げて崩れ、その醜貌を引き立てるのに一役買っていた。

 青年と悪魔、両者はほぼ互角と言えた。たった一つ、ある致命的な点を除いては。

〝息が切れるの、早いのね〟

 リリセールが吐息を吹きかけるように囁く。
 そう、確かにこの時点でもう青年の息は上がり始めていた。
自身の心臓の上を片手で握り締める青年。一方、受けた損傷(ダメージ)量は彼とほぼ同等か、
或いは僅かに上なのにも関わらず、レステイーゼの方は未だ余力を残したように歪な笑みを浮かべている。

 それは、両者の魔力総量の違い故に起きた差異。
今まで、青年の魔力の大部分はリリセールによって供給されていたため、
それが途絶えれば当然持久力も減る。現在リリセールはレステイーゼの方にしか魔力を送っていない。
送ろうはずもないのだ、自らに仇なす者には。

 青年の心臓は、張り詰めていた。

〝ねえ? 勝手に遠くに行っては駄目よ。
 貴方は、花の蜜が無いと生きられないもの。今なら帰って来られるわ〟

「……もう、お前の蜜色の毒は要らない」

 夜色の双眸の向こうに、更に昏い闇色が胎動する。
静かなる激昂に奥歯を食い縛り、眼差しで刺殺するようにリリセールを睥睨する。
青年の怒れる黒い魔力が渦を巻き、魔銃の機関部に填められた暗褐色の宝珠が昏い輝きを帯びる。

〝そんなに注いだら、きっと貴方はすぐに壊れてしまうわ〟

「虚ろなままより……ずっと良いっッ」

 瞬間、青年が魔銃で空を斬り照準する。
が、その二刹那だけ早く、レステイーゼが指揮棒を振るっている。

 ぎぃいん。
 黒き輝きを秘めたその魔銃が怨嗟の音律に手繰られ青年の手から離別、宙空を虚しく回り舞う。
女王(クイーン)取り。

 レステイーゼの醜く戒められた唇が歪む。手首が返り、すかさず追撃を奏でる。
指揮棒から発生した不可視の念動作用空間が、命綱を手放した青年へと夜気を歪めながら無慈悲に迫り行く。
王手(チェック)。

 その、刹那。
青年は持てる力を搾り出し、絶望の軌道上から逸れんと飛び退く。
逃げ遅れた左足に念力塊が被弾、膝から下が歪に捻れる。
だが、激烈な痛みに顔を歪めながらもなお強く伸ばされるその手の先には、あの血染めの拳銃が、転げていた。

 魔銃と憤怒は、全てそこから意識を逸らすための偽装工作(フェイク)!
 伸びた手が拳銃を掴み取り流れるままレステイーゼへと鋭く向ける。
異形の片目が大きく見開かれる。逆王手、再び指揮棒を振るうより鉛の疾弾がこの身を貫く方が早い──っ!

 尤も、弾が出れば、の話だが。

 ──良い手だったわ。
 でも、残念ね。その先は、チェックメイト。

 その瞬間。
リリセールは、無機質の優艶さを伴って小首を傾げた。
まるで、ようやくやってきた恋人を温かく迎えるかの如く。

 そう。リリセールは、この決死の欺瞞を始めから予期していた。
 青年は必ず、隙をついてあの拳銃を使ってくるだろうと。そしてその本命を悟らせない工作をしてくるだろうと。
今まで彼を操ってきたリリセールだからこそ、それが手に取るように分かっていた。

 故に、密かにレステイーゼの念動力を使わせて、
拳銃の表面に付着していた砂と血をその内部へと滑り込ませ、故障させていた。
その程度の微力な念動ならば、指揮棒を振るわずとも行うことが出来るし、
更には最初の砂塵の煙幕の時にもそれを悠々と行う時間があった。仕組まれた盤面だった。

 そのまま引き金を引いてもまず弾は出ず、運が悪ければ暴発さえする。
それを知るリリセールは、青年をとても哀れに思った。
 くす、と、今まで人形のように微動だにしなかったその桜の唇が、ここに来て初めて微かに笑む。悪魔の微笑みだった。

 一秒を何千分の一にも分けた時間が、コマ送りで進んでいく。
青年の人差し指が、引き金にかかっていく。
レステイーゼは滲み出すように驚愕の表情を作り出していく。
その奥に佇むリリセールの、濡れた唇の端が甘く歪んで、微笑を孕む。

 そして引き金が、引かれた。

 ただし、魔銃<Ende=Neu>の。

 響き渡る魔力反応音。
今の今まで紡いでいた濃密な黒き弾丸が夜気を鋭く裂き飛翔、レステイーゼの腹部を穿孔する!
 醜貌に、真の驚愕が爆ぜる。

 放たれた弾丸は、金属化させたトウゴマの種子。
着弾と同時に、内包された闇色の魔力が猛然と吹き上がり、
金属化の解除と共にリシンと呼ばれる猛毒素が解放される。
術者の魔力操作によってその濃度は極限まで高められ、高速で循環、効果を促進する。

 トウゴマの種子に含まれる毒性蛋白たるリシンは、
細胞内の蛋白質合成機能を持ったある中枢配列を切断する酵素として作用する。
摂取方法により症状は異なるが、筋肉内に直接投与した場合はその部位に激しい疼痛及び筋肉の壊死、
そしてリンパ節の壊死を齎し、量によっては当然死に至らしめる。そのような猛毒が、決して多くないとは言え、
青年の魔力全てを込められた奔流によって濃度を保ったまま、レステイーゼの全身を血流さえ追い越して駆け巡っていく。

 全身の筋肉が破壊されていく筆舌に尽くしがたい激痛に、
レステイーゼは耳を塞ぎたくなるような凄絶たる絶叫を上げてのた打ち回る。
完全に白目を向き、口から青黒い血の泡を吹き出しながら、手足をあらぬ方向に捻じ曲げて背筋を反る。
生命力の強い異形の肉体は、皮肉にも、気絶することを赦さなかった。

 レステイーゼの念動力では、どう足掻いても解毒は不可能だった。
いくら異界の化生とは言え、身体的構造は他の生物とほぼ変わりないため、
身の内を灼き尽くす毒の侵蝕から逃れることは出来ない。

 そしてレステイーゼを苛む煉獄の激痛は、
召喚主であるリリセールの肉体にもダメージとなって還っていく。
その柳腰の肢体が一度激しく痙攣して反り返り、黒血の飛沫が口から花咲くように舞う。
琥珀色の髪が千々として揺れ乱れ、緩慢に項垂れながら、腰から下が崩落するようにへたり込んだ。

 内臓を搾り出すような途切れ声が漏れる。

〝な、ぜ──わ、たしの、いっ、て〟

「……僕の心はもう、お前には、握らせない」

 引き金の引かれなかった血塗れの拳銃が、彼の手を滑り落ちて砂上に堕ちる。
青年を離れ地に伏していた魔銃、その装弾口からは漆黒の蔓草が伸びていた。
銃口を僅かに上向きにさせ、尚且つ引き金に絡み付いている。

 夜の海よりも昏い彼の瞳が、爪を立てて自身を抱くリリセールの姿を映す。
 リリセールは、身を焼き尽くす全身の痛みの中で、反芻する。

 ──何故? 魔銃を偽装工作(フェイク)に使い、その裏に本命の拳銃を使ってくると、読んでいたのに。
何故、その引き金を引かなかった。いや、まさか、在り得ない。こちらの手が、逆に読まれていた?
こちらの工作にまんまと騙された振りをして、偽装工作(フェイク)そのものが既に欺瞞。在り得ない、そんなことは。

 リリセールは、気付いた。だがそう考えると全て辻褄が合うのだ、と。

──そうだ。全ての化かし合いは、この場に降り立った時から既に始まっていた。
拳銃を見遣る僅かな視線の動き。あの砂塵の煙幕。分かり易い激昂の演技。
今思えば、あれらは全て、こちらを誘導する罠、読み合いに組み込まれた駒だ。
拳銃の細工に気付かない振りをして、恐らく、向こうもまた、あの煙幕の中で自身の魔銃に細工をしていた。

魔銃を偽装工作(フェイク)にして拳銃が本命である、と敢えて読ませ、やはり本命は魔銃。
一歩間違えば、無限の堂々巡りなのに、自分はそれに敗れた。

 こちらが勝利を確信したその瞬間が、敗北だった。
人は、否、悪魔でさえも、最高の一手を突きつける時にこそ、最大に油断する。
その策が優秀であると思えば思うほど、自分に自信があればあるほど。

「……お前は必ず、僕を欺くはずだった。
今までだって、お前はそうしてきた。それを裏切ることが、お前との決別の証だ」

 リリセールはもう、言霊を紡ぐこともせず、
不可視の消えない炎が身を苛むのに震え、白磁の肌に爪痕を刻みながら蹲っていた。

 青年の突き付けた通り。あの幽玄の悪魔は今まで自分の思考を読み取り、
その手の平の上で踊らせていたのだから、きっと、また自分の裏を読んでくるだろうと、八割方確信していた。
だからこそ、その更に裏を掻くべく、少ない魔力をその一手に賭けた。

 一手読み誤れば全てが崩れ去る、背中の探り合い。
半分だけの人間と、出来損ないの悪魔の、知恵比べに似せた、不毛な度胸試しだ。
今宵、その軍配は、誰に知られることも無く人間の方に上がった。

 彼の頭脳が明晰であり、尚且つそれ故の勝利であったかと言えば、恐らくそうではない。
ある特殊な盤面の上で初めて打てる、一度きりの一手だからだ。
初陣同士ならば結果が逆転している可能性は大いにある。

相手が裏を読んでくると分かっているからこそ、その裏をかけるのであり、
始めから裏の裏をかこうとすれば、逆に手痛いしっぺ返しを喰らう羽目になるだろう。


 荒んでいた夜空と海が、幾らか平静を取り戻していきつつあった。
 レステイーゼは完全に沈黙し、あらゆる関節が捻じ曲がった歪な躯(むくろ)と成り果てている。
破壊された瞼の筋肉は閉じることなく、瞳が大きく見開かれたままの異様な形相で息を絶していた。

 リリセールはその痩身を自らで抱きながら、依然としてへたり込んだままだった。
震えは止まっているものの、ブランデーの香すら希薄になり、それこそ骨董人形のように動こうとしない。

 青年が、関節の捻れた左足を引き摺りながら魔銃を拾い上げる。
そして沈黙した二柱の悪魔たちを一瞥すると、そのまま背を向けた。

〝何処へ、行くの〟

 リリセールが俯いたまま言霊を紡ぐ。
 垂(しだ)れた前髪が覆い隠す蒼白の貌。
潮風が吹き付けて前髪を一度捲りあげるが、やはりその表情は無機質のままだった。

 青年は振り返ることもしない。
自身の動かない左足に黒い葡萄の蔓を巻きつけて、簡易な固定処置を施す。歩み出すための準備をしていた。

 暫時沈黙して、ようやく、彼が言った。

「……金の国だ」

 夜風が髪を撫でる。
 数呼吸の沈黙が満ちて、リリセールが緩慢に顔を起こす。そして問う。

〝其処に、何があるの〟

「分からない。ただ、行かなければならない気がする」

〝その心は、本当に貴方の物?〟

「それを確かめに行くんだ」

 青年がなけなしの魔力で、歪に捻れた黒い樫の枝を生成する。杖にするつもりなのだろう。
 それを見て、リリセールが蜜色の声で揺さぶる。

〝──貴方が何者なのか、それを知っているのはこの私だけよ。
 世界はまやかしに満ちているわ。その全てが、貴方を欺こうとする。何が真実か、何が虚構か、導けるのは私だけ。
 貴方は、私無しで生きることは出来ないわ〟

 彼は即答する。

「生きるさ」

〝無理よ〟

「例え無理だったとしても、何が黒で何が白なのか、それは僕が決める。
 もう、お前の狂った黒で歪な白を塗り潰したくはない。
 虚ろな生を歩むぐらいならば、僕はこの身に死を手向ける」

 波が押し寄せ、退いていく。

〝──貴い詭弁ね。人は、そう簡単に死を選べないわ。
 生が自分一人で成されたものではないように、死もまた一人で抱けるものではないもの〟

「僕以外に僕の死を抱ける者が居ると言うのなら、何故お前は僕にそれを教えない。
 今の僕は、生も死も僕一人だけのものだ」

 リリセールは沈黙した。

「ならば、本当に恐ろしいのは死ではない。
 僕にとって、本当に忌むべきことは」

 暗き雲が闇の天空を疾(と)く駆ける。

「生の意味を、失うことだ」

 一歩が踏み出された。
 波の飛沫が舞う。毅勇な沈黙が、暫時満ちる。

 再び、リリセールが紡いだ。

〝私と共にあるのが、意味の無いことだと言うの〟

「ああ。ただ甘いだけで何の意味もない。いや、それ以下だ」

 杖で砂を突き刺し、再び一歩。
青年の背中越しに紡がれる声は、暗くありながら厳粛さも帯びていた。
彼は決して振り向くことをしなかった。もう悪魔たちが立てないことを知っていたからだ。

 虚ろな紅玉の瞳が、一歩一歩刻むように遠ざかっていく背中を映す。潮風に撫でられ、琥珀色の艶髪が揺らめく。
リリセールは、寒さに凍えるように身体を縮め、細い白磁の腕で自身の華奢な身を抱いた。
その痩身は、弱々しく震えていた。そのまま風に吹かれれば消え入りそうなほどに、背中は小さい。

 言霊が、搾り出された。

〝一人に、しないで。お願い、だから。ねえ──〟

 声色が、か細く潤んでいた。

 青年の歩みが無意識に止まる。
止まってしまう。失策(ファンブル)。

 ぎぃいいん。

 もう鳴るはずの無かった狂気の弦音が響いた。

 刹那に振り返りながら青年は絶望を悟る。
眼前、黒き女神像が血の慈愛を湛えて肉迫している。
十字架の先は腹の臓物を見据えている。あの陰惨な磔刑が脳裏を過ぎり、過ぎっていく、その時。

 びしゃっ。
無情。青年の口腔から、紅血が舞った。

 無音。

 桜色の口唇が、愉悦で微笑する。

 ──声亡き怨嗟を奏でる者、レステイーゼ。
全身を筋肉を破壊されたのにも関わらず、僅かに残った魔力で脳だけを働かせ、最後の念動力を紡いでいた。
見開かれたまま凍りついたその紅き瞳は、狂った執念を湛えていた。

〝──あら。心を失ったのでは、なかったの〟

 毒蜜の声色が、囁くように語り掛ける。
 幽玄の悪魔は心得ていた。女の哀愁も全ては欺瞞。
心を僅かでも取り戻しつつあるのなら、またそれを利用してやれば良いと。

 全七十二柱の中で唯一、人の言葉を介すことが出来るのは、全てそのためだ。
獄寵妃リリセール。序列の最下位は、姿だけが人。

 ──きぃん。

 鉄琴の最高音に似た音(ね)が、響いた。

 血塗れの十字架の先端からだった。
呪われし磔刑、その完遂が、小さな透明な膜によって拒まれていた。
血の慈愛に逆らうその不可視の何かは、瞬時、肥大。
透明な反発力が黒き女神の肌に皹を刻み、その身を勢い良く宙空に弾き返した。

 膝を付いて体勢を崩した青年の懐から、力強い一筋の風が飛び出す。
 その場の両者が見上げたそれは、一体の小さな人形だった。
首の途中が括(くび)れた、歪な形。その名を『つー』と言うことを、青年は覚えていなかった。

 完全なる運命外からの使者に、数瞬、言葉が失われた。

 沈黙を置き去りにして次の刹那、巨人の息吹のような一陣の突風が疾走。
風圧で両者の髪と服が荒波の如く翻るが同時、レステイーゼの痩躯が紙切れのように舞い上げられ、
空中で激しく回転乱舞しながら海の彼方へと飛ばされていく。遥か遠方で小さな水柱が上がった。

 青年が颶風の風上を見ると、そこにはまた別の一体がいた。
 口の大きな人形。その名を『ニシン』と言うことを、両者は知らなかった。

 ──魔導人形<インディアンズ>。
彼にまだ心があったかつて、知り合った魔術師から勢いで買った魔導具。
以前の彼本人も買ったかどうかの記憶が多少あやふやで、
尚且つ闇に飲まれてからは傷つけさえしたそれが、いつの間にか、主の下へと舞い戻ってきていた。

 リリセールに表情があったなら、それはきっと驚愕で呆然としているだろう。
それから、苦笑の一つも浮かべたかもしれない。
 チェックメイトを掛けた盤面に、第三の駒が入り込んでくるなんて、そんなの、聞いたこともない、と。

 青年も暫しの間、言葉を失っていた。
瞬時に訪れた死の絶望から、また瞬時に舞い戻っているのだ。
自分の詰めの甘さが生んだこととは言え、あまりに濃密過ぎた数刹那を咀嚼しきるのに一杯一杯だった。

 ……ふと、もう一つの気配を感じる。見上げると、奇妙があった。
 浮遊する野箆坊(のっぺらぼう)の人形。片手には包丁を持ち、首吊りの真似事をしている。
それだけ、だった。

 青年は、何事も無かったように視線を前に戻した。
 自殺人形が、彼の目の前まで高度を落としてくる。
 青年が、黙したまま右を向いた。

 それを追って、人形が水平移動する。
 青年が、緩慢な動作で前を向いた。
 空を滑り、人形が再び青年の目の前へ躍り出る。

 青年が、ゆっくりと魔銃を向けた。

 そこで他の人形たちが何やら騒がしく飛び跳ね始めたので、彼は二体に視線を向ける。
それから鋭い切れ長の瞳が、首吊り人形を横目で一瞥。銃を下ろした。

 浮いていた人形が、ようやく地に降りてくる。
二体の人形たちがその自殺玩具を取り囲み、何やら音のない叱責を浴びせる。
野箆坊(のっぺらぼう)がしょげたように面を伏せた。

〝──こんな盤面は、無しよ〟

 リリセールが言った。

「……そう思いたいなら、思えば良い」

 青年は杖に縋りながら緩慢に立ち上がり、リリセールへと視線を向ける。
手元の魔銃を一瞥したが、しかし、再び背を向けて歩き出す。

〝撃たないの。それとも撃てない〟

「両方だ」

 一歩歩み、そして続ける。

「出来損ないの悪魔に、半分欠けた人間が報いを与えても虚しいだけだろう。
 お前は、真の“心”によって裁かれるべきだ」

 リリセールの返す言葉はなかった。
もう、完全に打つ手は無くなったのだ。最後の一手で決められたのに。勝負には敗れてもその命は奪えたのに。
外から入り込んだ歯車が全ての流れを変えていく。そこまではもう、いくら悪魔と言えど手の届く範囲ではない。

 彼は緩慢ながらも、歩みを続ける。
一歩を区切るように遅くはあるが、それが重いものかと言えば、そうは言えなかった。
目的があって進むその道のりは、遅くはあっても重くはない。

 そして青年は、砂浜から舗装路へと出ていく。
 その時、突如、彼の目の前に大きな人形が降り立った。
赤子のように頭だけが大きく、そして継ぎ接ぎだらけの異様さを湛えていた。

 彼はしかし、臆すでもなく、首だけで後ろを見遣る。
そこに居たはずだった三体の人形たちが消えていた。

 青年が視線を再び前に戻すと、人形が手を差し伸べてきた。

「……いや、自分で歩くよ」

 そう言って彼は緩やかに手を払い、また緩慢な歩みを再開する。

人形は、彼が自分の横を通り過ぎていくのを、黙したまま視線で追う。
その場で佇み、暫し彼の背中を眺めていたが、途端、一体だった人形が再び先程の三体に変化し、
それぞれが飛び跳ねながら、青年の後を追った。そのままずっと、彼らは道を共にした。

 深い翳りを湛えたリリセールの紅い双眸が、青年の背中を映す。
地の底で胎動する黒い溶岩のような何かが、据わりきった無機の瞳の奥底に渦巻く。
青年の姿が視界から消え行くまで、リリセールは瞬きさえせずその背中を瞳に映していた。

 曇天に浮かぶ三日月は朧だった。
晴れては霞み、再び覗けばまた翳る。
終いに照るのか、曇るのか。それは天のみが知っていた。


         * * *


 この数日後、第三世界暦三月十九日、
金の国で、かの『公開処刑』という演目の仕組まれた惨劇は起きる。
彼は確かにその場に居たが、しかしそれ以降、彼の姿は何処にも無くなっていた。

 そして、さらにその幾日後、かねてよりの長期無断不在により、
黒野ダンドクは魔術協会より除籍、名簿からその名が消えることとなる。

 それに伴い、彼が使っていた第504研究室の返却勧告も出されているが、
本人への連絡が付かないことから、完全退去までの一時猶予期間として、
現在は、彼の姉である黒野カンナが、管理者代理となっている。


         ◆ ◇ ◆


  ◆Side:Kanna──『Chapter2:斜陽色の瞳』


 少女、黒野カンナは、寝付けなかった。

 第三世界暦ではもう四月。春眠暁を覚えずなどと言ったものだが、
少女の瞼は力無く開いたままで、亡羊とした眼差しが天井を眺めていた。

 もう何度目かの寝返りを打って、身体を横向きにする。
布地の擦れる音だけが、深夜の静謐に響いた。

 そこは一軒家だったが、現在暮らしているのは、彼女だけであった。
部屋の静けさというよりは、家全体の静けさが、身を圧迫していく。

 言いようもない孤独感が身を苛むのにも、もう大分慣れたつもりだった。
しかし、それでも、絶望するような心寂しさが圧し掛かり、
ただ身を縮めることしか出来ない日は、そう珍しくはなかった。

 頭の中を這い回っていく不可視の淀み。それはある瞬間、急激に膨れ上がった。
とうとう耐えかねた彼女は、枕元に置いてある一つの写真立てを手にとって、月明かりに照らす。

 そこに写っていたのは、微笑む一組の男女と、その傍らにいる少年、そして彼女。家族の集合写真だった。

 ──この暁の髪色は父譲りで、柔らかく波打った髪質は母譲り。気の強い性格も、母親からのものらしい。
異世界の『地球』という星にある、『日本』という国から、母はやってきたのだと、いつか語ってくれたことを思い出した。

母は、花が好きだった。桜の花は『日本』にもあって、新世界と変わらぬ美しさで咲き誇るのだという。
毎年、この時期になると、櫻の国へ出かけていって、皆でお花見という行事を楽しんだ思い出が蘇ってきた。

母は、沢山叱ってくれて、沢山褒めてくれた。父は少しだけ不器用だったが、優しくて大らかな人だった。
弟のダンドクは、たまに泣き虫だけど、言い出したら聞かないところがあって、姉として手を焼いたものだった。

両親とも能力者ではなかったが、子供である自分たちには、何故か能力や魔力が発現していた。
二人一緒に≪学校≫に入って、友達を沢山作って、遊んだり、勉強したり、競い合ったりした。
今はもう無くなってしまった場所だけれど、『先生』とは卒業した後でも付き合いがある。

私が卒業するとなったときの、あの先生の泣き顔は、
茹でたかぼちゃみたいですごく可笑しかったことを今でも覚えてる。
一番の友達だったナナミは、今でも元気にしてるかな。私が対機関連合の一員だって知ったら、どんな顔するだろう。

そうだ、もっと思い浮かべよう。
止めることなく、もっと、平々凡々で退屈で楽しい思い出を。
このまま微睡んで眠りに落ちてしまえるように、ただ脳を酷使しよう。

 想起、想起、想起。
なるべく明るい過去のみを抽出して、頭の中の暗い何かを只管に払拭していった。
そうすることしか彼女には出来なかった。こんなとき、持っている能力は、何の役にも立たない。

 怒涛の追憶はしかし、段々と先細り、そしてついには途絶えた。

 たかだか十八やそこらの人生の中で、すぐに思い出せるほどに印象強く明るい記憶など、そう多くはなかった。
印象に残るものなど、たいてい、陰惨で、鬱屈で、愚かで、どうしようもなく否定したくなるものばかりだ。

 彼女も、その例に漏れない程度には普通だった。
毛布を頭まで被り、写真立てを抱きながら身を丸めて、ただ時が過ぎ行くのを待った。
早く朝が来てくれることだけを祈った。朝になれば、こんな恐怖などまるで夢のように忘れてしまえるのだから。

 世界は、無情に静かだった。

 闇色の無音は、陵辱するように彼女の淡い思い出を引き剥がして、
その最奥にある淀んだ無明の塊を、ゆっくりと、焦らすように引きずり出してきた。

 目を背けても背けても、それは執拗に迫ってくる。
過去から逃れられる人間など、この世には存在しない。
背を向けて喰われるか、瞳で見据えて立ち向かうことしか出来ない。

 陰鬱は、彼女の頭蓋の中に充ち満ちた。

 ──あの日。

 あの日に限って、何で私は、家に居なかったんだろう。
せめて私がいれば、もしかしたら、もっと違ったようになっていたかもしれない。
お父さんとお母さんを奪って、弟を壊した、名も知れない誰かに、少なくとも立ち向かうことは出来たのに。

 ……ねえ、誰? 誰なの、あの日いきなり、全てを奪っていったのは。
お父さんとお母さんは、何のために殺されたの? その死は、必要なものだったの?
教えてよ、奪っていった人。私の前に来て、それを全部説明してよ。

 今、どこにいて、何をしているのかも知れない、名も無き人殺し。

 私はきっと、あなたを一生、赦せない。
そして、もしも顔を合わせたら、その時、私は自分を抑えられる自信が無い。
真っ黒な感情に全部塗りつぶされて、あなたを殺しても、まだ気が済まないかもしれない。

 どんな奇麗事言ったって、心がある以上、憎いものは憎い。
罪とか罰とか頭回して考えたって、当事者になってみれば、そんな哲学どうだっていい。
結局は、この身のうちから湧き上がってくる沸騰した黒い感情を押さえつけるのに一杯で、
既に出来上がっている社会的な枠組みで断罪して贖罪させることしか出来ない。

 そうしなければ、自分の方が壊れてしまう。

 罪を赦すとか、救いを与えるとか、慈愛とか優しさとか、そんなもの、全部全部、嘘、嘘、嘘。
私なんかに、そんな聖人みたいな真似、出来るわけない。平凡な人間だもん、恨むよ、憎むよ。

 でも、その代償が跳ね返ってくることも、心のどこかで分かっているから、
システム的な罰を与えて、これがあるべき形だと納得した振りをして、生きていく。
怖いんだ、どす黒い闇に飲まれて自分を失うことが。結局、自分が可愛いだけ。

 もう、やだ、何も考えたくない。
 いっそ最初から何もなかった方が楽だった。

 誰か、助けて。私を明るくて暖かいどこかに、連れてってよ。
いっぱい手を握って、沢山抱きしめて。心臓はひたすら煩いのに、身体はこんなに冷たいんだよ。

 夜なんて嫌い。ずっと朝であれば良い。
熱いのに寒い。静かなのに煩い。速いのに遅い。

 やだ、やだ、やだ、やだ。こわい、くらい、さむい。


 ──ぴん、ぽーん。

その時。静寂を突き刺すように、家の呼び鈴が鳴った。
彼女は、呼吸を忘れて、数拍の間、動けなかった。

 余韻が消えていくと、呼び鈴は、もう一度鳴った。

「誰……?」

 彼女は布団から起き出して、恐る恐ると耳を欹(そばだ)てた。
そのまま意識を研ぎ澄まして、しばらく様子を伺う。

 再び、呼び鈴の音が静寂を振るわせた。

 幻聴の可能性は完全に潰えた。
彼女はゆっくりと階段を下って、玄関先に向かう。

 扉の向こうには、確かに、人の気配があった。
だが、この深夜に尋ねてこられる覚えなど、全くなかった。

「どちらさま、ですか……?」

 彼女は声をかけた。
 常時ならば、居留守を決め込むところだったが、
無意識的に、人との会話を欲していたが故に、つい口が出てしまう。
言ったその数刹那後に、はっと身体の芯が冷えて、後悔した。

 ず、と、扉の向こうの人物が、その手を扉に添えた音がする。
少女は、その途端、ぞっと総毛立って、本能的にアートマンを出現させて構えた。

 かけた声に応答は無い。
少女は再び、意を決して、口を開く。

「……あの、誰、ですか?」

 返ってくるのは、無音。
確かに気配はそこにあるのに、声を返さない。

 きりきりと軋む音さえしそうな沈黙が、緊縛する。

 悪戯にしては、中々気味の悪い。
今度問いかけて応答がなかったら、覗き穴から覗いてみよう。
そう決意して、一度深く息を吐き出すと、張りのある声を放った。

「……そこにいるんでしょ? 何か言ったらどう。じゃないと、警察呼ぶよ」

 ずずず、と、強く扉を撫でるような音がする。
少女はますます警戒するように、眉を顰める。

 ようやくだった。その人物が口を開き、そして言った。


「                    」


 “──え?”

 少女はその時、絶句する。



[続]