"ヴォツェック"

目次

アルバン・ベルクのオペラ 「ヴォツェック」を訳し終えて

  • 「ヴォツェック?あの、暗らーいオペラ?」 というのが、アルバン・ベルク作曲のこのオペラに対する、一般的なリアクションである。確かに、このオペラのストーリーは救われようのないほど暗い。登場人物の衣装には汗の匂いが染み付いていそうだし、おまけに音楽は不協和音だらけで、メロディーを捉えることのできるだけの長さを持つアリアもない....。にもかかわらず、なぜこのオペラが、いわゆる現代音楽作品の中の傑作として、(実際には、現代どころか、もうそろそろ100年近い昔に書かれた音楽になってしまったのだが、)現在もまだ、ヨーロッパ、特に、ドイツ語圏のオペラハウスで、かなりの頻度で上演されるのだろうか? ― ということは、このオペラを見たい観客がいるということなのだ...。なぜ?この答えを見出すために、テキストに関してだけではなく、このオペラ全体について、しばらくの間考えてみたい。

このオペラの素材

  • 単純に言えば、裏切った恋人を刺し殺してしまうというパターンのオペラ、たとえば、カルメン(1875初演)、オテロ(1887初演)、レオンカヴァッロのパリアッチョ(1892初演)、プッチーニの外套(1918初演)など、一連の作品の流れを追って出てきたのが、このオペラである。(ヴォツェック:1925初演)。オテロ以外は、いわゆる下層階級に属する人々の間で起こった出来事であり、オテロも含めてすべて三面記事的な事件である。作曲家達の興味を引いたのは、偏に、人間の激しい情動の表現であったと思われる。だが、ベルクの場合には、事はそこで終わっていない。
  • ベルクがこのオペラを書く決心をしたのは、早逝のドイツ作家、Georg Büchner(ゲオルグ・ビューヒナー:1813-1837)の戯曲 「Woyzeck」(ヴォイチェク)のヴィーン公演(1914年)を観てのことであった。ビューヒナーが、彼の死の前年(1836年)に手をつけ、未完のまま残した27章の断片からなるヴォイチェクは,その後1879年オーストリアの作家Karl E.Franzosの手によって編集され、修正が加えられ、主人公の名も、Wozzeckと変えられて出版された。アルバン・ベルクが用いたヴァージョンは、その後さらに1909年、Paul Landauによって場面構成が変更されたものである。演劇「ヴォイチェク」は1913年ミュンヘンで初演され、爾来、ドイツ語圏の各地で成功を収め、その後、映画化もなされた。演劇「ヴォイチェク」は、現在もなお、ドイツではしばしば上演され、原作の戯曲は、学校の教材としても用いられているほどである。これほど有名な作品なので、ベルクのオペラの台本に関する本題に入る前に、ビューヒナーと「ヴォイチェク」についてもう少し詳しく述べてみたい。

ゲオルグ・ビューヒナーと戯曲のモデル、ヴォイチェク

  • 後世、詩人、戯曲家として、世に知られるようになるゲオルグ・ビューヒナーは、1813年ドイツ、ヘッセン地方、ダルムシュタットの近郊ゴッデラウの医者の家に生まれ、ギーセン大学で医学の勉強を始めた。彼はまた、歴史にも大いに興味をもち、隣国フランスに起こった七月革命(1830年)の推移をつぶさに調べるうちに、これを背景にした戯曲 「ダントンの死」(1832年脱稿)を物した。(この戯曲は、Gottfried von Einem によってオペラ化され、1947年初演された)。ビューヒナーの学問的興味はその後哲学と自然科学に移り、医学の勉強は止めてしまうが、バルブス(鯉の一種)の神経系統に関する研究で、チューリッヒ大学の博士号を得る。だがそれに先立つ1836年、当時のドイツの若者達の間に起こった、自由革命の気運を扇動するビラに執筆したかどで、官憲に追われる身となり、フランスを経由、スイスに逃れ、チューリッヒ大学で脳神経に関する講義をすることとなった。だが、チフスに罹り、1837年、わずか23歳の若さで没した。
  • ビューヒナーの最後の作品となった「ヴォイチェク」の題材となったのは、1780年、ライプチッヒ生まれの男、Woyzeckが起こした殺人事件であった。この男は、北ドイツのハンブルクへ行ったり、一時は州兵として雇われたりもしたが、定職のない、いわゆる流れ者で、酒飲みであったが、1821年、自分よりも五歳年長の愛人を刺殺してしまう。殺人の直接の動機は、彼が落ちぶれて行く一方であることに嫌気がさした愛人が、他の男性に気を移した為といわれている。殺人罪で裁判にかけられた彼は、心神耗弱の疑いで精神鑑定なども受けた。しかし結局のところ有罪と認められ、1824年、ライプチッヒの町中で、大勢の見物人の見守る中、断頭の刑に処された。 
  • ビューヒナーはこの事件を骨子とし、その後、彼の居住地に近いダルムシュタットの町などで起きた他の、二、三の殺人現場の記述などを素材として、戯曲を書き始めたのだった。彼は、ヴォィチェク事件を、単なる嫉妬による殺人事件としては取り扱わず、妻子を養うための金を得るための生体実験や、嫉妬の苦悩、周囲の嘲りのために不安定になってしまった犯人の精神状態や、当時の、底辺社会の人々には突き破ることが不可能だった、階級社会の差別の壁の存在をドラマの鏡に映し出し、その悲惨さを、社会の良心に訴えようとしたのだった。

戯曲ヴォィチェクに用いられた言葉

  • 上に述べたような目論見から、ビューヒナーは、登場人物の属する階級が、その会話に用いられる言葉によっても明白になるよう、ヴォィチェクや、マリー、アンドレス、マルグレート等には、彼の時代(19世紀前半)の下層階級の人々の話し言葉の特徴 - 主語や動詞の省略が行われ、センテンスが短いこと - や、ヘッセン地方の訛りなどを取り入れ、 医者と大尉には、文法的に、まともな言葉を喋らせた。医者の場合は、その上に医学用語を使わせることで、彼の優越感を強調している。(因みに、ヴォィチェクに出てくる博士には、ギーセン大学のある教授がモデルにされたと言われている)。実際の学問などないくせに、あるように見せかけたい人物というわけで、大尉には、「モラルとは、道徳的なことだ」 などと、言わせている。また、半ば狂いかけているヴォィチェクの言葉には、いくつかの、聖書からの引用があり、日没時の野外で、アンドレスと共にひこばえを切り取っている彼を襲う幻想は、最後の審判の情景が下敷きとなっている。その他、兵舎で祈る場面等においても、下層階級に属してはいても、ヴォィチェクが神をおそれ、聖書の言葉を常に心の中で反芻している、敬虔な人間であることが強調されている。酔っ払った職人の徒弟の演説の言葉にも、切れ切れではあるが、聖書からの引用が含まれており、大尉のしきりに使う、「善い人間」という言葉も、聖書の中で、キリストを評する人々の言葉として用いられているのである。これら聖書から借用されたフレーズは、とりもなおさず、登場人物たちが生きていた、まだ多分に宗教色の濃かった時代を反映しているのである。

ベルクの台本つくり

  • ベルクは、1915年にオペラ・ヴォツェックの創作に取り掛かった。今日、戯曲の上演の際、一般に用いられている「ヴォィチェク」の台本は、Werner R. Lehmannの編集によるものであるが、これには27のシーンがあり、28人の台詞のある人物と、その他大勢が登場する。しかし、ベルクは、これらを15の場面と、11人の台詞のある人物と群集に集約した。たとえば、第一幕のマリーの隣人のマルグレートは第三幕の酒場の場面にも登場するが、戯曲では、後者は、ケーテという別の女である。ケーテと言う名前は、オペラでは最終場面の子供の一人に用いられている。ヴォツェックが溺れ死ぬ場面で、池の傍を通りかかるのは、戯曲では単に、通行人1、通行人2、となっているが、ベルクは、医者と大尉を、ここで再登場さすことで、ストーリーの完結度を高めている。彼らが溺れる人間を無視することで、ベルクは、彼らの個性の卑劣さを強調すると同時に、彼らの属する上層社会の冷淡さをもあからさまにしているのである。また、ベルクが、ドラマを15場面に制約したときに省かれたシーンには、ヴォィチェクとマリーが見世物小屋に入るしーン、ヴォィチェクがユダヤ人の店でナイフを買うシーン、うつけがヴォツェックの子供をあやすシーン、医者が学生たちに講義を行い、ヴォィチェクを実験動物のように扱うシーン、マリーの殺害を決心したヴォィチェクが、自分の僅かな身の回り品を整理するシーン等がある。また、マリーが子供に聞かす、親の無い子の話は、戯曲では、ヴォィチェクの母親である、子供の祖母によって、メルヘンとして語られるのであるが、ベルクはこの母親の存在を除去した。これらの取捨選択により、ベルクはドラマの緊張感をより一層高めることに成功している。会話の妙を楽しむわけにはいかないオペラにおいては、ドラマの進行するテンポ=緊張感が、(特に、現代にあっては)オペラの成功に大いに関係するのである。
  • さらに、ベルクは、戯曲で用いられている言葉のうち、20世紀初頭にはすでに廃れて、観客には理解しがたいと思われる表現を、別の言葉に置き換えた。(例えば、第二幕第二場、医者が大尉のことを、 からかって言う、「Exerzizengel」(教練の天使)は、戯曲では、「Exerzierzagel」(教練の尻尾)であった。「尻尾」というのは、18/19世紀の軍人達が、髪の毛を編んで、後ろにたらしていたからである。)また彼は、あまりにも口汚いののしり言葉などは切り捨てている。彼の師、シェーンベルクがユダヤ人だったことにもよるのだろうが、民族差別的な台詞も取り除き、なおかつ、当時、演劇では許されていても、オペラの舞台にはふさわしくないと考えられた、表現をも避けている。この典型的な例としては、第一幕第四場で、医者が、ヴォツェックに「お前また、咳をしたな!」と言うくだりである。これは、戯曲では、「お前また、立小便したな!」 となっている。(これは、近年の演出、例えば、Patrice Chereau の演出では、またもとの、「立小便」 に戻,されている。)したがって、腎臓という名称は、横隔膜に取り替えられた。(20世紀初期のドイツ語圏のオペラの舞台で、排泄に関する言葉はタブーに近かったらしく、例えば、マダム・バタフライのオペラに登場する、ピンカートンという名前は、ドイツ語の「排尿する」という動詞を連想させるため、ドイツでの上演では、リンカートンと変更された。) また、第二幕第二場、医者と大尉の会話の中で、ヴォツェックが、かみそりの刃のようだと形容され、「大学中の髯面を剃らねばならないように急いでいる」と揶揄されるところでは、戯曲では、ヴォィチェクが 「一連隊の去勢男の髯を剃らねばならぬかのように」となっている。だが、去勢された男に髯の生えるわけは無いので、ヴォィチェクは、こんな風に馬鹿にされ、からかわれているのである。ベルクは、そこまでヴォツェックを貶めるにしのびなかったのであろう。このような意味での、テキストの変更は他にもあるが、これ以上は省略する。
  • その他、第一幕第三場で、マリーが楽隊に合わせて調子をとるときに言う、Tshin、 Bum, Thin,Bum は、戯曲では、「さ、ら、ら、ら」と、なっていて、、ベルクのチン、ブン、チン、ブン、の方が遥かに、楽隊に適当な音である。これらの変更はたとえ些細なことであっても、ベルクの言葉に対する敏感さを示している。一般には、ベルクがビューヒナーの戯曲をオペラの台本にする際、それほど大きな変更は行わなかったと言われているが、これらの細部における変更や省略まで視野にいれると、彼がこのオペラの台本を作成するのに、二年もの長い年月を費やしたのは至当と思われる。もっとも、その間(1915-1918)彼は軍務に服してもいたのだが。ベルクがこのオペラの作曲に要したのは四年で、1921年にヴォツェックは完成された。 

オペラ・ヴォツェックの音楽の特徴

  • ベルクは、1908年頃より調性を破棄したシェーンベルクの弟子として、ヴォツェックを、第三幕の終場面の前の間奏曲を除いては、(ここでは調性をも一つの形式として取り上げている)いわゆる無調音楽として書いた。一部(例えば、第一幕第四場)には、やがて、シェーンベルクの「十二音技法」として知られるようになる、十二音からなるテーマさえ用いられている。しかし時として、ベルクは、彼の多分にローマン派的な感性が、調性的な和音の響きとなって露出してしまうのを抑えきれない。(これは、訳者にとっては、むしろ「喜ばしい」 ことなのだが。) ベルクがこのオペラの場面のそれぞれに、いくつもの異なった音楽形式を用いたことは、彼の作曲技法を分析する上では非常に興味があるのだが、ここでは深入りしない。ただ、ベルクが、これまでのオペラの歴史によって聴衆にすでに馴染みである、ドラマの状況、シーンの雰囲気や人物の心理とその推移を、調性とその展開によって描写する方法を放棄したため、また、オペラ全体の調性による統合をも放棄したため、その代替物を手に入れる必要に迫られたことは、記憶にとどめておきたい。代替物として彼が目をつけたのは、伝統的な音楽の要素の一つ、形式であった。ベルクは15のシーンのそれぞれに、一個以上の、多くは、非常に短縮された形での音楽形式を選択したのであったが、その際、舞台で進行するドラマの内容に最もふさわしいものを選ぶことに腐心した。例えば、大尉が、(彼の感覚によると)鼠のように駆け回る風を話題にするときには、ジーグが選ばれ、ヴォツェックの「固定観念」が、出てくる医者とのシーンには、オスティナートのテーマを持つパッサカリアが用いられる、といった具合である。マリー殺害のシーンは、「一つの形式」として扱われたH音に乗って繰り広げられる。このH音には、ハ長調の音階の最後の音として、死を象徴するという伝統がある。このように、ベルクは調性は放棄したものの、別の方法で音楽作品の伝統を生かす手段を講じたのであった。
  • これらの、形式によって一定のフレームを与えられた各場面を、場面の転換音楽として、間奏曲や後奏曲でつなげてゆくことで、ベルクは、オペラ全体に構造的な安定性を与えようとした。(私見ではあるが、このように、それぞれ異なる形式が次々投入されることで、原作が、「断片」 であることまでもが、音楽的に表現されていると、解釈することもできるのではないだろうか?)
  • ただし、ベルクは、自分自身でこのオペラの複雑きわまる形式の解説(Die musikalische Formen in meiner Oper Wozzeck” in der “Die Musik” XVI/Mai 1924) を発表しながらも、「このオペラを観るときには、こんなことは全部忘れて楽しんでください」と、言っている。

言葉に音を付ける作業

  • ローマン派以降のオペラの作曲家にとっては、「言葉と音楽をいかにマッチさせるか」ということは、非常に重要な問題であった。それがどんなに作曲家を消耗させる仕事であるかは、作曲家と、いわゆるリブレティストの間の果てしない書簡交換、協議、時にはこの二者の喧嘩別れにまで至る経過が、作曲家達の伝記の中に語られているのに出くわすことでも判る。筋書きも歌詞も、全部自分で書いた方が良い、と考えたWagnerの気持も理解できるというものだ。
  • ビューヒナー原作の「ヴォィチェク」は、リアリズム派の演劇と呼ばれているが、ベルクのオペラ「ヴォツェック」は、通常会話やモノローグのリアリズムと、歌唱メロディーやリズムとの融合において、また、器楽音楽による登場人物の解剖的な心理的描写において、リアリズムの範囲を遥かに超えており、彼の師シェーンベルクのPierrot Lunaire (月に憑かれたピエロ :1912年)がすでに示しているように、いわゆる表現主義の域に入っている。会話以外の部分には、民謡(マリーの子守唄、アンドレスの狩人の歌、マルグレートのシュヴァーヴェン地方の民謡、ヴォツェックの酒場の場面での歌、輪舞のわらべ歌など)も引用されているが、これらはいずれも、表現主義的にデフォルメされている。また、このオペラには、ほぼ同時代に作曲された、イタリアのヴェリズモオペラには、れっきと存在している、アリアに相当する部分がない。ヴォツェックの「自分等貧乏人は」は印象的ではあるが、アリアに発展することなく終わってしまう。、第二幕第一場のマリーの子守唄を含む比較的長い歌唱部は、アリアに近いといえよう。しかし、器楽音楽の形式であるソナタ形式の中に、がっちりと嵌め込まれている以上、これを正式のアリアとは呼ぶわけにはいくまい。人声が心地よげに歌い、それを器楽が伴奏するという、従来のアリアから、彼は、なんと遠くへ来てしまったのであろう!

ドイツ語から日本語へ ― 訳注に代えて

  • 第一幕、第一場、ヴォツェックの答えに対する、大尉の、Wenn ich sage ”Er”,So mein ich “Ihn”,“Ihn”を、訳者は、「俺が、彼というときには、神のこと(を指しているん)だ」と訳した。Er は十八世紀には、目下の者に向かった蔑称として用いられたが、それよりさらに遡った時代には目上の者に対する敬称であった。大尉はヴォツェックとの会話において、お前の蔑称としてこれを用いているが、訳者は、昔の日本の軍隊で常用されていた「貴様」という言葉をこれに当てた。ところが、大尉がヴォツェックの返事を咎めるところで、突然、Erに、引用符がつけられる。(オリジナル戯曲のテキストでは括られていない) ベルクがつけたのであろうと、訳者は推測した。なぜ?Er (彼) が、古い聖書の中では神を指すために用いられていることを思い合わせると、ベルクがこの ”Er“ を神と読ませ、神の言わんとすることは、「私を混乱させる」と、この、えせモラリストの大尉に言わせたかったのだと、訳者は推測したのだ。なぜなら、大尉のこのフレーズに先立つヴォツェックのフレーズで、彼が「大尉殿、神様は...」と歌いだすとき、Gott(神)の語は、二部音符のC(ハ)音(十六世紀より、ヨーロッパ音楽の音システムの中心音として認められてきた音)に乗せられており、次に大尉が、俺の言う“Er” は ”Ihn“、”Ihn”(彼、彼を)指すんだ」と、ヒステリックに叫ぶとき、二度目“Ihn”は、アクセント記号で強調された二オクターヴ上のC音上で響くからである。言葉通り、「おれが”貴様”といったら、”手前”、手前”のことだ」と訳しても差し支えは無いのだが、オペラにおける楽音と言葉の関連性を私は尊重したい。
  • 上の大尉の言葉に続いて始まる、有名な台詞「自分等は貧乏人...」では、金が無いために教会の祝福を受けることなしに、即ち正式に結婚できずに、マリーと同棲している現状をヴォツェックが訴えるのであるが、実際、1825年当時ヘッセン大公の軍規によれば、だだの兵隊が結婚を希望するときには、600グルデンの財産があることを証明しなければならなかったとのことである。(この項、Wolfgang Buehnemann、Woyzeck、2011、P.73)
  • 第一幕、第二場、原っぱでヴォツェックとアンドレスが切り採っている、Stöcke はここでは、細長い鞭状の小枝を指すと考えられる。柳などの「ひこばえ」は1m-1,5mぐらいになると切り取られて籠を編む素材となり、また、籠状に編んだ物の中に土砂を詰めて塹壕や堡塁、堤防などの補強をするのにも用いられた。マリーの「大尉殿の為に」という言葉は、これらの良く撓る「ひこばえ」が鞭としても用いられたことを思い起こさせる。
  • また、「三日三晩あとには、そいつが鉋屑に乗かっていた」 というのは、昔は、死人を棺に入れるとき、頭の下に鉋屑を敷いたからである。
  • 第一幕、第三場、マルグレートがマリーに悪態をつくときに、Sie guckt sieben Paar lederne Hosen durch! という。これは、直訳すると、「あんたは、七枚の皮のズボン(民族衣装として、現在でもババリア地方に残っている)を透して見るんだから!」となる。このフレーズは、元は単に鋭い目を喩えたものであったが、何時の頃からか、やたらに物見高い者のことを指すようになったと、戯曲ヴォィチェクのテキストの註釈の一つに記されているが、皮ズボンという対象物の持つ、性的な象徴性を考えれば、直訳のままにしておいたほうが適当だと思われる。ベルクによってカットされた見世物小屋のシーンでは、一人の下士官が、マリーに目を留めて、(すげー女だ、七枚の皮ズボンを透して見る女だ)と独りごちし、彼女を最前列に押し出してやる。この下士官も、彼女の情人の一人となることを暗示しているシーンである。第二幕第二場で、大尉がヴォツェックに、「下士官か、鼓笛隊長か」と、マリーの不実を仄めかして痛めつけるのは、ここから来ている。
  • 第二幕、第二場の、医者と大尉の会話のはじめの方で、「四週間のうちに死ぬ女がいる。子宮癌だ。」 と医者が言い、その後で、「おもしろい標本になるんで」、と訳した箇所があるが、このテキストには、主語が無い。ところが、戯曲にはちゃんと主語があって、それは、Sie (彼女) なのである。また戯曲では、「女は妊娠七ヶ月」 で、 「四週間中に死ぬ」 と、医者が言う。それで、「彼女はおもしろい標本(Preparat)を提供する」 というわけである。
  • 第二幕、第四場で出てくるNarr は、一口に言えば、あほうのことだが、このオペラに出てくるNarrは、からきしの馬鹿でもなさそうなので、うつけ者とした。(阿呆、馬鹿、白痴、精薄、今日の日本ではすべて禁句だそうだが、では、ドストエフスキーの「白痴」は、なんと訳せばいいのだろう?)
  • 第三幕、第二場、ヴォツェックが、マリーを殺害するつもりで池の端にさそい、「もう引き返せないところまで来たしまった」と訳したが、これは直訳すると、「お前も遠いところまで行ってしまった」、となる。遠いところまで行ってしまうとは、ドイツ語では、モラルなどの基準を乗り越えてしまうことを指す。ヴォツェックは、二人が町外れまで歩いてきた事実に、このことをダブラせているのだが、マリーはその真意に気が付かない。
  • 第三幕、第五場(最終場面)、子供達が歌いながら手をつなぎ、輪を描いて遊んでいる場面である。日本の「かごめかごめ、籠の中の鳥は。。。」と同じような遊びである。単純なわらべ歌のメロディーは、ここでも、ベルクによって、大いにデフォルメーションされている。この遊びに用いられる歌詞は、時代により地方により、何百では利かないぐらいのヴァリエーションが存在したのだが、今日ではドイツでもすっかり廃れてしまって、戸外で歌いながら輪を描いて遊んでいる子供など、訳者はついぞ見かけた事がない。ビューヒナーの用いた輪舞の唄の真ん中のフレーズは、Rosenkranz (薔薇の輪)である。訳者は最初、それを単純に子供の遊び=薔薇の花輪と解釈したのだが(実際、花の名前を数え上げている輪舞の歌詞もある)、動画作成の為の見直しをするに至って気になりだした。というのは、ローゼンクランツと言えば、カトリック教徒にとってはクルスの付いた数珠、ロザリオ、または、この数珠をつま繰りながら唱えるロザリオの祈りを指す。ベルクのテキストでは、数珠を意味しているものかどうかが、もうひとつはっきりしない。それで、今一度、ビューヒナーのテキストに当たってみた。そこで発見したのは、Rosenkranz の後に続く言葉が、König Herodes(ヘロデ王) となっていたことである。これでローゼンクランツの意味は完全に明らかになった。キリストが人間界に生を受けたのはヘロデ王の統治下であった。アヴェ・マリアと主の祈りを繰り返す時に、繰り返しの回数を間違えぬように順繰り、爪繰って廻されるのがローゼンクランツである。であるから、子供達が歌っているのは、「数珠になって廻れ!」なのである。国家権力の下、貧困に虐げられ、その生をさえ踏みにじられる庶民、彼等の子供達はしかし、将来の運命を知らず無邪気に遊ぶ。その子供達の歌う唄の言葉は、アヴェ・マリアの祈りを暗示して居るのである。マリーの子供の去って行ってしまった舞台空間は不思議に明るい。

まとめ

  • 今から180年近く前の階級社会の不条理と、下層階級の貧困、また、そのような状況下で、階層の上下を問わず、人間が、どのような動物になりうるかということを観客に訴えようとした、原作者ビューヒナーの意図は、ベルクによって、全く正当に解釈された。この救いのないオペラ「ヴォツェック」の、登場人物たちは、その誇張されたデフォルメーションにもかかわらず、音楽による心理的な裏打ちによって、人間の本質的な姿をさらけ出している。現実の厳しさが楽音の甘美さに包み込まれ、観る者の悟性がごまかされるようなところは一箇所も無い。にもかかわらず、抵抗の手段を持たない一兵卒に襲いかかり、彼を飲み込み、破滅に追いやった人為的な暴力を目の当たりにして、呆然としている観客の前に提供される、最終場面に先立つ間奏曲の叙情性は、どのように受け止められるべきなのだろう?(この間奏曲は調性音楽、ニ短調―ホ長調―ニ短調、で書かれている。)この間奏曲を聴くとき、訳者は、ベルクの音楽の中に、理性という暴力によって封じ込められたとでも形容したい、十九世紀的なロマンチシズムが、なおも、脈々として息づいているのを感じる。そして、それこそは、叙情的組曲、ヴァイオリン協奏曲へと繋がる、彼の感性の核をなすものであると考えるのである。この、20世紀を越えて21世紀に生き残った、数少ない現代音楽の労作の一つである「ヴォツェック」が、今日なお、観客を動員する力を持っているのは、以上にあげたような理由からではないだろうか?このオペラを聴くとき、歌手達の歌う音の高さが正しいかどうか、楽譜と首っ引きで確かめながら聴く、なんていうのは、およそナンセンスというものだ。人間性を失わない芸術は、テクニクの限界を越えたところにも存在すると、訳者は思う。

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最終更新:2015年09月15日 17:30