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"マクロプロス事件"

目次

ヤナーチェク作品における『マクロプロス事件』

  • 『マクロプロス事件』は、ヤナーチェクの最後から2番目のオペラです。それまでの『イェヌーファ』『カーチャ・カバノヴァ』『利口な女狐の物語』などに比べると、かなり難解な作品のように思えますが、これは独立したアリアや楽曲がほとんど無く、かなり「現代的」な作品になっていることに一因があるかも知れません。
  • しかし、劇と音楽とが極めて密接に融合しており、歌唱旋律はほとんどそのまま演劇のセリフの抑揚であるかのように作られています。その意味で、この作品はヤナーチェクの創作の一つの頂点をなしているように思えます。

ヤナーチェク最後のヒロイン

  • ヤナーチェクは、この後にもう一作『死者の家から』を作曲するのですが、この最後のオペラは音楽・プロットともに更にぶっ飛んでしまっており、到底一般受けするオペラとは思えません。しかも、このオペラにはヒロインがいないのです。
  • ですから、この『マクロプロス』のヒロインであるエミリア・マルティこそオペラ作家ヤナーチェクの創作した最後のヒロインということになります。最後なので、さぞや素晴らしいヒロイン像かと思いきや、どうにもいけすかない女性です。300年の若さを手に入れた美貌のオペラ歌手という設定なのですが、人生の全てに飽き飽きしていて、人が自分のために自殺しても意に介さない冷たい女性です。

エミリア・マルティを好きになれるか?

  • 最後のヒロインが「ファム・ファタール」になってしまうのは何故でしょうか?例えばワーグナーは「クンドリー」ですし、プッチーニは「トゥーランドット」だったりします。しかし、クンドリーが「救済」された上で死んだり、トゥーランドット姫が真実の愛に目覚めたりするのとは異なり、このエミリア・マルティは特に悔い改めた様子も無く、そのまま死んでしまいます。最初から最後まで、特に大きく変化しないキャラに見えます。
  • しかし、注意深く聴いてみると、必ずしも冷たいだけのキャラとしては描かれていないように思えます。ヤナーチェク自身は『私は彼女(マルティ)のことを好きになろうと努力してみました』と手紙に書いています。音楽上も、そこはかとなく観客に同情を感じさせる表現をしているので、その点に注意してみると面白いかも知れません。

チャペックの原作との違い

  • 周知のように、この作品は同時代のチェコの有名な作家カレル・チャペックの同名の戯曲を原作としているわけですが、原作とオペラとの決定的な違いは、まさにこの点にあると私は考えます。つまり、オペラでは「不死の人間はかわいそうだ」ということが初めから前提になっているのに対して、原作者チャペックは「不老不死の薬は人間を幸せにしてくれるのか?」という問いかけそのものをテーマにしています。ですから、戯曲では第3幕の最後に「マクロプロスの処方(秘薬)を人類にどう役立てるべきか?」という長大なディベートが始まり、この部分こそが原作のエッセンスにほかなりません。オペラは、この戯曲にとっての核心部分をバッサリとカットしていますが、その理由はヤナーチェクにとってその問題の結論は初めから出ていたからだと思います。
  • この改変の是非については議論があるところでしょう。原作を高く評価する人から見れば、原作の価値をおとしめる改変かも知れません。確かにチャペックの書いた前述のディベートは非常に面白く、一例を挙げると「不老不死の薬を全ての人に与えるのは問題だから、一部のエリートによる管理としよう」などという提案がなされたりします。これは今から考えても実に的確な社会主義(または「計画主義」)批判ですし、1920年代という時代背景を考えると実に含蓄があります。
  • ですから、戯曲は戯曲として実に面白いのですが、一面、後代の私達から見るとその結論部分はある程度自明なことのようにも思えます。ヤナーチェクは音楽を媒介として、原作にあった「同時代性」を「時代を越えた普遍性」に焼き直したとも言えるのではないでしょうか。

人間の滑稽と悲哀

  • では、この作品における「普遍的なもの」とは何かと言うことですが、それは「人間の滑稽さ」ではないかと思います。このオペラではマルティに夢中になる男達が何人も登場します(グレゴル、プルス、ヤネク、ハウク)が、その情熱の対象は、人生経験を積めば積むほどニヒリスティックになっていく哀れな300歳の女性に過ぎません。しかし、ある一定のレベルを通り越すと、その滑稽はある種の悲哀を帯びていくようにも感じられます。とりわけ第2幕の中盤以降、上記の男達が入れ換わり立ち替わり現れて来て、マルティを疲れさせていくところに何とも言えない悲哀がにじみ出て来ます。
  • この男達の姿には、紛れもなく作曲者自身の姿が反映されていると思うのですが、そのように自分自身の滑稽と悲しみを独自の効果的手法で描き切るところに、ヤナーチェクの凄みがあると思います。こんなことができる芸術家というのは極めて稀な存在だと思います。彼の作品が、演奏される機会も増え、ますます高い評価を受けるようになっているのも良くわかります。

幕切れにカタルシスはあるか?

  • 第3幕最後の場面で、男達はマルティに『私達はあなたに悪いことをしました』と謝罪します。論理的に考えると、男達はマルティに振り回されているので謝ることは無いように思えるのですが、男性から女性に対して普遍的なレベルで発言されているような気がして、有無を言わさぬ説得力が感じられます。
  • マルティが『人間なんてただの物体!ただの影!』と語ると、舞台裏から男声合唱がそのセリフを繰り返します。このあたりの音楽は、あたかも「ニヒリストのための宗教曲」(?)のような趣きですが、逆説的な形で、この作品にカタルシスを与えているようにも思えます。その後、幕切れに至るまでの音楽は素晴らしいと思うのですが、これを本当にカタルシスと取ることができるかどうかは微妙なところかも知れません。

ヤナーチェク晩年の懐疑と理想

  • そんなわけで、この作品は安心して見ていられる娯楽的なオペラとは相当異なっているように思えます。全くの個人的見解ですが、その理由はヤナーチェク晩年の懐疑が強く反映されているからのようにも感じられます。おそらく、人生の意味に対する懐疑が強まるほど、作者の想いは人生で唯一価値がある(と作曲家自身が思っている)ものへと結晶化していったのではないでしょうか。それは「現実の女性」と言うよりは「女性性」に対する想いであり、次の最後のオペラ『死者の家から』のテーマへとつながっていくようにも思えます。

『マクロプロス』の音源と映像

  • さて、『女狐』と同様ディスコグラフィー評をしたいところですが、『マクロプロス』はきわめてマイナーなため、市販のCD・DVDの数自体が極めて少ないです。そのため、単に列挙してみようと思います。
  • CDでは、私の愛聴盤のボフミル・グレゴル指揮プラハ国民劇場(1966年)。次にマッケラス指揮ウィーンフィル(1979年)。同じマッケラス指揮でイギリス・ナショナル・オペラのCDもありますが、これは英語上演です。
  • 映像では、アンドリュー・デイヴィス指揮ロンドンフィル。これはグラインドボーン音楽祭のDVDで、演出はレーンホフでアニア・シリアがタイトルロールを歌っています。彼女は、このオペラをヨーロッパに広めた立役者です。(ただ、DVDのカバーの絵がちょっと怖すぎです。もっといい絵を使えなかったものでしょうか?)彼女のマルティはYoutubeで見ることができます。あともう一つ、クロブチャール指揮カナダ・オペラ(1989年)の映像もあるのですが、これは残念ながらビデオでしか発売されていないようです。オーソドックスな演出で、なおかつ演奏も良いので、ぜひDVDにしてほしいところです。以上ですが、おそらく私が気づいていないだけで、他にも音源がいくつかあるのではないかと思われます。

翻訳について

  • 最後に翻訳について一言。『女狐』とは違って、チャペックのチェコ語はとても分かりやすいので、意味を理解すること自体はとても楽です。ただ、原語でよく理解できる箇所でも日本語では分かりにくくなることが多いので、そうした箇所の翻訳を工夫してみました。できるだけ流れに沿って読めるようにしてみたつもりですが、いかんせん素人ですので、うまく行っているかはわかりません。興味のある方は『女狐』の時と同じく「日本ヤナーチェク友の会」の翻訳もご参照ください。また、チャペック原作の翻訳としては、田才益夫氏の『チャペック戯曲全集』(八月舎)などがよろしいかと思います。実は、その田才氏の翻訳に啓発された面も多いのですが、ここでは3点特記しておきたいと思います。
  • まずは二人称の使い方についてです。この作品全体を通してマルティと男達は互いに敬称で呼び合っていますが、その例外はマルティからグレゴルに対しての呼び掛けです。最初は敬称なのですが、二人きりになると突然マルティはグレゴルを「あんた」呼ばわりし始めます。マルティにとってグレゴルは自分の子孫ですから気安く「あんた」と呼び掛け、子供扱いし始めるところに面白みがあるのです。また、第3幕のフィナーレで自分の年齢を明かした後は、今度は全員を「あんた」呼ばわりし始めます。
  • 次に、チェコ語以外の言語の使用についてです。この作品では、コレナティーがドイツ語を使ったり、ハウクとマルティがスペイン語で会話をしたり、第3幕の最後でマルティが母国語のギリシャ語を使ったりします。そのため、どう訳文に反映すればいいか迷う所ですが、ドイツ語とギリシャ語は回数が多くないのでそのまま訳すこととし、スペイン語だけは英語のカタカナ表記で雰囲気を出すことにしました。スペイン語のカタカナ表記でも良かったのですが、それだとカッコ書きで意味を補う必要があるので、このような形にしてみました。
  • 最後に、『マクロプロス事件』というタイトルですが、確か『マクロプロスの秘薬』という訳もありましたし、最近では『マクロプロス家の事(こと)』という訳でも上演されました。実は、原語のタイトルは「マクロプロス」という固有名詞と「ヴィエッツ=こと、もの」という単語とを並列しているだけであり、そもそも変なタイトルなのです。私の個人的見解としては、「の」という助詞が入らないことと「語呂の良さ」という点で、『マクロプロス事件』というのは、ベストとは言えないまでも良い訳だと思います。どうしても変えるなら、むしろ単に『マクロプロス』が良いかも知れません。いずれにせよ「タイトルを聴いただけでは何のことだか分からない」ことが、必須の条件だと思います。
2010年12月
Wしるす


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