"ローエングリン"

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劇文学としての『ローエングリン』

  • 今回は『ローエングリン』を翻訳しました。私はこの作品はワーグナーの最も「完成した作品」だと思います。もちろん「古典的な意味で完成している」という意味ですが、35歳でこんな優れた作品を書いたというのは相当すごいことだと思います。音楽ももちろん良いですが脚本もとても優れています。プロットも詩も高いレベルに達しているので、仮に音楽が無かったとしても十分評価されたのではないかと思います。
  • もっとも、詩については現代から見ると言葉遣いが古くさい感じなので「意味はわかるのだが訳しにくい」という側面もあります。そのため私の訳では、あまりひねらずに分かりやすい訳とすることに重点を置きました。
  • 今回「あらすじ」は省略したのですが、その代わりにグリム童話収録のローエングリン物語『ブラバントのローエングリン』の翻訳(ドイツ語原文は「 プロジェクトグーテンベルク 」より)を載せました。これを読むとプロットはほぼ同じなのですが決定的に重要な違いが一つあり、それはオルトルートの存在です。ワーグナーの脚本の最大の特徴は、キリスト教を象徴する「聖杯の騎士」の存在に土着のゲルマン宗教を信奉するオルトルートの存在を対置させて、プロットに政治的・宗教的なふくらみを持たせたことにあります。

ハインリヒ1世

  • また、ワーグナーはこの話の歴史的背景を掘り下げ、うまく脚色しています。このオペラに登場する「ハインリヒ王」とはハインリヒ1世(876-936)のことです。彼が東方部族のドイツへの侵入を撃退したことで、彼の息子オットー1世(912-973)の代に「神聖ローマ帝国」が成立しました。第1幕の冒頭で彼が歌う「東方部族との9年間の休戦」や第3幕でローエングリンが約束する「彼らとの戦いの勝利」(933年)は歴史的事実をきちんと踏まえています。この物語で忘れてはならない重要なことは、ハインリヒ王がザクセンからブラバント王国(現在のベルギーのあたり)まではるばるやって来たのは、東方の部族と戦う兵士を募集するためだということです。うがった見方をすれば、彼にとってはブラバントを治める者は国をまとめられる人物でさえあれば、フリードリヒを含む誰であっても構わなかったということです。
  • もう一つ指摘したいのは、この『ローエングリン』という作品は「ドイツのナショナリズムを高揚させる作品」とよく言われていることです。その例として挙げられるのが例えば第3幕の『ドイツの地にはドイツの剣を』という合唱ですが、私は全体の文脈から見るとこれは比較的穏健なナショナリズムではないかと思います。ワーグナーという人は劇作品と個人的発言とは完全に峻別していて、残念ながら著作ではたびたび目にする「政治的に不適切な」要素というのは、この作品にも他の作品にも全く見られないと思います。

オルトルート

  • オルトルートはこの作品の「陰の主役」であり、ブラバント公国の跡継ぎであるゴットフリートを白鳥に変えて行方不明にし、その罪をエルザになすりつけます。その確信犯的行動の理由は、彼女は土着のゲルマンの神々を信仰しているので、新来のキリスト教が憎くてたまらないのです。その意味では彼女の行動には実に首尾一貫した目的があるのですが、行為そのものは紛れもなく「悪」です。未来ではなく過去に向けて行動するという彼女の暗いキャラクターは『指輪』のハーゲンに受け継がれ、更にエスカレートしていくように感じます。

フリードリヒ

  • オルトルートに比べると存在感の薄いのがフリードリヒで、彼は妻のオルトルートに操られている存在に過ぎません。たぶん根は悪くない人間なのでしょうが、名誉欲や虚栄心が強すぎるのでオルトルートに騙されて悪の道に走ってしまった印象を受けます。グリム童話で面白いのは、彼がストックホルムで「竜退治」をしたと書かれていることで、これは言うまでもなくジークフリートなどゲルマン神話の登場人物を彷彿とさせます。あるいはグリム童話のこの箇所が、ワーグナーにキリスト教とゲルマン宗教との対置を着想させた可能性もあるかも知れません。
  • フリードリヒは「ブラバントの守旧派」からは一定の支持を受けているので、第2幕以降ブラバントの4人の貴族が彼と行動を共にしていることにも注意が必要です。第2幕で彼らが口々に言う「なぜ一度もこの地に攻めて来たことのない東方の敵との戦争に行かねばならないのだ?」という疑問はある意味もっともです。これを納得するためには「ドイツ人としての一体感」すなわちナショナリズムの成立が必要であり、ワーグナーの生きた時代にあっては、劇中のハインリヒ王がブラバントの民衆に呼びかける「王国の勢威を見せようではないか」という台詞は「ドイツ統一」へのアピールとして機能したはずだと思います。

「民衆の精神」としてのエルザ

  • ワーグナーは数多くのヒロインを創作しましたが、私見では、その中で最も重要な存在はこのエルザと『指輪』のブリュンヒルデだと思います。ここではワーグナー自身の言葉を借りてみましょう。
  • 「うすうす感じてはいたものの、まだ意識にはのぼっていなかった高貴な発見に向けて私の放った捨て矢こそ、わがローエングリンであったが、それは真に女性的なものを確実に探り当てるためであった。この女性的なものは、私と世人のすべてに救済をもたらすはずのものである。だがその前に、男性のエゴイズムは、その高貴このうえない形態においてすら、女性的なものに面して壊滅的に打ちのめされたのである。-エルザ、女性的なるもの、-これまでは理解していなかったのに、いまや理解することにいたった女性-、それは至純なる感覚的自然本性のやむにやまれぬ発露なのだ-、彼女が私を完全な革命家にしたのである。彼女は民衆の精神であった。私は芸術家としてもまた、みずからの救済を求めてこの精神を熱望していたのだ」(日本ワーグナー協会編『ワーグナーヤールブーフ 1993 特集:女性』85ページの藤野一夫氏の抄訳から引用。ただ出典が『わが友人たちへの伝言』か『未来の芸術作品』かが不明。後日調べようと思います。)
  • 私はワーグナーの文章というのは突然飛躍するような箇所があり論理性に欠けるような気がします。ここでも「理解していなかったのに理解する女性って、エルザではなくてブリュンヒルデのことを言っているのではないか?」と思います。ただし、ここで言わんとしていることの真意は「エルザは男性の(家父長的な)エゴイズムを打ちのめす革命的な民衆の精神」だということで、これは実に含蓄の深い文章のように思えます。
  • おそらくは、このオペラにおいてエルザは民衆の「ユートピアを願望する精神」を体現しており、それは当然1848年から49年にかけての革命の精神と無縁ではありません。しかしながら民衆(すなわちエルザ)は弱い面も合わせ持っており、彼らの挫折は革命の挫折と並行しています。はしなくも現実世界を予言してしまっているように思えるのですが、裏を返せばこの作品を創作した時点のワーグナーにおいては「現実」と「芸術」が矛盾せずに結びついている感が強いです。
  • 革命が鎮圧され苦しい亡命生活を送るうちに、彼は「芸術によって現実を変える」のではなく、(結果的に)「現実の革命を諦め、現実を利用して芸術を偉大なものにする」方向に徐々に向かっていくような気がします。そう考えてみると『ローエングリン』には作者が現実に幻滅する直前のユートピア的な幸福感が溢れているようにも思えます。あるいはルートヴィヒ2世がこの作品にひどく感動した理由も「自らの手で現実世界を理想の国に変えることができるのではないか?」との夢想に誘われたからだったのかも知れません。

ローエングリン対エルザ

  • ローエングリンというキャラクターを捉えることは難しく、それは彼があまりに高貴なあまり「人間的なもの」をよく認識できない存在として描かれていることにあります。神的存在というのを理解するのは難しいです。それが一番はっきり理解できるのは、第2幕で「私が問いに答えねばならぬ人はエルザただ一人」と言った後、彼女のほうを振り向くト書きに「彼は愕然として息をのむ」とあることです。人間とはこれほど弱いものかと初めて知ってびっくりしているわけです。
  • 彼がエルザに求めているのは「疑いを知らない愛」ですが、それは彼のような「神に近い存在」にしかできないことです。人間的な愛というのは実に困ったところがあり、疑いとか嫉妬とかがないと「燃えない」ところがあります。神のごときローエングリンならば「燃えなくてもいい」のかも知れませんが、エルザのほうでは「そのような冷静な愛が愛だろうか?」と感じるわけです。
  • 第3幕前半の二人の長い会話は実に充実していて、エルザは「あなたの苦しみを分かち合いたいのになぜ教えてくれないの?」と訴えますが、彼女のこの気持ちはよく分かるような気がします。彼女はローエングリンが怪しい人物ではないかと疑っているのではありません。「教えてくれないのは私の価値を低く見ているからではないか?」と自尊心を傷つけられてしまうのです。「王女」たるにふさわしく、とてもプライドの高い女性です。

「精神的なもの」対「人間的なもの」

  • ではワーグナーはそのようなエルザのプライドの高さを否定的に見ているかといえば決してそうではないと思います。むしろ逆で、さきほどの引用にもあるようにローエングリンの態度こそ「男性のエゴイズム」と見ているように思えます。卑近な例で恐縮ですが、妻に「連日仕事で大変そうだけどなぜそんなに忙しいの?」と聞かれた夫が「そんなことはあなたが心配する必要はないのです」(笑)と言われたら、きっと妻は頭にくるでしょう。この場合明らかに高慢なのは夫だと誰でも分かります。
  • 上記の例は半分冗談ですが、視点を変えると、このエゴイズムとは「道徳的なもの(あるいは精神的なもの)の高慢さ」だと考えられます。どんなに完全な宗教的認識(現代では科学的認識?)も「人間的なもの」を通り抜け、それを理解しなければ悲劇的結末にしか終わらないということを表現しているように思います。
  • この視点は同じ「聖杯物語」の続編である『パルジファル』では更に明瞭となります。この作品での聖杯騎士団の堕落ぶりは目を覆うばかりですが、そうなった理由は騎士団が自らを道徳的に高い存在と見なして他者(例えばクンドリー)の人間的な悩みを理解しようとしないからです。精神的世界から「人間的なものの世界」に降りていったパルジファルによって初めて「グラールの王国」は救われます。ワーグナーは『ローエングリン』で提起した問題を30年後にしてようやく解決したのかも知れません。(なお、『パルジファル』は『ローエングリン』だけでなく、おそらく彼のそれまでの全作品に対する最終回答を与えていると思います。)
  • 一方エルザの側にも問題はあり、それはやはり彼女の「心の弱さ」にあります。第1幕の「エルザの夢」の時には持っていた「信じる勇気」を徐々に失ってしまったことが彼女の問題です。逆に言えば、「エルザの夢」は単なる「乙女の夢想」というにとどまらず、「救済を信じる民衆の精神」の歌ですから決定的に重要な歌なのです。

おわりに

  • 「ワーグナーはタンホイザーやローエングリンの姿に『理解されない芸術家』すなわち自分を重ね合わせている」というような文章をよく見かけるように思います。これはタンホイザーに関してはおそらく当たっており、もちろんローエングリンもそういう解釈も不可能ではないのでしょうが、一面その考えは人をミスリードするものではないかと私は考えます。それというのも、ワーグナーはあまりローエングリンのほうには共感していないように思うのです。少なくとも、この作品は「孤高の大人物を無条件で信じなさい」というメッセージを発しているわけではないと思います。(現代の私達がそう言われても困りますよね。もっともこの劇の最後のほうでローエングリンは「フューラー」(指導者=総統)と呼ばれていますので、例によってナチスはこれを悪用しただろうと思いますが。)
  • この作品でのワーグナーの共感はあくまで前述のようにエルザもしくは「人間の弱さ」の側にあると感じます。したがって、この作品は何かを「解決する」とか「訴える」というよりは、観客をして「考えさせる」要素がとりわけ強い作品ではないかと考えます。『ローエングリン』とは私たちが「エルザという鏡に映して自らを省みる」作品なのかも知れません。
  • 読者の皆様が多様な視点からこの作品を見直されるために今回の対訳をお使いいただければ望外の喜びです。今秋バイエルン国立歌劇場の来日公演も予定されておりますので、ぜひ予習等にお役立てください。
平成23年5月
Wしるす


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@wagnerianchan


最終更新:2015年01月31日 10:04