"タンホイザー"

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『タンホイザー』の史実と創作

  • この作品の正式名称は『タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦』です。これだけ具体的なタイトルなので、登場人物はほぼ実在の人物ですが、もちろんストーリーはかなり脚色されています。ワーグナーは、別々の話を一つのプロットにまとめており、史実では時系列的に一番古いのが「ヴァルトブルクの歌合戦」で1206年または1207年(「聖女エリーザベト」の誕生日である1207年7月7日に行われたというのは後世の脚色か?)、エリーザベトの死が1231年(享年24歳)、タンホイザーの活躍年代は1245-65年なので、かなり後の時代になります。
  • もちろん、テューリンゲン方伯ヘルマン(ヘルマン1世)も実在の人物です。この頃、ドイツは「皇帝派」(ウィーベリンまたはギベリン)と「教皇派」(ヴェルフェンまたはゲルフ)に分かれて争っていますので、第2幕の歌合戦直前でヘルマンが歌うセリフ(「また我らは、苛酷な流血の戦いで、ドイツ帝国の偉大さのために剣を振るい、怒り狂うヴェルフェン家に抵抗し、帝国の分裂を阻止したが、そのことで、お前たち歌びとの名誉も増したのだ」)は、それを踏まえています。
  • しかし、史実上のヘルマン1世は必ずしも皇帝派に忠誠を尽くしていたわけではなく、情勢に応じて忠誠先を変えながら自家の繁栄を図っていたとのことなので、したたかな名君といえましょう。また、フランスの宮廷文学を移入した芸術振興にも取り組み、文芸を庇護したので、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハによる『パルツィヴァール』などの叙事詩を始め、中世ドイツ文学の興隆に寄与したという功績を歴史に刻んでいます。

『タンホイザー』における「愛の本質」について

  • さて、第2幕の「ヴァルトブルクの歌合戦」でテューリンゲン方伯ヘルマンが示す「歌合戦のテーマ」は、「der Liebe Wesen」は何か?です。これは通常「愛の本質」と訳されていますが、ちょっと硬すぎる訳語ですので、私は「愛のほんとうの姿」と訳しました。
  • このテーマに対して、まずはヴォルフラムが「愛」を「奇蹟の泉」と譬えます。「この泉を汚したくはありません。けがらわしい心で触れたくはありません。私は祈りのうちに身を捧げ、命を喜んで捧げましょう・・・最後の血潮の一滴まで。」と彼は歌いますが、これは典型的な中世騎士道の「ミンネ」(Minne 夫を持つ貴婦人に対して騎士が見返りを求めずに尽くす愛)の立場です。
  • これに対して、主人公タンホイザーは、愛のほんとうの姿は、Genussにあると歌います。このGenussの訳語について色々考えてみたのですが、私は、最終的には「楽しむこと」という訳語にしてみました。候補としては「快楽」や「享楽」などが考えられますが、同じ箇所で多用される動詞形geniessenと整合させるのが自然なので、どちらにも通用する日常的な訳語にしてみました。(はじめは「味わう」との訳語も試してみましたが、違和感を感じたので訂正しました。)
  • しかし、「楽しむことの中にしか愛は見い出せないのだ!」とのタンホイザーの宣言は、周囲の人々の共感を得られず、彼は孤立します。ところが一人だけ彼に共感する人物がいます。それがエリーザベトです。

聖女エリーザベトの熱情

  • おそらくエリーザベトは、「歌びとたち」に遠くからの崇拝を受けるだけの状態に嫌気がさしていて、そのためにタンホイザーの情熱的な歌に以前から心を動かされていたという設定です。第2幕冒頭でタンホイザーと再会した彼女は、タンホイザーにこう語ります。「だからなの・・・あなたが去ってから、私に心の平安も歓びもなくなってしまったのは。私にとって、歌びとの歌は、もうあまりに味気なく、つまらないものになってしまった。」
  • 彼女の孤独感の背景として、このオペラではエリーザベトは孤児と設定されている(歴史上の彼女も同じような境遇)ということがあります。彼女の本来の思いとしては、愛を「楽しみたい」思いがあるにもかかわらず、周囲の社会がそれを許してくれないことが問題です。しかも、頼みの綱であるタンホイザーは、愛欲の女神ヴェーヌスのもとに滞在していたことを告白し、彼女は絶望の淵に沈みます。
  • 本来の性格の中にもともと潜んでいた彼女の情熱は、ここで宗教的熱情に変化したと見ることができるでしょう。聖なるものへの情熱と、恋愛の情熱は紙一重のところにある、との認識がこのプロットの背景にはあると思います。

ヴェーヌスとエリーザベトの二重性

  • 「愛と美の女神」ヴェーヌスと「聖女」エリーザベトは、対比されると同時に、同一視もされています。そこには明白にワーグナーの意図が感じられ、そのことが特にはっきりするのは、第3幕の『夕星の歌』です。ここでヴォルフラムがエリーザベトの道を照らしてくれるように頼む「夕星」は「宵の明星」すなわち「金星」ですから、明らかにヴェーヌスのことです。
  • また、第1幕でも羊飼いが「ホルダ様が山から降りてきた」と歌いますが、この「ホルダ」は、ローマ神話の「ヴィーナス」と同一視されています。(ちなみに、この「ホルダ」はゲルマン神話の「フライア」に当たります。)
  • このようにあえて両者の境界をぼかし二重性を持たせる作者の意図は、「聖なるもの」と「恋の快楽」とは本来一体のものだという考えにあるのだと思います。しかしながら、それが(19世紀半ばの)現状では二つに分裂しているという認識こそ、この作品の思想面の背景を形作っているように思われます。
  • その一方で、私見では、このオペラでは「救済」という解決に十分な説得力が感じられないように思います。最終幕のフィナーレで、突然ヴェーヌスが「ダメだわ」と言って消えてしまうのは唐突感があり、「なんで?」という感想を持ってしまいます。そのため、この作品のテーマは、ワーグナーのその後の作品に何らかの形で受け継がれつつ、なかんずく『パルジファル』において最後の回答が与えられているように思えます。

作者の自画像としてのタンホイザー

  • タンホイザーは「純愛」と「快楽」の間を行ったり来たりするキャラなので、「しっかりしろよ」と言いたくなるところもあり、また「自意識過剰」なところもあります。特に、最終幕の有名な「ローマ語り」の中で、「他の誰よりも苦行をした」と語っているのを聞くと、「そんなこと言っているから救われないんじゃないの?」と突っ込みたくなってしまいます。
  • タンホイザーは優れた芸術家であると同時に、非常に自意識が強い「凡人」としても描かれているように思いますので、これはワーグナー自身の自画像でもあったような気がします。とはいえ、近代人に特有の「自意識」を前面に出して強烈に表現していることが、かなり画期的なことだったように思えます。

羊飼いの素朴な歌

  • この作品には、いくつもの聴きどころがあると思うのですが、私にとってとりわけ印象的に思えるのは、第1幕の舞台転換直後の「羊飼いの歌」と「巡礼の合唱」に続くタンホイザーの叫びです。このシーンでタンホイザーが悔い改める理由は、「巡礼の合唱」ではなく、その直前の「羊飼いの歌」の素朴な清らかさ(「ご無事で!ご無事でローマまで!貧しいぼくの代わりに祈ってください!」)に感動したからであるように私には思えます。
  • このアカペラの歌と、羊飼いの吹き鳴らす笛の音は、とても清らかで素晴らしい音楽だと思うのですが、こうした「素朴なもの」の表現をワーグナーは得意としているように思えます。『トリスタン』第3幕も同様に、羊飼いの笛の音が非常に印象的な効果を醸し出しています。

その後の作品へ

  • 『タンホイザー』には、その後のワーグナーの作品の全ての萌芽が詰まっているように思えます。しかし、一方では、それを徹底的に表現するだけの手段を十分手に入れていないようなもどかしさがあるので、これ以降のワーグナー作品では、その萌芽が展開され解決されているように思います。『タンホイザー』がお好きな方は、ぜひそれ以外の作品も鑑賞されると、ツボにはまる可能性が高いです。今月、新国立劇場で本作品の公演がありますので、拙訳をお役立ていただき、ワーグナー作品の「Wesen(ほんとうの姿)」をぜひ楽しんでいただければと思います。
2013年1月 wagnerianchanしるす


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最終更新:2013年01月05日 22:33