"ニュルンベルクのマイスタージンガー"

目次

史実に忠実な台本

  • 《マイスタージンガー》は作曲者が三十代の頃、《タンホイザー》と対になる喜劇として構想されたものだった。実際には《タンホイザー》の完成後、《ローエングリン》に取りかかったので、結局《マイスタージンガー》のが仕上がったのは二十年も後になってからだったが、古代アテネの時代には、悲劇の後に陽気な喜劇が上演される風習があり、ヴァーグナーはそれにならおうとしたようだ。
  • 《タンホイザー》と《マイスタージンガー》はどちらも歌合戦をテーマにした作品というだけでなく、歴史上においてもかなり密接な関係を持つ内容を含んでいる。《タンホイザー》に登場するミンネゼンガーはマイスタージンガーの先祖と位置されている人々であり、《マイスタージンガー》のヴァルターは自己紹介の歌の中で、ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ(《タンホイザー》にも登場する、著名な実在のミンネゼンガー。)の詩から規則を学び取ったと言っているのだ。
  • 手工業のマイスターはドイツ各地に存在したが(中世と少々趣を異にしながらも制度そのものは現在に至るまで継承されている)、芸術の中心としてとりわけ栄えたのが十六世紀のニュルンベルクで、オペラでは驚くほど忠実に当時の習慣が映し出されている。例えば劇中でマイスターたちは聖カタリーナ教会に集うが、実際にこの教会は<歌の学校>の開催場として使われていたし、優勝者に渡される賞や、<歌い損ね(versungen)>、<タブラトゥール(Tabulatur)>といった細かい用語に至るまで再現されていて、ヴァーグナーが台本作成にあたってかなり情報収集したのがうかがい知れる。第三幕でザックスがヴァルターの歌に洗礼を施すのも、決してヴァーグナーが思いついた大げさな儀式ではなく、当時の<歌の学校>のしきたりで、新しいマイスター歌曲が生まれた際には二名の名付け親が立ち会い、命名が行われたのである。第一幕でダーフィトが羅列する奇妙な調べの名もほとんどが実在したもの。石頭のマイスターたちが仰々しく儀式を執り行って、<魚の鱗のごとく輝くワイヤー>などと命名していたのかと思うと非常に面白い話である。

ハンス・ザックス~さまざまな作品に登場する、著名な靴屋にして詩人

  • ハンス・ザックスは十六世紀に活躍した実在の靴屋。史実においても大変有能だったようで、二十代前半で早くもマイスターの地位についている。詩人としても非常に多作で、おびただしい数のマイスター歌や劇作品など、テーマやジャンルも多肢に渡った(劇中でザックスを讃えるために歌われる《目覚めよ!》は彼の詩がそのまま使われている)。ザックスは中世に活躍したマイスタージンガー中最も有名で、十八世紀から十九世紀にかけて彼を主人公にした文学作品が多く生まれている。その中で最も有名なのはやはり、ヴァーグナーが描いたこのザックス。周りの人々を包み込むような慈愛にあふれながらユーモアも備えたその性格は非常に魅力的だ。ベックメッサーとのコミカルなやりとりも劇中の見どころで、バス(あるいはバリトン)歌手のセンスが問われる難役でもあるだろう。
  • ところで、ここに登場するザックスはすでに妻を亡くし、男やもめとなっているが、実は若き日のザックスを描いたオペラも存在するようだ。ヴァーグナーに先立つこと二十八年前、アルベルト・ロルツィングが作曲した《ハンス・ザックス》である。《マイスタージンガー》とは対照的にまったく知られておらず、筆者自身聴いたことはないのだが(調べてみると一応CDは存在するらしい)、ドイツ語版Wikipediaにあらすじが詳しく紹介されており、ヴァーグナーのオペラと比べてみると面白い。《マイスタージンガー》ではザックスの隣に彼が想いを寄せるエーファが住んでいるが、ロルツィングでも同じくザックスの恋人クニグンデ(実在のザックスの最初の妻の名)は隣人、しかも金細工師の娘である。ザックスの弟子ゲルク(=ダーフィト)はクニグンデの従妹コルドゥーア(=マグダレーネ)に想いを寄せ、靴を直してもらいに来るアウクスブルクの市会議員ヘッセ(=ベックメッサー)は、金細工師兼ニュルンベルク市長のシュテフェン(=ポーグナー)が決めたクニグンデの婚約者という設定。また、ザックスの詩を弟子のゲルクが自分のものと騙る、市会議員ヘッセがペテン師の汚名を着せられて追い出されるなど、《マイスタージンガー》でおなじみのシチュエーションが形を変えて出てくる部分もある。筋書きは違うものの、全体の構図や登場人物の行動には共通点が見られ、ヴァーグナーがロルツィングも参考にしながら台本作成したのが窺える。

本当は善良? コミカルな判定役ベックメッサー

  • 「こんなに意味のない歌なんか聴いたことがない!」、「区切りはつかめないし、コロラトゥーラはないし、 メロディーらしきものがどこにもない!」このようにベックメッサーはヴァルターの歌にありとあらゆる悪口雑言を浴びせる。だが実を言えば規則から大きく外れた行為をしているのはヴァルターではなく、むしろベックメッサーのほうである。歴史上の<歌の学校>では、試験を受けた者が歌い損ねた場合、本人にだけわかるようにそっとそのことを告げた。となると、マイスターたち並びに弟子たちが集う公衆の場で間違いをあげつらうベックメッサーは慣習違反したことになる。もう一つ、彼は自作の歌を歌う時にリュートで伴奏をつけているが、マイスター歌曲は基本的に無伴奏だったからこれも違反に数えられないこともないだろう。そもそもベックメッサーは、よくこれでマイスターになれたと思うほど才能がなく、第二幕で披露するセレナードは音楽、歌詞共に苦笑せざる得ない代物。第三幕に至っては、せっかく手に入れた美しい歌詞を読み誤って笑いものになってしまうほどだ。いわゆるヒーローとヒロインの邪魔者であり、オペラには付き物の敵役なのだが、劇中の喜劇的な要素はほぼ彼が担っているという点で観客にとってはじつに好ましい役でもあり、どこか憎めない。
  • 第一幕のポーグナーとの会話で分かるように、彼はオペラの幕が上がるより以前からエーファに想いを寄せ、求婚を続けている。オペラの中で彼がライバルと認識しているのはザックスとヴァルターだが、面白いことにザックスに対しては―少なくとも第一幕の段階では―ある種の譲歩的姿勢を見せている(コートナーが求婚者を募った時、「やもめでもいいのでは? ザックスに聞いてみたらいいですよ」と言う)。一方でヴァルターに対する攻撃は前にも述べたように常軌を逸するほどのものであり、彼がザックスに対して以上に嫉妬心を燃やしているのが分かる。ベックメッサーの立場であれば、どこからともなくふらりとやってきて、いきなりマイスターになってエーファと結婚するなどと言い出すヴァルターに苛立つのも無理はない。この役で面白いのは、劇中で描かれるすべての言動が<ポーグナー嬢への求婚>という最大の願望から発していることだ。第一幕ではひたすら恋敵の<追放>に専念し、二幕ではエーファの気を引こうとセレナードを歌い、三幕では求婚の歌のことで頭を抱え、ついに公衆の面前で徹底的に恥をかく。少々毒舌で頑固ではあるかもしれないが、こうして見ると性格は意外にも単純で一途。ベックメッサーが絶望し、激怒して逃げていくシーンは自業自得であるとはいえ、少々気の毒でさえある。

「朝、私はバラ色の光に輝き」~替え歌の最高傑作

  • 前項につづいてベックメッサーの話題になるが、彼が歌合戦で披露する歌は最初から最後まで優勝歌の駄洒落の連続である。この歌は日本語訳だけ読んでも十分に笑わせてくれるが、かわいそうな判定役がどこをどう読み違えたのか比べてみるのも一興だろう。以下、左側がヴァルターの歌詞、右側がベックメッサーの歌詞である。

第1節

Morgenlich(朝の)
von Blüt'(花の)
geschwellt die Luft(辺りは満ち溢れて)
voll aller Wonnen, nie ersonnen(思いも及ばぬほどの喜びを漂わせつつ)
ein Garten lud mich ein, Gast ihm zu sein(ある庭園が私を客人として迎え入れた
Morgen ich(朝、私は)
vonBlut(血の)
geht schnell die Luft(大気をさっとよぎる)
wohl bald gewonnen wie zerronnen(溶けるような速さで間もなく勝ちとれるだろう)
im Garten lud ich ein - garstig und fein(私は庭に招き入れた、下品かつ上品に)

第2節

Wonnig entragend dem seligen Raum(その花園は喜びにあふれ)
bot goldner Frucht heilsaft'ge Wucht (美しい黄金の実を)
mit holdem Prangen(優しく優美に)
an duft'ger Zweige Saum(豊かに実る)

herrlich ein Baum(神々しいばかりの樹)
Wohn' ich erträglich im selbigen Raum(私はどうにかその園に住まい)
hol' Geld und Frucht - Bleisaft und Wucht(お金と果物、鉛と重しを取ってくる)
Mich holt am Pranger(晒し台から私を)
auf luft'ger Steige kaum(坂道は風が吹いてるとはとても言えない)
häng' ich am Baum(私は木で首を吊る)

第3節

an meiner Seite(私の傍らに)
gleich einer Braut (花嫁のように)
umfasste sie sanft meinen Leib(私を優しく抱きしめた)
mit Augen winkend(眼差しを向け)
die Hand wies blinkend(その手で指し示す)
an meiner Leiter(私の梯子に)
Bleich wie ein Kraut(キャベツのように青ざめて)
umfasset mir Hanf meinen Leib(麻糸がわが身に巻き付く)
mit Augen zwinkend(ウィンクしながら)
der Hund blies winkend(犬は手を振りながら吹いた)

  • 原形をとどめないほど変化している部分は割愛したが、こうして見ると全体に字を抜かしたり、あるいは複数の単語を続けてしまうミスが多く見受けられる。どうしてこれほどのミスを犯したかは想像するしかないが、ベックメッサー自身「賭けてもいいが、誰も理解できないだろう」と口にしているからこの歌詞が変と思ったのは事実のようだ。しかし、ザックスの「知名度には信頼を置いている」ため、読み取ったままに歌い、あのような悲劇を迎えることになる。

傲慢な貴族か、それとも謙虚な芸術の信仰者か~騎士ヴァルターの人物像

  • ザックス、ベックメッサーに続いてオペラの要となるのはヴァルターだが、台本上では先の二人に比べてずいぶん個性に乏しい描き方をされており、そのため歌手の役作り(あるいは演出上のコンセプト)によってはただ傲慢な騎士にしか見えないことも多い。たしかにヴァルターには貴族階級で甘やかされて育ったがゆえの誇り高さはあり(彼の姓シュトルツィングはドイツ語で誇り高いという意のstolzからきている)、それは言動の端々に見られる。マイスター組合への入会を拒絶されて怒り狂うシーンや、自分が納得しさえすれば規則から外れても意に介さないような態度はその好例だろう。しかし、こうした言動の一部分だけを見て彼を傲慢と決めつけるのは早計にすぎるように思われる。第一幕で明らかにされるように、ヴァルターは自らも芸術家になりたいという思いからニュルンベルクに渡ってきたのであり、身分を捨てて市民になるつもりでいた。マイスターになりたいという思いは、決してエーファと結婚したいから飛びついたような軽々しい気持ちではなく、ニュルンベルクを発った時からの目的でもあったのだ。本の中で過去のマイスターたちと触れ合ったヴァルターは、さぞ希望に胸を膨らませてニュルンベルクのマイスターたちの前に歩み出ただろう。だが、現実は夢とあまりにも違った。身分を問われたり(由緒正しい家柄かと尋ねられた時、多くの演出でヴァルターはかっとなり、剣を抜こうとする)、どこで学んだかくどくどと質された挙句、ろくに歌も聴いてもらえずに追い出されたのだ。これでは尊敬の念も夢もずたずたで、強い不信感に陥ってしまうのも無理はない。
  • ところで台本には特に詳しく書かれてはいないが、ヴァルターの反感はおそらくポーグナーにも強く向けられただろう。ポーグナーはマイスターの中で唯一ヴァルターと面識があった人物であり、会話の中で彼がヴァルターの引っ越しも手伝ったことが語られるが、不思議なことにいざヴァルターが苦境に陥った時、この老親方は何一つ手を貸してやらないのだ。それどころか、第一幕大詰めでザックスがヴァルターの歌を聴くよう必死で促している時もひっきりなしにしゃべり続け、その後もヴァルターと何がしかの連絡を取った形跡は見られない。第三幕、メダルの授与式でヴァルターが突然マイスターになることを拒むのは、ポーグナーの姿を目にして一気に昨日の屈辱が蘇ったからかもしれない。
  • このように、一見すると平凡に見えるヴァルターもよく読み込んでみるとさまざまな感情が浮き彫りになってくる。この役はそれほど難しくないといわれるが、実際に細やかな感情を自然に表現し、誇り高く感受性の豊かな騎士像を作り上げた歌手は数少ない。

エーファと三人の求婚者

  • 劇中の出来事はすべてこの女性を中心にして進んでいく。ザックス、ベックメッサー、ヴァルターの三人から愛されていることからも分かるように素直で愛らしい娘だが、彼女が実際誰を愛しているのかは少々曖昧である。
  • ベックメッサーに対しては強い嫌悪感を抱いているが、そもそもエーファがどの程度彼のことを知っているかは不明。劇中では直接顔を合わせるシーンは一つもないし、身近な者にもなぜ嫌っているか話してもいないので、おそらく見た目と父親から常日頃聞かされる話だけで判断しているのだろう。しかし、前にもみたようにベックメッサーは見かけよりも善良な性格。エーファもよく知りあっていれば、才能はあっても少々傲慢な面があるヴァルターよりベックメッサーを選んだかもしれない。しかし、物語の中で最も彼女と密に感じられるのはザックスである。ヴァルターとの間には他のヴァーグナー作品でみられるような強い絆(例えばオランダ人とゼンタ、ジークムントとジークリンデなど)は感じられず、むしろザックスとのほうが細やかなやりとりが交わされる。ヴァーグナーが意識してヴァルターとの間よりザックスとの関係を深く描いているのは事実で、第一幕の冒頭と第二幕の一部を除いてエーファがヴァルターと言葉を交わす機会はめったにない。そして結末においては月桂冠(=自分の夫に選んだ証)をヴァルターから取り、ザックスの頭に載せてしまうのだ。結末に関しては演出家が工夫を凝らし、ヴァルターの合意のもとで(あるいは二人で)月桂冠を捧げるようになされている場合が多いが、それにしても台本上にこうしたシーンがあるのは(ヴァーグナー自身はそのつもりがなかったとしても)、いずれエーファがザックスの元に戻ることを暗示しているように感じられないだろうか。

一塊に扱うなんて失礼! 個性豊かなマイスターたち

  • ザックスとベックメッサー、及びポーグナーを除くほかのマイスターたちはいわゆる脇役の部類に属し、オペラのタイトルを飾っている人々であるにも関わらず(タイトルの”Die Meistersinger”は複数形)注目を浴びることはまずない。しかし、第一幕後半と第二幕の殴り合いのシーンでは緻密なアンサンブルを繰り広げて重要な役割を果たしているし、点呼の際には一言ずつソロも用意されている。彼らは一般に規則のみを重んじる堅物揃いと解説されているが(それは確かに事実ではある)、この点呼での答えはさすがにマイスターとしての気転を感じさせる。 
  • 彼らの中で比較的目立つのはコートナーで、マイスター会議の司会を務めることもあってインパクトが強い。彼がタブラトゥールを読み上げる場面はほとんどアリアに近く、おどけたようなコロラトゥーラもついているので、脇役バスとしてはなかなか歌い甲斐があるのではないだろうか。それに続いて存在感があるのがナハティガルとフォーゲルゲザンクで、二人はしばしば主役の歌の合間に感想を述べる。フォーゲルゲザンクは脇役マイスターの中ではかなり柔軟な考えの持ち主で、ザックスが革新的なアイディアを出しても賛同しようとしたり、ヴァルターが自己紹介の歌を歌った時には手放しの賞賛を与えたりする。一方、ナハティガルはニュアンスによってかなり人物像が変わるタイプ。丁重だが気取っているのもいれば(ベルリン・ドイツ・オペラ フリードリヒ演出、1995)、実直で優しく、第一幕でも最後まで何とかヴァルターを支持してやろうとする(ヴォルフガング・ヴァーグナーのバイロイトでの演出、1984)のもいる。台本上ではヴァルターをかばってやろうとするのはザックスだけだが、舞台ではしばしばマイスターたちのセリフをうまく読み替え、ヴァーグナー演出のナハティガルのようにさりげない演技でヴァルターの味方であることを示す例も多い。このヴァーグナーの演出はマイスターの個性を浮き彫りにした例として非常に優秀で、ナハティガル以外にも仕立て屋のモーザー(ベックメッサーが限りなく罰点を書き入れた黒板を見て腹を立てる)、シュヴァルツ(ザックスがベックメッサーに反論しているのを好ましそうに聞いている)などはヴァルターの味方として、一方コートナー(ベックメッサーに最後まで媚びへつらう)、オルテル(興奮気味にヴァルターの歌を悪く言う)は反対者として明確に描いている。
  • 会議の場面に続いてマイスターたちの次の活躍シーンはいわゆる殴り合いの場である。マイスターともあろう者が率先して喧嘩に繰り出すとは苦笑いせざる得ない話だが、争っているメンバーを観察しながらなぜ仲が悪いのか想像してみるのも楽しい。さまざまな罵り言葉が飛び交う中で目につくのは、アイスリンガーが「いつもごまかして商売してやがら!」と言われる点。他のマイスターたちはほとんどが何かを製造する仕事についている中で、アイスリンガーは唯一スパイス小売商という職種なので、少々商売がうますぎるのだろうか。
  • ところで、この大喧嘩のシーンは台本に少々曖昧な点がある。上記のようにマイスターたちは率先して争いに加わっているのだが、彼らはすべて隣人と記載されており(筆者はすべてマイスターの名まえに置き換えた)、別に<マイスターたち>と書かれている役名があって紛らわしいのだ。この<マイスターたち>は登場人物表で挙げた人々以外とは考えられないので、おそらくメインで争っている者以外のマイスターと捉えるのが妥当だろう。

映像と録音

DVD

"ニュルンベルクのマイスタージンガー"

  • W.ヴァーグナー演出、シュタイン指揮/バイロイト祝祭管弦楽団
    マイスターたちの項でも触れた盤で、このオペラを鑑賞するにあたって第一にお勧めしたい映像。古き良きバイロイトの遺産で、キャストも豪華である。まずヘルマン・プライ演じるベックメッサーが絶品で、おそらく世界最高に頑固な役作りだと思われるが、彼独特の持ち味でどこか憎めない部分も出し切り、終幕では後悔の色も見せて観客の共感を呼ぶ。ベルント・ヴァイクルは大きな包容力とユーモアを合わせもつザックスにぴったりだし、グレアム・クラークのダーフィトもこの役の短気な面と機敏さをよく演じきっていてインパクトが強い。ジークフリート・イェルザレムのヴァルターはかなり穏やかな役作りで台本から浮かび上がるイメージとはだいぶ外れているが、その分魅力的でもある。マリー・アン・ヘガンダーは声が金属的なので耳につくときもあるが、全体としてはエーファのイメージにふさわしい。なお、この演出ではザックスとベックメッサーが最後に和解する設定になっており、ヴォルフガング自らが二人を握手させるパフォーマンスがある。

"ニュルンベルクのマイスタージンガー"

  • フリードリヒ演出、フリューベック・デ・ブルゴス指揮/ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団
    こちらは前衛的な演出の部類に入り、舞台が二十世紀に移されているが、物語そのものは台本通りなので、それほど違和感なく楽しめる。この舞台はかなりコメディ性が強く、本来それほどユーモアを感じないヴァルターやエーファもからりと明るいのが特徴。円の中にニュルンベルクの街がいっぱいに広がったモニュメント(地球のすべてがニュルンベルクで成り立っているという思い込みの強いマイスターたちの内面を表したものか)が序曲の間から登場し、その後もたびたび姿を見せる。デンマークのソプラノ、エヴァ・ヨハンソンがおてんばなエーファを歌い、ヴォルフガング・ブレンデルは生の感情をぶつける人間的なザックスを演じている。アイケ・ヴィルム・シュルテのベックメッサーはプライほどの個性はないが、演技はうまく、充分に笑わせてくれる。しかし、歌手陣の中では何と言ってもヴァルターを歌うイェスタ・ヴィンベルイが最高。解説で述べたニュアンスをほぼ出し切っているだけでなく、彼独特のユーモアもにじませて観る者を退屈させない。なお、ヴィンベルイは第二幕エーファを待つシーンでヴァルターがつぶやくセリフ"Die Alte ist's! (あれはおばさんのほうだ!)”を"Die Lene ist's! (あれはレーネさんだ)”と歌い替えている(後術するCDでも同様)。これがヴィンベルイ自身の変更であるのか、それとも版の違いによるものかは不明だが、数年後のメトでこの役を演じたベン・ヘップナーも同様に歌っているので(ただし彼の役作りにはヴィンベルイと似た個所が見られる)、対訳では一応Leneのバージョンも加えてある。

CD

"ニュルンベルクのマイスタージンガー"

  • ハイティンク指揮/コヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団
    旧コヴェントガーデン改装前の最後の公演という貴重な側面を持つ収録。キャストはヴィンベルイ以外は、ほぼコヴェントガーデンのメンバーでまとめられ、ジョン・トムリンソンが包容力豊かなザックスを、トーマス・アレンが表現力豊かに小言の多いベックメッサーを歌っている。若い恋人たちを歌うのはナンシー・グスタフソンと前述のヴィンベルイ。オーケストラが雑でしばしばテンポがかみ合わず、歌手の声とずれてしまうのが残念だが、全体に非常に出来栄えのいい演奏である。

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© Maria Fujioka


最終更新:2019年12月06日 09:10