"トリスタンとイゾルデ"

目次

オペラの前史を読み解く~アイルランドとコーンウォールの関係、トリスタンとモロルトの戦い

  • 「貢ぎ物を納める立場だったコーンウォールのために、アイルランドの王冠を求めるなんて!」 第一幕、イゾルデは激怒して叫ぶ。この言葉から察するところ、アイルランドはもともとイングランドに属するコーンウォールより高い地位にあり、イゾルデがマルケ王に嫁ぐことで権威が失墜したということのようだ。アイルランドは長年イングランドの圧政に苦しめられた歴史を持つが、史実上でコーンウォールを支配した時期があったのかどうかは分からない。しかし、このオペラを語るにあたっては史実上のことよりも、ヴァーグナーが台本を作成するにあたって参考にした伝説と照らし合わせながら、前史を読み解いたほうが面白いだろう。
  • 伝説によると、オペラでイゾルデが語るとおり、コーンウォールにはアイルランドに貢ぎ物を納める義務があり、まさにその問題が火種となって物語が始まるのである。筋の運びとしては、
    1. コーンウォールが長い間貢ぎ物を怠っており、アイルランドの勇士モロルトが「これまで滞納した分としてコーンウォールの子どものうち三分の一を奴隷としてよこさなければ戦争を仕掛ける。もし拒否するならば、コーンウォールの騎士が自分と決闘をして勝ってみろ」と、脅しをかける。
    2. コーンウォールはアイルランドから政略されて以来、5年ごとに使いとしてやってくるモロルトの言葉通りの貢ぎ物を納めてきたが、ある時、「アイルランドの奴隷として、貴族を50人引き渡すように。拒むなら自分がコーンウォールの騎士と一騎打ちの相手になる」と、モロルトが迫った。
    3. コーンウォールは次第に勢力を増し、自信を持ったマルケ王はアイルランドに貢ぎ物の停止を通告。怒ったアイルランド王家がモロルトを使いに出し、戦いを挑ませる。
  • などの相違がある。しかし、いずれにせよモロルトが恐れられる勇士であり、若くまだあまり経験のないトリスタンが決闘に応じることを申し出て勝利を収める、という筋書きは変わらない。ただし、オペラの中では、トリスタンはモロルトと戦う前にもさまざまな手柄を立てていたようであり(第二幕でマルケは「おまえが勝ち得てくれた並みならぬ名誉と栄光」と言う)、この点は伝説と大きく異なっている。
  • ところでトリスタンはカレオールの出身となっているが、コーンウォールとカレオールは対岸の関係にあり、アイルランド、マン島、スコットランド、ウェールズとともに6つのケルト民族地域とされているようだ。トリスタンという名は「悲しみ」を意味するというが、これはどうやらピクト語のようで、ピクト人も8世紀ごろまで存在したといわれるケルト人の一派であるらしい(ピクトについては謎が多いというが)。

純情で不器用~トリスタンの知られざる姿

  • 伝説のトリスタンはなかなかの策士のようだが、オペラではすっかり人物像を変えられ、ひたすらイゾルデへの愛に生きる純情な青年として描かれている。
  • ところで、一般的にこの役はヴァーグナーのオペラに登場する中でも最高の英雄に数えられ、高貴で落ちつきのある雰囲気を要求されるのだが、今回自分で訳すうちに、ふと広く知れ渡っているイメージとはかなり違う姿に気がついた。非常に子どもっぽいのだ。以下は私個人の感想に過ぎないが、トリスタンを<子どもっぽい>と感じた所為について書いてみたい。
  • まず第一幕。トリスタンはイゾルデの名を耳にしただけで動揺し、取り乱した声を上げる(オペラの第一声は「えっ、何だって?イゾルデ?… 」)。ブランゲーネとの対話でも、その受け答えは決して洗練されているとは言えず、もっとましな言い訳はできないのかと思いたくなるほど要領を得ない。その言い訳自体も、ブランゲーネに対しては「今この瞬間に舵を放したりしようものなら、マルケ王の国にたどり着けなくなる」と言ったにもかかわらず、次にイゾルデから問いつめられた時には理由が<作法>に変わっており、とても落ちつきのある大人とは呼べない対応の仕方だ。
  • トリスタンは窮地に陥った時に言い訳ができるタイプではなく、第二幕でマルケ王に責められた時もうなだれるばかりで何も言えなくなってしまう。他に子どものようだと感じるのは、ト書きにある行動だ。愛の二重唱の間、彼はしばしばイゾルデに頭をすり寄せ、甘えるようなしぐさを繰り返す。
  • もちろん、トリスタンは単に子どもっぽいだけではない。一般に言われているような高貴さも必要だが、台本を読むかぎり私には、それほど堂々とした風格は必要なく思われる。むしろトリスタンは傷つきやすく、繊細ではにかみや、なかなか心の内を明かすことができない青年のようだ。勇気があり、武術の才能は豊富だが、適応力に欠けるため、常に後ろではクルヴェナールやメロートの助けを必要とする。まさにこうした優柔不断さのために愛するイゾルデをおじの花嫁にするほかなかったのだが・・・(このことについては後で詳しく述べる)。
  • しかし、愛のために命を捨てる行為には彼の一途さと信念が感じられる。トリスタンはまれに見るほどまっすぐな心の持ち主で、嘘とは無縁の若者だ。彼の単純な思考回路では、自分をかわいがってくれたおじにイゾルデとの愛が知れてしまった以上、死を選ぶより他はなかった。トリスタンはイゾルデを自分の一部のように感じ、決して離れられないほどの愛情を注いでいるのである。三幕での激しい錯乱状態も、イゾルデがそばにいない苦悩のためだ。彼の想いの深さは次の言葉にも表れているだろう。
あの人に会って、
彼女を見つけたら、
一つの存在になって、
共に死ぬんだ。
  • 以上のことから、私はトリスタンの主語に「僕」を使い、その他の言い回しも少年らしさを強調した文体としている。
  • ヴァーグナーがトリスタンのパートに与えた音楽は激しい感情に彩られていたり(二幕で登場する歓喜のシーンや三幕)、控えめだったり(一幕のブランゲーネとの対話)、おずおずとしていたり(一幕でのイゾルデとの対話、二幕でのマルケへの受け答え)で、この感情豊かな青年の心情を余すところなく描き出している。イゾルデの到着を喜ぶ場面では力強い舞曲が奏され、音のみを聞いていても、トリスタンが目を輝かせてはしゃぐのが眼前に浮かぶようだ。
  • この役には長時間を歌い通せるだけの声や翳りのある音色だけではなく、子どものように純真な雰囲気や、いざとなると自分を主張できない無力さを感じさせる必要がありそうなのだが・・・。輝かしい声を持つヘルデン・テノールがトリスタンの無邪気な性格を表現するのはなかなか難しいのだろう、台本から感じられる雰囲気を完璧にこなした歌唱は今まで出会ったことがない。

愛が芽生えた瞬間~トリスタンの眼差し

  • 主人公二人が恋に落ちる場面も前史の中に組み込まれている。愛の芽生えに関してはイゾルデ側にスポットを当てて解説されることが多く、どうかするとトリスタンは愛の薬を飲んで初めてイゾルデを愛したかのように解釈されることさえあるようだ。しかし、ここではあえて、トリスタンの立場で<愛が芽生えた瞬間>を考察してみたい。
  • 剣を突きつけられた時のトリスタンの様子を、イゾルデは回想してこう歌う。
ベッドに横たわったまま、
あの人はこちらを見た。…
剣でもなく、それを握る手でもなく、…
ただ、ひたすら私の目を・・・。
  • オーケストラには<憧れの動機>が流れ、イゾルデの歌も、この箇所ではしばし荒れ狂った激しさが影を潜めて、繊細な感情が表に出る。これはもちろんイゾルデの心情を表しているのだろうが、語られているトリスタンの思いも反映していることを忘れてはならない。
  • ふつうならば、何か特別な感情が働いていないかぎり、剣を振り上げられた時に逃げようとしない人間はいないだろう。しかしトリスタンは歌にあるとおりじっと動かず、ましてや剣にさえ注意を向けずにひたすらイゾルデの目を見つめた。イゾルデの心に渦巻く怒りを静めたのは何だったのか。トリスタンはこの時までにイゾルデを深く愛するようになっており、彼女の怒りに共感したうえで、愛する人の剣を喜んで受け入れようとした。そのけなげな精神、すなわち愛の心がイゾルデの心を打ったのだ。そして、その時彼女もまたこの気高い心の持ち主に愛情を感じ、トリスタンをかばって傷を治してやる。
  • 「彼は何度も何度も感謝を述べ、私に永遠の忠誠を誓った」(イゾルデ、第一幕)。トリスタンは敵と知りながら自分の傷を癒してくれたことに感激し、ますますイゾルデへの愛を深めたことだろう。しかし、我に返ってみれば「栄光に包まれた王女が僕のものになり得るなんてどうして考えられるだろう?」(トリスタン、第二幕)。イゾルデはアイルランドの王女であり、自分は貢ぎ物を納める国コーンウォールの騎士でしかない。しかも、アイルランドとコーンウォールはまさに今犬猿の仲になっているのだ。

当初の喜劇の名残か~気位の高い王女イゾルデ

  • 無口で引っ込み思案のトリスタンに比べると、イゾルデははるかに分かりやすく描かれている。彼女の言葉数は相当数にのぼり(自分では「沈黙の大切さを学んでいた」と言うが、それにしてはしゃべり過ぎだ)、その心情は読み解くまでもなく明らかである。
  • 彼女は――少なくとも愛の薬を飲むまではかなりコミカルではないだろうか。イゾルデの悲しみも怒りも真実のものではあるが、その言い方は大仰でコメディとの境界線を越えかけている。たとえば、次の一節を見てほしい。
有頂天になって、
得意げに
はっきりと、
私のことをこう言ったにちがいない。
「彼女は宝ですよ、
おじさん。
結婚相手にぴったりじゃありません?
あのきれいなアイルランド娘を
連れてきましょう。
(中略)
ああ、冒険でわくわくするな!」
  • このセリフは間違いなく彼女の想像の産物だ。イゾルデは、トリスタンがアイルランドに到着して初めて自分がマルケ王の妻にされることを知ったのだから、当然話し合いの現場にいたはずもない。勝手にあることないことを想像して怒っているのであり(事実、ブランゲーネからも「勝手に想像して怒ってはだめよ」と注意される)、笑いださずにはいられない。
  • 死の薬を持ちだしてさえも、ふしぎとあまり深刻に感じられない。事実、彼女はブランゲーネに死の薬を用意させておきながら、なかなかトリスタンに渡そうとせず、今度はトリスタン本人に向かって想像の言葉をまくしたてるのだ。
あなたは私を導いて、
こう言えるのが
楽しみなのではなくて?
「おじさま、
この婦人をよく見てみて。
これほど優しい人は
いないと思うよ。 ・・・(後略)」
  • 結局、彼女は杯を渡さないままである。二人が愛の薬を飲むことになったのは、トリスタンが自分から杯をひったくって口をつけたからだ。彼が飲み干そうとして初めてイゾルデはあわてだし、自分も残りを飲むのだが、トリスタンが自分で飲もうとしなければ、杯を引っ込めたかもしれない。その直前トリスタンから剣を渡された時も、彼女は巧妙な言い訳をして逃げているのだから。
そんなことをしたら
あなたのおじさまの目が気になるわ。
マルケ王が何とおっしゃると思って?
王のために王冠と土地を勝ち得た、
誰よりも忠実で
しっかりした臣下を
殺したりしたら、私、あの方に顔向けできないわよ。
  • なぜイゾルデはこうも滑稽な言動を繰り返すのだろうか。訳者の推測にすぎないが、これはもともとヴァーグナーが「トリスタン」を軽めのオペラに仕上げようとした時の名残りかもしれない。しかし、このコミカルな性格は愛の薬を経緯に変化し、イゾルデは崇高な愛に生きる女性となっていくのだ。

昼と夜という言葉が意味するもの

  • 第二幕はほとんど主人公二人による愛の二重唱で占められ、ここで二人は過去から現在にいたるまでの互いの気持ちを正直に打ち明け合う。昼と夜について語り合う場面は時たまカットされることもあるようだが、主人公二人がかつての心の誤解を解き、互いに理解し合う場面なので、物語の進行上重要である。
  • ただ、ここでの会話は非常に象徴的な言葉がちりばめられており、いささか意味が取りづらい部分がある(それゆえにヴァーグナーならではの美しい表現が堪能できるのだが)。そこで今回の訳では思い切って、言葉の美しさと意味を壊さないようにしながらも二人の心情がダイレクトに伝わるような日本語に置き換えた。
  • 少し読んでみれば、会話では常に昼が悪者扱いで、夜が幸福の使者として描かれているが、これを文字通りにとっては大きな誤解を招くだろう。昼と夜が表している意味を汲み取るならば、おおよそ次のようになる。
昼=二人が会えない時間、社会概念、立場など物質的次元における事柄
夜=二人が愛し合える時、身分や物質的次元を超えた精神世界
  • 注意しなければならないのは、彼らが夜を讃えるようになるのはイゾルデがマルケ王と結婚してからだということだ。運命のいたずらで心ならずも不倫の関係となってしまったトリスタンとイゾルデ。当然幸せは夜にしか訪れない。二人は自分たちにとって幸福をもたらす「夜」と、別れさせられてしまう時間帯である「昼」に思いを託し、会話を織りなしていくのだ。もう一つ重要な言葉に太陽が出てくるが、これは昼に属するもので、地位や名誉の象徴とされる。これらの概念はそのまま第三幕でのトリスタンのモノローグにもつながっていく。
  • これらの概念が打ち破られ、真の意味での太陽と昼が讃えられるのは、イゾルデが明るい昼間にトリスタンのもとを訪れた時だ。トリスタンは喜びにあふれ、歌う。
ああ、太陽が輝いてる!
素敵な昼だ!
喜びに彩られた
輝く太陽の昼!
  • トリスタンはこの時、自分とイゾルデの仲がもはや隠れる必要のないものへ変わったことを確信したのだ。

メロート~トリスタンの親友にして裏切者

  • メロートの登場シーンはあまり多くはないが、物語の上では重要な役割を果たす人物。「彼は僕の友達・・・(中略)いつだって僕の名声や栄光を人一倍気にかけてくれた」(トリスタン、第二幕)。メロートはおそらくそれまではトリスタンにとって良き相談相手だったと思われる。先に述べたように、トリスタンはあまり処世術に長けたタイプではなく、武術の才能を生かすにしても、細かい作戦を練る人を必要とする。頭がよく、計画的な行動を得意とするメロートはトリスタンの協力者にうってつけだったに違いない。しかし、イゾルデの件を巡ってはよりによって最悪の事態を招いてしまう。
  • 「彼は民衆を引き連れ、王ときみ(イゾルデ)を結婚させて自分の名誉としろ、と皆と一緒になって詰め寄った。」宿敵の間柄でありながらイゾルデに恋してしまったことで苦しむトリスタンに、メロートは国家の問題を持ち出し、プレッシャーをかけて無理やり愛をあきらめさせたのだ。トリスタンは意志は強くとも、自己主張できない面があるので、友人と民衆からこれほど強く要求されれば逆らえなかっただろう。彼はやむなくメロートから言われた通りの言葉をマルケ王に言い、重い心でアイルランドへ旅立っただろう。だが、メロートの卑劣な性質はイゾルデを実際に目にした時から表に現れはじめる。友人を裏切ってもイゾルデを手に入れたくなってしまったのだ。この後の経緯はオペラにあるとおりだ。
  • ところでメロートは第三幕、マルケ王がトリスタンとイゾルデを結ばせようとやってきた時も一緒についてきているが、この時の彼の心理状態はどうだったのだろう? 三幕でメロートが歌う言葉は、
”Zurück, du Tor! Stemm dich nicht dort!”(「そこをどけ、この馬鹿者! 陣取ったりするな!」)
”Weh mir, Tristan!”
  • の二つだけ。この”Weh mir”は嘆きの声を上げる時の言葉であり、直訳すると「ああ、悲しい!」となるのだが、ここの訳は実にまちまちで、「ちくしょう!」となっているのもあれば、「やられた!」と書いてあるものもある。解釈の幅はかなり広いのだが、善意のマルケ王に伴ってきたこと、”Weh mir”のあとにトリスタンの名を叫んでいることから、私としてはメロートが裏切りを後悔していたと考え、「ああ、トリスタン、遅かったか!」と訳している。

忠誠のかがみ~コミカルだが一本気のクルヴェナール

  • メロートと正反対にどこまでもトリスタンのために尽くすのが、従者であり親友のクルヴェナールだ。第一幕ではトリスタンの心痛も知らず、<モロルトの歌>を歌ってイゾルデを嘲ったりもするが、それも「きみに忠誠を尽くそうとし」たが故のこと。おそらくはじめのうち、クルヴェナールは主人がイゾルデのわがままに辟易していると信じていたのだろう。
  • クルヴェナールはこのオペラの笑いの部分を担当し、一幕、および三幕の前半のトリスタンとのやり取りではさりげない面白さを漂わせる。しかし、そうした明るさもトリスタンの死とともに消えてしまう。第三幕三場では悲しみのあまり狂気のようになり、今や亡き人となったトリスタンを守るために必死で戦ったあげく、トリスタンへの忠誠を語りながら死んでいくのだ。これほどの忠義者がどこにいるだろうか。また彼は非常に判断力があり、いざとなるとかなり大胆な行動に踏み出すことができる人のようだ。メロートの刃に傷つき、名誉もずたずたになったトリスタンを見てクルヴェナールはとっさにカレオールに匿うことを思いつき、一人で主人をコーンウォールから連れ出している。さらにはモロルトから傷を受けた時のことを思い起こしてこっそりイゾルデを呼びにやるという手際の良さだ。
馬に乗ってきたんじゃないんだ。
小舟で運ばれてきたんだよ。
だが、小舟からここまで来るときは
私が肩に乗せて
連れてきたんだぜ。
  • 目を覚ましたトリスタンに向かって、クルヴェナールは持ち前のコミカルさを生かして歌うが、その心痛は計り知れないものであっただろう。
  • 音楽面では、クルヴェナールの場面は彼の忠誠心を表すものなのか、しばしば素朴で明るい国歌風のメロディーが出てくるのが面白い。
  • ところで、第三幕は台本通りに演出するならば笑いを誘うようなシーンが隠されている。トリスタンの居城についてはト書きに、
あたりには人が住んでいないようすが漂い、庭は手入れがされておらず、あちこち傷んでいたり、あるいは草がはびこったりしている。
  • とあるのだが、クルヴェナールが説明する時はこう歌うのだ、
民衆は皆
大切な主人を想って、
できるかぎりきちんと
この城を手入れしてくれていたのさ。
  • 彼はいったいどこを見ているのだろうか? 確かにトリスタンの羊は世話されているようだが・・・。

訳文について

  • ヴァーグナーの文章は誰もが言うように、言葉のかかり具合がわかりにくく、一つの箇所につきいくつかの意味が取れることもかなりあります。また今回、かなり慣例と違う訳をしたところもあるので、ここでは作品解説の部分で延べなかった部分についていくつか誤解のないように記しておこうと思います。
  • あなたなんか大嫌いだわ! あなたの頭に雷が下ればいいのよ!(第一幕、イゾルデ)
    ここの原文は”Fluch dir, Verruchter! Fluch deinem Haupt!” 直訳すれば、「忌々しい男よ、呪われるがいい! あなたの頭よ、呪われろ!」となるのだが、私はなるべく品良く訳したかったこともあって上記のようにしました。
  • 愛の二重唱
    ブランゲーネの警告を耳にして「お聞きになって」とイゾルデが呼びかけるシーン。短い対話だが、ここで、トリスタンは「このまま死んでしまいたい。」、「絶対に目覚めたくない!」、「昼なんか死の中に 追い払うからいいよ!」と、三つの返事をします。この三つのセリフは二度目のブランゲーネの警告をはさんで、今度はイゾルデがそっくり同じに歌うのですが、私はこれをトリスタンのセリフを噛みしめるように繰り返していると考え、原文にはないカッコをつけています。その前後にもしばしばイゾルデはトリスタンが先導する言葉を繰り返しており、彼女が優しく恋人を受け止めている証しと解釈しました。
  • こんなに愛した人も、また愛された人もいない!(第三幕、クルヴェナール)
    ここは原文は”der wie keiner geliebt und geminnt.” 「愛された」とも取れるし、「愛した」とも取れる文章です(難しい文法の話は省きますが、この文章は過去形とも受動文とも解釈できる)。一般的には「愛した」と訳してあるようですが、私はあえて両方の意味を採用しました。
  • これ以外にも、作品解説の項で述べたように意味のとりにくいところを思い切って分かりやすさを優先したシーンはかなりあります。全体に趣よりも、上品でありながらも自然な訳を心掛けたので、一般的でなく思われる個所はかなりあるかもしれませんが、私なりの解釈です。お楽しみいただければ幸いです。

最後に~崇高な愛の魅力

  • ここまで劇中の物語について自分なりの解釈を述べてきましたが、このオペラが人気があるのは何といっても、主人公二人の深い愛に感動するからでしょう。トリスタンとイゾルデはさまざまな障害を乗り越え、危険をものともせずに愛し合い、生も死も共にする。不倫ではあっても、それは社会の状況に縛られた結果そうなったのであり、二人はほんとうの意味で「心の底から」結ばれた仲なのです。
名まえを分けることなく、
隔てるものは一つもない。
新たな存在となって、
新しい命が生まれる。
  • これは第二幕の二重唱大詰めからの引用。「トリスタン」を味わいながら常に頭をよぎるのが、これほど崇高な愛を持って生活している人が世に何人いるだろうか、ということ。恋愛や結婚は巷にあふれているけれども、トリスタンとイゾルデのように、命も惜しくないほどの愛を一人に注げる人は多くないのではないでしょうか。心のつながりが希薄になり、機械的になってきている今の世の中にあって、この作品は「愛の結びつき」という人間の大事なメッセージを残してくれているような気がしてなりません。

音盤紹介

映像

"トリスタンとイゾルデ"

  • バーンスタイン/バイエルン放送交響楽団
    今年、初めて発売されたバーンスタインの「トリスタン」。バーンスタインにとって唯一のヴァーグナー作品でもある。演奏会形式で一幕ずつ上演されたもので、当時テレビ放送されて以来発売を待ち望まれながら何と30年以上経ったようだ。主役二人を歌うのはペーター・ホフマンとヒルデガルト・ベーレンス。ホフマンはちょっと疲れ気味で、トリスタンの一途さと気高さがもう少し足りないが、声の音色はぴったりであるし、まずは適役の部類に入るだろう。ベーレンスはちょっと表現力に物足りなさを感じ、感情の激しさを必要とする場面では一本調子になりがち。しかし、二幕の愛の場面では美しい声でしっとりと歌い上げ、聴いていて心地よい。歌手陣の中で圧倒的にすばらしいのはイヴォンヌ・ミントンのブランゲーネ。一幕から三幕まで表情豊かに歌いあげ、彼女が現れると劇全体が引き締まる。演奏会形式のため、登場人物の出入りのタイミングなどで興ざめする箇所もあるが、全体に貴重な映像と言うべきだろう。

"トリスタンとイゾルデ"

  • バレンボイム/バイロイト祝祭管弦楽団
    1995年、バイロイトで収録されたもので、ヴァルトラウト・マイヤーとジークフリート・イェルザレムがそれぞれ初めて主役を歌ったプロダクション(初演は1993年)。ハイナー・ミュラーの演出は心理的な面にスポットを当てたもので、動きは極端に少ないが、これはこれで納得のいくもの。特に愛の死の場面で、イゾルデが黄金の光に包まれるシーンは見事だ。ただし衣装は非常に日本的で、このオペラに合っているとは思えない。マイヤーは高音域になるとヴィブラートが目立つので二幕の愛の場面ではかなり気になるが、一幕の大騒ぎはうまく演じている。「愛の死」の歌唱もよい。一方のイェルザレムはもともと声が輝かしいので、少々英雄的過ぎるきらいがあるが、表現力、演技力はさすが。クルヴェナールを歌うファルク・シュトルックマンもイメージにぴったりだ。

CD

"トリスタンとイゾルデ"

  • クライバー/バイロイト祝祭管弦楽団
    バーンスタインと同じく、クライバーにとっても「トリスタン」は唯一のヴァーグナー作品。クライバーには正規録音もあるが、個人的にはこちらのほうが好み。バイロイトでの1975年の収録である。ほんとうはORFEOから出ていた1974年のほうがトリスタンを歌うブリリオートが好調なのでおすすめなのだが、現在残念ながら廃盤のようだ。ヘルゲ・ブリリオートは不調なせいもあって、愛の二重唱では声が出なくなったり、やっとの思いで声を振り絞っていたりで聞き苦しい箇所は多いのだが、それでも彼の音色にはどこかトリスタンにぴったりのものがある。イゾルデを歌うカタリーナ・リゲンツァはちょっとヒステリックすぎる気もするが、適役の部類に入るだろう。ブランゲーネはミントンで、声だけでも似合っている。さらに印象深いのがドナルド・マッキンタイアのクルヴェナール。彼の声は従者役にしてはちょっと気品がありすぎるかもしれないが、声だけでクルヴェナールの忠誠心、とぼけた感じを感じさせ、三幕で狂気のようになるシーンも凄みがある。

"トリスタンとイゾルデ"

  • バレンボイム/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
    映像の項で述べたバイロイトのプロダクションを元に録音したと思われるもの。主役二人とクルヴェナール、羊飼いは同じキャストだが、他はすべて置き換えられている。1994年の収録。演出や衣装に振り回されることなく、純粋に音楽だけを楽しむならばこのCDのほうがいいかもしれない。

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© Maria Fujioka


最終更新:2018年10月27日 16:42