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パルジファルとパルツィファール~伝説とオペラの違い

  • このオペラの原作はヴォルフガング・フォン・エッシェンバッハの叙事詩『パルツィファール』。パルツィファールの伝説は数多く存在するようだが、エッシェンバッハが自分の空想も交えながら書いたのがこの作品である。主人公はもちろん、アンフォルタス、クンドリー、グルネマンツといった人々は皆ここに登場する。面白いのはオペラの中で聖杯騎士の一人として名前だけが登場するガーヴァンは叙事詩ではパルツィファールと並ぶ主役であり、特に物語の後半はパルツィファールよりも目立つ人物に描かれていることだ。原作は十六巻にも及ぶ長大な物語で、ドイツ語で書かれた聖杯伝説としては最初の作品であるらしい。かなり長い文学作品だが、オペラと照らし合わせてみるとなかなか興味深いものが多数ある。ここではオペラとの違いに注目しながら、原作の<パルツィファール>について書いてみよう。
  • 叙事詩に登場するパルツィファールは半分妖精の血を引いていて、まったくと言っていいほどものを知らないが、どこか憎めないかわいい少年であり、その彼が失敗を繰り返しながら、少しずつ成長していくのがこの物語の大枠である。パルツィファールの愚かさは尋常ではない。例えば母から「女性の指輪とあいさつが受け取れる状況ならばもらっておきなさい」と教えられると、彼はその言葉通りに受け取ってしまう。この教えは愛のある結婚のことを指しているのだが、まだ子どものうちに旅に出たパルツィファールはこの教えをとんでもない方法で実行してしまうのだ。オルリス公の妻、イェシューテに出会った場面である。少し長いがおおまかに引用しよう。
公爵夫人はぐっすり眠っていたが、
その姿は愛を受け取るための武器そのものと言ってよかった。
唇はうっすらと赤く、
騎士の心を愛で悩ませた。
彼女が眠っている時でさえ、
その唇は魅惑し、愛を呼び覚ますのだ。
・・・(中略)・・・
少年は彼女が長い腕を伸ばし、そのなめらかな手先に
指輪をはめていることに気がついた。
彼は公爵夫人からそれをいただこうと、
吸い寄せられるようにベッドに近づいて行った。
確かママはご婦人から
指輪をいただくようにって教えてくれたもん。

少年はぴょんと飛び降り、絨毯の上を歩いて
つかつかとベッドまで歩いて行った。
少年が彼女を抱き寄せると、
汚れない女性はひどくおびえた。

もちろん、彼女は目を覚ましてしまったのだ。
それでも彼女はしっかりと躾を受けた高貴な身分らしく、
ぎこちないながらもほほえみを浮かべ、口を開いた。
「まあ、わたくしを犯そうとなさるのはどなた?
かわいいぼうや、こんなことはいけませんわよ。
他のお姫様をお探しなさい。」

彼女が訴えているのに
少年はお構いなしで、
公爵夫人の唇にチュッとした。
彼はろくにちゃんと考えていなかったのだ。

彼は公爵夫人を引き寄せて
指輪を抜き取り、
彼女のブラウスにブローチがついているのを見ると、
これも遠慮なく引っぱってしまった。

SPIEGEL ONLINE~Parzival und Titurelより訳出、以下同)
  • これでは泥棒行為である。しかし、パルツィファールは母親の教えを忠実に守っているだけのつもりなのだ。もしかすると公爵夫人もこの子に悪意がないことに気がついたのだろうか。彼女は召使いを呼びたてることもせず、この少年を逃がしてやろうとするのだ。
「ぼうや、わたくしの指輪を置いて、
大急ぎでここを出たほうがよろしいわ。
今すぐ立ち去りなさい。主人が来たら、
ひどく怒られてよ。
それだけは避けてほしいわ。」

すると少年はまるで赤んぼうのように言った。
「どうしてあなたのご主人を怖がらなくちゃいけないの?
よく分からないけど、あなたの名誉を守るためなら
喜んで僕、立ち去るよ。」
彼はベッドに突進した。

それから彼女にチュッチュをして、
ー かわいそうな公爵夫人! -
立ち去る時のお辞儀もせずに飛び出した。
言い残したのはただ「あなたに神のお守りがありますように!
絶対あるよ。だってママがそう言ってたもん。」
  • 開いた口が塞がらないほどの無邪気さだ(もっとも、のちにパルツィファールはこれがいけないことだったと気がつき、きちんとイェシューテ夫人に指輪を返している)。愚かさゆえに、それと知らないうちに悪行を成してしまう。素直に他者の教えを聞き入れるが、それを曲げて解釈し、さらに失敗する。その姿にはあきれる部分も多いが、一方でどこか魅力的でもある。
  • オペラとの関連で重要と思われるのは、パルツィファールがアンフォルタスの傷を癒すシーンだ。オペラでは槍の先を当てて傷を閉ざすが、叙事詩ではそうではなく、聖杯をじっと仰ぎ見たあとでパルツィファールが「どこが痛むのですか?」と問うことで傷は癒える。しかし、愚かで従順なパルツィファールのこと。もちろん、一回でうまくいったわけではない。この時に彼にとって仇になったのは「むやみに質問を浴びせてはならない」という教え。これはパルツィファールにとって初めての師であるグルネマンツから教えられたものだったが、アンフォルタスを救うには質問せねばならない。臨機応変な態度とは無縁のパルツィファールは何とも忠実なことに、必死に質問したい気持ちを押し殺し、アンフォルタスを救う機会を逃してしまう。彼がアンフォルタスの傷を癒すのはそれからかなり経ってからのことである。
  • それと反対にオペラとの設定で大きく違うのは、パルツィファールは聖杯王になる時点ですでに結婚していることだろう。叙事詩にはコントラヴィラムールなる女性が登場し、パルツィファールが彼女を救ったことがきっかけで愛し合うようになるのだ。パルツィファールはこの妻との出会いでも微笑ましい純真さを見せる。
  • コントラヴィラムールはブローバルツ王国の若い女王なのだが、この王国は長引く戦争のために飢餓に苦しんでおり、彼女は自らと国民のために意を決してパルツィファールを色仕掛けで誘惑しようとする。しかし、彼女自身こんな卑怯なやり方で救ってもらおうとすることにはかなり気が引けている。
純潔な乙女の悲しみは大きく、
彼女は少年のパルツィファールの上に
つぎつぎと涙をこぼした。
すすり泣く声を耳にして、
彼は目を覚ました。そして彼女の姿を見ると、

かわいそうになり、同時に愛を感じた。
彼は起き上がると、
女王に話しかけた。
「女王様、何をなさってるんですか?
あなたがひざまずくなんてだめですよ。
ほら落ちついて、僕のそばに座ってください。
ー 彼はほんとうにそうしたかったのだ -
でなかったらこのベッドをお使いになってください。
僕は適当に別の場所を探して横になりますから」

  • 色仕掛けにはつゆ気づいていない反応だ。何ともかわいく、優しい気遣いではないだろうか。パルツィファールはコントラヴィラムールから苦境を聞き知ると、翌日敵を迎え撃って(といっても殺してはいない)、女王を救ってやる。コントラヴィラムールは感激して、パルツィファールに永遠の愛を誓うのだが、その夜もやはりこの純真な少年は自分の感情に戸惑い、女王に手を出すことに気おくれしたまま。しかし三日目になると、これこそが深い愛のつながりだと目覚め、初めてコントラヴィラムールと抱き合う。そして彼女と結ばれたあとは決してほかの女性に目を向けることなく、ひたすら妻を愛しつづけたのである。

ほんとうに清らかな愚か者なのか~パルジファルの人物像についての疑問

  • 上で長々と述べたように、叙事詩に登場するパルツィファールは愚かだが純真で優しい性格である。しかし、悲しいことにオペラではこの魅力のほとんどがそぎ落とされ、まったく人物像が変わってしまった。オペラのパルジファルはどう好意的に見てもかわいいとは言いがたいし、従順でもなく、大変な乱暴者だ。母親のもとを飛び出してきた経緯も原作と比べると大きな差異があり、パルツィファールは旅に出る旨を母に告げてから出かけて行くが、パルジファルは一言も言わずに騎士の後を追って戻らなくなる。
  • ヴァーグナーの描くパルジファルはあまりに思いやりがなく、毒舌で魅力がない。白鳥を射落として登場する場面は《ローエングリン》との関連を意識してのことだろうが、母の死を聞いてクンドリーに飛びかかるのは蛇足だ。さらにクンドリーは危害を加えようとした相手が気分のすぐれないのを見てとって水を運んできてやるのに、パルジファルはお礼の一言も言わない。最終幕で救い主として崇められることになる人物として描くのならば、第一幕の時点でも最低限の優しさは備えているべきだろう。こうした言動を目の当たりにしているのに、グルネマンツが彼を見て<清らかな愚か者>かもしれないと感じるのはかなり無理があるのではないか。第二幕で悟りを開いたはずの彼がクンドリーに悪態をつくのも納得がいかない。真の救済者はもっと優しくあるはずなのだ。
  • アンフォルタスを救うまでの経緯も原作に比べると出来が悪い。アンフォルタスの傷を股間ではなく脇腹に変えた点(もちろん脇腹のほうが上品だ)、傷の原因を<聖槍>とし、アンフォルタスの姿をキリストと対比させた点はかなり説得力があるが、ここでもやはり問題はパルジファルだ。原作のパルツィファールならば、最初の時点で「質問してはいけない」と思いこんでいなければあっさりとアンフォルタスを癒すことができたはずだが、オペラのパルジファルは衝撃を受けただけで救う手立てなどまったく思いつかない。第三幕で自ら王になることを宣言するのも、権力欲が隠れ見えるようで、訳者としては好きではない。
  • ヴァーグナーはどうして原作の愛らしさをすべてカットしてしまったのだろう? トリスタンの場合は原作よりもずっと純真に描かれていたのだが…。

原作の三人の女性の合体~心根の優しいクンドリー

  • 一方、アンフォルタスに傷を負わせるきっかけを作り、パルジファルに使命感を呼び覚ます役割を果たすクンドリーは非常に好感の持てる人物として描かれている。彼女は苦しみに疲れながらも自分の罪(呪われて死ねなくなる、というのはオランダ人の二番煎じに思えるが)をしっかりと自覚し、聖杯城ではどれほど罵倒されてもまめまめしく奉仕している。男を誘惑するのはクリングゾールに操られているだけなので彼女の罪ではないし、第一幕でパルジファルに水を運んできてやるシーンでは乱暴な主人公に比して気高い精神さえ覗かせる。彼女はいじけてはいるが、心根は優しく素晴らしい性格だ。
  • さて、このオペラでは珍しくある種の魅力を備えた登場人物だが、彼女は原作の三人の女性をブレンドして出来上がったようだ。まず最初の一人は同名のクンドリー(第一幕、第三幕の姿はここから取られている)、次が先述のコントラヴィラムール(パルジファルに色仕掛けで近寄る点)、最後がオルゲルーゼ(アンフォルタスの傷の原因を作る女性)である。原作の主要な女性を一人に合体し、オペラとしてコンパクトにまとめた点では才能のひらめきを感じるが、彼女が最後に愛を得られないまま死んでしまうのはあまりにかわいそうだ。このあたりは演出家が工夫を凝らし、最後までクンドリーが生き延びることも多い。いずれにせよ、クンドリーはこのオペラの中で最もよくできた人物といえる。
  • ところで、彼女は<泣くことができない>はずなのに、クリングゾールから目覚めさせられた時に<すすり泣く>というト書きがあるのはどういうことだろう? 今回訳していて気がついたのだが、ヴァーグナーの書き間違いだろうか。

アンフォルタスとグルネマンツ~聖杯騎士団で最も人間的な人物

  • アンフォルタスとグルネマンツも、クンドリーと並んでオペラでよく描けている人物だ。アンフォルタスはひたすら悲嘆にくれるシーンが多いが、第一幕の水浴に向かおうとする場面ではバルサムを持ってきたクンドリーにねぎらいの言葉をかけ、その場にいないガーヴァンのことも案じる心優しい君主である。彼は聖杯王として婚前交渉を持ってはならない決まりを破ったために、周囲から白い目で見られているのだが、<アンフォルタスの嘆き>を読むと、ただひたすら後悔の念に暮れているとも言えないから面白い。
罪にあふれた世界に飛び出していきたい。
ためらいながらもはっきりそう感じる。
  • <嘆き>からの一言だが、この言葉はアンフォルタスが自らの罪を悔いながらも、どこか聖杯騎士のあり方に反感を持っていることが感じられる。彼の騎士たちに対する反感は第三幕で爆発し、逆上して怒鳴り散らすのだ。アンフォルタスはある点ではクンドリーと共通したものを持っているかもしれない。彼も王という身分は名ばかりで、聖杯騎士たちの生命を伸ばす道具のように利用されている。騎士たちに怒鳴りたくなるのも無理はない。
  • 一方、グルネマンツは原作のようにパルジファルの教育係ではないものの、そのエッセンスは残し、型にはまった性格ながら親切な老人として登場する。小姓たちがクンドリーをばかにしても、彼はアンフォルタスと並んでただ一人彼女を人間として扱い、大事にする人物だ。おそらく彼はアンフォルタスを気にかける唯一の人物でもあっただろう。騎士団員たちは皆不死身になることしか関心がないからだ。聖杯が仰げなくなっても、他の騎士とは違ってグルネマンツはアンフォルタスの苦悩を理解して隠者になる運命を選ぶ。これもグルネマンツの優しさの表れだろう。

クリングゾール、花の乙女たち、騎士団~オペラの腑に落ちない設定の数々

  • クリングゾールは原作では姿を現さず、不倫のために断種されて性格が悪くなった魔法使いとして名まえだけが登場する。魔法の城は出てくるが、そこにいるのは花の乙女ではなく、クリングゾールによって誘拐されて閉じ込められた数多くの婦人たちで、彼女たちを解放するのは物語後半で主人公となるガーヴァンである。オペラのクリングゾールは聖者になろうとして自ら去勢しているが、アンフォルタスの傷の場所を変更したのだからこの設定も変えたほうが良かったのではないかと思う。少なくともあまり品のいい話ではないだろう。花の乙女はヴァーグナーの完全な創造であるが、これも特に必要性は感じられず(ヴァーグナー自身はこのシーンが最も好きだったようだが)悪女を多く舞台に上げるのはどうも趣味が悪い。
  • 騎士団の描き方も大いに疑問だ。彼らはあまりにもエゴイスティック過ぎ、アンフォルタスの苦しみに何の理解も示さないどころか、終幕では詰め寄りさえする。ティトゥレルもエゴと執着の象徴であり、あまりに生き過ぎて気持ちが悪いほどだ。これらの在り方が最終的に否定されるなら納得がいくのだが、結局救い主のパルジファルも聖杯王に収まっただけで終わってしまう。せっかく善と悪を対比させる材料は揃っているにもかかわらず、その差が曖昧で、観客の心に訴えるものがなきに等しい。
  • このオペラがいまひとつ人気に欠けるのはこうした台本の弱さにも起因しているように思われる。全体の構図はよくまとまっているのだから、せめて主人公を原作に描かれた人物どおりにすればもっと説得力も増したのではないだろうか。

音盤紹介

  • このオペラは悲鳴も多く、あまり美しいメロディーもない(聖金曜日の奇跡のシーンは別)ので、鑑賞するなら映像のほうが向いていると思います。しかし、いくつか名盤と呼ばれるものもあるので、ここではそれらを紹介します。

CD

"パルジファル"

  • クナッパーツブッシュ/バイロイト祝祭管弦楽団、1962年
    《パルジファル》といえばクナッパーツブッシュ、というイメージの方も多いようです。じつを言えば、私自身はこのCDを持っていないのですが、管理人様がお作りになった動画対訳を見て気に入ったので、書かせていただいています。ジェス・トーマスはかなり品のいいパルジファル。愚かな面と内面の知恵をよく表現し、魅力に欠けるこの人物に深みを加えています。アイリーン・ダリスのクンドリーも役柄にぴったりで、ホッターのグルネマンツやナイトリンガーのクリングゾールといった配役もこの時代のオペラに親しむ人にはうれしいでしょう。花の乙女にアニア・シリアやグンドラ・ヤノヴィッツが登場するのも豪華ですね。ただ、この音源はせっかく管理人様の動画対訳があるので、そちらの視聴をおすすめします。文字の表示の仕方なども工夫されていて、とても楽しめます。

"パルジファル"

  • カラヤン/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
    巨匠カラヤンが大いにこだわりを持って仕上げた名盤。悲鳴なども気にならないので、鑑賞には一番ぴったりかもしれません。パルジファルには当時この役で最高の人気を誇っていたペーター・ホフマンを起用されています。彼はパルジファルの気の荒い面を出した歌い方といえばいいでしょうか。クルト・モルの優しいグルネマンツ、深刻な表情を湛えたニムスゲルンのクリングゾールも魅力的です。
"パルジファル"

  • バレンボイム/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
    こちらはジークフリート・イェルザレムのパルジファルが楽しめる一枚。彼はおおらかでのびのびとした自然児を演じています。ヴァルトラウト・マイヤーのクンドリーもヴィブラートが気になるものの、表現力は素晴らしい出来栄えです。ギュンター・フォン・カンネンのクリングゾールも適役ですが、マティアス・ヘレのグルネマンツとヨセ・ヴァン・ダムのアンフォルタスはちょっと地味に感じます。また、豪華にもジョン・トムリンソンがティトゥレルを歌っていますが、彼の声はどう聴いても生に執着を持つ恐ろしい悪人には聞こえません。

DVD

"パルジファル"

  • シュタイン/バイロイト祝祭管弦楽団
    バイロイト祝祭の監督として長い間君臨していたヴォルフガング・ヴァーグナーが演出したもの。聖杯騎士団は皆、真っ青な服に真っ赤なマントを羽織って毒々しい雰囲気。ここでもパルジファルはイェルザレムで、初々しい少年を好演しています。ヴァイクルのアンフォルタスも適役ですし、クリングゾールのレイフ・ロアルもはっとするような良い声で、存在感のある魔法使いを演じています。エヴァ・ランドヴァー演じるクンドリーは、この役のひねくれた要素を前面に押し出した演唱ですが、三幕の控えめな態度もよく演じきれています。なおこのクンドリーは死ぬことなく、最後まで聖杯城にたたずんでいます。
"パルジファル"

  • バレンボイム/ベルリン国立歌劇場
    ハリー・クプファーの演出で、かなり殺風景な舞台ですが、それほど作品を歪めているとは思いません。最後にアンフォルタスが死んでしまうのは台本と違いすぎますが…。こちらもクンドリーは生き延びます。このDVDで面白いのはジョン・トムリンソンのグルネマンツ。一見、かなりイメージ違いのように感じますが、こうした元気いっぱいのグルネマンツも楽しいですし、意外にもこの人物の本質は余すところなく描き出しています。エルミングのパルジファルちょっと滑稽すぎる気はしますが、悪くはありません。クンドリーはマイヤーで、一幕から三幕まで見事に演じ分けているのが見物。まだ若かったシュトルックマンのアンフォルタスも清楚な雰囲気で素敵です。

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© Maria Fujioka


最終更新:2019年01月26日 08:34