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"パルジファル"

目次

前編

  • 前回の『 トリスタン 』に引き続き、『パルジファル』を訳しました。このように一語一語自分で訳してみると、色々な発見があり、誰よりも自分自身にとって一番収穫があります。さて、前回は、出来る限り逐語訳にこだわったのですが、今回は、わかりやすさを重視し、所々で意訳しました。その理由は、『トリスタン』は比較的ポピュラーな話であり、ストーリーもわかりやすいのですが、『パルジファル』は一般に馴染みが薄く、ストーリーも複雑なので、できるだけ大勢の方に興味を持っていただこうとしたものです。成功したかどうかはわかりませんが、前回同様、皆様にとって何がしかの参考になれば幸いです。

聴きどころ

  • 私の愛聴番は、クナッパーツブッシュ(以下、クナ)の バイロイト1962年盤 です。クナは51年から64年まで、毎年のようにバイロイトで指揮しているのですが、この62年盤は何よりも録音が良いのとクンドリー、パルジファル、グルネマンツの配役が素晴らしいです。例によって、YouTubeを見ますと、第1幕の舞台転換の音楽を指揮するクナの姿が見られます。これはイイですねえ・・・。初めは淡々と指揮棒を振っていたかと思うと、やにわにスックと立ち上がり、正面に左右にと長いリーチを伸ばします。もはや指揮なのか体操なのかワケわからない(笑)くらいですが、すごい人格的な迫力を感じます。よくぞ撮っておいてくれたと思います。(ただし、映像は62年ではなく、59年です。クナの登場の前に、楽屋で準備中の「花の少女たち」も収録されています)
  • この第1幕の舞台転換の音楽は、パルジファルのモティーフを鐘の音に似せて変形したリズムと共に「のん気」に始まるのですが、それがやがて宗教的な雰囲気へ、はたまたアンフォルタスの苦悩のモティーフへとつながっていく様子が素晴らしいです。
  • もう一つ挙げたいのは、第3幕の『聖金曜日の音楽』です。オケだけで演奏されることもありますが、やはり歌があった方が格段に良いです。ただし、この部分の歌詞は、ただ自然が美しいと言っているだけではなく、神、キリスト、救われた人間(パルジファル)、被造物(動植物を含む全ての生物)と自然との相互関係が語られていて、深く意味を考えると、頭がこんがらがってきます。台詞にはあまりハマらずに、まずは単に詩的ムードに浸るだけで良いかもしれませんね。62年盤では、クナの指揮はもちろん、グルネマンツを歌うハンス・ホッターの歌声が最高に素晴らしいです。
  • なお、第2幕もどこか挙げようと思ったのですが、これは全編聴き所ですので、初めて聴く方は第2幕を通しで聴くことをおススメします。比較的短い幕ですし・・・(というか第1幕がおそろしく長いのですが)。クリングゾルとクンドリーの対話に始まり、魅力的な「花の少女たち」の合唱、クンドリーによるパルジファルの誘惑、パルジファルの「(性への)目覚め」、更なるクンドリーの誘惑とパルジファルの拒否・・・。パルジファルとクンドリーの対話部分の音楽は、歌詞の意味が分かると更に良さが分かると思いますので、対訳をお役立ていただければ幸いです。

『トリスタン』続編としての『パルジファル』

  • 『パルジファル』は、『トリスタン』の続編としての性格も持っています。ワーグナーは、『トリスタン』の第3幕に取り掛かっていた時、イゾルデに会いたいあまり死ぬに死ねない苦悩のトリスタンを救済する者として、パルジファルが現れるというストーリーを思い描きました。しかし、これでは『トリスタン』の作品としてのまとまりが失われてしまいます。そのためか、この結末を断念し、トリスタンは目出度く(?)「愛の死」で終わる事になったのですが、「トリスタンを救済したい」という執念にも似た思いは、『パルジファル』に引き継がれていきます。ここでトリスタンの役割を演ずるのは、言うまでもなくアンフォルタスです。
  • ただし、トリスタンは「愛による救済」を求めていたのに、アンフォルタスは「愛からの救済」を求めているように思えます。これは重大な変更点ですが、それ以外は、この二人にはとても共通点があり、特にアンフォルタスが第3幕で衣をひきちぎって血を流そうとする所は、ほぼトリスタンと一緒です。ワーグナーは、アンフォルタスがトリスタンであることは一目瞭然と思っていたフシがあり、そのためにアンフォルタスの苦悩には、あまり多くの説明がなされていないような気がします。ただし、第1幕におけるやや長いアンフォルタスのモノローグは決定的に重要なシーンで、トリスタン第3幕の世界から直接発展して来ているように思えます。
  • この点、クナの62年盤でアンフォルタスを歌うジョージ・ロンドンは、かねてから私には不満です。これをけなす批評をあまり聞いたことがないので、正しい批評か分かりませんが、この部分で苦悩をムキ出しにしてもらわないと、この作品全体が良く分からなくなってしまうというのが私の考えです。同じクナでも64年盤のトーマス・スチュアートだと、苦悩が伝わって来て良いのですが・・・。また、私が唯一所蔵するこの作品のDVD(不勉強ですみません。DVDは高価なもので・・・)は、レヴァイン指揮のメトロポリタン歌劇場のものですが、この中でアンフォルタスを歌うベルント・ヴァイクルは、風貌・演技ともにとても良いです。ジョージ・ロンドン自身はいい歌手だと思うのですが、余りはまり役ではないような気が?オペラで完璧というのが如何に難しいかを如実に示す一例だと思います。

クンドリー・・・キリストへの恋

  • アンフォルタスは、クンドリーの誘惑に負けて、聖なる槍を奪われたばかりか、脇腹に傷を負います。『トリスタン』に引き寄せて考えると、彼はクンドリーに恋をしてしまい、その恋から脱出しない限り、生きることも死ぬこともできない状態に陥っていると解釈できます。しかし、一方のクンドリーが恋しているのは誰かというと、それはイエス・キリストなのです。そのことは、第2幕後半の彼女自身の台詞から読み取ることができます。彼女がゴルゴダの丘に向かうキリストを嘲笑ったところ、キリストの眼差しが彼女に突き刺さり、その日以来彼女は呪いを受けた、と言うのですが、キリストのことは「彼」(Er。目的語だとIhmまたはIhn)としか語られないので、聞いているだけではわかりにくいです。しかし、文章として読むと、語頭が大文字なので識別できます。そこで、私は大文字の「彼」を「あのお方」と訳して区別を図りました。
  • ところで、この「眼差し」のエピソードは、トリスタンの眼差しに射すくめられたイゾルデが剣を取り落したという話とよく似ていますね。クンドリーはそれ以来、その眼差しの持ち主をずっと探し求めていたのですが、アンフォルタスに出会った時、とうとう夢にまで見た「あのお方」に巡り合ったと確信します。しかし、あろう事かアンフォルタスは彼女の誘惑に負け、槍を取り落してしまい、ゆえに彼女も救済されなかった・・・。これが、このオペラのプレヒストリーです。
  • それにしても、クンドリーは、ワーグナーの創作した人物の中でも最も個性的で深みのあるキャラだと思います。恋人であり、母であり、聖女であり、魔女であるこの女性は、空間も時間も超越して、女性そのものを体現する象徴として現れているように思えます。
  • クナ62年盤のアイリーン・ダリスの歌も良いですが、レヴァイン指揮のメトのDVDのヴァルトラウト・マイヤーは声・演技・容姿、三拍子そろって素晴らしいです。世間の人々が口を揃えて言うように、最高のクンドリーだと思います。
  • なお、Youtubeでは、ケント・ナガノの指揮で第2幕の後半を歌う彼女を見ることができます。なぜか対訳がフランス語ですが。淑女風のメトの演出に対して、こちらは悪女風です。どちらもそれぞれいいですね。

パルジファル

  • そのクンドリーに誘惑されるパルジファルですが、第2幕後半のこの二人の絡みは、台詞といい、音楽といい、素晴らしいものがあります。彼女はまず、お母さんのことをパルジファルに思い出させるのですが、この音楽はとても抒情的で、うっとりとしてしまいます。そうして、「惜しみなく自分を愛してくれたお母さんを死なせたのは自分だ!」との思いを散々パルジファルに掻き立てたところで、クンドリーは彼にキスをするのですが、彼はアンフォルタスとは異なり、誘惑に屈することなく、逆にアンフォルタスの苦しみを初めて理解する、という展開です。
  • これに対して、クンドリーは、ますます激しくパルジファルを誘惑するのですが、彼女の言うことはなかなか筋が通っていて、それが面白いところです。特に、『あなたの心の中に他人の苦しみだけしか感じないと言うのなら、あたしの苦しみぐらい感じていいじゃない!あなたが救い主だと言うのなら、何が、あなたとあたしを一体にするあたしの救いを邪魔するの?』という箇所は、いいですねえ。私なら、こう言われたらウッとつまって、黙って身を委ねそうな気がします。(幸か不幸か、誰も言ってくれませんが・・・)したがって、パルジファルはクンドリーに正面から反論することなく、ひたすらそれをかわし続ける印象があります。
  • パルジファルは、クンドリーのキスを受けることによって、それまでの「愚か者」(私は多くの場合、「バカ」と訳しました)から、全く別の人間になってしまいます。そして、第2幕終了後の「迷いの道」(第3幕の前奏曲はそれを表現しています)を通り抜けた後の第3幕では、またも別の人間に成長しています。そのことを示す一つの工夫として、私は、パルジファルが自分を指す言葉を、最初は「おいら」、キスの後では「ぼく」、第3幕では「私」と使い分け、語り口にも変化を持たせてみました。

花の少女たち

  • 第2幕のクンドリー登場の前座として、パルジファルを取り囲む「花の少女たち」ですが、ワーグナーは、彼女らにもとても美しい音楽を付けていますね。今回セリフを訳してみると、彼女らの性格の良さみたいなものが感じられて、ますます好感を持ってしまいました(笑)。ただ、前座は前座なので、真打ち(もしくはクラブの「ママ」?)のクンドリーが現れると、『この方(パルジファル)は、あなた達のお遊びの相手ではなくってよ』と言われてしまい、シュンとしてしまいますが・・・。パルジファルに向かって、『あたしたち、お殿様(クリングゾル)に植えられて育ててもらったのよ』と彼女らは言いますが、クリングゾルの趣味は園芸なんですかね(笑)。植えた人に比べて、ねじ曲がっていない性格が良いのですが、彼女達は幕の最後で全員死んでしまうんですよね・・・。多くの場合、舞台には直接出て来ないようですが、クリングゾルの城が崩壊する際のト書きには明確に次のように書いてあります。『萎れた花々が地面に撒き散らされる』・・・何だかとってもかわいそうですよね。
  • これを前提にして『聖金曜日の音楽』を聴くと、また一層理解が深まると思います。グルネマンツの歌う「今日、救い主が踏みつけることなく、慈愛をこめていたわる野の花々」とは彼女達のような女性のことですし、最後にパルジファルは涙するクンドリーにこう語ります。『私は見ました・・・かつて私に微笑みかけた娘達が萎れるのを。今日は彼女達も救いを切望しているのでしょうか?』
  • ですから、できればワーグナーの指示どおり、演出では彼女らが「しおれた」ことを分からせる工夫があったほうが良いのではないでしょうか。

クリングゾル

  • クリングゾルは、第2幕の冒頭以外はほとんど台詞が無いのですが、かなり複雑な事情を抱えています。もともとは、聖杯の騎士を目指していたはずなのですが、どうしても聖者になれずに、悪の道に走ったという設定です。第1幕のグルネマンツの長いモノローグで『(クリングゾルは)自らの手で自らの罪を押し殺す力が無いので、今や罪にまみれた手で、自分自身に手を下し・・・』とありますが、この『手を下し』は「去勢した」ということだと思います。男性的欲望を抑えきれないので、自分で自分に去勢手術をしたということですね。そこまでして聖者になろうという点に、この人物のすさまじい執念を感じることができます。ですが、キリスト教では、確か去勢を禁じていたはず(だから「宦官」はいない)ですから、それ自体が「罪深い異教的な行い」で、到底キリスト教における聖者にはなり得ません。
  • しかし、過去のことが吹っ切れないので、クンドリーに『あんたが純潔なの?』などと訊かれると激怒したりします。自分自身がクンドリーに誘惑されない、という意味では、「純潔」なのかも知れませんが、愛を捨てて権力への道に走った、という点では、『指輪』のアルベリヒに似たキャラのようにも思えます。
  • 以上のような事情ですから、この人を余りにステレオタイプに描くと面白くないですね。レヴァイン指揮のDVDは、メトらしく非常にオーソドックス(保守的?)な演出で全体的には満足なのですが、第2幕ではいかにも型通りのクリングゾルが出て来てしまいます。フランツ・マツーラの歌はうまいのですが、コスチュームとかが、ちょっとげんなりしてしまいますね。むしろ、見かけはカッコいいが内面の人格は崩壊している人として描いた方が、深みのある演出になるように思えるのですが、どうでしょうか?

グルネマンツ

  • 第1幕と第3幕では、グルネマンツが大活躍するので、歌手としてのこの役はとても重要です。彼は、身分は聖杯騎士なはずなのに、必ずしも長老として彼らを代弁するわけでもなく、ひとり超然としている所があります。いわば狂言回しとして登場している人物なので、物語において特に重要な位置を占めるわけではないという見方もできますが、第3幕では、パルジファルに泉の水を振りかける役を演じます。ここでパルジファルはイエス・キリストに擬せられていますから、洗礼を与えるグルネマンツは、福音書における洗礼者ヨハネ(『サロメ』のヨカナーンですね・・・)の役割を担っています。これは、キリスト教圏の人が見たら、すぐ分かる事だと思いますが、日本人にはわかりにくいので、ちょっと指摘してみました。

キリスト教とパルジファル

  • キリスト教の話になったので、ついでに一言申し添えると、『パルジファル』ってキリスト教的なのだろうか?というのが、かねがね私の疑問です。ニーチェは、その著作『ニーチェ対ワーグナー』の中で『(ワーグナーはこの作品で)突然キリストの十字架の前にぬかずいたのだ』と断じていますし、この作品がキリスト教色にあふれていることは設定からして自明のことです。しかし、この作品(特に第3幕)で言われている考え方は、キリスト教(カトリック)の教義そのものではないですね。(ただし、キリスト教の名誉のために言いますと、その思想に含まれていることは間違いありません)
  • この作品のキーワードは、パルジファルの出現の預言において何度も繰り返される語句「Mitleid」です。これを「同情」と訳すと、日本語としてはよくわからなくなりますので、私は「共に苦しむ」と訳しました。(他の方もそう訳していますのでオリジナルではないです。)この語句は、パルジファルがアンフォルタスに槍を差し出して歌う最終場面でも登場します。原語では、「Gesegnet sei dein Leiden, das Mitleids höchste Kraft und reinsten Wissens Macht dem zagen Toren gab! –」という部分。これを直訳すると、『この臆病な愚か者に、同情の最高の力と至純の知恵の力とを授けたあなた(アンフォルタス)の苦悩は祝福されよ!』となり、これでもいいのですが、今一つわかりにくいですよね。
  • ここは決定的に大事な箇所ですので、私はこう意訳しました。『あなたの苦しみは報われました・・・。人と一緒になって苦しむ至高の能力と、人を純粋に理解する力とを、この臆病な愚か者に与えたのですから!』
  • 「人を純粋に理解する」というのは、我ながら踏み込みすぎだと思いますが、「人と一緒になって苦しむ能力」というのは、ほぼ正確な読みだと思います。アンフォルタスが死ぬほど苦悩したことがキッカケで、パルジファルは人と共に苦しむ力を得たということです。面白いのは、「祝福された」という言葉を日本人的に「報われた」と訳した方が、我々にはスッと理解できるということですね。キリスト教徒ではない日本人がそのように受け取る事ができるまさにその点で、仮にキリスト教という枠組みを外したとしても、ワーグナーがこの作品に込めた想いは、宗教を越えた普遍的なものであることが証明されるように思います。
  • また、この作品の最後に何度も合唱で繰り返される台詞にも様々な訳がありますね。直訳は『救済者への救済!』もしくは『救い主への救い!』ですが、他の訳を見ると『救済者に救済を!』『救いをもたらす者に救いを!』とあり、私も昔それを読んでから、ずっと「願望」なのだと思っていました。ですが、ここで言う「救い主」は、それまでの文脈から見てイエス・キリストのことですから、そう訳すと、「パルジファル、アンフォルタス、クンドリーは救われたが、さらにイエス・キリストがこれから救われるべきだ」というメッセージにも読めてしまうので、何となく割り切れないものが残ります。
  • 私の意見では、ここは単純に「この作品の登場人物全員が救われたことによって、救い主であるイエス・キリストもまた救われた」と言うことなのではないでしょうか?ですから、私は意訳して、『救い主が救われた!』と過去形にしてしまいました。そうすると、年来の「モヤッと」が一気に「スッキリ」(笑)なのですが、諸先生方が「願望」として訳していますので、その点はすごく気になります。読者の皆様には、申し訳ないですが、その点ご注意願います。

結び

  • 『トリスタン』は、物語が始まる前に何が起こっていたかさえ把握しておけば、舞台上で起きる人間模様は比較的単純です。それに比べると、『パルジファル』は、その辺りがかなりややこしいです。特に、アンフォルタスとクンドリー、パルジファルとクンドリーの関係に、多様な解釈を許す余地があるように思えます。
  • しかし、そこにこの作品の深みがあるような気がします。私には、この作品は、人が「共に苦しむ」あるいは「真に人を理解する」ためには「愛」を捨てねばならない、と言うメッセージのように思えます。ただし、ここでの「愛」とは、どちらかというと悪い意味合い、むしろ仏教的に言えば「愛欲」とでも言うべきものです。いずれにせよ、『トリスタン』の「愛の死」(「愛欲」による浄化?)とはかなり違うメッセージを発しているように思えます。
  • とはいえ、それもまた一つの解釈に過ぎません。最後の方でかなり難しい話になってしまいましたが、何と言っても音楽がとても素晴らしいので、私のようにあまり小理屈を振り回す(笑)ことなく、皆様ご自身の感性で、ワーグナーの最後の作品を楽しまれてはいかがでしょうか。
平成21年12月 Wしるす

後編 ~クンドリーの救済をめぐって~

ワーグナー作品の集大成としての『パルジファル』

  • 後編では、クンドリーの救済をめぐっての考察ですが、その前に『パルジファル』とワーグナーの先行諸作品の関係を簡単に見ておきましょう。
  • 『パルジファル』は、ワーグナー最後の劇作品として彼の作品の集大成であり、外面的な道具立てにとどまらず、内容的にも多くの要素が、先行諸作品からこの作品に流れ込んでいます。ここでは、音楽は別として、プロットの観点に絞って、その影響関係を見ていきましょう。(順番は台本の成立順)

    • さまよえるオランダ人・・・救済を求めて世界をさすらう「オランダ人」は、『パルジファル』のクンドリーの直接のモデル。
    • タンホイザー・・・ヴェーヌスブルクは、『パルジファル』第2幕の「クリングゾルの魔の園」とイメージが似ており、作品を貫く聖と俗のコントラストも共通している。
    • ローエングリン・・・聖杯(グラール)や聖杯騎士という道具立てが共通。パルジファルは、グラール騎士団の長として、ローエングリンの父親という役回りになっている。
    • ニーベルングの指輪・・・ジークフリートとパルジファルは「愚か者キャラ」な点で共通しているが、クンドリーからのキスを受けた後のパルジファルの変化と成熟は、むしろブリュンヒルデから受け継いでいる要素である。また、アルベリヒやハーゲンのような憎悪に満ちたキャラクターは、クリングゾルに受け継がれている。
    • トリスタンとイゾルデ・・・前篇でも指摘したように、愛の傷を負って苦悩するトリスタンの姿は、アンフォルタスの姿にそのままつながっていく。
    • ニュルンベルクのマイスタージンガー・・・最も関係ない作品のように見えますが、この作品においては、『パルジファル』において特徴的な「愛を諦める」というテーマが初めて肯定的なものとして現れている。

クンドリーと「オランダ人」の比較

  • さて、このように先行作品からいくつもの影響があるのですが、まず着目したいのは、最初のクンドリーとオランダ人との関係です。呪いを受けて、時空をさまよい歩く運命を背負わされている二人の登場人物は、置かれた状況が極めて良く似ていますが、重要な相違点もあります。それは、オランダ人が救済される条件は「決して自分を裏切らない貞節な女性から愛される」ことである一方、クンドリーの救済条件は、作品から読み取る限り「世を救う救済者から愛される」ことだということです。

クンドリーが受けた呪い

  • クンドリーが呪いを受けた理由は、第2幕で彼女自身の口から語られます。その言によると、彼女はゴルゴタの丘に向かうイエス・キリストの姿を見て、それを嘲り笑った。その途端、イエスの眼差しが彼女を貫いたので、呪いを受けた彼女は、もはや泣くことも笑うこともできず、この世をさまよう身になった、というものです。
  • しかし、通りすがりの罪人を嘲り笑っただけで、呪いが下されたというのでは、あまりにも一面的で、そこにはもっと深い背景があるはずです。クンドリーはなぜその時イエスを嘲笑ったのでしょうか?
  • これは半ば想像ですが、もともとイエスを深く愛していたクンドリーは、イエスに逃げるよう説得したにもかかわらず、イエスは彼女の言を聞かず、世を救済するために十字架についてしまった、ということではないでしょうか。
  • そのため、半狂乱のままイエスを愛し続けるクンドリーは、刑場へと向かうイエスの眼差しに、イエスの真意とは無関係に自ら「呪い」を感じ、死ぬこともできない存在として世界をさまようことになった。このような物語を前史として想定することは、それほど不自然ではないように思います。

救済と愛の両立について

  • こうしてクンドリーは時空を浮遊しながら、一度は果たせなかったこと、即ち救済者に愛されて自らも救われるチャンスを探し続けるのですが、それが「呪い」という名でも呼ばれるように、彼女の救済条件は難しい問題を孕んでいます。「救済者から愛される」ためには、次の2つの条件の成立が必要です。
  • まず、彼女の相手は「救済者」でなくてはなりません。しかし、彼女のキスを受けた瞬間に、アンフォルタスを含めて、ほぼ全ての男は堕落してしまい、真の救済者ではないことを露呈します。
  • もう一つは、「救済者から愛される」願いが叶えられるためには、その救済者は、イエスのように十字架に架けられてはならず、生きていなければならないということです。とはいえ、私的な「愛」と、社会的な「救済」とは、そもそも本質的に対立し合う関係にあるのではないでしょうか。それゆえ、これらの条件を二つとも満たすことは、きわめて困難なこととなります。
  • 第2幕でクンドリーがパルジファルに語る「あなたが救い主だと言うのなら、何が、あなたとあたしを一体にするあたしの救いを邪魔するの?」(第2幕 56:10~) というセリフは、彼女を救済することの困難さを端的に表現していると思います。

魔女としてのクンドリー

  • 本来、キリスト教の立場から言うと、イエスは復活し、天に昇って行ったのですから、今も生きていると言えるはずです。しかし、クンドリーにとっては、それは認められないでしょう。クンドリーの考えでは、イエスは神としてではなく、あくまでも血の通った姿で生きていなければなりません。第1幕で彼女が「異教徒」と呼ばれる理由の一つは、そこにもあります。
  • クンドリーの目的は、あくまで生身のイエス、もしくはイエスに代わり得る「救済者」から愛されることです。第2幕のクンドリーの口づけの直後、パルジファルが他の男達と異なり、堕落しないことを見て取った彼女は狂喜します。その箇所のト書きには「彼女の驚きは情熱的な賛美へと移りゆく」とあります。ここで彼女は、第1の救済条件をクリアする救済者をようやく目の当たりにしたと確信するのです。
  • ところが、第2の救済条件を果たすこともまた困難です。パルジファルもまた命を賭して、アンフォルタスと彼に代表される聖杯騎士団を助けに行くと宣言します。これではイエスが刑場に赴いた時と同じです。長い彷徨の末に自分を見失っているクンドリーは自暴自棄となり、パルジファルの行く手をふさごうと呪いをかけます。
  • しかし、結果的にはパルジファルの力が、魔女としてのクンドリーの魔力を上回るので、あらゆる妨害を受け、絶望の一歩手前まで追い込まれながらも、第3幕で何とか聖杯の領地に再びたどりつきます。

愛からの解脱

  • 『オランダ人』『タンホイザー』はもとより、『トリスタン』や『指輪』におけるワーグナー作品のテーマは、「愛による救済」です。それは、絶対的に善なる概念としての「愛」の称揚であり、「愛が世界を救う」ということが物語の大枠になっています。
  • その方向性が変わるのは、冒頭に見たように『マイスタージンガー』からです。ここで「世界(世間)のために愛を諦める」というテーマが初めて登場します。主人公ハンス・ザックスが愛を諦めることで、他の登場人物と、彼らの住む共同体が「幸せ」あるいは「救い」を手に入れます。
  • 『パルジファル』においては、この「愛の諦め」は、クンドリーの置かれた絶望的な状況に対応して、さらに徹底したものとなります。それは「愛という執着から逃れること」、もっと言えば「愛からの解脱」という形を取ります。

「聖金曜日の音楽」における仏教

  • 解脱という仏教用語が出て来ましたが、第3幕「聖金曜日の音楽」の最後でパルジファルがクンドリーにもたらす救いは、そのキリスト教を思わせる舞台設定にかかわらず、むしろ仏教的に解釈した方が分かりやすくなります。
  • キリスト教に仏教が接ぎ木されていると解釈すると、テクストの難解な部分が理解しやすくなります。グルネマンツは、このように歌います。(第3幕49:00~)
「十字架上の救い主ご自身を、生きるものは見ることができません。
だからこそ仰ぎ見るのです・・・救われた人を・・・
救われたその人は、神の愛の犠牲とされた救い主をとおして、
清められ健やかにされ、罪の重みや不安からの解放を心に感じます。
そう・・・野の花々は知っています。」
  • この場面での「救われた人」とは、明らかにパルジファルですが、パルジファルが救済者としての道に目覚めたのは、ほかでもなくクンドリーの与えた口づけを契機としてのことです。
  • 私の解釈では、上記のテクストにおいては、十字架に架けられた「救い主」イエスと、「救われた人」であり、かつもう一人の救い主であるパルジファルとが共存しており、パルジファルは自力で悟った者としてブッダと同一視されています。そのブッダ=パルジファルは、イエスからの口づけをクンドリーに与え返すことにより、クンドリーの愛への煩悩(執着)は消え去り、彼女は輪廻からの解脱へと導かれます。こうして、第3幕の幕切れにおける彼女の死は、解脱としての死となります。
  • このキリスト教と仏教の混在は、一見奇想天外なものではありますが、クンドリーの陥った運命が苦しみの「輪廻」であるとすれば、彼女を救うためには、これ以外の結末は考えられないと思います。この場面を単純にキリスト教的な奇蹟として解釈することは、テクスト上どうしても無理があるように思います。
  • パルジファルによってクンドリーが涙を取り戻し、野に咲く花々の救いが彼の口から語られる時、日本人の私としては、草木国土悉皆成仏とでもいうような言葉が頭に浮かびます。これは、仏教的と言うよりも、さらに日本的な捉え方かも知れませんが。

仏教ドラマ『勝利者たち』

  • 私の解釈の妥当性はともかく、『パルジファル』を仏教と結びつけて考えること自体は、決して突飛な解釈ではありません。それは、ワーグナーがショーペンハウアーの著作を通して仏教の思想に傾倒していたことに加え、『パルジファル』構想の前に、すでにブッダを登場人物とする『勝利者たち』という散文スケッチを書いていることからも分かります。
  • この物語のあらすじを超ダイジェストで書くと、「ある若い女性が、ブッダの弟子である若い男性(アナンダ)に恋しているが、どうしてもその男性は振り向いてくれない。苦悩した女性が、ブッダに相談したところ、ブッダは、それは前世の因果だと答える。前世で高い身分の姫君だった時、彼女は、卑しい身分の別の男性に見向きもしなかった。その因果として、今、彼女は現世で身分違いの恋に苦しんでいる。女性はブッダの信仰への帰依を表明することで救われる」と言うものです。
  • このヒロインは、明らかにクンドリーの原形になっていることが分かります。また、ブッダの弟子の役割は、聖杯の守護者たるアンフォルタスが担っていると見ていいでしょう。『パルジファル』の興味深い点は、この『勝利者たち』の仏教モチーフを、キリスト教に置き換えたことです。そして、すでに覚醒したブッダではなく、悟りを開く前のブッダが「清らかな愚か者」パルジファルとして登場し、クンドリーの口づけをきっかけとして作品の中で成長し、ついには悟りを開き、救済者となります。

アンフォルタスとクリングゾル

  • ワーグナーがここで仏教を導入している理由は、キリスト教に限界を感じていたからだと思います。この頃はすでにキリスト教をも含むヨーロッパ文明全体の行く末について懐疑的な見方が出て来ており、ワーグナーだけが特異だったわけではありません。
  • その視点では、父ティトゥレルの影に怯え、愛に苦しみ悩むアンフォルタスの姿には、作者の考えたキリスト教の問題点が投影されているように思えます。そして、彼のネガとも言えるクリングゾルからもまた、衰退したキリスト教の生んだ落とし子という印象を強く受けます。
  • かつてはキリスト教の聖者を目指しながら、クリングゾルの魔の園という「地上の楽園」を創造し、花の化身たる乙女を使って聖杯騎士を快楽へと誘惑している彼の姿は、この世に再臨したイエスに対して「何が不服なのだ?」と詰め寄る「大審問官」(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)の姿と重なり合うように思います。
  • こうした青ざめたキリスト教の使徒に対し、パルジファルは、やや東洋的な雰囲気を持った健康な「愚者」として、衰えゆくキリスト教に新たな活力を導入することでキリスト教自体を立て直そうとします。
  • 『パルジファル』は純粋にキリスト教的作品だと言われており、誰よりもワーグナー自身がそのような言い方をしていますが、上記のように、それはあくまで、作者の中で醸成された「あるべきキリスト教」なのです。

SFの世界を先取りする『パルジファル』

  • 仏教についてのワーグナーの理解は、同時代のドイツ人の著作等から得られたものであり、本来の仏教の教義と完全に一致しているわけではありません。しかし、ここでむしろ重要なのは、このように多ジャンルを横断しながら独自の世界観を構築するワーグナーの手法です。
  • 『パルジファル』の舞台設定は、どこにでもあり、どこでもない場所です。いつとも知れない時間をさまよい続けるクンドリー。第1幕の舞台転換の音楽で、「ここでは時間が空間になるのだ」と語るグルネマンツに導かれ、聖杯城への時間旅行をするパルジファル。(第1幕1:12:00~) ここでは、堅固な信仰を思わせる全音階とアンフォルタスの懐疑の半音階的音楽が、文字通り時空の制約を受けずに混在しているような印象を受けます。
  • 時空の制約をはみ出し、思想や宗教の枠も超え、壮大なファンタジー世界を形作っているという点で、この作品は彼のライフワークである『ニーベルングの指輪』をも凌ぎ、もはや現代のSFの世界にまで足を踏み入れているのではと思います。集大成であると同時に、それらを遙かに凌駕している面があります。
  • 本論はあくまで一介のファンの考察に過ぎませんが、対訳、動画対訳ともども、一つの解釈として参考にしていただき、ワーグナーの最後の作品をお楽しみいただければと思います。
2014年9月 wagnerianchan


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の下でライセンスされています。
@ wagnerianchan



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