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"トリスタンとイゾルデ"


目次


死と愛と生のメロディー

  • 「悲しみの子」・・・それが、この作品の主人公である「トリスタン」の名前の意味である。父の戦死が母に伝えられた時、トリスタンの母は、絶望と悲哀のどん底に突き落とされ、彼を産み落とした後、しばらくして死んでしまった。そのため、このような名前が付けられたのである。
  • だからトリスタンは、両親の顔を覚えていなかった。そのことを思い出そうとすると、彼の耳には、いつも同じメロディーが聞こえてきた。それは城の近くを毎日行き来する羊飼いの吹き鳴らす、いつ始まりいつ終わるとも知れないメロディーで、彼は、そのメロディーを聴くたびに、父母の死の報せがたった今初めて自分にもたらされたような気がするのだった。
  • しかし、その音色が呼び起こすものは両親の死ばかりではなかった。乳母や養父達の話から、彼は、自分の父母たちがいかに固い愛の絆で結ばれ合っていたかを聞いていた。戦死した父親が、いまわの際に母の名を呼んだこと、母親が死の床で夫の幻を見ていたことを彼は何度も聞かされて育った。誰もが暗黙のうちに彼にこう言っているように思えた。ご両親のように人を愛するのです。しかし死んではなりません。愛しながら生を全うするのです・・・。

トリスタンの生い立ち

  • 時は紀元6世紀頃、場所はヨーロッパ北西部である。トリスタンの父親はリヴァリン、母親はブランシュフルールと言った。父リヴァリンは、ブルターニュ半島(現在はフランスの一部)の豪族であったが、イギリスの南西部コーンウォール王国とは古くからの敵対関係にあった。しかし、小競り合いの講和のために初めてコーンウォールの王マルケの城を訪れた時、彼はマルケの妹であるブランシュフルールと熱烈な恋愛に落ちた。一本気なリヴァリンにひきかえ、才知に長けたマルケは、これ幸いとばかりに二人の結婚を許可し、彼らは縁戚関係を結ぶこととなった。マルケは、これにより背後を固め、にわかに武力を蓄えているアイルランドに対抗しようとしたのである。
  • しかし、ブルターニュは、その期待に沿うほど穏やかな国柄ではなかった。半島内では主導権を争う戦争が絶えず、数年後、その戦役の激戦中に、リヴァリンはあっけなく命を落としてしまったのである。
  • マルケからすれば誤算ではあったが、遺児トリスタンは、死してもリヴァリンを慕う彼の養父の下で、文武両道の勇士として成長した。やがて、ひょんなことから国を出て放浪を始めたトリスタンは、母方の叔父であるマルケ王に見出され、その配下としての活躍を始めた。彼に影のように寄り添うクルヴェナールは、彼より四・五歳年長の養父の実子で、幼い頃からの乳兄弟として、彼が絶対的な信頼を置ける存在だった。

イゾルデの生い立ち

  • 一方、アイルランドの姫君イゾルデの名前は、「見つめられた女性」という意味だと言われている。(これは、このあとトリスタンが彼女を見つめることと照応しているから、本当は彼女には別の名前があったのかも知れない)
  • 彼女は、みなし子のトリスタンとは異なり、アイルランド王の宮廷で何不自由なく育った。しかもアイルランドは近隣の諸国に怖れられていた。そうなった大きな理由は、彼女の叔父のモロルトが傑出した武人だったことによる。王妃の弟であった彼は、度重なる戦争でアイルランドの勢威を高めていたが、伝えられるところでは残虐な行為も少なくなかった。(だからこそ、オペラの第1幕でイゾルデがモロルトの死に触れた時、トリスタンは「そんなことにお苦しみで?」と言い、イゾルデはますます逆上するのだと思われる)
  • イゾルデは、そんな叔父モロルトの結婚相手にされてしまったが、そのことがほのめかすのは、モロルトの権力は、この時点では既に彼女の父母である王の権力を凌ぐようになっていたことである。金色の髪をした美しいイゾルデは王と王妃の一人娘であり、母権制のアイルランドでは、王国の継承権を持っている。彼女との結婚は、美しい女性と王国の権力とを我が物にできるまたとないチャンスであり、モロルトは自らの勢威を笠に着て、姪に当たるイゾルデとの結婚をしつこく王に要求し、勢力が弱い王は最終的にそれを受け入れざるを得なかった。
  • そして、イゾルデ自身もまた、それを自分の運命として甘受せざるを得なかった。それが最もアイルランドのためになることだと自分自身に言い聞かせて。たとえ、モロルトの評判があまり良くないとしても、彼は子供の頃から幼い彼女には常に優しかった。しかもアイルランドが繁栄して贅沢な暮しができているのは、彼のお蔭ではないだろうか?

アイルランド軍のコーンウォール侵攻

  • しかし、運命は劇的な転回を見せ始める。アイルランドばかりでなく、ウェールズやイングランドをも勢力範囲に収めたモロルトは、次はコーンウォールに食指を伸ばし始めた。度重なる年貢をコーンウォールに要求し、勢力の弱いマルケはそれに従わざるを得なかった。しかし、一寸の虫にも五分の魂と言う。これをモロルトは理解しなかった。コーンウォールの人々は貢物の取り立てに苦しみ、マルケ王はもはやこれを抑えることができなくなった。板挟みに苦しんだマルケは、もはやこれまでとばかりに、アイルランドからの貢物の要求を拒否し、捨て身でアイルランドと一線を交えることにした。
  • この行動に激怒したモロルトは、麾下にある軍勢を引き連れ、軍船を仕立ててコーンウォールに攻め寄せ、マルケの居城ティンタジェルを包囲した。ティンタジェルは、海に突き出した難攻不落の要害であり、陸地からの通り道は少勢でも十分に防ぐことができる。ここで戦えば、補給線を海上に頼らざるを得ないモロルトは、いずれ軍勢を引き返さざるを得まいという読みがマルケにはあった。
  • しかし、モロルトのやり方は、マルケの想像をはるかに超える残酷なものだった。彼は、ティンタジェルにはわずかな人員を張り付けただけで、力攻めすることはなかった。その代わり、コーンウォールの一帯をくまなく軍勢に蹂躙させ、家畜や穀物を徴発し、それに逆らう住民は容赦なく殺したのである。人々は塗炭の苦しみを味わい、憎しみはアイルランドの軍勢ばかりではなく、籠城するだけで住民のためには何一つしてくれないマルケにも向けられた。
  • 英邁な気質に恵まれ、家臣や住民からの人望も厚かったマルケは苦悩した。このままでは住民の信望が離れ、戦わずして敗北することになろう。やはり一戦を交えるほかあるまい。しかし、正面からぶつかっても多勢に無勢で勝ち目はない。何とか敵の総大将であるモロルトを討ち果たすことができないだろうか?アイルランド兵は、彼のカリスマにより維持されている。彼さえいなくなれば、彼らは烏合の衆にすぎないだろう。

トリスタンとモロルトの決闘

  • マルケは廷臣を集めて聞いてみた。「誰か、あの憎きモロルトを討ち果たす策を持っている者はいないだろうか?」しかし、広間は水を打ったように静まり返り、誰一人答えるものはいなかった。マルケは落胆した。その時、「どなたもお申し出なきようならば、私が承りましょう」と声をあげたのは、トリスタンであった。マルケは予想もしていなかったこの申し出に心底驚いた。まだ年端もいかぬ若者ではないか。しかも、この甥の才能を買って、異例の若さではあるが一隊を任せ、後継者として育て上げようとしているのである。
  • しかし、居並ぶ廷臣たちの表情には、複雑な安堵の表情が浮かんだ。彼らからしてみれば、トリスタンがうまくやれば、それはもちろん万々歳だし、失敗したとしても、いずれ王になるかもしれない若造を今のうちに排除することができる。それが、マルケの人望によって何とか維持されているが、もともと諸豪族の連合王国に過ぎないコーンウォールの現実であった。
  • 止むを得ず、マルケは、トリスタンにこの大役を委ねることとした。トリスタンは、モロルトに挑戦的な手紙を送り付け、ティンタジェル城からほど近い離れ小島での一対一の決闘を申し込んだ。モロルトは激怒し、群臣の制止を振り払い、挑戦に応じることとした。
  • 果たして、トリスタンに勝利の成算はあったのだろうか?わざと到着時間を遅らせるなど、トリスタンはモロルトの平静を失わせるような工夫をし、勝利を収めたのではないかと推測される。いずれにせよ、トリスタンの剣の一撃がモロルトの頭に振り落とされ、折れた剣は頭蓋骨に突き刺さった。トリスタンは、モロルト自身の剣でモロルトの首を取り、小島から再び舟に乗って引き返した。

死の傷を負ったトリスタン

  • 総大将を失ったアイルランドの軍勢は案の定、大混乱に陥り、散り散りになって故郷へ引き返して行った。コーンウォールの人々は、勝利を収めて帰還したトリスタンを狂乱せんばかりの歓呼で迎え入れた。しかし、トリスタン自身も傷ついていた。モロルトの槍が彼の脇腹を傷つけていたのである。しかも、それには強力な毒が塗ってあった。魔術の国であるアイルランドの王室は、強力な毒薬を薬草から調合する技術を太古の昔から綿々と受け継いできており、アイルランドの戦士達は皆、剣の先にそれを塗って戦っていたのである。
  • しかし、トリスタンは、そのまま病の床に臥した。クルヴェナールが献身的に彼の介護に当たり、マルケもコーンウォールで一番の医者を寄こしたが、治すことはできなかった。解毒剤はアイルランドにしかないのである。三日たったが高熱は引くことなく、彼はみるみる痩せ細っていった。「何とかならないのか?」と叫ぶクルヴェナールに対して、医者は「我々の医術では不可能です。アイルランドにならば、解毒剤があるかもしれませんが・・・」と答えるほかなかった。
  • その話を聞いたトリスタンは、死を覚悟しつつも、最後の可能性に賭けようとした。クルヴェナールに再び小舟を用意させ、彼をアイルランドに向けて流すように命じたのである。「私もお伴します」とのクルヴェナールの申し出を彼は断固として撥ねつけた。アイルランドは敵地である。正体不明の病人ならともかく、従者がくっついていては、たちどころに討たれてしまうであろう。それに、いずれにせよ、生きて帰る可能性など無きに等しい。クルヴェナールまで一緒に死ぬことはなかろう。

イゾルデに介抱されるトリスタン

  • 泣く泣くクルヴェナールは、トリスタン一人を乗せた小舟を海に流した。沖までは自分の船で引っ張って行って、そこからは海流次第である。助かる見込みなどほとんど無く、事実上の葬送であった。クルヴェナールは、自らもその場で海に身を投げようとしたが、漕ぎ手に制止され、思いとどまった。
  • しかし、トリスタンは運に見放されてはいなかった。2日後に、彼の小舟はアイルランドの沖で漁師たちに発見され、そのまま彼らの村に連れられて行ったのである。ちょうどその村の近くには、イゾルデが、夏のこととて避暑のため宿泊していた。彼女は、海から来た正体不明の病人の噂を聞いて心配になった。ケルト人は、海、地下などの異界からやって来る妖精を信じている。そのような妖精に冷たく当たるとただでは済まない、温かくもてなさなければいけないと、イゾルデは子供の頃から、魔法使いのような乳母たちに言い聞かされて育ったのである。
  • イゾルデは、病人を自分の部屋まで運ぶよう指示した。そして部屋に入ってみると、そこにいたのは、妖精ではなく、若くはあるが今にも死にそうな痩せさらばえた哀れな少年の姿であった。激しい同情の念が彼女を捉え、何とかこの少年を治さねばと決意した。
  • 見れば、脇腹から入った毒が全身に回っているようである。並の男ならば、とっくに死んでいるところを、生きたいという強い願いだけが彼を生かしているようにしか見えなかった。彼女は、幼少の頃からの侍女ブランゲーネに指示して、解毒剤の調合をさせた。それをこの少年に試してみると、少しずつ彼は生気を取り戻してきた。彼は、感謝に満ちた澄んだ眼差しで彼女を見つめ、彼女が笑顔を返すと、かすかに微笑んで安心したように寝入ってしまった。
  • それからの数日間というもの、気立ての優しい彼女は、寝る時間も惜しんで、この少年につきっきりで、甲斐甲斐しく治療にあたった。そのおかげで、数日後、彼は元気を取り戻し、片言の話ができるまでになってきた。
  • やつれていた頃には意識しなかったが、少年は顔立ちといい、体つきといい、到底卑しい身分の者とは思えなかった。少年の頬や唇が赤みを取り戻せば取り戻すほど、かつて経験したことのないような想いが、イゾルデの中に生まれて来ていた。ある日イゾルデは尋ねた・・・「あなたのお名前は?」。少年は一瞬ためらったが、やがて、意を決したように、短く「タントリス・・・」と答え、それ以上何も言わなかった。

モロルトの首が送り返される

  • その間、イゾルデは何も知らなかったが、アイルランドの宮廷は大変な騒ぎになっていた。モロルトが、無名の年端もいかぬマルケの配下の少年との一騎打ちに敗れ、彼の遠征軍は命からがら故国のアイルランドに逃げ帰ったのである。もともと、アイルランドの王室は祭祀を司る王としての色彩が強く、軍事的には強大な力を持っていなかった。それが、モロルトの出現により、にわかに軍事的に豪族を束ね、ウェールズやコーンウォール、果てはイングランドに貢物を要求するまでになっていたのである。イゾルデの父であるアイルランドの王は、あわてて、再度、宗教的権威でもって豪族の統一を継続しようとしたが、いったん世俗的な物欲に目覚めた彼らは、うわべでは恭順を取り繕いつつも、場合によれば、王を見限ってマルケに付くことも内心、選択肢に入れ始めた。
  • そんな中、モロルトの首が、アイルランドの宮廷に届けられた。決闘相手の少年がつけた剣の刃が頭蓋骨にめりこんだままの無残な首である。マルケ自身は、このような侮辱行為には反対したのだが、廷臣や郎党達がそれを許さなかった。「首ごと送り返してアイルランドを侮辱してやれ!」自分たちの村を戦場にされた人々の憤りは無理もなく、マルケはそれを認めざるを得なかった。
  • 一方、この行為は一つの政治的な効果を伴っていた。このような侮辱を受けても、軍事はモロルトに任せっきりであったアイルランド王は対抗措置を講ずることもせず、それがまた王をないがしろにする風潮を高めたのである。
  • 一人娘であるイゾルデに無用の心配をさせてはいけないと、こうした事実を娘に知らせることを、王と王妃は固く禁じていた。しかし、このような秘密を長い間隠しておけるはずがない。イゾルデは、ある日、アイルランドの軍勢が敗退し、婚約者であるモロルトが決闘相手の少年にあえなく討ち取られたことを知った。

イゾルデの胸騒ぎ

  • モロルトに対しては、何ら愛情はなかったので、悲しみはあまり感じなかった。婚約者に対して、そのようにしか感じられない自分を責めてみたが、こればかりはどうしようもなかった。
  • しかし、血族が他の部族に討ち取られたことに対しては、激しい怒りが湧いた。それにも増して、順風満帆と見えたアイルランドの運命は、いったいこの先どうなってしまうのだろうか?どす黒い不安が、彼女の胸をよぎった。
  • その時、彼女ははっと気がついた。叔父を殺した相手は、年端もいかぬ少年だという。まさかとは思うが、今、私が治療しているこの少年ということはないだろうか?また、豪勇で鳴らしたモロルトが、決闘相手に傷一つ付けないとは思えない。
  • 彼女は、小舟に残されたままだった少年の持ち物を調査させた。その中には、鞘に収められた立派な剣一振りがあった。イゾルデが鞘から引き抜いてみると、刃の部分が途中から折れ、刃こぼれという以上の状態になっている。疑惑は、ますます深まり始めた。
  • モロルトの首がアイルランドの宮廷に送り返され、その頭蓋に刃の一部が突き刺さったままになっていることを聞いたのは、ちょうどその時である。イゾルデは、自らのもとにこの首を運ぶよう、使者を通じて母である王妃に頼んだ。王妃が断ったとしても、かりにも婚約者であった者の首を許嫁の私が見ないわけにはいかない。だから王妃を説得して、必ず持参しなさいと使者に固く命じた。
  • モロルトの首が彼女のもとに運ばれて来た時、彼女は激しい衝撃を受けた。死とはこういうことか!頭蓋骨は、アイルランドに送り返されてきた時は、まだ肉片がこびりつき腐臭を放つ酷い状態であったと聞いているが、今やきれいに洗われている。しかし、その天辺にくっついた剣の刃の一部はそのままになっていた。これを無理やり取ってしまうと、全てがばらばらに砕けてしまいかねないからであろう。
  • しかし、真っ暗な眼窩の空洞から、在りし日のモロルトはイゾルデを見つめた。粗暴であったが、彼女には優しかった叔父は、今や変わり果てた姿で彼女にこう訴えている。「復讐してくれ!仇を取ってくれ・・・!」ぞっとしたイゾルデは、気が違ったように、この頭蓋骨を床に投げつけようとした。側にいたブランゲーネが、あわてて止めに入った。「イゾルデ様、何をするのです!」
  • イゾルデが落ち着きを取り戻すまでには、しばらく時間がかかった。その間、彼女の中では、死への恐怖と、死を賭しても叔父と部族の誇りを守らねばならないとの思いがせめぎ合っていたのである。

トリスタンの眼差し

  • ようやく落ち着いたイゾルデはブランゲーネにすら退出を命じ、意を決したように、少年の剣を鞘から引き抜き、頭蓋に食い込んだ刃の一部と合わせてみた。ぴったり合っている!凄まじいおののきが彼女の全身を電流のように駆け巡った。我を忘れた彼女は、剣をつかんだまま、隣室に横たわっている少年のもとに駆けて行った。
  • 寝床に横たわっている少年に向けて、イゾルデは剣を振り上げた。その時、少年は、剣を見ることもなく、剣を持つ手を見ることもなく、ただイゾルデの眼をじっと見つめた。澄み切った眼差しの中にも、生きたいという意志が読み取られた。しかし、抵抗する気配はない。今、剣を振り下ろせば、確実にこの少年は死に、私は叔父の復讐をすることができる。この愛らしい少年は、モロルトと同じような骸骨になってしまうのだろう。だが、それにしても、この眼差しは・・・。これは、生そのものではないだろうか。さっきモロルトの眼窩に覗き見た死の深淵に比べて、生とは何と輝かしく美しいものであることか。
  • イゾルデは、頭上にかかげた剣を下げて、ついには取り落してしまった。それからも、少年はじっと彼女を見つめ、彼女はその眼差しに抗することができず、走るように部屋を立ち去った。それからというもの、彼女の脳裏からは、昼といい夜といい、この少年の眼差しが消えることはなかった。彼女は、何事もなかったように、それまでにも増して熱心に治療を続け、数日のうちに少年はすっかり回復し、立ち上がれるようになった。
  • ある夜、少年はこう言った。「ありがとう。この御恩は一生忘れません。」あの日以来、何一つ口を聞かないでいたイゾルデは、それには答えずに、最後にもう一度だけ少年の目をまっすぐ見つめ、にこやかに微笑んだ。翌朝、彼の姿は既に無く、浜辺に放置されていた小舟も消えていた。

コーンウォールへの帰還

  • こうしてトリスタンが奇跡的にコーンウォールに戻って来たとき、トリスタンによって故郷を救われた人々の歓喜は一通りではなかった。クルヴェナールは涙を流して彼を迎え、マルケは彼の功績を賞して財宝と所領の一部を与えた。その他の廷臣は、うわべだけで誠意は感じられなかったが、同じような年格好の親友メロートだけは、心から帰還を喜んでくれた。
  • それからの数年間、マルケは、戦乱で傷ついたコーンウォールの国力を蓄えることに集中し、コーンウォールにはしばらく平和な日々が続いた。トリスタンは軍の調練やマルケの狩猟の随行に明け暮れる毎日だったが、思い出されるのは、自分を救ってくれた、あの金色の髪の王女のことだった。彼女は自ら名乗ることはしなかったが、周りの人々の会話から、彼はその人が誰であるか既にわかっていた。そして、あの時、あの王女はモロルトの仇である自分を殺そうとしたのだ・・・。
  • その後、アイルランドでは、王の権威はますます低下した。これをチャンスと見たマルケは、ついに動き出した。若くして英雄に祭り上げられたトリスタンを総大将に指名し、まずはアイルランドの勢力を削ぐべく、イングランドに派遣したのである。
  • トリスタンも一軍の将となるのは初めてである。「美徳」を表す紋章をあしらった盾を新たにしつらえ、凛々しく武装して船で出立した彼は、またたく間にイングランドの主要部を席巻した。数度の会戦があったが、その度に彼は先頭に立って戦い、連戦連勝を重ねた。敗者に対しても寛容な彼のやり方は住民の信望を勝ち取り、数か月の内にイングランドの主要部が彼の威に服した。
  • コーンウォールに凱旋したトリスタンの名声は頂点に達した。今やイングランドも、彼の出身地ブルターニュも、コーンウォールの版図にある。こうなってしまえば、アイルランドの屈服も時間の問題である。

マルケ王の再婚話

  • 妻を早く失って子供もいないマルケは、甥であるトリスタンへの王位の継承を口にするようになった。しかし、それには廷臣たちが黙っていなかった。彼ら累代のコーンウォールの豪族にとっては、マルケの甥とはいえ、トリスタンはブルターニュのよそ者の息子にすぎない。では、後継ぎ問題はどうすれば良いのか?彼らは、アイルランド王の娘との結婚を王に勧めた。アイルランドには、もはや戦う力はないから、この申し出に従うだろう。マルケとて、心労のために老けてはいるが、まだ四十歳台である。若く美貌の姫君を娶れば、いくぶんは若返るだろうし、子供が生まれてもおかしくはない。よしんば彼が、子供の幼いうちに死んでしまっても、姫は属国の娘であるから、我々が宮廷を思うように牛耳ることができるだろう。
  • 賢いマルケが、この程度の策略に気づかぬはずはなかった。彼は拒絶した。廷臣たちがいくら勧めても、彼は頑として耳を傾けようとしなかった。彼らは、自分たちの支配下にある郎党たちにも声を上げるように扇動したが、やはり効果は無かった。
  • 手こずった彼らは、当事者であるトリスタンにさえ、王に結婚を勧めるよう迫った。彼らの言い分はこうだった。「アイルランドの継承権を持つ姫を娶れば、戦わずしてアイルランドを手中に収めることができる上、マルケ王におかれては、お世継ぎを持つ可能性ができる。まさに一石二鳥。頭の良い貴殿に、これしきの単純なことがわからないはずはあるまい。」

自らを偽るトリスタン

  • トリスタンは、事の成り行きに苦悩した。アイルランドの姫といえば、私の命を救ってくれた人ではないか。あの日以来、その人はずっと私の心の一室を静かに照らしている。その人を伯父の花嫁として迎え入れるとは!
  • しかし、断ることはできない。断れば、王位への未練があるため、ということになってしまうだろう。仕方なく、トリスタンはマルケのもとに出向き、廷臣と郎党たちの願いを受け入れ、王妃を娶るように勧めた。マルケは、案の定、拒絶した。「お前までそのようなことを言うとは!この歳になって、世間に恥をさらさせようというのか。私の後は、お前が継いでくれればそれで良い。」
  • だが、自分の後継者を自分で決められるほど、廷臣に対するマルケの立場は強くなかった。それは、マルケもトリスタンもよくわかっていた。いったん王のもとから退出したトリスタンは悩んだ。自身の感情としては、あの女性を伯父の花嫁とするなど認められるはずがなかった。だが、彼は今やコーンウォールの運命に責任を持つ立場である。そのような個人的感情を抜きにして考えてみるとどうだろう?
  • 「アイルランドの没落はもはや避けることができない。いずれ、我がコーンウォールに屈服せざるを得ないだろう。それならば、なるべく平和裡に行われることに越したことはない。また、マルケにしても、歳を取っているのは難点だが、人望や心根の優しさという点では私など足下にも及ばない。モロルトのことを、あの方が今でも思い続けているとは思えない。その証拠に、あの優しい女性は、私をさえ殺そうとはしなかったではないか。マルケに対してはなおのこと、モロルトの一件で憎しみを感じているはずはない。
  • また、王にしたところで、彼女を敗者の姫君として冷たくあしらうことなどあり得ない。それどころか、わがままだって存分に聞いてくれるし、思うさまの贅沢な暮しをさせてくれるだろう。私としては、そのように図ることが、命の恩人に約束した恩返しを果たす唯一の手段ではなかろうか?」

メロートの助言

  • しかし、それにしたところで、最後に別れた時のあの眼差しを思い出すにつれ、胸の苦しみはますます深まっていった。彼は、これまでアイルランドでの一件を誰にも語ったことはなかったが、この時初めて、親友メロートを呼んで、全てのことを洗いざらい打ち明けた。メロートは、マルケ王にイゾルデを娶ることを勧めるようトリスタンに依頼した廷臣たちの一人だったが、彼だけは、他の廷臣達とは異なり、そのことによりトリスタンの宮廷における立場が一層強まるだろうという善意から行動していた。
  • メロートは、話を聞いて驚くとともに、トリスタンがこのことを自分にだけ打ち明けてくれたことに感動した。だがメロートの答えはこうだった。「しかし、トリスタンよ、そうであれば尚のこと、そのような心優しく美しい姫君を我らが主君マルケに嫁がせるのが、コーンウォールのためというもの。」
  • 曲がったことが大嫌いなメロートは、頭はいいが真面目一辺倒の男であり、機知に富み、懐の深いトリスタンとは、あまり似た性格ではなかった。しかし、この男はクルヴェナール同様、これまでの戦場で、彼のために最も勇敢な戦いぶりを示してくれていたのである。
  • トリスタンは、内心の複雑な思いを隠しながら答えた。「それはそうだが、伯父御は、私の説得に応じてくれない。どうすれば良い、メロート?」その問いかけに、しばらく考えてから、メロートは答えた。「いずれにせよ、アイルランド出兵の機運は高まっている。妃の問題は抜きとして、君は遠征軍の総司令官を志願するのだ。王は、政略結婚による平和裡の解決を拒否している以上、遠征を拒否することはできまい。しかし、出陣式の場では、遠征の軍勢、見送りの廷臣の居並ぶ前で、君は、アイルランドの姫君の美しさと優しさを讃え、王妃として迎えるよう再度、王に要請するのだ。コーンウォールの人々が君の話を聞けば、王はよもや拒否できまい。廷臣たちには、そのような段取りになっていることを私から話しておこう。」
  • トリスタンは、すぐにこのようなことを思い付くメロートに、改めて舌を巻いた。しかし、これはマルケを退くに退けない立場に追い込むことになる・・・そして自分自身をも。彼は友の助言に従いつつも、悲しみの情はますます深まった。

イゾルデを迎えに行くトリスタン

  • しかし、個人的感情は控えねばならない。いよいよ出発の時、全軍の総司令官であるトリスタンは、予定通り、王、兵士、廷臣、郎党の居並ぶ前で演説を始めた。
  • 「今回の戦は、仇敵アイルランドを征服するためのものであるが、徒らに戦をして、人の命を奪うのが私の本意ではない。アイルランドには、世にも美しい姫君がいる。私がかつてモロルトから傷を受け、死の淵を彷徨っていた時、私を救ってくれたのは、他ならぬこの姫君であった。」
  • 一同に激しいどよめきが起こった。トリスタンは、そのどよめきを手で制止して続けた。「知っての通り、姫はモロルトの許嫁であり、私はその仇であったが、姫はその私を治して下された。両国間の争いが、何の役にも立たないことを良くわきまえておられたからである。私の願いは、無用の流血ではなく、この素晴らしき姫君を我がマルケ王の妃としてコーンウォールにお迎えすることである。王よ、あなたのための求婚者として、アイルランドに私を派遣してください。この願いが容れられなければ、私はこの場で司令官を辞し、永久にコーンウォールに別れを告げるでしょう。王よ、お聞き届けいただけますか。」
  • マルケは、これを聞いて愕然としたが、もともとそれを望んでいた人々の歓呼の前にあっては、否と言えるはずもなかった。それしか道が無いならば、ここでためらいは禁物である。「トリスタンよ、コーンウォールの名声と栄誉を一身に担っているお前の言うことを、この私が断るはずがあろうか。私のために、イゾルデを迎えに行くがよい!」群衆は割れんばかりの歓声でマルケ王を讃え、その声はコーンウォール中にこだまするかのようだった。
  • トリスタンは、そのままアイルランドに旅立つこととした。マルケに対する弁明の役目をメロートに託したので、彼の一隊だけは残さざるを得なかったが、それ以外の軍勢は、そのまま引き連れて行った。何といっても敵地である。万が一、アイルランド王が娘を差し出すのを拒否した場合は、一戦交えねばならない。

絶望に沈むイゾルデ

  • アイルランドに上陸すると、すぐさまトリスタンは、アイルランド王に使者を送って口上を述べさせた。「我々は戦争ではなく、両国間の復讐の終焉と平和を誓うために来たのである。その証人となられるのは、アイルランドの継承権を持つ姫君である。」これが、人質として姫を差し出せということは明らかだが、落ちぶれたアイルランドは、それを拒むことはできなかった。
  • しかし、アイルランドの人々の心配をよそに、イゾルデは胸の高鳴るのを抑えることができなかった。トリスタンが、タントリスと名乗ったあの時の少年であることを、彼女はもちろんよく知っていた。「この御恩は一生忘れません」と彼は約束した。私がコーンウォールに連れて行かれるのはやむを得ないかもしれない。しかし、どのような形で?今こそ、彼は、あの時の誓いを果たしてくれるのではないだろうか?
  • トリスタンが、アイルランドの王室と廷臣の前に立った時、イゾルデは瞬きもせずに、まっすぐ彼を見つめた。トリスタンは、その視線を受けて、彼女に目をやらずにはおれなかったが、その美しい瞳に、これまで漠然と感じていただけだったものを、彼は初めてはっきりと意識したのだった。「この方は、私にとって・・・!」
  • これまで心の奥深くに常に流れていた低音のテーマが、いきなり激しく奏でられるのを耳にしたかのように、彼は思わず自制を失いそうになった。しかし、今や彼の双肩には、コーンウォール王国の運命がずっしりとのしかかっていた。妄想を振り払うように、彼はイゾルデの視線から身をもぎ離し、アイルランド王にマルケ王の書状を手渡した。トリスタンは、イゾルデが見守る中で、顔色一つ変えずに語り始めた。「その書状にあるように、我が主君マルケ王は、アイルランドと我が国との永遠の友好の礎として、イゾルデ姫を王妃に迎えることを望んでおられるのです・・・!」
  • イゾルデは、衝撃のあまり、その場で卒倒しそうになったが、かろうじて持ちこたえた。トリスタンが退出した後も、彼女はその場で身動き一つできないでいたが、やがて襲ってきたのは、かつて感じたことのない激しい憎悪だった。「なぜ、あの時、この卑劣な男に剣を振り下ろさなかったのか・・・そうしておけば、このような屈辱を我が身に招かずに済んだものを!」

復讐の決意

  • 数日後、宮廷にほど近い野原で、軍勢が居並ぶ前で、両国間の講和の儀式が執り行われた。トリスタンが、今後一切の復讐行為の終焉を告げると、敵味方を問わず、全ての者が喜ばしくそれに和したが、その騒ぎの中にあってイゾルデ一人だけは、内心憎悪に燃えて固く復讐を誓った。
  • イゾルデの両親であるアイルランド王と王妃は、いわば人質として娘を差し出さざるを得ないことを深く悲しんではいた。しかし、一面では、最悪の事態を避けることができて、ほっとしていた。現在の両国の力関係から言えば、娘は卑しい身分の廷臣に嫁がされないでもなかったのだ。例えば、ブルターニュの豪族の息子に過ぎないトリスタンのような男に・・・。しかし、マルケ王ならば、何といっても一国の王であるし、その寛容さや人格の高潔さは周辺の国々にあまねく知れ渡っている。そして、何よりも娘が産んだ子供は、生まれながらにして、コーンウォールとアイルランドの王となるではないか。現状を考えれば、決して悪い話ではない。
  • しかし、トリスタンが宮廷にやってきたあの日以来、彼らの娘は何一つ口を聞かなくなった。とはいえ、望みもしない結婚に、駄々をこねることもなく、愚痴を言うでもなく、淡々と支度を整えた。そのけなげな姿が、ますます王と王妃の涙を誘った。

死への航海

  • 王妃は、娘の侍女のブランゲーネを呼んで言った。「ブランゲーネ、代々アイルランドの王妃に受け継がれてきた秘薬の薬箱をあなたの手に委ねます。使い方は、賢いあなたなら、よくご存じのはず。一番大事な二つの薬ですが、一つはマルケ王をイゾルデに夢中にさせるための愛の薬。もう一つは万が一、辱めを受けるような場合に備えての死の薬。これをもって、あなたの命に代えても我が娘イゾルデを護るのです。」
  • ブランゲーネは深くうなずいた。母権制のアイルランドでは、祭祀も薬の調合法も嫡系の王妃に伝えられるのが、ならわしである。代々受け継がれてきた秘薬をイゾルデに渡すことは、アイルランドの継承権をイゾルデに認める証でもあった。
  • こうしてイゾルデ、ブランゲーネ、その他の侍女達は、トリスタン達の船に乗り、コーンウォールに向けて出帆した。イゾルデは、父母との最後の別れに際しても涙を見せず、一言の挨拶もしようとはしなかった。そして、船が出てからも、彼女らのために甲板にしつらえられた天幕の中で、何かを激しく思い詰めるかのように、食事も取らず一睡もできない様子だった。ブランゲーネは、そんな彼女の様子に不吉なものを感じつつも、この船旅が一刻も早く終わることを願っていた。
  • トリスタンとイゾルデの生が、束の間の最後の輝きを見せ始めるのは、そんな船旅がようやく終わりに近づきかけた時である。

「プロローグ」のあとがき

  • 『トリスタンとイゾルデ』の面白い所は、多くの出来事が「回想」という形でしか触れられず、舞台に載せられるのは、主人公達がどうしようもない袋小路に置かれてからの出来事だということです。これは『ニーベルングの指輪』が「ジークフリートの死」の前史を描こう描こうとして超大作になってしまったのと対照的です。
  • そうした出来事で最も印象的なのは、トリスタンを殺そうとしたイゾルデがその眼差しに射すくめられて剣を取落す場面です。また、トリスタンの「幼い頃の思い出」も観客の想像をかきたてます。
  • このプロローグは、私がこの作品を訳しながら、数ある「回想のセリフ」から想像を膨らませて、「オペラ」としての『トリスタンとイゾルデ』の前史を再構成したものです。したがって、ワーグナーが主に準拠している12世紀ドイツの詩人ゴットフリートの叙事詩、また、19世紀末のフランス人ベディエの『トリスタン・イズー物語』、さらにアーサー王伝説群などを参考にしつつも、あくまで独自の解釈をしています。
  • 特に、イゾルデとモロルトとの関係、メロートの人物像という点では、かなり想像をたくましくしていますが、これらにも一応セリフ上の根拠はあり、少なくともこれに近い状況があったと解釈すると一番辻褄が合うように感じられます。
  • しかし、一番考えてみたかったのは、イゾルデに対するトリスタンの想いです。オペラ上の物語やセリフでは、「イゾルデがトリスタンのことを好き」なのは、疑う余地なく明らかです。しかし、トリスタンの態度は謎めいており、少なくとも、セリフの裏の裏まで読み込まなければ、彼の本音は現れてきません。
  • それについての私の解釈は本文の通りなのですが、もしかしたら、いずれまた考えが変るかも知れません。むしろ、トリスタンという人物をめぐっての「ゆらゆら感」が、この作品の魅力の一つのような気もします。この作品は、音楽にばかり関心が行きがちですが、単なる戯曲としても、とても面白いものだと思います。この作品の鑑賞の一助として、お役立ていただければと思います。
平成22年2月


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@ wagnerianchan






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