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"影のない女"

目次

  • 今回、「影のない女」を初めて聴き、とても面白かったので訳してみました。初めは、軽い気持ちだったのですが、だんだんホフマンスタールへの畏敬の念が増して来て、途中でダウンしそうになりました。この作品は、単語はそれほど難しくないのですが、意味が取りにくい表現がいくつもあります。かなり誤訳があるような気がします。
  • ただし、ホフマンスタールの日本語訳というのは少ないので、何も無いよりは良いのではないかと思い、アップしてみました。彼の作品は、とても凝った内容ですから、翻訳では意を尽くせない部分があるかもしれません。かてて加えて、私の文才では、まるで「それっぽくない」可能性もありますが、ご笑覧ください。
  • 正直な所、初めて聴いた曲について何か語るというのは、おこがましい所が無きにしもあらずですが、全部訳してみると、やはり色々なことに気付くので記載します。全くの私見ですが、何らかの参考になればと思います。

主人公は皇妃か?

  • ホフマンスタールは、1914年のリヒャルト・シュトラウスへの手紙で、この作品の主役は「皇妃」だと書いています。「・・・一つのことだけは絶対にお忘れになってはなりません。精神的な意味では皇后こそが中心人物であり、彼女の運命がドラマ全体の推進力なのだということを。染物師とその妻はもちろん極めて強力な人物ですが、本質的には重要ではありません。彼らの運命は皇后の運命に従属しています。」(音楽の友社<大作曲家>『リヒャルト・シュトラウス』より引用)
  • 一見当たり前のようですが、これは重要な点です。この作品には、いろんなエピソードがあって頭がこんがらがりますが、第一のテーマは「皇妃が愛を発見する過程」だということだと思います。リブレットを読むと、「影の無い女」である彼女は「クリスタル」で出来ているという表現が何回か出てきます。光が通り抜けてしまうので、「影」が出来ないし、体内に「子供」はできないということなのでしょう。
  • 半分しか人間でない皇妃が「影」を得て完全な人間になるという「人魚姫」的テーマと、夫である皇帝と「真の愛情関係に入ること」がメインテーマで、「子どもを持つ、持たない」というのはサブテーマに過ぎないと思います。(あくまで私の解釈です)

象徴としての「赤い鷹」

  • ホフマンスタールのこの台本は「象徴主義的」です。メーテルリンクの『ペレアスとメリザンド』に近いのではないでしょうか。ホフマンスタール自身は必ずしも「象徴主義」の作家に分類されないかも知れませんが、この作品に「象徴(シンボル)」が散りばめられているのは間違いないですね。その象徴をどう解釈するかは、人それぞれでしょう。
  • 私が、とりわけ気になったのは「赤い鷹」です。「赤い鷹」は、女性に対する男性の「精神的欲求」のシンボルのように思えます。皇帝は、この鷹のおかげで皇妃を手に入れるのですが、それと同時に、この「鷹」に対して危害を加えるので、鷹は飛び去って行ってしまいます。ここでは、皇帝における「こころ」と「からだ」の深刻な分裂が語られているように思えます。
  • 鷹がいないため、精神的に結ばれることができないので、皇妃は人間になり、子供を宿すことができない。そこで、第1幕の最初に、皇帝は「鷹」を探しに行くと考えることができます。

第1幕の合唱「そなたたちが愛し合うために」

  • 上記に関連して、私が大事だと思うのは、第1幕の最後にバラクに聴こえて来る「番人たちの声」の台詞です。とりわけ「心せよ・・・そなたたちの命のために、命の種を委ねられたのではないぞ。さにあらず!そなたたちの愛のためなのだ!」という台詞です。この「そなたたちの愛のため」(原語:um eurer Liebe willen!)はワーグナー『パルジファル』第1幕の合唱にもほぼ同じ表現があります。私は『パルジファル』では「私たちが愛することができるように!」とあえて「凝った言い回し」にしていますが、ここも同じだと思います。「そなたたちが愛し合うことができるために!」と言った方が、日本語的としてはピンと来るかも知れません。
  • 命の種、つまり子供を持つということは「人が愛し合うためである」というのが、ホフマンスタールの言いたいことだと思います。逆ではありません。「子供を持つために、愛する」のではないのです。現代人の感覚では、むしろ当たり前すぎるかも知れませんが・・・。
  • 私は、この台詞がキーワードだと思います。これを見落とすと、「影のない女」って「産めよ、ふやせよ」みたいな話になってしまいますよね。戦時中みたいです。実は、私自身が、最初にあらすじを読んだ時、「なんかヘンな話だな?少子化対策みたいだ」と思った(笑)ので、つくづく訳してみて良かったと思います。
  • 例によって、この部分をYoutubeでアップしてもらいました。ショルティ指揮ザルツブルク音楽祭1992年です。合唱は3分あたりから始まります。

バラクの妻

  • バラクの妻は解釈が難しい人です。私見では、彼女においても「子供を持つ、持たない」が問題なのではなく、「愛せない」ということが問題になっていると思うのですが・・・。しかし、貧しい生活に押し潰されているので、子供を持つことに希望を持てない、というのは良く分かります。
  • たった今、今月(2010年5月)の新国立劇場の公演のパンフを読んだら、「演出家は、真の主人公はバラクの妻だと言っている」と書いてあり、いきなり自分の意見と真っ向から食い違っていたので、ありゃりゃ・・・と思ってしまいました。もちろん、解釈の問題ですから、それはそれです。ホフマンスタールの意図とは違うような気がしますが、確かにバラクの妻をフィーチャーするほうが「現代的」な感じはしますね。どういう演出になるんでしょうか?
  • 訳していて面白かったのは、第2幕の最初の方では、魔法で「美少年」が呼び出されるのですが、これは「むかし、橋ですれ違った初恋の人」みたいなイメージなんですね。こういうのは、人間的でよく分かるような気がします。舞台では、ぜひとも「かっこいい若者」が登場してほしいものですが・・・。ちなみに、呼び出したはいいが、すぐ死んでしまう所は、ゲーテの『ファウスト』第2部のエピソードにそっくりです。
  • 本題に帰ると、リブレットを読む限り、バラクの妻は、夫をぜんぜん愛していないわけではなく、「本当は愛したいのだが、生活に満足できないので愛せない」という印象を受けます。その意味では、実は、皇帝・皇妃のカップルと比べて「本質的=精神的な問題」は存在していないように思えます。つまり、冒頭のホフマンスタール自身の解説どおりです。バラクは、「オペラ史上最高に出来た人ではないか?」というぐらいの善人ですから、奥さんさえその気になれば、「めでたしめでたし」です。

皇帝

  • ですから、バラクには何ら問題はないのですが、問題は皇帝クンです。この人、自分自身では特に成長せず、皇妃のおかげで救われるだけのキャラクターという印象を受けます。皇妃が「自己」を捨てた時、一緒に救済が訪れて来るということでしょうか?でも、ここはまさに「ファンタジー」なので、あまり深く突っ込むべきでないような気もします。
  • 気になるのは、この作品が初演されたのは、1919年10月のウィーンということですが、その1年前の1918年11月に、第1次大戦の終結と合わせて最後の皇帝が退位し、ハプスブルク帝国自体が終焉しています。このことは、ホフマンスタールにも物凄い精神的ショックを与えたようですが、「石になった皇帝」を舞台で見て、一体観客は何を思ったんでしょうね?

「影のない女」のための「影のない音楽」

  • それにしても、リヒャルト・シュトラウスの音楽は本当に「影がない」と思います。オーケストレーションのうまさ、メロディーの流麗さなど、いろいろな要因によるものだと思います。この時代になると、ウインド・マシンやらサンダー・マシンなるものが使用されるので、「舞台転換の音楽」は、「最新の映画音楽」と言っても違和感がないですね。
  • このオペラをシュトラウスの最高傑作と評する声すらあるようですが、少なくとも『サロメ』『エレクトラ』『ばらの騎士』などと比肩する傑作であることは間違いないでしょう。聴いてみて良かったです。個人的には、大きな音を出す部分より、ハープとかチェレスタを使って「精妙な響き」を出す部分が、とりわけいいと思います。

フィナーレ「生まれていない子供たちの合唱」

  • 最後に改めて考えてみると、このオペラで問題になっているのは「精神世界」なので、舞台裏こそが舞台で、舞台は逆に「舞台裏」のような気がしてきました。「赤い鷹」も「生まれていない子供たち」も「舞台裏」の存在です。これも『ファウスト』のもじりですが、この作品では「舞台にいる者はみな影」で、カイコバートの支配する「霊界」こそが「真の世界」なのかも知れません。いかにも、ホフマンスタールらしいイメージです。
  • そう考えた時、この作品の最後を締めくくる合唱のセリフが初めて理解できました。「いつか、祭りがあるときは、きっと、ひそかに、こうなるよ・・・招待客のぼくたちこそが、ひそかに、祭りの主催者なのさ!」
  • 拙訳では、わかりやすくしようと思うあまり、まるで詩的でなくなっているので、「何だ、この訳は?」と思われるかも知れませんが・・・。原文自体がけっこう難しいのです。
  • 私見では、ここでホフマンスタールは、「子供を産むということは、子供を客として迎えるのではなく、子供に象徴される精神世界に親が招かれて行くことだ」と言いたいのだと思います。先ほどの第1幕のフィナーレの「番人たちの声」と符合しています。
  • 最後にまとめますと、この作品のテーマは、「愛の欠如とその回復」で、それは主に「皇帝と皇妃の関係」に象徴されているという気がいたします。ですから、演出では「愛の欠如」をうまく表現できると、話全体がスッと分かるんじゃないかと思いますが、まさにそこが難題かもしれませんね。
平成22年5月 Wしるす


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@ wagnerianchan



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