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天使の柩…2

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『天使の柩』

   2
 これはよく見る夢だ。
 俺が笑っている。隣で妻のジュリアンも笑う。いつも美しい彼女は今日は特に美しい。白のウェディングドレスに身を包む彼女に俺は目が奪われっぱなしだ。
 この日は俺の結婚式だ。
 友人達、同僚、親族。みんな笑顔で、俺達を祝ってくれた。
 俺の天国だ…
 そしていつも通り場面が移り変わる。
 朝。俺の家。少し古臭いダイニングテーブルに椅子。白のカーテン。ジュリアンが選んだ物だ。彼女はアンティークだと言い張ったが、俺はよくわからなかった。だが、彼女のセンスは良かった。
 俺が夜勤から帰ってきた。
 手にコーヒーを持って欠伸をしながら玄関を潜った。
『ただいま~…ジュリアン? まだ寝てるのかな』
 俺がそのままキッチンへ。今の俺とはかけ離れた姿である。キッチリとした服装や身だしなみだけではない。柔和な顔つきに、正義感に溢れた眼差し、堅実で実直で真面目であった頃の自分だ。
 そんな俺が気付いた。窓ガラスが割れていることに。顔付が強張る。銃を構え、階段を駆け上がる。
「ジュリアンッ! 返事をしてくれ」
 叫ぶが返事はない。寝室のドアを蹴破った。
 見るな…
 ベッドの上には誰もいなかった。だが、そこに滴る血と異物の塊。俺が見上げた時、恐らく呼吸することすら忘れていただろう。手にあった銃は知らぬ間に床に落ちていた。
「ぁ……ジュリ、アン…」
 彼女は天井にいた。まるでキリストのように十字架に磔られるかのように両手を広げ、天井に全裸で付けられていた。至る所に杭が打ち込まれ、胴は逆十字に裂かれていた。
 完全に事切れていた。
 俺は後ずさりながら部屋を出ると、駆け出す。
「ショシャラ!」
 俺の娘の名前だ。生まれてこの頃は半年だった。
 部屋に入った俺が絶叫している。喉を潰し叫んでいた。
 ショシャラは天井から下げられたオルゴールに逆さに吊るされ回っていた。顔は紅く変色している。俺はオルゴールを天井から引きちぎると、泣きながら必死でショシャラの喉にたまっていた胃からの逆流物を吸い出し吐き出した。そんなことは無駄なことだ。だが、この時の俺にはまともな考えなんて出来なかったんだ。

 結局。妻と娘を殺した奴らはわからず、未解決事件になった。
 俺の生活は一転する。そんな時、俺は自分の銃を口に突っ込んで引き金を引いた。
 気付けば俺は地獄にいたよ。顎に鉤を架けられ吊るされながら、俺は気が遠くなるほど炎に焼かれた。熱さに踠けば顎の鉤が俺の脳天を鋭く突きさした。発狂しそうだった。だがしないし、死ぬこともない。永遠に生き続け焼かれ続ける。俺は悟った。
 悟った俺は次に怒りが湧いてきた。ぶつけようもない怒りは地獄の炎すらぬるく感じるほどに俺の体の中を焼いた。憎い。そう思い始めた時にそいつは光と共に来た。そいつは自分が天使であると言った。名前はサリエル。
 そいつは俺に言った。
「あなたは不思議な人間です。そしてまだ死ぬには早すぎる人間でした。しかし死んでしまったあなたを生き返らすことはできません」
 静かな声だった。何もかもを包むような優しい声。そして続けた。
「あなたの家族に酷い仕打ちをしたのは恐らく悪魔達でしょう。何らかの目的があったのか、それともただの魔がさしたのか。それはまだ分かりません。どうですか? 私達のために働いてはくれませんか?」
 おかしなことを言う奴だと思った。
「あなたに力を与えて上げましょう。いりませんか?」
 俺は答えた。「くれるんなら、何でももらってやる」と。
「では、あなたに授けます。そして働いてください」
「何を働けばいい」と尋ねると、ラジエルは言った。
「悪魔をここゲヘナに送り返すことです」と。悪魔と天使は昔大きな戦争を起こした。それに勝利した神・天使は昼を支配し、負けた悪魔は夜を支配した。そして競ったのだ。人間達の信仰心を。天使と悪魔は現世に来ても会話程度にしか大抵は赦されていない。そういった取り決めを天使と悪魔の間で暗黙の了解となっている。だが稀に悪魔が悪さをする。サリエルは俺にそんな奴らをゲヘナに追い返す仕事をさせたいらしかった。
「あなたに“天使の柩”という物を授けます。これは大きな力をあなたに授けるでしょう。しかし同時にこれであなたは死ぬことを赦されなくなります。永遠に痛みが付きまといます。よろしいですか?」
 俺の頭には復讐しかなかった。俺はろくに考えず頷くと、サリエルは俺の胸に杭のような光る物を突き立てた。それは強烈な光を放った。
 目が覚めると俺は椅子に座っている。自分の部屋で。頭を撃ち抜いた場所で座っていた。時計を見たら三分しか経っていなかった。夢かとも思ったが、部屋には血が飛び散り、弾痕も壁にあった。俺は間違いなく、この三分間死んでいた。そして俺の胴には大きな十字の痣があった。
★   ☆   ★
 俺はベッドで目が覚めた。見れば昨日のボロボロになった服のまま眠っていた。起き上がると酷い頭痛がする。頭の中でラッパが鳴っているようだ。割れるように痛い。目を開けてられないほどの痛みだ。力を使った次の日は決まってこの痛みに襲われた。
 ここはボロアパートだ。あの事件があって引っ越した。昔は喧騒などが五月蠅かったが、一度ショットガンをぶっ放したらそれ以来大人しくなった。
 俺はタンスから小瓶を取り出す。中には蛍光色の青い半固体の物質が入っている。俺は栓を開けて口に流し込んだ。酷い味だ。他人のゲロを飲んでる気分になる。俺は毎度の嘔吐感を必死で抑え物質を嚥下した。
 胸はムカムカするが、少し楽になった。と、その時。誰もいないはず隣の部屋から声が聞こえてきた。

「それが彼の奥さんと娘さんだ。これは私の私見ではあるが、人間にしてはなかなかの美人だ。娘さんも意志の強そうな目元は写真の彼にそっくりだと思わないかい? 恐らくこの頃の彼らは将来は弁護士にでもなるとか話していたんだろうねぇ。だが人生とは酷だ。そして神もまた非情だ。その写真を撮ったすぐ後に何者かによって酷い最期を迎えるのだからねぇ」
 俺が部屋に入ればそこには二人の人物。
 一人はウェーブのかかった髪を後ろに流す気品あるスーツの男、名前をメフィスト・フェレスと言う。そしてもう一人は昨日、電車にいた少年だった。
「やぁ~。エンジー。おはよう。ご機嫌はいかがかな。勝手に上がらせてもらったが構わないよなぁ。そしたらこのおチビさんが先客としていたので少し話をしていたんだよ。な~に大した話はしていない。私だって節度という物は持ち合わせているからねぇ」
 俺の姿を確認するとメフィストは堰を切ったように話し始める。拍を置くのを忘れているかのように話し続ける。そんな時でも奴の右手には知恵の輪が握られ、器用に外しまたくっ付けている。金属が擦れ合う音が絶えず耳に響く。頭痛が再発してきた。
「何の用だ?」
「この子から聞き及んでいる。昨日は派手に我らの兵隊を帰してくれたようではないかね。私はそのお礼を言いに来たのだよ。まったく下の奴らは考え無しに動くから困ったものだぁ。戦争を起こせばいいと思っている。だがまだだ。まだ戦争はまずいのだよ。あの忌々しい羽の生えた勘違い野郎共との戦いはまだ早い」
 ねっとりと纏わりつくような声で、メフィストは目を細める。背筋が凍るような錯覚を覚えた。
「最近、お前らクソ悪魔共の動きが目に余るな。メフィスト。何を企んでる?」
「フフフ。私は何も企みなどしない。最低でも今の段階においてはねぇ。私はおしゃべりで皮肉屋な道化師さ。楽しければいい。その点において君は格別だと私は個人的に思っている。君の事を悪く思っている者達も多いが、私は君が好きだよ。人の身でありながら我らに贖う男。己が憎悪で自らを焼く男などなかなか見れないからねぇ。聞きたいのだが、君はいつになったらあの偽善者共ではなくこちら側に来るんだい? 人間にしておくのも、あちら側にしておくのにも勿体ないと思うのだよ」
「話を逸らすな。『見つけた』とはなんだ?」
「見つけた? 奇妙な発言だねぇ。しかし残念なことに本当に知らないのだよ。いかに博識な私でもね。大体我々はあの偽善者共と程同数存在している。全てを把握はできない。それに我らはゲヘナでも、こちらでも基本的には単独で動くことが多い。慣れ親しむことが少ない存在だからねぇ。他の者達が何を探しているかなんて知らないよ。それにだ。知っていても…君に教えて見返りがない」
 俺の睨みにメフィストは笑みで返す。
「今日は見逃してやるって言うのはどうだ?」
 俺の発言にメフィストは声をあげて笑ったが目は笑ってない。
「私を送り返すのかい? よしてくれよ。いちいち七層の煉獄の山を登ってきたんだよ。あそこ登るのは結構疲れるんだよ。本当におかしなことを言うよねえ。私を送り返すなんて…昨日の下級悪魔共と同じにしてもらっては困るなぁ。君の部屋に入ってきたのが証拠だよ」
「だったら帰れ」
「そう言ってくれるな。私は君の話相手を…」
「出てけ!」
「フウウン。困ったねぇ。わかったよ。では今日はお暇させていただこう。それではまたお会いしましょう。ソフィア君」
 メフィストは少年に軽く頭を下げると出て行こうとして足を止めた。
「そうだ。エンジー。君の質問には答えられないがヒント代わりに教えてあげよう。最近はマモンがこっちに来たらしいよ。まぁ、今回とは関係あるかどうかは知らないけどね」
「信じろってか?」
「ウルルルゥ。君は疑い深いねぇ。私が君に力を貸してあげるなんて滅多にないが嘘を言ったかい? だって君は…まぁいいや」
 そう言って笑みを見せると、メフィストは「マモンって私、結構嫌いなんだよね」と言いながら出ていった。
 一気に肩に入っていた力が抜けた。嫌な汗が全身から噴き出す。部屋に残った少年は伏せてあった写真立てを手に持ち見ながらソファに座っていた。
「お前も早く出て行け」
「あんた。助けてやったのに礼儀知らずめ」
 少年は俺の家族の写真を見ながら素っ気なく言う。
「昨日倒れたあんたを誰が運んでやったか知ってるか? 僕だ。重かった」
「そうか。ありがとう。じゃぁ、出て行ってくれ」
「あんた、刑事なんだって。昨日はあんなに暴れてよかったのか。刑事は何でもありか?」
「口外したらその首を圧し折る」
「安心してくれ。別に言わないよ。昨日の奴らは死んだ方がいいに決まってる人間だし、この街がどんな所かぐらい知ってる」
 妙に落ち着いている。落ち着き過ぎている、まるで悟っているようだ。気持ちが悪いほどにその少年は不気味だった。考えてもみればこいつは昨日の惨劇に、俺の力、そして悪魔を見ているのだ。
「お前は何者だ?」
「ソフィアだ。女の名前だが僕は男。母さんが女が良かったみたいだ」
「昨日、何を見た?」
「不死身のあんた。顔がない男、醜い化け物、光。初めてみたよ。悪魔って奴を。本でしか知らなかった。さっきの奴も悪魔かい? あんたこそ何者だよ」
「お前に関係ない。早く出てけ」
「頼みがあるんだよ」
「さっさと失せろ」
 ソフィアはジッと俺を見てから、写真を置くと部屋を出ていった。
   ★   ☆   ★
 今まで私は自分の事を優秀でいい警官だとはこれといって思ったことはなかったが、このグノーシスに来てそのことをつくづく実感せざるえなかった。
 この街は外から見ていた以上に腐っている。まるで悪魔の談話室の中にでもいるかのようだ。この街を何とかできると思い来たもののすでに後悔し始めている。悪党どもと繋がっている警察に、自分のことしか考えない所長。いい警官はみなやる気がない者ばかりだ。みな、自分の命が惜しいのだ。昨日一日資料を見た分ではそう感じた。街のために働く人間は早死にする。
 もちろん例外もいた。だが酷い有様である。恐らくその代表が昨日あったエンジー・オーフィンである。
 彼の経歴を見たが素晴らしいものであった。検挙率は群を抜いて一番で、成績もトップにいた。八年前に起きた事件により彼はああなってしまった。酷い事件だと思う。写真、文章を見るだけでも吐き気がしてくるのに、実際に現場にいたらおかしくなるのも無理ない。それも被害者は自分の妻と娘とは…
「レイシア警部」
 私は昨日見たエンジーについて考えていると、制服の警官が私に声をかけたので意識を戻す。
 ここは昨晩、惨状となった電車の中だ。八人の若者がここで酷い殺され方をした。銃撃戦だ。少年間のイザコザか、薬の取り合いか、見当もつかないが、一つわかるのは死んでいるのは皆、仲間であり〈何者〉かに発砲し殺されたということである。
 ここでは不可解な点がいくつかある。一つは誰がこんなことをしたのか。少年たちはこしたま銃を一定の方向に撃っている。にもかかわらず、彼らを殺したであろうものの血痕が見つからないのだ。弾丸の雨の中を無傷でいられるだろうか? 第二に隣の車両の死体である。顔の上半分ないのだ。鑑識の結果、害者の上のもう半分の顔はこの車両にあったそうだ。だとすると、犯人はその死体を隣に運んだことになる。なぜだ? まぁ、死体が歩いたと考えれば別だが…バカバカしい。目撃者は見つからないだろうと言われた。スラム街に近い人間は滅多にそういった証言はしないそうだ。
 聞いた話だが、ここグノーシスではたまにこうした事件があるそうだ。“ナイト・ウォーカー”(夜を彷徨う者)と呼ばれるとか。まったくオカルトチックで話にならない。この街にはまともな人間はいないのだろうか。
 私は考えることに疲れ、眼鏡をはずしてハンカチで拭いた。
 その時、足元に何か転がっているのを見つけた。小瓶である。中に蛍光色の青い半固体の物質があった。
「おい。これは何だ?」
 私が小瓶を拾い、近くの物に尋ねる。
「わかりません」
 思わず面喰った。その一言で済まされることではないだろう。
「ちゃんと調べているのか? しっかりしてくれよ。こんな重要な物を見落とすなんて」
 私は面喰っていると、後ろから同僚の男が言った。
「どうせ解決なんてできねぇんだ」
 ここの警察は、一体どんな意識をしているんだ? 私の考えがおかしいのだろうか。わからなくなってくる。
「みんな、しっかりしてくれ! 一切の見落としがないようにしてくれよ。君たちは一体、何年警察をしているんだ!」
 そう言って私は小瓶を丁寧に保管し、電車を出た。背中に同僚の避難と憐みの視線を感じたが私は気づかないふりをした。
★   ☆   ★
天使と悪魔は実在する。ただ見えないだけ。と言うよりも人間には見分けがつかないだけだ。どこが違うのかと聞かれれば住んでいる所が違うと答えるのが正確だ。
天国と地獄。一般的な考え方である。八天と呼ばれる殻を越えた先のエンピレオと呼ばれる空間に住んでいるのを天使、煉獄と呼ばれる山の底にあるゲヘナと呼ばれる場所に住んでいるのが悪魔と呼ばれる者達だ。
奴らには力に応じ階級がある。天使は例外ではあるが、悪魔に限り下級の奴らは体を持ってくるまでの力がなく昼間は人間の体を操るが、中級以上の奴らは簡単ではないにしろこちら側に肉体を持ってこれる。今朝のメフィストもその一人だ。奴らは人間が考えている以上にこちら側に来ているのだ。

 俺は街外れにある孤児院の中庭を尋ねた。
「おはよう。エンジー。ご機嫌はいかがかしら? 随分とやつれているようだけど」
 長い黒い髪の女が俺に背を向けたまま、見ることもなく言った。
「食事は済ませましたか?」
「ガブリエル。世間話をしに来たんじゃない」
 ガブリエルは背を向けたままユリの手入れをしている。人間には見えないが俺には奴の背中の羽が見える。
「悪魔の臭いがします。また会っていたんですね」
「昨晩、一匹帰したからそれだろう」
 ガブリエルは立ち上がり振り向いた。少し垂れ目の優しげな女性だ。聖母さながらに美しく、目を奪われる。
「エンジー。嘘は感心しませんね。わかっていますよ」
 ガブリエルは俺を諭すように言う、なぜか悪い気はしないのは彼女の人柄と話し方からだろう。
「昨晩の事も知っています。お疲れ様です。よくやってくれましたね。しかし、その他にも若者の命を奪ってしまいましたね」
「仕方ない犠牲だ」
「なぜそのようなことを言うのですか? 確かにあなたのしていることには犠牲が伴うことです。しかしあまりにも冷た過ぎます。あなたには慈悲の心が足りません。それでは悪魔達と同じです。回心の心、慈悲と信仰心こそが救いの道です」
「俺に聖人の殺し屋になれと?」
「そう努めてもらいたいのです」
「悪いがそれに応えることはできない」
 ガブリエルは既に知っていたかのように、あまり落胆することもなく首を軽く振った。
「そうですか。今はそこまで余裕がないかもしれませんね。でも、私が言っていたことを心のどこかに留めてくれていれば嬉しいです」
 微笑むガブリエルを直視できなかった。自分に真っ直ぐ見る資格がないように感じた。
「それで、今日はどうされたんですか?」
 ガブリエルはオリーブを触りながら尋ねる。
「最近、悪魔達の動きが怪しい。そっちは何か動いているのか?」
 俺の問いにガブリエルは手を止め、奇麗な手を顎に置き少し間をとった。
「そういった関係は私の専門外ですから、サリエルに聞いてもらった方がいいんですが、彼は今、エデンに戻っていますからね…そう言えば、ラハブの姿が最近見えないとミカエルが言ってました」
「ラハブ……ラジエルの書か?」
「さぁ。しかしラジエルの書はソロモンが手にしたのを最後に、行方がわかっておりません」
 俺は静かに頷くだけだった。そんな俺にガブリエルは何か言いたげだったが、何も言わずまたオリーブを触り始める。
「また来るよ」
 俺は短く言うと踵を返す。
「いつでもいらっしゃい。いつでも歓迎しますよ」
 背中にガブリエルの声を感じながら俺は去っていく。

ラハブが絡んでくるとなると、悪魔の言った「見つけた」というのはやはりラジエルの書のことか…
もしそれが事実であるのなら面倒なことである。あの書には全てが書かれていると言われる。その気になれば、無理矢理こちらの世界への扉を抉じ開けることもできるだろう。
 そうなったら、地獄がもう一階層増えちまう。

 俺が署の入口を入ろうとした時、俺を呼びとめる声が聞こえた。振り返れば、そこには黒塗りの外車の後部座席に男が座り顔を出していた。高そうなスーツに、首や指には無数の貴金属を付けた嫌味っぽい笑みを浮かべた男だ。
「マモン」
 こいつが今朝、メフィストが言っていたマモンである。
 ゲヘナの守銭奴。貪欲の王だ。
「よう。エンジーちゃん。いやいや、近くを寄ったもんでな。馴染みのおまんに顔でも見せとこうと思ってなぁ」
 気味悪い笑みを見せるマモンに、俺は咥えていた煙草を吐き捨て車に近づいた。
「よぉ~。何しにこっちに来やがったんだ?」
「何々、ゲヘナの空気は不味ぅてなぁ。こっちの方がええねん。何せこっちには銭の臭いがプンプンしおるからのぉ。涎が止まらへん」
「それで目当ての物は手に入れたのか?」
 俺はサングラス越しに目を細めて、マモンに笑みを向ける。一瞬ではあるが、マモンの顔から笑みが消えた。
「ん~ん。もう少し。と言ったところかいなぁ」
「あまり変に動き回らない事だ。間違えてお前を帰しちまうかも」
 俺の言葉にマモンの顔が引き攣っている。恐怖からではなく、怒りからだ。格下とみている人間風情の俺にバカにされ怒っている。それでいい。そうして怒りと共にボロを出せばいいさ。まぁ、そう簡単にはいかない。マモンはすぐに顔を戻して笑みを向ける。
「おぉ怖い怖い。おまんのように優秀な天使のペットに目を付けられたらかなわんからなぁ。それじゃあ、また。踠く者よ」
 そう言って、マモンは車を出させた。
   ★   ☆   ★
 エンジー・オーフィンについて。元相棒ソシオ・ラフィークの発言。
『エンジーはいい奴だ。警官としても優れた奴だった。皆から慕われ、尊敬されていた。俺だってあいつを尊敬してた。みんながあいつの事が好きだ。俺だってそうだ。あんな事件さえなけりゃ、あいつは今だってこの街の悪共を捕まえるために一生懸命走りまわってるだろうよ。
あいつはいつも言ってたよ。「娘が大きくなるまでにこの街を住みやすい街にしたい」ってな。あいつならできるかもしれないと思った。
だがそうはならなかった。俺はあの現場を見たよ。酷いもんだ。殺人現場に慣れた奴らですら、吐いてた奴もいたほどだ。あんなもんを見せられておかしくなるのも仕方ないかもしれねぇ…まぁ、それからあいつはまったく人が変わった。初めの何カ月かは全くの廃人みたく何をしても反応を返してくれなかった。それが過ぎると、急にオカルトな本を読みあさり始めて自分から殺人課から出て行ったのさ。その頃になると、誰もエンジーに話しかけなくなってた。それを許さないオーラってのか? そんなもんがあいつから出てたし、外見も見違えるほどにすさんでたから。
なんだって? あいつが、殺人? サイコ野郎だと? おい! お前、俺をおちょくってんのか? あいつはな、どんな姿だろうと根っから警官だ。この街には勿体ないくらいの奴だ。俺はまだあいつがそうだと信じてる! それに文句があんなら…いい度胸だ。相手してやろう。いいか、よく聞けよ。この世間知らずの腐れエリートさんよ。今後もう一辺、同じことを俺に言ったら、テメェのドタマかち割ってやるから、覚えとけ!』

私は思い出しながら読み返している。
これではどちらが悪人かわからない。どうも嫌われてしまったようだ。しかし、彼の話を聞いた分では、エンジーがナイト・ウォカーなどと呼ばれるサイコ殺人鬼である可能性が高くなってきた。彼があのような状態になったのと、このナイトウォーカーが現れた時期はほぼ同時期だ。あとは物的証拠さえあれば検挙できる。
今朝見つかった物は全て回収し、鑑識に任せた。あとは待つだけである。少しでも彼につながるような物が出てこれば家宅捜査を申請するつもりだ。
妥協はしない。それが私の信念である。たとえ身内であったとしても。それが道を外れた行為であるのなら裁かれるべきである。
ここへ飛ばされた原因が上司の不正を告発したことにあっても、私は自分の信念を曲げるつもりはない。
私が廊下を歩いていると、ちょうど私の前をエンジー・オーフィンが横切る。酒臭い。
私が呼び止めると彼は振り返る。手にはウォッカのボトルが握られていた。
「あ、あなたは勤務中に酒を…?」
「なんだよ? 悪いのか? あそこに仕事があると思うか?」
 何の悪びれる感じも見せず、彼は私の前でボトルに口を付け中身を少し蒸せながら飲み下し、口元を乱暴に拭う。
 こんな男が警察にいていいはずがない。彼の相棒であるソシオには悪いが彼はもうすでに廃人同然。この街を巣食う蛆虫共と変わらない。昔の彼はもう死んでいるのだ。
「君の資料を見せてもらったよ。素晴らしい実績だ」
 私がその話題に触れると彼は目を伏せ、立ち去ろうとした。私は彼の肩を掴み抑える。
「だが今の君はまったくの廃人だ。街のジャンキーと同じだ。今の姿を奥さんと娘さんが見たら…っ!」
 気付いた時、私は廊下に押し付けられていた。彼が左手で私の胸倉を掴み持ち上げ、押し倒したのだ。ざわつく周囲には目もくれず、彼は私に顔を近づけ睨みつける。酒臭い息がかかっていたが、そんなことを感じる暇がなかった。言葉が悪いかもしれないが、股間が縮みあがっていた。人間の目という物はこんなにも、恐ろしい物かと初めて思ったほどだ。
「今後、俺の前で妻と娘の話を持ち出すのなら、お前の喉笛引き千切って、お前の口に突っ込んでやる。覚えとけよ」
 首を縦に振るしかできなかった。そこにローレンス所長の声が飛んでくる。私は助かった。
 彼はしばらく私を見ていたが、まるで飽きてしまった玩具を捨てるかのように、視線を外し歩き去っていった。
「大丈夫かい? レイシア君」
 ローレンス所長が私に手を貸して起こしてくれたが、まだ膝が笑っている。
「エンジーとはあまり関わるな。わかったね。彼は危険だ」
「はい。でももうすぐ辛抱ですよ」
 私の中の予想は確信へと変わりつつあった。エンジー・オーフィン。彼が昨晩の殺戮の首謀者である。と。
★   ☆   ★
 俺がアパートの階段を上がっていると住人は急いで自分の部屋へと帰っていく。俺は気にすることなく自分の部屋へと向かうと、そこに人影がしゃがんでいた。
「お前は…何の用だ?」
 それはあのガキだ。確か名前はソフィア。
「あんたに頼みがあるんだ…」
 目を伏せたままソフィアが言う。小さい声だ。
「失せろ。目障りだ」
 俺はソフィアを部屋の前から突き飛ばし鍵を開ける。
「頼むよ。あんたぐらいにしか頼れないんだ」
「俺には関係ない」
 そのまま俺は部屋に入り、鍵を閉めた。外から声が聞こえる。
「お願いだ! 開けてくれよ。僕…知り合いなんていないし…もう、どうしたらいいかわからなくて。あんた、悪魔を殺せるんだろ? 頼むよ! 助けてくれ。悪魔が…」
 俺は鍵を開け、ソフィアの胸倉を掴むとそのまま部屋の中に引きずり込んだ。
「いいか? このクソガキ! 変なことベラベラ大声でほざいてんな。じゃねぇと、窓から突き落とすぞ」
「おねがい…だよ。たすけて…」
 俺の脅しに口調を弱弱しくしながらソフィアは俺に言った。
「悪魔を見たんだ…」
 俺が手を離すとソフィアは床に崩れ落ちる。
「家に帰ったら…母さんが死んでた。殺されてた」
 この街じゃ別に驚くようなことじゃない。
「そうか残念だったな。なら警察に行け」
「犯人は悪魔だ」
「そうか、俺から言わせれば人間ってのは皆悪魔さ」
「違う。本当に悪魔なんだ。部屋から出てくるのを見た…僕の母さんは最近様子が変だった。悪魔が来るとか言って怯えてたんだ。これも母さんがくれたんだ」
 そう言ってソフィアは俺にネックレスを見せた。それはソロモンのペンタグラムの印のネックレスだ。気休めではなく本当に下級悪魔ぐらいなら追い払えるだけの力がある代物であった。
 少し興味が湧いた。
「お前の母親ってのは何者だ?」
「魔女だ」
 魔女とは悪魔と契約した女の事を指す。
「魔女? 魔女が悪魔になぜ、殺された?」
「生贄だ。儀式に使うとか」
「悪魔が儀式?」
「わかんないよ。でも本がどうとかいってた」
「本? どんな悪魔だった?」
 俺はソフィアの袖を掴み揺らしながら尋ねる。
「変な臭いがした。香水かな? あと、全部の指に指輪をしてた」
「……マモンだ」
 あの野郎、やっぱり何か企んでやがった。
「おい、本ってのは? ラジエルの書か?」
 より強く揺さぶる俺にソフィアは首を横に振る。それは否定ではなく、わからない。という意味だろう。
「思い出せ! 思い出すん…」
「わからないよっ! もう、何もわからない」
 ソフィアが声を荒げて泣き叫んだ。
 俺は…最低だな……

 しばらくはソフィアはずっとソファの上で啜り泣いていたが、今はもう落ち着いていた。
 俺は寝室で銃の手入れをしている。ソフィアの母親が死んだ場所に行くつもりだ。ショットガンに弾を詰める。
 俺が居間に戻ると今朝と同じソフィアがいた。すでに落ち着いている。勝手に棚から 本を読んでいる。グーテンベルク聖書だ。
「おい、勝手に見るな」
「読んでるんだ」
 俺が取り上げようとするとソフィアが反抗する。
「お前が読めるわけないだろ。ラテン語だぞ」
「ラテン語なのか?」
「そうだ。返せ」
「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも、生きる。生きていて信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか」
 俺は耳を疑った。
「読めるのか?」
「読んでいると言ったろ。あんたは人の話を聞かないな」
「だがラテン語であることすら知らなかったろ」
「昔から文字であればどんな物でも読めた。母さんが魔女だからか、それとも僕がおかしいのかは知らない」
 そう言うと、俺の持つグーテンベルク聖書をソフィアは奪い取ると、ページを開き読み始める。
「本でしか…僕は知識を得られなかったから」
 ソフィアは俺の顔を見上げることもなく言う。その時、俺の携帯が鳴った。
「なんだ?」
『なんだじゃねぇ! エンジー。お前、一体何をしたんだ?』
ソシオからの電話であった。こいつとは昔、ペアを組んでいたことがある。親友だった。だが、それもあの事件がおこるまでの話。今ではほとんど疎遠になっていた。
「いきなりなんだ?」
『答えてくれ。俺にはもうわからん。お前は、お前がナイト・ウォーカーなのか?』
 ナイト・ウォーカー。聞いた事はあるが、それが一体なんだと言うんだ? 
「意味がわからんな。用件がそれだけなら切るぞ」
『エンジー。新しく来たレイシアって男、お前がナイト・ウォーカーだって見てる。俺もいろいろ聞かれた。よくわからんが、気をつけろ』
 久しぶりに人間に心配された気がする。俺は素っ気なく「ああ」と一言呟くと電話を切った。
「おい、ソフィア。いつまで読んでる。さっさと行くぞ」
 俺はしばらく立ちつくしてから、ソフィアから本を奪い立たせる。
 玄関に行った所で立ち止まる。おかしな気配を感じた。悪魔ではない。人間の気配。殺気に満ちた複数の気配を俺の目に見えない触手達が捉える。
「下がれ!」
 俺がソフィアの腕を掴み叫ぶのと、玄関が打ち破られるのはほぼ同時であった。俺はショットガンを構えたが引き金を引くことはない。なぜなら、入ってきたのは警官の機動部隊だからだ。
 意味もわからぬまま俺は本能のままに危険を察知し部屋の奥へ逃げる。俺の背中に怒声が聞こえてくるが足を止めることはない。誤ってここに突入したわけではない。確実に俺に用があるようだ。
 俺はソフィアを抱き上げそのまま窓を打ち破り落ちた。
 七階の部屋から落ち、下に止めてあったセダンの屋根をスクラップにした。俺の上でソフィアが茫然としている。
「…おい……どけ、重たい」
 かすれた声の俺にソフィアが降りる。俺も起き上がる。背骨とあばらが音を立てて治っていく。
 腰を押さえる俺とソフィアはそのまま夜の街に走り消えた。
★   ☆   ★
 今朝見つけた小瓶、中身までは不明であったが、そこにエンジー・オーフィンの指紋が付いていたそうだ。これで決定的だ。私は所長に掛け合い、逮捕状を取った。昨日の惨劇の犯人ということで機動部隊も連れてきた。準備は万全。だったはずなのに…
「逃げられた? 一体何をしている?」
 私は驚きを通り越し呆れてしまった。一人の男を捕まえることもできないとは。
 エンジー・オーフィンの部屋は何と言うか異様の一言に尽きる。ここまでオカルトな本から、ちゃんとした宗教書まで揃っている部屋もないかもしれない。ソシオ・ラフィークの証言で聞いてはいたが、ここまで専門的にはまり込んでいるとは。病気だ。
「いやはや、まさか彼を逮捕する日が来てしまうとはね」
 私の後ろで所長のローレンスは呟くが、あまりショックを受けているようには見えなかった。
「まぁ、いい。この部屋を徹底的に捜すんだ。何か事件と結び付きそうな物は全て」
 私も捜索に参加したが、出てくる出てくる。オカルトチックなグッズから銃器類が大量に。そして極め付けがタンスから出てきた。
「小瓶だ」
 今朝見つけた瓶。そして中には蛍光色の青の半固体の物質が入っている。それが計七つ見つかった。
私は一瓶手にとって見る。気味の悪い物だ。
「それは何だね」
 ローレンスが尋ねてくるが、私にも見当がつかない。
「わかりません。ただ、これで彼を捕まえられます。例え、殺人では無理でも、薬物の違法所持で逮捕し拘留中に証拠を捜せば何か出るでしょう」
 私の意見にローレンスも納得したようだ。
鑑識の者達が小瓶を回収していく。私の手の中の一つを残して、私は仕方なく、丁寧にハンカチに巻き上着のポケットに入れた。
しかし、エンジー・オーフィンはこの部屋から飛び降りた? 可能なのだろうか? まぁ、いいさ。捕まえればわかる。
★   ☆   ★
 なんて災難だ。俺が警察に追われる羽目になるとは。しかし、このままソフィアを連れて動くにはリスクが大きくなった。さすがに警察を殺すのと、街のチンピラを殺すのではわけが違うのだ。そう考えると命というのはどこまでも不平等である。
 いやいやそんな事を言っている場合ではない。とりあえず俺はソフィアを安全な場所に置いておくことにした。足手まといがいて捕まるのは御免だ。
 俺はドアの強引に叩くと中からチェーンをはずす音が聞こえる。俺は相手が開ける前に、俺がノブを回し中に入った。
「エンジー? 大丈夫か?」
 今こうした状況に陥って改めて思ったが、俺が今でも人間で頼れることができるのはソシオだけであった。ガブリエルの所も考えはしたが、さすがに魔女の子供を連れていくわけにはいかなかっただろう。
「しばらくこの子を匿ってくれ」
「誰だ?」
「ソフィアだ」
 ソシオの視線にソフィアがそっけなく答えた。
「匿えって、いやいや、んなことよりもお前だ。何があった? 何をしたんだ?」
俺にソシオは疑り深く尋ねるが、俺はただ「別に何も」と答えるだけだ。まだ、何もしてない。
「聞いたぞ。お前は殺人鬼ってことになってる」
「馬鹿げた話だな。それで、あいつら血相変えて俺を捕まえに? 証拠はあるのかい?」
「お前…何か変な薬してるだろ?」
 少し驚いたが表には出さない。確かに飲んではいる。吐き気がするような物だが、俺には必需品。正確には薬ではないが、間違ってもない。あれは肉体と魂を繋ぐ物だ。
「それが?」
「昨日電車で殺しがあった。その現場に落ちてたそうだ」
「ふ~ん。で?」
「その容器からお前の指紋が出てきたそうだ」
 睨むように俺を見るが、俺は逆に冷静になった。まずおかしいのは俺はあそこで飲んでもいない。そして容器から指紋が出るわけがないのだ。俺はこの世の存在ではなく、一歩一線を逸脱した存在である。さらに“天使の柩”を得たことで指紋や流れ出た血液はすぐに消えてなくなるのだ。知らなかったがそうらしい。だから、現場から俺の血や指紋が出ることはありえない。
 どうやら俺を捕まえたい奴がいるらしい。
「まぁ、いいや。頼んだぞ」
 俺が背を向けると、鳥肌が立つ。
「待て、行くな。行かせない」
 ソシオが俺に銃を向けていた。
「お前をここから出すことはできない」
「おい、銃を下ろせ」
「ダメだ。動くな」
 俺は構わず歩きだそうとする。
「動くんじゃない。撃つぞ!」
「撃てるのか?」
 俺らの様子をソフィアはソファに座り見ているが興味がない。
「頼む。撃たせるな。お前はこの街で今、一番の指名手配犯だ。警官達が今、お前を躍起になって捜してる」
「やることがある」
「諦めろ! ここを出ちゃダメだ。外堀が冷めるまでここにいるんだ。俺がなんとかしてやる。だから大人しくしてろ」
「お前じゃ無理だ」
「例えそうでも。お前を動けなくしてでもだ」
「本気か? なら撃てよ。撃ってこい」
 俺は一歩前に踏み出すとソシオが一歩下がった。
「動くな。俺に引き金を引かせるな!」
 そう言ったソシオの手が少しぶれた。俺は間合いを詰めて銃身を掴むと捻り、空いてる手で殴りつける。転がるソシオのベルトから弾倉を剥ぎ取ると、空の弾倉とリロードする。
「悪いな。図々しいのはわかってるが、今は時間をかけてるのが勿体ない。その子を頼んだぞ」
 口元を押さえる手から血が滴るソシオに背を向けて俺は出て行く。
「お前、いい奴だな」
 背後でソフィアがソシオに言っているのが聞こえる。
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