医療の特殊性

  • 医療行為は、手術はそれ自体、身体に侵襲を与えるものであるし、薬も毒物です。また、もともと放置すれば、傷害が増悪したり、死亡する人が対象なのですから、不作為も死傷を招きます。すなわち、過失が無くとも、死傷する場合が多いことが、他の専門家の行為と決定的に異なるところです。
  • 問題になる医療ミスにはケアレスミスも多いと思いますが。今までのやり方が
    100問の計算問題を30分でやらせたら、あまりにひどい初歩的ミスが目に付く。
    というものだとして、
    「公平な採点方法でミスの一つ一つを批判検討する」
    ということは無論大事だと思いますが解答時間を倍にすればミスが減るのは自明の理であり「逃散」する医療者が目指しているのはこちらの方法だと思います。解答時間を延長せず計算ミスも未計算問題も許さないなら試験そのものを受けないという選択肢が前面に出ます。
  • 医療の現場では「これから起きていないこと」を予想しながら、常に少し間違った予想を立てながら軌道修正しながら診断していくのが仕事です。
    体の大勢に影響しないと思われる事項は後回しになり、優先順位をつけながらその患者さんにとって一番必要な検査・治療を、prospectiveに予想しつつ問題を解決していくのです。医者の世界では、結果論で他人の医療行為を断罪することは、臨床現場の思考回路と逆行した考え方であるということはお解かりいただけるでしょうか。
    そういう意味で、既に起こったことをretrospectiveに検証していく考え方で行う司法判断が、prospectiveに手探りで診療して予想を当てつつ行う医療現場と考え方の相違が微妙なところでおきるのは当然だ、ということは想像して解っていただけるのではないでしょうか。ただ、微妙なところでも違ってもらっては困るのです。責任ある判断をもっともっと厳密に検討してほしいのです。
  • 「医療行為はプロスペクティブなものであるのに対し、鑑定(裁判)はレトロスペクティブなもので、その違いが充分理解されていない」との御意見がありましたが、医療訴訟における鑑定の現状を見る限り、そのような指摘はあたらないものと考えています。鑑定事項を設定する際、裁判所は「治療当時の情報に基づいて、その時点でなしうる措置、ありうべき判断がどのようなものであったかを検討されたい」ということを神経質なほど強調しており、後から判明した事情を(後出しジャンケン的に)つかまえて結論を導くことは、一般的には考えにくいと思います。
  • 職人芸というのは言い得て妙で、特に手術や手技においては名人芸を発揮する術者というのは周囲の尊敬を得やすいものです。ただ言ってみればこれは「他の誰にも出来ないが俺には出来る」という方向性なんですね。一方で近年医療の標準化ということでガイドラインに則った医療をやっていこうという流れもある。個人的な経験や勘よりもエヴィデンスに基づいた、「誰がやっても大きなぶれのない医療」という考え方です。
    妙な失敗を減らすという意味でも標準化の意味は大きいし、保健医療という建て前からも望ましい(誰がやっても同じ治療には同じ支払いですから)。ただ、現実問題として見ましたらば医者なんてものは多かれ少なかれ皆職人気質の人間なので、「俺ならもっとうまくやれる」と思った時についつい余分な一歩を踏み出してしまいがちです。
  • 医学には2つの側面、すなわち医科学(メディカルサイエンス)と、医療(メディカルプラクティス)があると思います。医科学は自然科学の一分野で間違いないのですが、医療は自然科学ではありません。医療の分野では経験と熟練度がものをいうことをよく知っているからこそ、多くの医師は勤務条件がどんなに悪くても、症例が多く指導医も多い病院で働くことを好んできました。そして日本の医療システムはそこにつけこんで医療費を非常に安く抑えていたのです。経験と熟練とは系統的な教育というよりは、見よう見まね、聞きかじり、断片的な情報、トライアンドエラーというものから得られます。インフォーマルな情報が非常に重要です。当然働いている環境によって違った経験が蓄積されていきますから、名医といわれている人もひとりひとりやりかたが異なることでしょう。手作りの工芸品にケチをつけようと思えばいくらでもできます。逆に言えば完成品などないのではないでしょうか。でも時代はたしかに工場生産の規格品を望むようになってきているようです。規格外の商品は排除されることになりました。こうなると経験と熟練に頼ることはできません。したがって卒業後の医師の教育研修システムが重要になります。
  •  法律家、法学はレトロスペクティブにしか物を見ない、というのは誤解ですね。過去のある時点での情報、知見をもとに考えた場合、その時点で将来の展開、事情の推移を予見できたか、という問題を考えることは、法律家にとって別に不慣れなことではなく、むしろ馴染みのある思考過程です。
    たとえば大規模な災害が起こった場合に国や地方公共団体の責任を問うような類型の訴訟では、大抵その点が問題になります。「災害発生前の天候、現場の地形、当時の土木工学の水準、行政機関が収集していた情報等を総合すると、国は土砂崩れが起こることを予見し得たのではないか?」というようなことです。
    この場合、裁判所は「とにかく結果として赫々然々の経緯で土砂崩れが起きたのだから、国は災害を予見できたし予見すべきだった。だから責任あり」などと単純に断定するわけではありません。災害発生当時(直前)のあらゆる要素を総合して、「当時、その立場では災害を予見できたのか、予見できなくともやむをえなかったのか」を判断するわけです。
    というわけで、この意味で「医療が特殊である」という主張には、ちょっと賛同しかねるというのが率直なところです。プロスペクティブな視点で行われる業務も、その業務を裁判の対象とすることも、特に珍しいことではありません。
最終更新:2008年07月19日 14:08