医療の実践の無い裁判官が最終的な結論を下すこと

事故や過誤はまったく存在しなかったと考えられる事例の約半数で賠償金が支払われている一方で,過誤が明白と思われる事例の約半数でまったく賠償金が支払われていなかったのである。それだけではなく,賠償金額の多寡は医療過誤の有無などとは相関せず,患者の障害の重篤度だけに相関したのだった。
  • 日本でもアメリカでも、裁判を起こすか否かは起こす人の意思次第ですが、日本とアメリカの民事裁判制度は大きく異なっており、引用されている部分との関連では、アメリカでは民事裁判でも一般市民が裁く陪審制度が取り入れられていることが大きいと思います。陪審制度のもとでは、下手をすると理屈の世界ではなくなってしまいます。
  • 自動車が日本で走り始めた当初から交通事故は起こっていました。そして人身事故は業務上過失致死傷罪として処理されていました。誰が処理していたかというと、運転免許を持たず、したがって車の運転をしたこともとない、場合によっては車に乗ったこともない検察官が起訴し、これも車を運転したこともない裁判官が判決していたのです。その結果、運転者(加害者)はほとんど結果責任的に有罪になっていたと、ベテラン副検事に聞いたことがあります。
    そして、「一億総前科者」という言葉も聞かれるようになりました。
    しかし、車の一般化に伴い、法曹や学者も車の運転を経験するようになって、運転者の刑事責任を限定する方向で理論的な検討や交通業過の処理基準の見直しが図られ、現在に至っています。その背景には自賠責保険制度とともに任意保険の普及などにより、民事賠償システムが確立したこともあると思います。
    つまり社会全体の対応システムの整備とともに検察も数をこなすことによって交通業過の処理システムを成熟させていったものといえます。
    医療過誤業過では、どなたかも指摘されていましたが、過渡期であり、まだまだ検察も試行錯誤状態なのかもしれません
  • 我が国では医事鑑定を行う鑑定医が各医学会の推薦を受けて選任されていること、一般的に医事鑑定の結果に真っ向から対立するような判決を我が国の裁判官が書くことがないといった事情を踏まえれば、アメリカにおける研究に依拠して、アメリカでみられるような医師による過失判断と司法による過失判断の著しい乖離が我が国においても同様に生じていると結論付けるのは、やや短絡に過ぎるように思われます。
  • アメリカの多くの州では民事裁判でも陪審制が採用されており、日本の裁判との大きな違いは、「理由を示さなくともよい」という点です。よって、アメリカでは、「医学的なことはよく分からんけど、何となく医師が悪いと思うから賠償責任肯定」という裁判がなされる可能性がありますし、現に結構あると認識しています。また、いわゆる懲罰的損害賠償を採用する州が多いことも特徴で、これらの事情が、アメリカの医療を過度に防衛的なものにしている部分があります。
  • ちなみに、弁護士や裁判官による医学や臨床実務についての勉強、研修、研鑽は行われています。検察官については知りませんが、当然行っているものと思います。弁護士による医師を招いての勉強会、病院の見学会は度々行われていますし、私が知る限りでは、東大、順天堂大、慶応大、東京医科歯科大の各大学病院が比較的長期間(と言っても2週間程度のようですが)にわたって裁判官の研修を受け入れています。市中の病院にも一部、同様の研修、見学に応じているところがあります。
    というわけで、それが充分かどうかは別として、法律家による臨床現場の見学も行われていますので、その点については御承知おき下さい。ちなみに、少数ですが医師免許を持つ弁護士・裁判官もいます。
  • 「どうして判断できるのか」という問いに対しては、法律上、紛争に関する判断権限が裁判所に与えられているから、ということになります。そして、その判断が適切妥当なものになるよう、様々な制度が設けられています(鑑定人、参与員、専門委員等の専門家の活用、証人尋問・証拠保全・文書提出命令・調査嘱託・送付嘱託といった証拠収集手段の充実、各種研修の実施等々)。
  • 医療が本来的に高度のリスクを孕んでいるということが裁判官(または厚労省の官僚などの制度設計者)に十分理解されていないところがあるのではなかろうか、という点です。刑法理論的な問題を少しだけ示しますと、従来外科手術は、正当業務行為として傷害罪の違法性を阻却すると考えられてきたと思うのですが、緊急行為的側面をもっと強調されていいのではなかろうか、と思っています。
  • 裁判所は、自らの営みが本質的に「後出しジャンケン」であることをそれなりに自覚し、できるだけ適正な事実認定を行なうよう努力しているのです。
    これについては多少は存じ上げていますが,「後出しジャンケン」は「自覚していても」バイアスを免れない.だからこそ前向き研究・無作為化が必要,というのが数多くの臨床研究の教えるところです.実例は無数に有る.
  • わたしが考える「裁判官が誤る原因」は弁論や証拠が不十分である可能性の他にもあります.
    一つは断片的な知識に基づいて判断する事
    医学,特に臨床医学は知識の体系なので争点がちょっと複雑な,とくに診断や判断の話の場合実は総論を踏まえた上で判断しなければ意味がないのですが非常に各論的な情報のみに基づいて考える.とまでは言わずとも総論軽視です.裁判官は関連文献は感心するくらいよく読んでおられるんですが総論の勉強はさすがにしない
    二つ目は日本語に限定されている事
    英語の文献を日本語にそれも素人に分かる様に翻訳するのは非常に大変なコストを伴います. 英語くらい読める人だったら話が早い.
    三つ目は「情報の偏在」の問題
    医学知識が医者サイドの方に多い,カルテも持っているということを念頭に置いた指揮をしているわけですが,どうもその割り引き方が雑で偏在の補正に重きを置きすぎてアンフェアになってるんじゃないのと判例百選を読んで思う部分もあったデス.
  • 裁判官の判断にはレトロスペクティブな観点に基づく後出しジャンケンもあれば、プロスペクティブな観点に基づく医師の判断に理解を示そうと精一杯の努力をした跡が見られるものもあり、医師の判断にもプロスペクティブな観点から誠実に示した判断もあれば『後医は名医』を地で行くような後出しジャンケンもあるのではないか」ということです。もちろん、訴訟というものは「過去にあった出来事の落とし前をどうつけるか」というものですから、本質的にレトロスペクティブなものです。その世界にどっぷり浸かり込んだ裁判官に「後出しジャンケンの論理」を捨てさせるのは相当困難なことです。
  • 「専門性」が認められる分野の紛争について、その分野の専門家が最終的な判断を下す制度がよいか、素人たる裁判官が専門家の意見(医事紛争についていえば、医師による鑑定等)を参考にしつつ判断を下す制度がよいか、という点は議論のあるところでしょうが、現在の裁判制度では後者が採用されています。この制度が根本的に変革されることは今のところ考えがたい(憲法改正とか、そういうレベルのハナシになります)ので、現在の制度を前提に、素人たる裁判官に適切な判断をなさしめる工夫をしていくしかないであろうと認識しています。そもそも「専門性」の有無ということ自体明確に線引きできるものでもないし、それを言い出したらキリがないとも思うんですね。たとえば、覚せい剤使用の事案では、覚せい剤成分が尿から検出されたという鑑定結果が重要な証拠になりますが、そうすると化学の博士号を持った裁判官が裁かないといけないのか。これ位ならいいとしても、和歌山のカレー事件では、ヒ素の同一性がスプリングエイトという特殊な装置で測定されて証拠になりましたが、これ位の「専門性」があると素人裁判官ではなく専門家が判断すべきなのか。単なる交通事故でも、車のブレーキが故障していたのであり自分の過失ではないという弁解が出てくることがありますが、そのときは自動車工学の専門家が裁判官にならないといけないのか。幼児による証言の信用性が争点となっている事件は、児童心理学の専門家でないと判断できないのか。銀行の経営者による不正融資が問われている事件では、金融や銀行実務の専門家でないと融資の当不当を見極められないのか。長野で起きたロープウェーからの転落事故に関する裁判は、ロープウェーの設計管理に精通した者のみが裁くべきなのか。絵画の真贋が争点となったら、美術評論家や学芸員、キュレーターが裁判官となるべきなのか。拳銃の殺傷能力が争われたら、拳銃の設計に精通した者が・・・・(以下略)。
  • あえて言いますが、医療は例外の最たるものではないでしょうか。専門でないと難しいということに関しては業界によって差が大きいと思います。
  • 事実的な要素に関しては、専門家以上に事実に肉薄できる人はいないのだからそれに従うべき
    範的な要素に関しては、対象となった出来事に近いところの話から、もっと遠いところの話までの整合性、その行為のメリットや現状における問題点等、総合的に判断して妥当な範囲に設定するべき
  • しかし、医療の特質や限界、法的思考との違いを私たちが理解するだけでも被告側医師の対応は変わってくるでしょう。特に問題になるのは、医療は主にプロスペクティブ(プロ)な営みであるのに対し、裁判は主にレトロスペクティブ(レトロ)な営みであることです。レトロの視点からは、のちに判明した事実関係をもプロの責任判断に取り込みがちになること、プロの不確実さや確率判断の難しさへの考慮が欠けること(プロには30%のものが、レトロには70%にもなりうることなど)といった問題があります。「少数派の医療裁判制度改善策(上)」(上田和孝)
  • 裁判官が医学文献を理解できるかというのは医療界からすれば切実な問題かと思います。ただ、医療集中部は裁判官の中でも比較的優秀とされるメンバーが一年中大量に医療事件を扱っており、また、鑑定をしない場合でも専門委員等として裁判所に協力している医師から意見を聞くなどしてカバーしている部分もあるようです。少数ですが、医師の資格を持った裁判官も在籍しているようで、医療界が心配するほど常識外れの判断が出されているとは認識しておりません。
  • トンデモ判決が出たとして、裁判官が悪いとしても、専門知識がないからということではなく、また、トンデモ判決を出された側の訴訟対応の問題の方に思考がいくことになるように思います。
  • 医学的に誤ったトンデモ判決が出る原因として考えられることは、
    1)被告が主張・立証に失敗した → 被告及び被告代理人弁護士が努力すべき
    2)鑑定結果が誤っていた → 鑑定医の選任方法や、鑑定方法を工夫すべき
    3)裁判官の誤解偏見 → 裁判官に研修させるべき
  • トンデモ判決が多いかどうかは微妙な問題です。奈良心タンポナーデ事件や加古川心筋梗塞訴訟のように、誤判であったことが強く疑われる事例があることは間違いありませんし、維持関係訴訟は専門性の強い訴訟であるため、誤判が生じやすいことは間違いありません。一方で、マスコミ報道をもとにした判決批判や、裁判所に提出された証拠関係書類を見ずにされる判決批判が多いのも事実です。また、判例の誤読・誤解に基づく批判も散見される、との指摘もあります。具体的には「過失は一切無いが、賠償しろ」「病気が治るという期待権が侵害された」と言う判決があるように言われますが、そのような判決は存在しませんし、法解釈上もありえません。また、近年の判例で脳性麻痺で病院が敗訴したものは確認されていない、とされる。
  • 一般に医師の過失の有無は、「診療当時の臨床医学の実践における医療水準」に照らして判断される(最高裁判決昭和57年7月20日、最高裁判決昭和61年5月30日など)。つまり、過失の有無は、訴訟が行われている時点ではなく、あくまで当該医療行為が行われた時点での医療の水準に照らして判断されるべきであるし、その水準というのも、「学問としての医学水準」ではなく、「臨床における医療水準」のことである。
最終更新:2008年08月10日 10:54