期待権

大阪地判平成18年07月14日(平成15(ワ)11466)

  • 「F准看護師は,18日午前3時ころの時点で,被告に対し,本件胎児心拍数陣痛図上,胎児ジストレスと思われる所見ないし遷延一過性徐脈と思われる所見が認められる旨の連絡をすべきであったと認められる。ところが,F准看護師は,上記遷延一過性徐脈の所見を正しく認識することができず,同じく18日午前3時ころ,原告Bのコールを受けて訪室し,ネオメトロの自然抜去を認めて分娩が進行しているものと考えて,助産師にはその旨の連絡をしたものの,被告への連絡はこの段階では一切行っていなかったのであって,このF准看護師の対応は,原告Bの分娩監視における注意義務違反に当たると認めるのが相当である。」
    「被告は,E出生時点はおろか,Eの自発呼吸が認められた18日午前5時35分ころの時点でもなお,高次医療機関への救急搬送につき,その依頼すら行わず,同日午前10時過ぎになり,Eの酸素飽和度の再悪化という事態を踏まえて,ようやく高次医療機関への搬送を決断したものであって,このような被告の対応は,上記(1)の義務に著しく違反したものというべきである。」
    以上2点につき過失を認定
  • 「仮にF准看護師が上記義務を尽くしていたとしても,これにより,Eの低酸素性虚血性脳症の発生が防止され,又はその程度が軽減されたことを高度の蓋然性をもって認定することまではできないといわざるを得ない。」
    「被告には,E出生後,直ちに,Eに対する蘇生措置を行うのと並行して,本件システムを利用するなどしてEを高次医療機関に搬送するよう手配すべき義務を怠った過失もあるところである。しかし,本件鑑定によれば,仮にこの義務違反がなかったとしても,Eの低酸素性虚血性脳症が防止されたことも,その程度が軽減されたこともなかったと認めざるを得ず,上記義務違反とEの死亡との相当因果関係を認めることはできない。」
    として因果関係を否定
  • しかし「仮にF准看護師の過失がなければ,Eの低酸素性虚血性脳症の程度が軽減されていた可能性は相当程度存在したと認められるのみならず,そもそも同症の発生自体防止し得た可能性もあったと認めることができる。もとより,これらの可能性の程度を具体的に認定することは困難であるが,上記5(1)の認定判断に照らし,仮にF准看護師の上記過失がなければ,実際の娩出時間である18日午前3時32分よりも10分以上早く児を娩出することができた可能性は非常に高いといえ,本件鑑定において,「数分早く分娩するだけでも胎児への侵襲は大きく異なったと想定され(る)」とされていることをも考慮すれば,少なくともEの低酸素性虚血性脳症の程度を軽減し得た可能性は,高度の蓋然性には達しないものの比較的高い割合で存在したものと推認するのが相当である。したがって,被告は,民法715条に基づき,上記可能性を侵害したことにつき,慰謝料を支払うべき義務を負うものといえる。」

  • 適切な治療を受けるべき期待を損なわれたという点を「損害」と認めるならば、そもそも治療上の注意義務違反そのものを「損害」とするに等しいわけですから、因果関係はほとんど問題となりません。かくして、適切な治療に対する期待の侵害という風に、損害概念をいじることで救済したものということになります。
  • 患者には、「病院を受診すれば医学的に適切な治療をしてくれるという期待」があるところ、「なすべき治療をしなかった」という不作為の過失が、この期待を侵害したものである、だから「期待を裏切られたという精神的苦痛」について賠償しろというのが裁判例の理屈です。決して「死亡についての賠償」を命じたわけではありませんし、その額も、死亡慰謝料と比較して極めて低額に留まっています。
  • 医療訴訟における「期待権」理論とは、
    ・過失は立証できた
    ・因果関係の立証はできなかった
    ・もし妥当な治療を施していれば、救命or重篤な後遺症が生じなかった可能性が相当程度あることは立証できた
    という場合に、見舞金程度(200~300万円が多い)支払えという理論です。
    医療関係で因果関係の立証が困難であることの、救済を図ったものと解されています。医療に過失がある(不適切な医療であった)ことは必要。実際には、そうそう認められるものではないと考えます。
  • 期待権論で賠償される損害の内容は精神的苦痛であり、慰謝料の一種とされています。原則として、過失あっても因果関係がなければ、損害賠償責任は負わない。だから、生きていたら稼いだはずの収入などの逸失利益は賠償されない。しかし、因果関係がイイ線行っているときは、「過失のない医療を受ける期待」を保護し、慰謝料ちょこっと払おう。
    医療以外の他の訴訟で同様の考え方がありうるかという点では、一般的に因果関係の立証が難しい訴訟類型、例えば公害被害などについて、立証責任を緩和することができないかという議論がなされています。原告と被告の衡平性・バランスがあるので、どういう手法で立証緩和すべきか諸説あります。公害の場合は、「疫学的因果関係論」とか。
  • 「過失がなければ助かった相当程度の可能性」すらも立証できなかった場合は、賠償額はゼロとされています(最高裁平成17年12月08日判決 平成17(受)715

最判平成12年09月22日(平成9(オ)42)

  • 疾病のため死亡した患者の診療に当たった医師の医療行為が、その過失により、当時の医療水準にかなったものでなかった場合において、右医療行為と患者の死亡との間の因果関係の存在は証明されないけれども、医療水準にかなった医療が行われていたならば患者がその死亡の時点においてなお生存していた相当程度の可能性の存在が証明されるときは、医師は、患者に対し、不法行為による損害を賠償する責任を負うものと解するのが相当である。
  • 期待権侵害については、まず(そもそも期待権という単語自体誤解を招く不相当な表現だと思いますが)、単純に「期待通りでなかったから損害賠償」というものではありません。私も期待権侵害論については色々思うところがあり、単純に賛同するものではないのですが、このような考え方が登場した背景には、「どのみち救命できない可能性があったからといって、どれだけいい加減な医療行為をしても一切責任を負わないということでよいのか?」「重大な医療過誤があり、それにより死期が早まったのに、死亡との因果関係さえ不明であれば結果として全く責任を問われないというのは妥当か?」との問題意識があると思われます。この問題意識自体は、特に不当とまでは言えないだろうと思っています。
最終更新:2008年07月21日 12:05