医療水準


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  • 最判平成7年06月09日
    「新規の治療法に関する知見が当該医療機関と類似の特性を備えた医療機関に相当程度普及しており、当該医療機関において右知見を有することを期待することが相当と認められる場合には、特段の事情が存しない限り、右知見は右医療機関にとっての医療水準であるというべきである。」

  • 画期的と言われる説や技術は、たとえ当初は賞賛されたとしても、試行錯誤を経てデータが揃ってくる頃にはほとんどが実用に堪えられなくなる事の方が多いのです(例;1969年4月4日からクーリーが始めた人工心臓置換手術とその治験)。最高裁のいうところの「医療水準」で医療を行なう事は、確立していない技術を安全性が証明される前に一般の医療現場で行なえとなります。

No.139 しまさん
  • 厚生省の研究成果発表前に、このような体制をととのえた以上、一般病院とは言い切れないと思います。つまり、最高裁は、レベルの高い医療機関には、レベルの高い医療水準を要求していると思います。
    しかし、体制を整えたと言っても、実態は
    >c医師は、本症と酸素との関連、治療法として光凝固法があることを知っていたが、本症の臨床経過等の認識はなく、d医師は、未熟児の眼底検査及び本症の診断についてあまり経験がなく、特別の修練も受けていなかった。
    ようですし、光凝固法に対する対策を立てたと言っても形だけのものだったようにも思います。標準以上の医療水準を求めるのも気の毒な気がします。

No.141 FFFさん
  • 医師の責任を認めた判例の射程は、概ね、医師の皆さんが思っておられるよりずっと短いものです。大雑把に言うと、判例の理屈は、「〇〇、△△、◇◇・・・・という本件の事情を前提にすると、●●と考えるのが相当である」という流れになることが多く、一般論のように見える●●という結論部分も、実はかなり厳しい条件が満たされていることを前提にしているのです。しかし、報道ではこの前提条件をすっ飛ばして紹介されることがあまりに多く(まどろっこしいからでしょうね)、結果として、医師の方に「裁判所はどんな場合でも●●という結論をとる、それじゃやってられん」という誤解を招いているというのが実態ではないでしょうか。


  • この判決は未熟児網膜症について安易な昭和50年線引きを戒めるとともに、医療水準判断は個々の医療機関ごとに考えるのではなく、医療機関の性質、地域性も考慮して類似医療機関が知見を持ち、その医療機関もそのような知見を持つことが期待されるような場合にはその知見は医療水準に達していると考えてもよい、と医療水準判断の基準を示した点が注目される。http://homepage1.nifty.com/uesugisei/iryoukago.htm

  • 上記のように、アメリカでは医師免許更新制度があり、地方に住む医師も研修が行われている、というが、これは医師は中央で働こうが、地方で働こうが、年齢を問わず、なべて、自分の医療知識が同時代的医療水準にあるように研鑚すべきである、という努力義務が課せられていることを意味する。 免許更新制度を持たない日本でも、医師はこのような研鑚、努力義務を負うものと考える。そうでないと、誰でもが中央の大病院での治療を受けえない、という実状下では、国民は不平等な治療を甘受しなければならないことになるからである。従ってこの研鑚、努力義務を怠れば、そのこと自体、過失があるといわれる可能性がある。 http://homepage1.nifty.com/uesugisei/iryoukago.htm

  • 最判平成8年01月23日
  • 「人の生命及び健康を管理すべき業務(医業)に従事する者は、その業務の性質に照らし、危険防止のために実験上必要とされる最善の注意義務を要求されるのであるが(最高裁昭和三一年(オ)第一〇六五号同三六年二月一六日第一小法廷判決・民集一五巻二号二四四頁参照)、具体的な個々の案件において、債務不履行又は不法行為をもって問われる医師の注意義務の基準となるべきものは、一般的には診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準である(最高裁昭和五四年(オ)第一三八六号同五七年三月三〇日第三小法廷判決・裁判集民事一三五号五六三頁、最高裁昭和五七年(オ)第一一二七号同六三年一月一九日第三小法廷判決・裁判集民事一五三号一七頁参照)。そして、この臨床医学の実践における医療水準は、全国一律に絶対的な基準として考えるべきものではなく、診療に当たった当該医師の専門分野、所属する診療機関の性格、その所在する地域の医療環境の特性等の諸般の事情を考慮して決せられるべきものであるが(最高裁平成四年(オ)第二〇〇号同七年六月九日第二小法廷判決・民集四九巻六号一四九九頁参照)、医療水準は、医師の注意義務の基準(規範)となるものであるから、平均的医師が現に行っている医療慣行とは必ずしも一致するものではなく、医師が医療慣行に従った医療行為を行ったからといって、医療水準に従った注意義務を尽くしたと直ちにいうことはできない。」

  • 私はこの判決を読んで納得した一人です。確かに当時の医学的慣行では麻酔時の血圧測定は5分ごとです。ですが、脳虚血は5分持続した場合に不可逆的な変性を来しうるものです。となれば、医学的慣行の方が間違っており、血圧測定を(状況に応じて)頻回にすることの方が正しいのではないでしょうか?争点は先生自身がおっしゃってますが、何分ごと・・・ではなく、状況に応じて行うべきということであり、その意味でこの判決は私にとっては納得のいくものです。実際私は、腰椎麻酔に置いては投与直後は1分ごと、さらに通常2.5分ごとに血圧測定をしています。麻酔の怖さを知っているからと自分では思っています。

No.10 しまさん
  • 全体としてバイタルサインがどうなっているのかをつぶさに観察していることが大切なのであって,血圧を2分おきに測ろうが5分おきに測ろうがそれが争点になるというのはナンセンスです.患者さんの様子をきっちり把握できていたかどうかが争点となるべきです.

  • 日本の救急医療には非常に問題があります。一番の問題はクオリファイされた救急医の絶対数が全く不足していることです。これまで歴史的に救急医療の重要性が評価されてこなかったことに原因があると思います。たとえば(1)独立した救急医学講座をもつ医学部/医科大学がほとんどなかったこと、(2)救急医療に従事する医師のキャリアが正当に評価されてこなかったこと、(3)救急医学自体の専門性が医学会全体で評価されてこなかったこと、(3)救急医療の激務に対してそれに見合った報酬が公的保険から支払われてこなかったこと、などがあげられます。したがって日本の多くの二次救急医療機関では救急医療の経験が豊富な、つまり裁判所が期待しているような救急医は非常に少ないと思います。日本救急医学会が認定した救急専門医は約2400人ですが、普段は外科医や内科医として働いている人がかなり多く、二次医療機関で本来の救急医療に専従で携わっている人はほとんどいないと思います。

  • 参照 http://www.m-l.or.jp/research/media040501.htm
  • 最高裁における法技術の出発点は、まず、明示的な診療契約書が存在していないことに求められる。手術同意書、説明・同意書の類いは、ここでいう診療契約書には当たらない。これらはインフォームド・コンセントに当たるに過ぎず、専断的医療行為として違法とされるのを防止する法的効果を有するに過ぎないからである。診療契約書とは、医療水準も含めて諸々の患者の権利・義務と医師の権利・義務を網羅した契約文書を指す。現代契約社会においては、医療以外の種々の分野では、甚だ煩雑ではあるが、契約書は当然のように交わされている。医療界においては、医療行為の性質や保険診療との関連など諸々の要因から、結果として、診療契約書が無いままに医療行為を行うことが大半である。診療契約書はおろか、診療に関する約款を備え置いて有効活用している医師・医療機関も稀であろう。明示的な契約書か約款が存在していれば、裁判所(特に最高裁判所)はそれが合理的なものであれば原則としてその契約文言・約款文言に拘束されざるを得ない。しかしながら、診療契約が黙示的なものに留まるとしたら、裁判所としてはそこに「法解釈」を行う余地を見い出し、「法解釈」を行って医師・医療機関の過失を認定してしまうのである。・・・高度情報化社会になりつつある現在、患者も以前とは異なり豊富な医療情報を得るようになった。それと共に、患者の医療に対する期待も高まっている。たとえば、最新のできる限り高度な治療法を施してもらいたいという期待が強くなっている。黙示的な契約を「法解釈」する際に、契約の一方当事者の意思を組み込むのは自然であろう。そうすると、診療契約の内容は、契約の一方当事者である患者の意思、すなわち、医療に対する強い期待によって左右されることになる。この患者の期待は、医療水準を規定するだけに留まらない。時にはたとえば、未確立の医療水準であっても、少なくとも患者の自己決定のために説明だけはせよというように、医師の説明義務の範囲を規定することさえある。平成13年11月27日判決(乳房温存療法説明義務事件)がその例である

  • 訴訟において、鑑定医個人が「現代の医療水準」を鑑定すると言うことは、そもそも「現代の医療水準」が決まってないことを意味すると思います。決まっていないし、決められるものでもない現代の医療水準を尺度に判決を下すこと自体が問題なわけですが、裁判官の立場としては医療水準というものを尺度とする以外、判決を下せないかと思います。

  • かって梅毒患者が献血した血液を婦人患者に輸血して梅毒に罹患させた有名な東大梅毒事件で1961年(昭和36年)2月16日最高裁第一小法廷判決判例時報251号7頁は「人の生命及び健康を管理する業務に従事する者は、その業務の性質に照らし、危険防止のため必要とされる最善の注意義務を尽くすことを要求される」と判示している。 このように医師の注意義務には厳しい目が向けられるが、それをゆるめる論理の一つが下記の医療水準であり、それを強める論理が医療水準研鑚論理である。http://homepage1.nifty.com/uesugisei/iryoukago.htm

  •  この「医療水準」についての判断はそれが医学研究、医学教育の場面では医学上の判断、すなわち医学判断であるが、医師の過失、債務不履行等の法的判断に場面では、過失判断と同じく、法的判断の一つである。この法的判断は誰でもが可能であるが、訴訟においては裁判所(裁判官)が最終判断者となる。

  • 医療水準とは規範的概念であり、医療技術の進歩と一般化により、時代と共に変わって行くものですから、明確な定義があると考えている訳ではありません。

No.115 うらぶれ内科さん
  • 明確な定義もないものを、どうやって医療者がガイドラインを作れるのでしょか。

No.212 元行政さん
  • この判例は一見もっともなことを言っているようですが、トンデモ判決であるというのが多くの医師の共通する意見です。新規の治療法は必ずしも正しいとは限りません。よいと思って皆が飛びつき流行った治療法も、多くが姿を消したり、単なる数ある治療の内の一つに落ち着いたりします。自分の治療で患者に被害が出るのを怖れて、厚生省が認可した新薬すらかなりの観察期間をおいてからしか使わない医師も多いです(薬害エイズなどを思い出して見てください)。そんな医療の常識に反しているのです。
    光凝固は侵襲性で子供に対して気軽にできるような手技でないこと、その時点で異論も少なくなかったことを考えれば、厚生省の研究班の発表後ですら過失とするのは疑問があるところであるにもかかわらず、その前の評価の定まらない時点でおこなっていなければ過失などというのは、事後的非現実的という評価を免れ得ないと思われます。

No.214 地方の弁護士さん
  • この判決は、新規の治療法の有効性と安全性が是認されており、その知見が相当程度広まっている場合はその新規の治療法を実践することが医療水準となることを前提としています。この部分が一見もっともらしい部分ということで宜しいでしょうか。とすれば、この判例を批判するためには、理論自体が誤っているのか、理論自体は正しいが、理論の事実への当てはめ(適用)が間違っているのかを区別して考える必要があります。
    元行政さんの批判は、理論自体より、未熟児網膜症の新規の治療法については、有効性と安全性が是認されてもいないし、その知見が相当程度広まってもいない場合に、この一般論を適用したことが誤りであると主張しているように受け取れます。とすれば、最高裁の判例を批判したことにはなっていません。最高裁は、高等裁判所が認定した事実(未熟児網膜症の新規の治療法については、有効性と安全性が是認され、その知見が相当程度広まっていること)を前提として、理論を適用したに過ぎないものだからです。
最高裁の判例の意味は、その定立した理論ないし規範的判断こそが、その後の裁判の基準になるという意味において、強い規範性を有するのです。すなわち、批判をするのであれば、このもっともらしい理論自体を批判するのでなければ、批判としての意味が乏しいことを知ってておいて頂きたいと思います。

No.220 地方の弁護士さん
  • 実は有効性と安全性を誰が是認するのかについては争いがあり、「有効性と安全性の是認」は医学的な観点のみから判断するのではなく、患者の信頼、希望ないし意思をも考慮して、法的観点から判断すべきであるとの見解(患者意思考慮説)も表明されているようです(司法研修所論集2003-1、123頁以下参照)。ただ私としては、新規治療法に対する患者の期待が大きいのは当然であって、患者の意思が「有効性と安全性の是認」にかかわるとの見解には違和感があります。ただ、原典の論文に当っていないので、その主張の真意を誤解しているかも知れませんが…。何れにしても、医師が判断することの重みに変わりはないと思いますので、医療界においては学会等が中心になって基準作りをする有用性は高いと思います。

  • 「医療崩壊」P25~

No.243 地方の弁護士さん
  • >『医学雑誌への論文の登載、学会や研究会での発表、一般のマスコミによる報道等』で得られた「知見」が、検証の結果、間違っていた事例は数多くあります。
    最高裁は、新規治療法については「まず、当該疾病の専門的研究者の理論的的考案ないし試行錯誤の中から新規の治療法の仮説ともいうべきものが生まれ、その裏付けの理論的研究や動物実験等を経た上で臨床実験がなされ、他の研究者による追試、比較対照実験等による有効性(治療効果)と安全性(副作用等)の確認などが行われ、この間、その成果が各種の文献に発表され、学会や研究会での議論を経てその有効性と安全性が是認され、教育や研修を通じて、右療法が各種医療機関に知見(情報)として普及して。」とした上、貴殿が援用している知見の普及の経過について言及しています。

No.252 地方の弁護士さん
  • >医療水準を定めるための知見は、医学雑誌への論文の登載、学会や研究会での発表、一般のマス コミによる報道等のよって得られる知見でよい。
    最高裁は、知見の成立(是認)と普及を区別して論じています。オダさんが引用している部分は知見の普及にかかるものであり、特に違和感のある論述とはおもえません。マスコミの報道で知見が是認されることになるわけではないことは言うまてもないでしょう。

No.254 元NICU担当眼科医さん
  • 参考になればと思い未熟児網膜症治療の歴史に関してコメントします。
    未熟児網膜症には昭和40年代初頭、ステロイド、ビタミンEなどの薬物治療が試行されましたが何れも無効。その中で光凝固(昭和42年学会初報告)に有用性があるとして小児眼科を専門とする施設で同治療の試行・追試がされていました。
    昭和49年に岐阜地裁にて高山日赤症例(S44生)に対して適切な時期に対診・転医させなかったとして原告勝訴・病院敗訴の判決が下されました。同年厚生省研究班結成、昭和50月8月雑誌日本の眼科46巻8号(日本眼科医会に入っていたら郵送されてくる雑誌)に厚生省研究班報告が掲載されました。これはそれまでの治療症例をレトロスペクティブに集めてその当時での診療治療指針を示したもので、コントロールスタディ(前向きな比較臨床試験)を試行検討し光凝固の有効性を立証したのもではありません。
    昭和57年に追加報告がされていますが、一部にⅡ型(劇症型)という治療に抵抗する症例の存在の確認、治療に反応するⅠ型も結局は自然治癒する症例に対して光凝固は単に病像を早期に沈静化させるだけではないかとの疑義が一部に出されていました。
    ちなみに昭和40-50年代の本邦での未熟児網膜症に対する光凝固・冷凍凝固治療業績は欧米にも報告されましたがコントロールスタディではないため認められませんでした。米国では1988年(昭和63年)に初めて冷凍凝固治療(光凝固と同様の作用機序をもつ治療法)のコントロールスタディで有為差が出たため、光凝固(冷凍凝固)の有用性が確立されたという経緯があります。

No.255 地方の弁護士さん
  • ご紹介頂いた「医療崩壊」の本を読んで見ました。皆さんが概ね平成7年6月9日最高裁判決に否定的評価をしている理由が分かりました。
    まず、この本の26頁では平成7年判決は「医療水準に対する考え方に変更を加え、医療水準をむしろ積極的に医療機関の責任を基礎付ける方向で用いる考え方を示した。」と位置付けていますが、水準なる概念は、その水準を下回れば責任を基礎付けるし、上回れば責任がないという帰結を含むものであり、正当な評価とは思えません。
    もっとも、No.248 で指摘したように、平成7年判決の言う、知見の「是認」というのは、それまでの判例で使われていた知見が「確立し、定着する」との概念からすると、早い段階で医療水準が成立するニュアンスを含むものであり、その点、過失が認定され易くなったことは否めませんが、新規治療法を患者に広く提供せしめようとする価値判断があったものと推測されます。当時、未熟児網膜症に関し約100件の訴訟が係属したようです。
    次に、「当該基準ないし治療基準が確立された情報に限らず、多少の異論があってもかまわないという。」との記載が、No.249 オダさんの「医療水準を定めるための知見は、新規の治療法の有効性に疑義のある段階の知見でもよい。」との誤解を生んだようですが、
    No.252 で述べたとおり、知見としては有効性安全性等が確認されていることが必要であり、適切な記載とは思えません。
    また、平成7年判決が「知見の普及は、…、その伝達に要する時間は比較的短い。」
    と述べているのを受けて、「この最高裁の判断は医学の進歩の過程を誤解している。」と批判してますが、知見の成立と普及にかかる判示を区別することなく読み取り、批判しているものと言わざるを得ません。
    すなわち、平成7年判決も新規の治療法の知見の成立過程について、No.249 オダさんが援用するような判示をした上、「疾病の重大性の程度、新規の治療法の効果の程度等の要因により、右各段階進行速度には相当程度の差異が生ずることがある」ことを認めています。また、上記判示の内「伝達に要する時間は比較的短い。」との記述は、知見(情報)の普及と実施のための技術の普及を区別し、知見の普及に要する時間は比較的短いが、実施のための技術の普及のためには技術の習得や物的設備を要することから、時間を要し、その間にタイムラグが発生することを判示したものであり、比較的短いとの記載から、最高裁が新規治療法が比較的短い期間で成立すると理解しているとして、批判するのは、誤りと思います。
  • 平成7年判決の言う、知見の「是認」というのは、それまでの判例で使われていた知見が「確立し、定着する」との概念からすると、早い段階で医療水準が成立するニュアンスを含むものであり、その点、過失が認定され易くなったことは否めませんが、新規治療法を患者に広く提供せしめようとする価値判断があったものと推測されます。当時、未熟児網膜症に関し約100件の訴訟が係属したようです。

No.258 地方の弁護士さん
  • 最高裁の判断を批判するとしたら、医療水準を考えるについて、有効性と安全性が確認されたことをもって「是認」せられたと考えるか、確認されその知見が「確立され定着」したことまで要するのかのレベルで検討すべきと考えます。少なくとも「定着」との言葉は、広く技術が習得され、それに対応する物理的施設が整った段階をイメージさせますが、最高裁の判示は、知見の「是認」と「普及」を峻別し、知見が是認せられば足り、普及による確立ないし定着することは不要であるとしたところに核心があります。

No.266 つくねさん
  • 医療の知見というのは発生→確認→確立と一方通行に進行するのではなく、確認され確立したと思ったら確認の信憑性が覆り、確立されたまま再確認する必要が生じたり、再確認したらやっぱり最初の確認が正しいことがわかってそのまま確立したり、最初の確認が誤っていたことがわかって確立が終焉したり、確立が一旦終焉したものの年月が経ってから改めて「あれは良く効く薬だった」と誰かが言い出して再々確認が行なわれて再確立したり、と色々な事がおこる訳です。
    そうした医療行為の本質を前提として考えると、地方の弁護士さんの求める論点である「医療水準を知見の発生→確認→確立のどの段階におくべきか」という議論そのものが医療者側にとって実態のない、雲をつかむような話としてしかとらえられない事も(失礼ながら、少なくとも私はそういう印象を持っています)ご理解頂けるのではないかと思いますが、如何でしょうか。

  • 大原則として、「侵襲性の高い新規治療法」は安全性と有効性が証明されるまでは人体実験です。元行政さんが言われる通り「人体実験の覚悟とそれなりの代価により相互の了承に基いておこなわれる」治療なのです。