更新日:2016/08/01 Mon 19:03:30

人間の犯す誤りと国防論


国防論は、GDWチャットにおいてもしばしば話題になる。
白銀はどうもGDWスタッフでは左巻きになるらしい。



国を守るという使命感に対して、白銀は敬意を覚えるものである。
艦これをやりながら白銀はガチで涙を流したこともある。艦の乗組員や彼女たちは国を守るために命をかけて戦ったのである。
戦争の良しあしがどうであれ、その点に対しては敬意を払う。

しかし、そういった使命感に対する称賛だけで「全て」を肯定するような言動については、百害あって一利なしと考えている。




アニメや映画作品では、狂気的な指導者が覇権的野心をむき出しにして何の罪もない国を攻め滅ぼし併呑してグハハハハみたいなことがよくある。
だが、現実にそれが通用するのはせいぜい中世辺りまでであろう。
現代では、建前としては民主的・立憲的な国家システムが多くの国で採られるようになっている。北朝鮮でさえ「北朝鮮民主主義人民共和国」だ。
国家が大規模化すれば、ワンマン独裁者のやりたい放題では国政は進まず、最低でも部下の官僚にも相当数の支持者が居なければならない。
例え敵国を滅亡させるという大義名分がなくとも、例えば自国に対する経済政策や国内政治への不平をそらすための外征という現象はしばしばみられる。
自分勝手だと言えばそれまでだが、現実に起こることだ。

HELLSINGの少佐のような自らの身も国も滅ぶことをよしとする国家上層部。
あるいは何の根拠もなく自国は勝てると言う妄想に取りつかれた国家上層部。
これは狂気的と評するにふさわしいであろうし、現代においてそんな国家上層部はまずないであろう。北朝鮮ですら、そこまでアホウではない。
日本がアメリカに大平洋戦争を仕掛けたのが無謀だったことは常に指摘されるが、序盤は日本が攻勢に立っていたことを考えれば、根拠なき勝利への妄想だけで仕掛けたとは言えないと考える。


にもかかわらず、狂気的な国家上層部が考えにくくなった現代でも戦争は起こっている。これはなぜなのだろうか。


唯一の答えを出そうとするのは危険だろうとは思う。
だが、一因として白銀から確実に挙げられるものがある。

それは人間が誤りをおかす生き物であると言うことである。
といっても、戦争自体が誤りであると言う立論はここでは取り上げない。
将来を嘱望されるエリートが寸暇を惜しんで可能な限り綿密に学び、学んだエリート多数で綿密に打ち合わせても、結局誤ってしまうことがある。

日本がアメリカに無謀な戦いを挑み、案の定負けてしまったのは、戦争の行く末を読み誤ってしまったからである。
原爆を落とされる、東京大空襲をやられる、沖縄戦が起こる。現代のような国家に生まれ変わる。
一つの可能性として予測した人物くらいはいたかもしれないが、日本の首脳部がここまで「読み切って開戦に踏み切った」とは考えられない。



では、なぜ読み誤ったのだろうか。
それを考えるとき、アンチ”アンチ平和主義者”の言説に対し、白銀はしばしば危惧感を覚えるのである。


将来、一部の仮想敵国が暴走し、日本に侵略的な形でケンカを売ってくると言う「危険」に配慮することが大切だと主張することは一理ある。
だが、それと同様に、自分たちの読み誤りという「危険」にも配慮する必要がある
自分で誤った路線を突っ走るのは、敵より危険なことの方が多いのだ。
何せ味方の方が自分に与える影響は直接的なのだ。影響が大きくなりやすくて当たり前である。

国防に関心を持つ、戦史やミリタリー関係の研究が大好きな人たち。しばしば「憂国の士」を気取ってweb上で国防論を展開している。
彼らは、自身が読み誤ることはあり得ないと思っているように思われる。
だが、もしそう考えているならば、あまりにも戦前の軍人や政治家をなめ切った考え方である。
そんな「憂国の士」ごときが、軍事の知識や見識量で国防のプロに勝てるとでも思っているのだろうか。
自国である日本の戦力も、機密情報のかたまりである。自国民に情報を公開すると言うことは、現代においては仮想敵国やテロリストにも情報を教えてあげることに他ならないからだ。
情報公開が抑止力として働きえることを考慮しても、全ての情報は公開できない。
アマチュアの戦史・ミリタリーマニア「程度」に機密情報が洩れまくっているなら、それは自衛隊の情報管理が深刻な機能不全に陥っていることを意味している。

自国の情報すら完全に手に入る訳ではないのに、敵国の情報を日本以上に入手できることなどあり得ないではないか?
自分の手元にある情報からして不足しているにもかかわらず、自分は読み誤らないと考えるならば、それは戦前の日本よりもタチの悪い根拠なき妄想である。
「根拠なき妄想で国が守れない」ということは、「憂国の士」が常日頃から憲法9条護持の平和主義者に向けている言葉だ。
もちろん、最大限の知識を手に入れることで誤りの可能性を減らすことはできるだろう。だがそれは所詮「減らす」だけだ。戦前軍部だってそのくらいのことは分かっていたはずである。
まさか、この程度のことも分からないで軍事に詳しい憂国の士を気取っている訳では・・・よもやなかろうな?



何故に読み誤るのか。もちろん前記したような情報不足も一つの原因である。


だがもう一つ考えるべきこととして、「相手がいる」という事実である。
当たり前のことだと思われるかもしれないが、実はこれを踏まえて考えることはなかなか難しい。
こちらがどれほど奇策を練ろうと、敵も奇策を使ってくるかもしれない。こちらが勝つために軍備を整えるなら敵もそうする。
自分だけが行動することを考えるあまり、「敵も自分たちに勝とうとする」「敵にも立場がある」という一見当たり前の事実を見落としてしまう。
と言っても、国防のプロがそんなことを見落とす等とは白銀は思っていない。

だが、さらに厄介な現象がある。
人間誰しも自分の弱点には気付きにくく、他人の弱点はすぐ目に入ると言う困った側面があることである。
こういった人間の困った側面と付き合うことを考えずに国防を語ることは非現実的である。
ましてやそれを考慮に入れられない人たちが9条平和論を非現実的だと言って貶している様子には、失笑すら禁じ得ないのである。


まず、国外に目を向けてみよう。
日本が自分たちの行動に正当性があると考えていても、相手の立場を重んじなければ、相手はこちらに不快感を示し、ときには様々な圧力を示してくる。
いや、重んじたつもりでも、敵から見れば十分に重んじられていないと考える場合もある。人間は自分の弱点に気付かないからだ。
これは守るための力なんだ!!というのは創作ものではよくある言い分であるが、「自衛、あるいは自国の正当な利益を守るためのための戦争」と称して侵略戦争が行われた例は珍しくない。
むしろ現代においてそういった大義名分のない戦争は考えにくい。
自衛のための力だという言葉をはいそうですかと信用するのは根拠なき妄想である。
これを逆の立場から観察すれば、「自衛のためだと言えば信用してくれる」と言うのも根拠なき妄想であることが分かる。
守るための力と連呼していれば外国が分かってくれると考えるのなら、それは平和主義だけを声高に叫ぶ運動と同レベルでしかない。

そして、それが例えこちらの言い分が正当であり、相手の言い分が自分勝手であろうと、その圧力をはねのけきれる訳ではない。
自国の正当性を声高に叫ぶ人たちは、「自分たちとしては自衛のためです」という言い分が国際社会に通じるかどうか、という点を見落としがちである。
戦前の日本は侵略をしますと国際社会で公言するような国だったから外交的封じ込めを受けたとでもいうつもりだろうか。
日本側にも言い分はあり、それを主張したにもかかわらず、その言い分が国際社会で通じなかったと白銀は認識している。

もちろん、日本の行動を受け全ての国がどう出るかなど把握しようもないだろうが、せめて地理的・経済的・政治的に近い国や近くなっていくべき国がどのように考えるかは考えなければいけない。
しかも国によって立場が異なるのが普通であり、どちらを優先すべきか、優先するにせよ、リスクをどれだけ軽減していくかという難しい問題に政治家は常に迫られる。
諸外国の圧力をはねのけるように軍備を拡張せよ、というのならば、結局それは国を疲弊させてしまう。
戦争に関して国民にとって一番忌むべき事態は、国民が悲惨な生活を強いられることであって、敗戦ではない。例え敗戦しても国民の豊かな生活が保障されるならば別に敗戦したってよいのである。
(もちろん、敗戦した方が国民が豊かになるような戦争を起こしたとすれば国家上層部はドアホウだが)
国を疲弊させることを忌むことは当然である。

「どんな敵性勢力が現れても侵略を跳ね返す」だけの軍隊を持っていると思われる国は世界に数えるほどでしかない。
例えば、アメリカに対して「侵略すれば痛い目にあうよ、やっても戦略目標は達成できないよ」という程度の軍備はできるかもしれない。というより、多くの国の軍備はその程度である。
しかし、「痛い目にあっても構わない、破壊できればそれが戦略目標だ」というような獣じみた思考でアメリカに攻めてこられたらお手上げな国が多いだろう。
多くの国は、そんなことにならないようにアメリカや周辺国と組んだりすることで平和を確保している。
なにも自国の軍備だけで全ての攻撃を跳ね返すことができると考えている訳ではないのである。
自国だけでどうにもならないのだとすれば、組んでいる他国、あるいは中立的な他国が自国をどう考えるかは国防上非常に大きな問題である。
むろん、それは日本も例外ではない。

また、相手は敵国だけではない。国内に目を向ける必要もある。
自説が正しいと信じるのはいいが、「正しい自説」を通すために必要な民主的な同意に対して、酷く無頓着な言説を見る。
正しい知識を広めることは必要である。時には、厳しい言葉を用いる必要もあるとは白銀も考えている。
心優しい説得だけでどうにかできる問題ばかりとは限らないし、最後の手段として、数の力で押し切ることも、国家権力の行使としては許されると思う。
だが、相手に対してお花畑と言ったり、法禁や弾圧を主張するような行為で相手が主張を変えてくれるとか、国民世論の多数の支持を得られると思っているならそれこそ甘い。
強硬な国内世論が優勢になっている情勢下で日本が自衛隊の増強に走るならば、余計に諸外国の警戒を招くことも忘れてはならない。

また、権力による押し切りは「切り札」である。使用すべきでないとは考えないが、だからと言ってホイホイと乱発できるものではない。
押し切ることが必要だとしても、数の力で押し切るだけで、国民に一致団結して侵略行為に対応してもらえるように協力してもらえると思うだろうか。

自身の土地や権利を取り上げられ、時には命すら奪われるような事態になってまで、「国のためなんだから我慢しろ」と言われ、金銭による補償すらろくにされない。
そんな状況下で、やられた側が「日本は自分を守らない国だ、そんな国いらない、外国の侵略がない可能性に賭ける方がまだまし」と言うのは当然の心理である。
日本が国を守っているんだ!!といくら騒いだところで、いくら国際情勢や最新のミリタリー知識を手に入れて事実としての国難を訴えたところで、多くの人たちにとっては、目の前で展開される人の死や奪われる自分の平穏な生活や財産が全てなのだ。
目の前で泣き叫ぶ人を見てそれを排除するに際し、引っかかる心が一片すらわかないのだとすれば、せめて、自身の人間性が常人と違うことくらいは認識した方がいい。
こういった人間の心情に対する絶望的な無理解を抱えたままの思考が「現実主義」を名乗る資格はありえない。


戦後、日本軍が悪玉、戦前の日本政府が悪であるかのような考え方が強くなった。
だが、そこで少し立ち止まって考えてみてほしい。
そんな戦後教育を受け付けるだけの土壌が日本にないのに、日本全国津々浦々で、そんな教育ができるだろうか?
いくらGHQだって、全ての学校教師の教育を統制できないだろう。

そんな教育ができてしまった原因は、日本国政府や旧軍部が信用を失ったことにあると考えている。
国の上層部が戦争に突っ込んだために、自分たちの豊かな生活も、財産も、家族の命までも奪われ、ろくな補償もされない。
そんな日本国に対し、少なからぬ日本人が愛想をつかした。
結果として命を懸けて国のために戦った軍人たちまでが村八分を受け、国家不信が形成されてしまった。
もちろん、国民自身の責任という側面はあるだろう。だがそれでも、自身にとって利益にならなければ、国だって当たり前のように捨てられてしまうのである。


もちろん、自国民の心理だけの問題ではない。

人間にはことが起こってからあやまちを悟っても、それを認めたくないという心理がある。
下手をすれば責任を追及されることを恐れる。
結果として嘘をつく。(それが後からバレることが見え見えな嘘でさえも)
後から検討すればどう見ても不合理と分かる説にしがみつく。
誤った結果を他人のせいにする。

これらは軒並み、{起こさなくてもいい戦争を起こし、あるいは起きてしまった戦争を泥沼化させる人間の心理である。
}

国防に当たっては、こうした人間がもつ様々な感情とお付き合いをしていかなければならない。
国防につき、至上の価値を見出すならば、当然そういった感情とのおつきあいの方法を最大限に考えていくことも模索していく。
むろん、これは途方もなく難しい作業だ。やろうとしたが結果として失敗してしまうこともありえるだろう。
しかし、一部の批判者を取り上げて批判してさえいれば憂国の士になれると考えているような人たちに、日本の防衛を任せることは白銀にはできない。
そういった感情とのおつきあいの方法を踏まえつつ、可能な限りの国防論を模索していくあり方を白銀は国防のあり方として支持したいのである。



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