更新日:2016/08/27 Sat 13:15:37


シン・ゴジラと希望的観測


※当項目はネタバレ項目です。ネタバレが苦にならない方以外は本編鑑賞まで閲覧を控えることをお勧めします。














シン・ゴジラで、内閣が鎌田のアイツは上陸しないと言う希望的な観測に基づいて初動をしてしまったことを批判する評論を見た。

作中の発言で、主人公格の矢口のセリフとして、

大臣、先の戦争では旧日本軍の希望的観測、机上の空論、こうあってほしいという発想などにしがみついたために、国民に300万人以上の犠牲者が出ています。
根拠のない楽観は禁物です。

という発言があった。

この発言について、白銀の感想を話してみよう。



例えば、シンゴジが「陸上に上がってもつぶれるだろうから上陸の心配はない」という発表は確かに結果としては外れていた。
しかし、「生物学の常識」からすれば、それ自体は決して間違っておらず、根拠がある判断であったと言える。
(上陸して潰れるまでの間に暴れる可能性を考えると、川の沿線住民に避難を呼びかけることはすべきだったとは思っているが、尺の都合で描かれなかったか白銀が見落としたという脳内補完は可能であろう)
未確認生物であれ、生物である限り、最も頼りになる情報は既存生物学の常識であろう。結果的に外れていたとはいえ、必ずしも間違った判断だとは言えない。




希望的観測、というのをもう少し深く突っ込んでみると、そこには「取捨選択」がある。

例えば、一個人の自宅などに車が突入してしまうという事故は、たまに報道されることがある。
では、家に車が突入してくるような事態に備え、自宅を建てるにあたって何千万円もの追加コストを払う人を見たらどう思うだろうか。
普通は、
「この人はそんなことまで気を回すことができるすごい金持ち」
「心配性が度を越している」
「テロリストにでも狙われている人なのだろうか」
という感想を抱くであろう。
ノーコストで対処できるならばまだしも、そのために何千万円も割くなど普通の人の対応とは思えない。


行政にせよ個人にせよその他の組織にせよ、「例え何が起こったとしても全てに対処する」という対応態勢の構築は、実際には不可能だ。

富士山と阿蘇山と浅間山が全部一度に噴火した上に第二次東日本大震災が同時に起こってくるような事態に対処する対応態勢ができるだろうか。
アメリカと中国が突然組んで日本を焦土化・国民全員虐殺するために攻めてくるような事態に対処する対応態勢ができるだろうか。

はっきり言う。できっこない。
それを目指すとなれば、想定しがたい事態に対処するためだけに恐るべきコストを割かなければならない。
もちろん、想定しがたい事態が起こらなければかけたコストの大半は無駄になってしまう可能性が高い。
限りある予算(金銭も労力も資源も)中で、非現実的な事態まで軒並み想定して対応するだけの余力など、日本に限らずアメリカだって持っていない。


確かに根拠のない希望的観測が太平洋戦争での敗戦につながった、あるいは勝てない戦争への突入につながり、大量の犠牲者につながったことは白銀も否定していない。
しかし、それは太平洋戦争当時、日本に国力に余裕がまるでなかったのも一つの原因であろう。
アメリカがああして来たら、こうして来たら、という「想定はしただろう」と考えている。白銀はそこまで日本の軍部をバカにしてはいない。
しかし、そこまで踏まえて徹底的に対処していくような戦力的な余裕のない日本には、そういった想定にまで配慮することはできなかった。
だとすれば、「そんなことはやってこないだろう」「なんとかなるだろう」という期待に賭けるしかなかった。
もちろん、個人的な資質の問題で取捨選択のやり方があまりに酷くなってしまい、質の悪い希望的観測に頼った形になってしまった、あるいはいつまでも誤りを認めずしがみつきつづけたということもありえただろう。
だが、大平洋戦争における希望的観測の主要な正体は国力不足の裏返しであり、そこは今日まで続く教訓となりうる要素であると考えている。

現代の視点から太平洋戦争を振り返ることは必要だとは思っているが、「根拠のない希望的観測が悪い」という訳ではない。
悪いのだとしても、「根拠のない希望的観測をしないで全てに対処できる」ということ自体ができないからである。不可抗力を悪いと呼ばわったところで意味がない。
ましてや、作中ならば相手は謎の新生物。
既存生物学からの常識以外に根拠を持った対処など準備すること自体が難しい。
「根拠がない根拠がないを連発した結果、何の対応もない」方がよほど問題である。

根拠のない希望的観測もせざるを得ないこと、さらには人間がどうしてもそういった自分に都合の悪い情報を無視しがちになることを前提に、そこにどう付き合っていくかを考えていくことこそが、本当の危機管理である。
映画の中における日本閣僚の対応を希望的観測と断じるばかりの危機管理などは、白銀に言わせれば「所詮その程度の危機管理」である。


シン・ゴジラの作中で言えば、住民の不安を解消し、無意味なパニックや経済的悪影響を防ぐことも、行政としては当然の仕事である。
里見臨時総理の言を待つまでもない。住所を離れると言うことだけでも、住民たちは生活の糧どころか財産も生きがいも肉体的・精神的健康も、下手すれば命さえそれで失ってしまう。
経済活動は停止だ。東日本大震災などでそれは現実のものになっている。
映画の中の政府対応は未知の生物に対する対応として結論としては誤っていたが、その時点での判断として誤っていたとは言えないというのが白銀の評価である。
現に、日本にも本栖湖とか池田湖・屈斜路湖などにUMAがいると言う噂はあるが、UMAが上陸して建物に被害を出すかもしれないから付近住民を避難などさせていない。
湖の上を普通に釣り客がボートで遊弋しているし、それで問題が起きている訳ではないのである。



ヤシオリ作戦(矢口プラン)だって、「これなら効く」というのは、希望的観測でしかない。
綿密な準備をしていたとはいえ、実験ができない上に時間的猶予もない以上やってみるしかない。
矢口プランが確実に効くと言うのは、希望的観測にすぎないと判断したからこそ、諸外国はゴジラに対する核攻撃を準備したのである。
ヤシオリ作戦が絶対に効き、ゴジラが絶対に絶命すると分かっていたならば、諸外国は日本にもっと時間的猶予を与えた可能性が高いだろう(諸外国が日本にある程度の時間を与えたのは、人道面への配慮に他ならない)。


ただし、上記のこの発言について白銀は矢口が間違ったことを言っただとは思ってはいない。
根拠のない楽観や希望的観測は確かにせざるを得ない。
だが、自身の行っていることは楽観や希望的観測にすぎないことを自覚した上で、現に起きてしまった楽観や希望的観測に対し取捨選択を変更して、残された手の中で可能な限りの最善手を打つ態勢を準備することは可能である。
そもそも、矢口は「しがみついた」ことを問題にしている。根拠がないこと・希望的観測の可能性を考えずに状況を注視しない、あるいは注視していて希望的観測だと分かっても方針を変えないのが最大の問題なのだ。
「ゴジラvsビオランテ」の黒木特佐は、芦ノ湖でビオランテと戦った後太平洋上に逃げたゴジラが伊勢湾に現れるというのが希望的観測に過ぎなかったと分かった途端、ゴジラを倒すのと人的被害を抑えるために最善の手を打った。
太平洋側の全沿岸を警備することが非現実的な状況の中で、伊勢湾に現れるだろうと言う「せざるを得なかった希望的観測」に「しがみつかなかった」好例だと言える。

それに、油断してはいけない、事態がまた変わる可能性も高いのだから、ここで楽観するのではなく状況を注視しているべきだと言う説得は、あの時点で必要だっただろう。
そのために太平洋戦争を持ち出したならば、内容に多少の誤謬があれそれも一理ある。
そこまで矢口や製作者が考えていたのかはわからないが、むしろ一時的な説得の方法としては評価さえしているところである。




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最終更新:2016年08月27日 13:15