更新日 : 2017/04/12 Wed 21:47:32


人道的な方法は合理的である


 最近は、人道・人権・正々堂々と言った考え方には批判的な目線が向けられており、狡猾・非情・卑怯・目的のために手段を選ばないと言った考え方が台頭している。
 一昔前ならば、狡猾な卑怯者やサイコな殺し屋は主人公たちに敵対するやられ役の代名詞であったが、主人公サイドがよく見れば卑怯な作戦を使う、と言う例も、それなりに増えてきているように感じると思うことがある。

 白銀も、正々堂々や人道というような発想にこだわって実利を失うことが果たして適切なのか、と言う疑問には共感を覚えることも多い。

 だが、非人道的な方法をとるのに、その方法が実利を伴わない、時にはマイナスの効果をもたらす場合はどうだろうか。
 それは、白銀に言わせれば「 三流勧善懲悪ドラマに登場する、悪役と書いてすくいようのないばかと読むキャラの発想 」である。
 そして、その視点からみて、非人道的な方法が悪役を単純に酌量の余地なく、敵を殺してもすかっとするようにするための演出と分かると、白銀としては白ける。

 「そういう作品」として描くならば、それはそれで表現としてアリだと思うが、リアルさは皆無であるといわざるをえない。
 ましてや、それをもってほらリアルだよね?みたいに考えているとすれば、完全に 「作者の自己満足」と鼻で笑われて終了 である。
 GDW銀河社会はそれ相応にリアルさが求められる。その意味で、 非人道的な対応はGDWと相性が非常に悪いと言える。 (例外は、ゾアクロイドやヴァーツであるが、彼らはそれを可能にする破壊的価値観や戦闘能力が前提になっているのを忘れてはならない)



 そもそも、人道的な方法というのは、人間が抵抗感を覚えない手法と言うことであり、非人道的と言うのは人間として抵抗感を覚える手法である。

 参考までに、国際社会で人道に対する犯罪として扱われるのは、軍人でない人間を組織的に、かつ悪意的に攻撃するものである。
 攻撃方法としては、殺人、奴隷化、追放、拷問、性的暴力、人種差別、拉致、アパルトヘイトのような差別行為、重大な障害や苦痛を与えるものなどである。

 非人道的と言うのは、多かれ少なかれ、 「勝つためとはいえ人間がそんな手法を採っていいのか、勝ったとしてもより取り返しのつかない結果を生むのではないか」という懸念を生む行為 である場合が多い。

 従って、人道に違反する行為と言うのはどうしてそんなことをしてしまったのかという否定的な検証の対象になる。
 「どうしても他に方法がないのでやむを得なかったんだ」と口で言うのは簡単だし、実際そういう場合もあるだろう。
 だが、 検証をする段階で「こういうことはダメなのではないか」というバイアスがかかっているので、「やむをえない」と認められるのは簡単ではない。

 否定的な検証の結果として案の定否定されるならば、人道に反するやり方をする者は孤立する。
 何らかの制裁がある場合も多いし、そこまでしなくとも援助を得られなくなる。
 現実世界でも、単一国家でやって行ける場合はそうはなく国際的な協調の重要な世界だが、銀河社会においては更にその要素が大きくなる。
  銀河社会で孤立して援助を得られないことは、背骨を砕かれるも同然に危険なこと である。





 社会的な非難の可能性と言う視点は、銀河内における星間連合のような共同体は重視することであろう。
 では、そういった評価を気にする必要が乏しい過激派組織はどうだろうか。
 実は、過激派組織の視点から見ても、非人道的なやり方が全く合理的でなく、大きな損を生む可能性がある場合は決して少なくない。


①対人地雷

 対人地雷は、人道的な見地から禁止されている。
 対人地雷は、戦争終了後にも埋まり続けているため、戦争が終了し、当事者たちが和解したとしてもなおも大きな被害をもたらす。
 戦争を経て、その土地の領有が戦争前のままになろうと自分たちの領有になろうと、地雷は敵味方、時には第三者に対しても無差別に人を傷つける。
 全うな正規軍ならば、仮に地雷を使っても「地雷をここに埋めた」と記録することはしているが、それを掘り出して安全な土地にするのには大量の時間やコストがかかる。
 テロリストやゲリラの場合記録も残さず警告もせずなので、無関係の住民たちがはるか後代に至るまで地雷に苦しみ、五体満足でいられなくなってしまう。
 結果として、 地雷原は誰にも使えない土地となってしまい、勝った側も負けた側も痛い思いしかしない のだ。


②敵軍捕虜への虐殺


 過激派に多い、敵軍の捕虜に対する虐殺を中心とした虐待も、人道上禁止されるものの筆頭だ。
 捕虜を虐待すれば、 敵軍は例えピンチになったとしても、降参すれば殺されてしまうので、降参することが出来ない。
 そうすれば、敵は集団自殺するか、死に物狂いで最後の抵抗を試みるしかない。
 こちらが勝てるとしても、死に物狂いの抵抗をされれば自軍の損害の拡大は必至である。
 敵が集団自殺か死に物狂いの抵抗をするか、心を決められずいたずらに時間を過ごすだけでさえ、彼らを監視・警戒するために人員を割かなければならない。(救出に援軍が現れる可能性もある)

 また、降参して来る者の中には、優れた人材がいる場合も多い。虐待したり殺してしまえば彼らを「使う」ことすらできなくなってしまうのだ。
 古代であれば、戦争で敵方の有力な臣下が降伏してきたならば、彼らの罪は許して自身の勢力を拡大するのは当たり前であった。
 徳川家康も武田家滅亡後は武田家の遺臣を抱え込んで勢力を拡大したとされる。
 明治維新の際にも、実務経験に乏しい明治政府は旧幕臣を大量に登用し、政治を運営させている。

③生きて虜囚の辱めを受けず


 逆に、「宇宙戦艦ヤマト」でデスラーがシュルツに向けたように、捕虜になるくらいなら死ね、帰ってきたら死刑な、というのはどうだろうか。
 死刑で脅したところで、個人の技量だけで戦況が逆転するものではない。
 捕虜になるくらいなら死ね、ということは、待っていたら味方の援軍が来るような状況でもない。
 そうすると、 死ねと言われた人物は身を護るためには敵軍に投降するしかない。

 しかも、敵軍に投降の意思を示すために機密を売り渡されようものなら、自国の利益にならない事態が簡単に起こってしまう。
 自軍に帰ってくれば、交戦の中で手に入った貴重な情報を持ち帰ることも可能だが、返ってきたら死刑ではそれらも諦めなければならない。
 戦場に立つや否やさっさと降参してしまう腑抜けでは困るが、 劣勢の味方に対して帰ってきたら死刑という形で脅すことは、実は何の得にもならないのだ。

④特攻戦術


 古代の戦争なら、とりあえず槍を突き出すことのできる兵をかき集めて密集して進撃させればよかったのかもしれない。
 だが、近代以降は兵士個々人に優れた力量が求められる。
 独自の判断で兵力の集中や分散、目的の変更、時には上官命令に対して意見具申と言うことが必要だ。
 平時でないときにでも、軍内で規律正しく生活し、演習で成果を出して抑止力となり、軍としての責任を果たすには、それ相応の教育が必要になる。
 日本で考えれば、自衛官の給料・手当は安くて300万円程度らしいが、生活の面倒を見つつ兵を訓練しなければならないため、そこまで含めると実質的にはもっと費用を出している。
 訓練するために必要な装備類や環境の準備も必要であるし、一人前になったとしても、訓練は絶えず継続が必要だ。
 そして、これらの装備も適宜更新し、兵たちに対応させていかなければならない。10年も育てれば、一人当たりの経費は億では聞かないだろう。

 パイロットみたいに特殊な技量を持つ人材ともなれば、その育成には航空機の燃料代、航空機自体の減価償却や損耗、しばしば発生する事故時の損害補てん。
 平時の訓練にも費用が必要だ。一人育てるだけで億単位の経費と、長い時間が必要である。
  そんな経費を特攻という一時的な戦果のために使ってしまうのは、限られた貴重な戦力の無駄遣い である。
 戦時中日本軍が特攻をしたのは、鍛えられた熟練パイロットなどが戦時中消耗し、訓練するだけの資材も時間もないため、限られた戦力で戦果を挙げるしかないと言う面が影響している。(熟練パイロットが残っている部隊は特攻に反対していたという)
 テロリストの特攻の場合、資金力や規模に限界があり、最初から徹底的に育成した熟練の兵など準備できない。そのため大した練度もなく、練度を高めることもできずに特攻紛いの戦術しか取れないと考えられるのである。

 白銀は特攻を賛美しないが、それでも特攻が行われる背景には、上記のような現実的な背景が存在している。
 単なる悪の組織にありがちなテンプレ行為として特攻を扱うのは、白銀から見れば無礼極まると思うのである。


⑤失敗した者への厳罰


 わずかな失敗を捉えて関係者を厳罰にするのも、悪の組織ではありがちである。
 しかし、これも得策とは言えない場合が少ない。

 確かに命令違反などに対しては厳罰もやむを得ない場合が多い。勝手なことを許した結果軍紀が緩むのは問題である。
  特に貴重な司令官や技術者の場合、そんな人物を失敗を理由に厳罰にしては、次に代わりを務める人物がいなくなってしまう。
 悪の組織は過激派が多く小規模勢力なので、正規軍よりもその危険性が大きい。
 創作ものではお決まりのように次の有能な人材が登場するが、そんなに有能な人材がいるなら最初から登用しろと言うのである。

 失敗した部下を私情にとらわれず処断する「泣いて馬謖を斬る」という言葉が有名だ。
 だが、泣いて馬謖を斬った諸葛孔明は、司令官としては自分の罪は降格処分で済ませている。自分がいないと政治の運営も再度の戦争もできないからだが、「ルールをしっかり守らせることが重要」という慣用句となったエピソードですら、処罰しすぎて人材をつぶすことは避けなければならないという悩みが存在しているのである。

 また、 失敗の原因を究明するためにも、関係者には生きていてもらう必要がある。
 例えば、敗戦という事態について、俯瞰して原因を知りうる人物は司令官しかいない場合も多い。
 司令官の持っている情報や体験、司令官がどのように考えたかは、再度敵の策にはまらず、司令官の陥りやすい間違いを明かして後進の司令官への教材とするために非常に重要である。
 しかし、もし司令官が敗戦について処罰を恐れて口をつぐんだり、自分に都合のいいウソを言えば、真相究明は遅れ、場合によっては不可能になり、次の敗戦や事故を防ぐという重要な目的を達成できなくなる。
 なぜこんな事態になったのかを究明するためには、処罰できない、ということは我慢する必要があるのだ。








 人道論議は、確かに実利のないきれいごとになってしまうことも多いし、勝者が敗者を裁く口実になりがちなのは事実だと思う。
 だが、 人道論議はきれいごとばかりではなく、無為な死者を少なく抑え、戦争が人類の存続を脅かすような事態を許さないという意味で実利を伴っている。
 人道に対する罪が不公平な裁きと思えることに用いられてきたと感じることはあるし、それを問題にするのは賛成だが、 その不公平さだけを理由に人道そのものを否定するならば、それは中二病的反骨心の産物 だと思う。
 人道論議にそういった意味での実利が与えられるからこそ、人道というものが重視・設定される背景があるのではないだろうか。



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