春はその始まりに身震いし、私は君に心震わす


その日のかくたは不格好だった。

夕闇に飲まれつつある街を駆け抜けるかくた。

その服は汚れ、髪は乱れ、唇は震え、眼は紅く
額には玉のように汗が浮かび、吐く息は浅く早く、彼の軌跡を白く染め溶ける。

いつもは気にならない家への道のりは信じられないくらい遠くて、背中の彼女はびっくりするくらい軽くて。その存在の希薄さが。彼女の荒い呼吸が。その鼓動が。不定形の不安となって彼の心を締め付けた。

心臓の抗議は悲鳴へ変わり、肺の苦しみは痛みへ変わる。
酸素の不在は世界をゆらゆらと揺らし、見慣れた景色から急速に現実感を奪ってゆく。

―――だが、それでも

彼はその足を止めなかった。

何故ならば、彼にとって

その背中にいる人が、その人だけが。

彼の世界の全て。だったから。


/ * /



‘あの日’から一月後のその日。の、前の週。

私と真砂は初めて約束をした。誘ったのは私からだった。

「この間、素敵なハーブ園をみ、見つけてね。桃の花が咲いてとても奇麗なんだ。それで、よかったら来週、いっしょに行ってみないか?」

たった、40数文字の言葉。時間にして30秒。

これだけの事を言うだけで、喉はカラカラ 顔はガチガチ 声はユラユラ。

ただ、真砂から目を逸らさずに済んだ事だけが、唯一の救いだろうか。

彼女はその瞳をグラスへ落すと、そっと淡いピンクの液体を喉へと導き

グラスを置き。私をまっすぐ見つめた。

ああ、水銀でも呑み込んだように胃が重たい。でも、その瞳を逃さぬように。その瞳から逃げないように。

何か言葉を紡ごうとした、その時。

――うぅむ、私はどんな表情をしていたのだろうか。まあ、よっぽど酷かったのかな。

耐えきれないとばかりに、口元を綻ばせ、どこか照れたように頷く彼女。

私はと言えば、そうだな。まるで怖い夢から覚めたような、そんな気分で。

なんだか、さっきまでの自分が妙に可笑しくて、流れる空気がただ無性に愛しくて。

気がつけば、彼女と一緒に肩を揺らして笑っていた。


/ * /

当日は気持ちのいい快晴だった。

春を待ちきれない、気の早い暖かな風の紳士は新緑の眩しい木々を優しく撫で
ほほを桜色に染めた花の乙女達を、その腕に抱いて空に踊る。

っと、まあ。

私自身も、思わずそんな表現をしたくなるような。そんな天候と気分だった。

この日、庭は貸し切りだった。清涼な風吹く緑の舞台の本日の役者は、素朴な庭師や、勤勉なメード達でなく
鈴のように歌う鳥達と甘く香る花々や暖かな日差し。そして私と真砂。それでおしまい。

スーツに身を包んだ私は、鼻歌交じりに庭にティーセットを準備する。

純白のテーブルと座り午後地の良い椅子。目の前には満開の花々が互いの美しさを競うように咲き誇り
木漏れ日のやわらかな光がテーブルをそっと照らす。 春に合わせて若草色のテーブルクロスを広げ、手作りのクッキーを用意した所で

門前に、彼女の姿が、見えた。

その瞬間。私は呼吸を忘れ。その姿に、心震えた。

眼を瞑り深呼吸。彼女のもとへ向かう。足取りは雲のように軽く。
鼓動は猫のように早い。だが今はそれすら心地いい。

暖かな日差しの下。最高の貴婦人へ頭を下げ
「お待ちしておりました」歌うように言葉を紡ぎ、そっと手を差し出す。
淡い桃色のストールを羽織った真砂の表情は驚きから微笑みへと変わり、長い指をそっと私に重ねた。


/ * /

楽しい時間は、駆け足で過ぎてゆく。
真砂は私の焼いたクッキー(自信作だったのだ)を本当に美味しいと言って食べてくれた。

その後は、どうだったかな。

なんだかほとんどの時間を、私のとりとめもない話で過ごした気がする。
彼女は、珍しく。ただ静かに微笑んで頷いて、私の話を聞いていた。


気がつけば、太陽は紅く染まり、真昼の白い月は徐々に輝き、空気は夜特有の匂いを帯び始めていた。


楽しい一日は終わり。

――そう。

このまま終わってくれれば。どんなに良かったか。

鼻歌交じりに、食器をまとめ、「さぁ、家までエスコートしますよ」と言おうとした


そのとき


私は、ようやく気付いた。

彼女の様子がおかしい。

彼女は呼吸を荒げ、瞳を閉じてテーブルの上の肘で体を支えてる。

――どうして気付かなかった。

「ちょっと、ごめん」

私は彼女の額に手をあてた。手のひらに絡むぬくい汗。

…ちょっとまて、この汗の量は尋常じゃない。

それに何より――この熱さ。

「あらら、気付かれちゃった。ヘヘッ。上手くいかないわね。でも、」

何所か申し訳なさそうに、つぶやく真砂。

その言葉を最後まで口にする事無く

彼女の意識は――途切れた。


/ * /


「ぅぅむ。問題ない。単なる風邪じゃ。チィと無理をしたようじゃが、安静と栄養をとれば直に治るて。」

私のベッドに眠る真砂の脈を採りながら、陽気に言うドクター。私を上から下までジトリと見て言葉を続ける

「それより、お前さん。酷い顔色じゃぞ?ワシにはお前さんの方が重病人に見えるわぃ」

と言い、カッカッカと笑う。

ドクターの言葉を無視して私は問う。

「本当に。本当に、大丈夫なんですね」

ドクターはそんな私に微笑むと、頷き、幾らかの間を置いて

「信用しろ。そして看病してやれ。手でも握ってな。人のぬくもりに勝る薬はない。」

と言い、「ただし、無理して二人で倒れるなよ。仕事が増えるのは老体に堪えるからの」と付け加えて、薬を置き家から出て行った。


/ * /


冷たいタオルを絞り、真砂の額に乗せる。

真砂の手を握り、何かに祈りながら。何かに詫びながら。

ただ機械的に、首筋に浮かんだ汗を拭いてやり、額のタオルを替える。

ただ、キツく噛んだ下唇から広がる鉄の味だけが、私の心を代弁していた。


―――空が水の色に染まる頃、真砂の熱は、下がり始めた。


/ * /

翌朝


≪リリリリリリンッ!リリリリリンッ!!≫

ガチャ

「んぁい、こちらよんた藩国吏族課ですが」
気だるげに、白衣を着た男がコーヒーを飲みながら電話に出る。

「お?姐さんじゃないスか。どうしたんですか?朝っぱらから。え?かくたさんは今日は出庁できない?・・・はぁ・・・はぁ。ま、そりゃ風邪なら仕方ないっすけどね。でも、何で姐さんが・・・・・って、切れちまったよ」

白衣の男は、舌が痺れるほど濃いコーヒーをもう一口飲みニヤリと笑うと、「あー、今日は仕事休みだな。ラボにでも行くか」と呟き

自分とかくた、そして真砂の行動表を‘出張中’にして、ステップふみ踏み。ハミングしながら官庁を後にした。


/ * /


目を開けると、見慣れた天井だった。 天井は窓から差し込む光で朱く染まっていた。

あぁ、熱があるのだろうか、体が重く、頭がフワフワする。

そして、鼻腔をくすぐる美味しそうな良い匂いが


        • 良い匂いが?


混濁した意識が朝靄が晴れるように、徐々にクリアになってゆく。

が、熱のせいだろうか。どこか現実感がない。

そうだ、真砂の熱が下がった後・・・・どうしたんだったか。いや、そんな事より

「ま゛、真砂!?」
上体を起こし、思わず出した声は酷くかすれていた。

「あら、気がついたの?もうちょっと待ってね。もう少しで出来るから」
そんな彼女の呑気な声と優しいハミングが聞こえてきた。

状況に頭が追い付かない。

が、とりあえず彼女は無事らしい。安堵で力が抜けたのか、再びドサリと倒れ、熱を帯び揺らぐ瞳に天井を映し、そっと瞼を閉じる。


――ひんやりとした、柔らかな感触が額に触れた。


ゆっくりと瞼を開くと、目の前には彼女の白い指と優しい顔。

と、湯気を立ててるお粥、というより雑炊か。

「ハイ。起きてね。とにかく食べなきゃ、そのひどい声。治らないわよ」
嬉しそうに言う真砂。というか、君がきてるの私のパジャマじゃ・・・

鉛になったような体を動かし、なんとか半身を起す。
真砂は、んッと満足げな笑みを浮かべる。

「ぞの、だいじょうぶなのか、君゛は」

「お陰様でね。誰かさんのおまじないが効いたみたい。」
そう言って私の手をキュと握り、意地悪そうにウインクする。

「な゛っ…」

私が何か言おうとする前に、彼女は湯気を立てる土鍋から木のスプーンで、お粥を掬い、ふーふーすると。

まぁ、その。案の定。

「はい、あーん♪」と言った。それも最高に意地悪な微笑みで。

断言してもいい。この状態の彼女に勝てる男は存在しない。
というか。そうでもないと、その。困る。

私はしばらく、口をあんぐりとして呆けていたが。まぁ、その。熱のせいだ。

「あーん」と素直に従うことに…した。

ニンマリと満足げに笑って、食べさせてくれる真砂。

味は…その。美味しかったと思うが、よく覚えていない。何と言うか。こっちはそれどころじゃ無かった。

私が、咀嚼して、次のひと匙を待っていると

「……このまま食べさせて欲しい?」と真砂。

…やっぱり悪魔だ。彼女は。

私は、その。

今一度言うが。熱のせいだが。

「…ハイ」

と頷くしかなかった。


たぶん最高に幸せではあったが、ある意味ドッと疲れた夕食が済み、薬を飲むと、再び猛烈な眠気が私を襲った。

真砂は台所で洗い物をしている。見慣れた場所に、居るはずのない人が居る というのは酷く現実性を欠いた風景だった。

というか、これはどこまで現実なのか。もしかして全てが熱の見せる幻ではないのか。

そんな事を考えながら、私は目を閉じ再び眠りにつこうとしていた。

彼女がこちらに来る足音が遠く聞こえる。

だが。その時、夢の泉のその淵で。

額に感じた柔らかく暖かな彼女の感触だけは

熱の見せた幻想ではない・・・・と信じたい。


                          おわり


(文:槙 昌福)