裕樹君捕獲大作戦



ピアノをBGMにしてちょっとした手品ショーが繰り広げられる。
「さて、次に取り出だしたるは、何の変哲も無いトランプ。」
と言いながら、表を向けて横にスライドさせる。
「この通り、番号順に並んでますね。さてここで、一度裏返しにします。
 そしてさらに表を向けると…。」
そこには、真っ白なカードが並んでいた。
おおー、と数名の客たちから声が上がる。

ここは、『クエルクス』 今日は手品バーの真似事をしている。

そんなタイミングで、一人の女が入店してきた。
「なんや、姐さんが自分のおるとこに来るなんて、えらい珍しいですやん。」
カツカツと小気味よいヒールの音を立てながら、カウンターまで行く真砂。
「依頼よ。」
そう一言だけ告げた。


今回の主人公、竿崎裕樹。彼は今日、とっても不運だった。
昨日は珍しく仕事が速く終わり、日付が変わる前には眠りに落ちていた。
その為かは分からないが、目が覚めて時計を見ると、針は5時の16分前、つまり4時44分をさしていた。
(偶然ってすごいなぁ…)
とか、この時点では思っていた裕樹は、後に大きく後悔することになる。

4時44分に目が覚めた後、二度寝した裕樹が再び目を覚ますと、カーテンの隙間から朝日が覗いていた。
何気なく、時計を見ると、その針は4時44分を指していた。
しばし呆然と時計を見つめる裕樹。
急いでテレビのリモコンを探し、電源をつけてみる。…が、テレビは無反応だった。
何度か試したが、相変わらず黒い画面を湛えていた。
とりあえず、テレビ本体の電源ボタンを押し、時間を確認する。
そこに表示されたのは、明らかに遅刻する(している)時間だった。
(あちゃ、やってもうた…)
とにかく、職場に連絡を入れなくてはいけない。
このへんはきちんとした社会人なのである。

近くにあるであろう、携帯電話を探す裕樹。
テレビを見ながら、手探りで探し当てたのは、半月ほど前になくしたはずの靴下(3日ほど過労で着替えられなかった時のもの)であった。
(…なんでこんなもんが、今頃出てくるんや?)
朝一の靴下の匂いに辟易しながら、洗濯機へ向かおうとする裕樹は、座布団の下の何か固いものを踏みつけた。
その音は、バキッ、という感じだった。
恐る恐る座布団をめくると、変わり果てた姿の携帯電話だったものが鎮座していた。
(…なんなんや、今日は?)

とにかく、職場に連絡を入れるということを思い出した裕樹は、固定電話からかけることにする。
裕樹は意外としっかりしていて、こういうときのため、固定電話もしっかり引いていた。
受話器を耳にあてる裕樹。
受話器からは、ただの沈黙が流れていた。
本来、電話が通じている事を示す、ツーツーという音すら聞こえなかった。
(なんなんや一体…?)
さすがに少し困惑しはじめた裕樹。

しかし、最近(の逆境により)プラス思考が身についてきた彼はこの程度では全くへこたれなかった。
(ま、行ってから事情話せば分かってもらえるやろ)
と、後に甘い考えだったと大変な後悔をすることになる考えのもと、出かける準備をする。

とにかく、さっきから握ったままの靴下を洗濯機に入れるため洗面所に向かう。
何事もなく無事に洗面所についた裕樹だったが、洗濯機を開けるとそこにあったのは洗いっぱなしの洗濯物たち。
(洗ったん、いつやっけ…?)
手元資料によると、裕樹が最後に洗濯機を回したのは2日ほど前の事である。
当然中身は生乾き、少し臭くなっている。
どうせ、この臭い靴下を洗わなくてはいけないので、自分に呆れながらも洗濯機を回すことにする。
靴下を入れ、蛇口を捻る、が、水は出てこなかった。
一度閉じ、再び開くが、水が出てくる気配はない。
ふと思い立った、昨日の夜、非常に冷えていた事に。
(水道管、凍ったんか)
寒い地方特有の失敗である。

洗濯を諦め、とにかく出かける準備をしようと、まず顔を洗おうかと思ったが、水道管が凍っているなら水は出ない。
次に裕樹が向かうのは台所である。冷蔵庫の中に水が入っているのだ。
風呂の残り湯という選択肢もあったが、なんとなく、歯磨きには抵抗があった。

さすがに、少し辺りを警戒しつつ、なんとか台所に到着。
ゆっくりと冷蔵庫のドアを開けるが、それが災いした。
微妙なバランスで入っていた漬物の小壺が、音も無く、まっすぐ裕樹の足の親指の爪の上(左)に直撃した。
「…! ぐっ…つっ……。」
地味な痛みに声を上げることも出来なかった。
少しして足を見ると、直撃した爪の部分が、青黒くなっていた。

少し涙目になりながら、何とかミネラルウォーターを取り出してから、いったんボトルを置き、小壺を冷蔵庫にしまう。
ボトルを持ち、左足を少し引きずり、ヒイヒイいいながら洗面所に戻ってきた。
水道の近くにボトルを置き、歯ブラシを取り出す。
歯磨き粉のチューブを持ち、しばし考える裕樹。
(一回分くらいは…あるやろう)
歯磨き粉のチューブは可哀想なくらいペッタンコである。
力いっぱい扱き出そうとする裕樹。
チューブの口には、ほんの少し歯磨き粉が出ている。
(もうちょっと…)
歯ブラシを近づけ、最後の力を振り絞る。
今日の裕樹に不幸の女神はこんな些細な事にまで微笑んだ。
ふとした拍子に最後の中身をぶちまけた、歯磨き粉は歯ブラシを飛び越え、ちょうど排水口にダイブした。
しばし呆然とする裕樹だが、もはや1mgも出ない歯磨き粉にはさっさと見切りをつけ、買い置きしていたはずの新しい歯磨き粉を探す。
チューブを探し出した裕樹は中身を歯ブラシにたっぷりつけ、口の奥まで入れる。
奥歯に触れたそのジェル状のものは、歯磨き粉とは呼べない甘ったるい何かであった。
慌てて吐き出し、水で口をゆすぐ裕樹。
少し落ち着いて歯ブラシにつけたものを確認する。
(…洗顔料…か。)
お約束の不幸である。

とりあえず、本物の新しい歯磨き粉を見つけ出した裕樹はようやく歯磨きを始める。
何事もなく歯磨きは終了。
顔は、風呂の残り湯と、ミネラルウォーターを使い分ける事にする。
風呂場の洗面器に残り湯を汲み、洗面台に戻ってゆく裕樹。
しかし、彼は油断していた。
歯磨きや、残り湯汲みで床が濡れている事を忘れていた。
なぜか床に落ちていた石鹸を、力いっぱい踏みつけた。
適度に濡れた石鹸と床の間には、摩擦などほとんどあるはずも無く、期待通りの動きで転倒、後頭部を強打した。
その際、洗面器は天井近くまで放り投げられている。
「いっってええぇぇぇーーー!!」
声を上げながら、頭を抱えうずくまったまま転がる裕樹。
固く目をつぶっていたのが災いした。
放り投げられた洗面器の落下に気がつかなかったのだ。
裕樹が目を開けたのはほんの一瞬、目の前いっぱいに洗面器のアップだけが見えた。

それから裕樹は少しの間、気を失う事になる。


(文:雷羅 来)