「……は?」エアの放った言葉に、黒髪の男、無限のソウルを宿す者は、その肩書きに似合わない間抜けな音と表情を現す。さも可笑しげに笑い、エアは己の言葉を繰り返した。「聞こえなかったか?わらわはやるぞ、と。自然の摂理にしたがって、子孫を残そう、とな」笑顔のままで告げるエアとは対照的に、青年は困りきった表情で辺りを見渡すが、いくらかの扉と柱、それからかつて翔王の座していた辺りの床が苔生しているのが判るだけで、聖光石のほの白い光に照らされた神殿内に他の人影は無い。あ~、と、なおも視線をさ迷わせ、言葉をしばし探していたが、溜息混じりに視線を、胸の高さに有る少女の顔へと戻す。「……あ~、エア様、風の巫女様。ご自分の言葉の意味が判っていらっしゃる?つか、そんな事を俺に告げてどうし……ろ……って?」頭を掻きむしりながらの困りきった言葉を言い終える前に、それを遮るようにエアは詰め寄り、小さな拳を男の胸元へとぶつける。「みなまで言わせるつもりか?そなたがそれほどに頭の回らぬ奴だとは思っても居なかったぞ……つまりは、そういう事だ」歳相応の──少なくとも外見には相応しい、唇を尖らせ拗ねたような顔をして、しかしやはりどこか楽しげに答える。だが見上げた視線が、未だ目を白黒させ、ぱくぱくと口を閉じ開きしているのを映すと、その表情も消えた。「……己が身の危険をも顧みず、翔王様を滅し、そして今日、忌わしきラドラスからわらわを開放してくれた男だ。 よもや断るまい、と思っていたが……勝手な思い込みだったか。すまんな、忘れてくれ」一方的とも言える口調で言いきると、踵を返し、何事も無いかのような足取りで神殿の奥、己の自室へと向かうエア。だが、その直前、『翔王様』のくだりから彼女の瞳へと浮かんだ悲しげな揺らぎは見逃せるはずも無い。「ちょっ……待って!」叫び、男は駆け寄る。行く手を遮る相手に視線を合わせず、エアは「どうした?判っているだろう、今日は疲れていてな。さっさと休みたいのだ」それだけを答え、脇を擦り抜けて歩を止めない。
「だから待てって言ってるだろ!?」「……ッ」こちらの言葉を聞こうとしないエアの様子に業を煮やし、乱暴とも言える勢いでエアの肩を掴み振り向かせる。振り返り、普段の彼女からは想像できないほどに歪む表情に、「悪い……」謝るが、口にしてからそれが痛みだけによるものとは思えず、続くべき言葉を失う。「言うな。そなたの想いも考えずにこちらの勝手な想いを告げただけだ。もう一度言う。忘れてくれ」痛々しげな囁き、寂しげに彩られた微笑には、かけらほどの説得力も無い。掛けるべき言葉を見失った男は、再び背を向けた少女を抱きしめる。完全に予想外の行動に、エアは身を竦ませる。硬質で、しかし穏やかなぬくもりを男の持つ肉体は、荒れるエアをより昂ぶらせ、同時に得体の知れぬ落ち着きを与えてくれた。知らず、膝が振るえ、漏れる吐息が掠れる。知られてはならないと、気づかれてはならないと、声を振り絞る。「……何の戯れだ?同情なぞは欲しくない。離してくれ」「戯れなもんか……同情なもんか……」声と共に、己の髪に男の吐息が降りかかる。振りほどこうとする手足に力は入らず、せめてもの抵抗と見上げたエアの瞳に移ったのは、初めて彼を見たときと変わらない、否、それ以上の力強さを湛えた、真摯な男の表情。「ならば……ならばなんだと言うのだ……」その答えを確信しながらも問わずにはいられなかった。見詰めて居たいのに、視界が滲む。曇る世界の中、神に聞かれることすらも拒むように、男の唇がエアの耳元へと寄せられる。「……」無言で頷きあい、一度その身を離す。神殿の奥、エアの居室へと向かう二人の指は二度と離れぬとでも主張するかのように、しっかりと絡み合っている。
神殿の廊下を、二人が並んで歩む。構造上か、あるいは亡き翔王の加護によるものなのかは解らないが、日の射さぬこの通路も風が通り空気が淀むということはないようだ。今もまた、柔らかな風が火照る二人の頬をそっと撫で、通り過ぎる。その心地よい感覚すら気恥ずかしく思えて、共に交わす言葉もなく、静かな足取りでエアの居室へ。
その部屋へと足を踏み入れたとき、男は驚きを隠しきれなかった。どちらかと言えば実用主義を伺わせるものが多いとはいえ、室内を飾りたてる調度類は本殿の無機質で簡素な装飾と比べれば、豪華と言っていいほどであった。廊下などと同じく明り取りの窓すらなくて、そこだけ敷物のない床の中央に埋め込まれた聖光石が照明代わりだった。やはり空調は整っているようで石室にありがちな重苦しい雰囲気は感じられない。薄灯りもあいまって、いっそ幻想的と言って良いほどだ。一介の冒険者とは言えその実力を評価され、また個人的なコネもあって幾度となく宮廷へと足を運んだことのある身だったが、そこのものに勝るとも劣らぬ柔らかさで足を受け止める絨毯が、どうにも落ち着かない。その様子が伺えたのか、エアは、しかしどこか満足げな様子を覗かせて、眉を顰めて見せた。「立派なものだろう?町の民がな、こちらがいらぬと言うておるのに、予言の謝礼にと。まあ、わらわ一代で受け取った貢ぎ物の数なぞ、多寡が知れておるがな」じゃがと、あどけない、と呼んでも良いほどに表情を和らげて続ける。「こうして見せても恥ずかしくはない部屋に出来てそなたを招いたことを思うと、やはり皆へ感謝せねばならぬな。
……さあ、こっちじゃ」手招きのように手を差し伸べ、躊躇いのない足取りで寝台へと。「あ、ああ……」などと情けない声を立てて後に続く男に、エアは寝台の上で思わずにもクスリと笑い声を漏らしてしまう。それを手の甲で隠し、「いや、すまぬな。じゃが、そなたのそんな顔を見れるのも……いや、なんでもない」促されるままに隣へと腰掛ける相手を見上げながら、あまりに「青い」己の発言を、首を振って否定する。「ええと……それじゃ、宜しくお願いします」ぎこちない動作で頭を下げてくる男の様子が、普段の凛々しさとは全くに違い、それがまたエアには妙に可笑しく見えたのだった。「何、緊張することは無い……わらわとて、初めてなのだから。そうじゃな、まずは……」しばし天井を見上げ考えていたが、敷布との間に衣擦れの音を引いて体を滑らせる。不意に詰め寄られ、男はなす術も無く──「……!?」首にきつく腕が廻され、胸元と、唇に柔らかな感触が。唇を何かが割り開き、己の舌にぬめりを持ってしなやかに絡み付いてくる。口の中に入り込んできたものが舌であり、ディープキスなのだと気が付いたときには押し倒された形になっていた。エアが不慣れな接吻に、落ち着ける位置を取ろうと顔を動かすごとに、唇という粘膜同士が擦れ、稚拙な愉悦を互いへと与える。時折、歯が唇へと、あるいは相手のそれへとぶつかる事も有るが、その痛みすらも快楽の火種となり得るものだ。互いに絡まりあい、刺激のやり取りを続ける舌に応えてか、唾が沸き、粘りついた水音が響き始める。淫らな水音が、これまでの──こと性的なものに関しては禁欲的と言っても良い二人の昂ぶりを煽り、より深く、より深くと相手の唇を求め、互いの背へと廻した腕を、よりきつくする。
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