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 この、黄金の海さえ知っていれば、どんな苦しみも歩いて行ける。
 そう思い、稲穂を眺めた。
 こころは、ボルボラの圧制に立ち向かおうと思いを固めたあの頃と、今も、そのまま。
                 ・
                 ・
                 ・
             「黄金 の 海」


 もう、いいんじゃねえ? という弟の呟きに、何が? と言葉を返した。応えなが
ら、繕い物に糸を通す。向かいのベッドに座った弟は、胡座をかいて、こちらを見て
いた。
 「レムオンのことだよ。なんていうか、凄いことになっちゃったけど、ディンガル
との戦争も終わったし、闇の勢力とかも落ち着いたし、ここしばらく、皆で頑張った
から、魔物の数も大分減ったし……。
 そりゃ、レムオンがダルケニスだってことはバレちまったけど、ゼネテスさんも助
けられたし、新たな王女が出来て、一応は安定をみせたし、レムオンはロストールに、
居れると思う。ねえちゃんは、じゅうぶん、借りを返したと思うよ」
 「だから?」
 手を休めず、変わらずに布地へと針を通す。冒険者の宿泊する四人部屋には、姉弟
ふたり。仲間たちは出掛けていた。
 「だから! もぉいいじゃん、あのひとと付き合わなくたって! 俺たち、
さ……!」

 「お前は、ノーブルに帰って良いのよ。むしろ、帰るべきだわ」
 そう告げると、糸切り歯でぷちりと糸を切り、繕った布を広げて縫い地を
確かめる。そうして自分の出来に満足したかのように、ひとつ、頷いた。

 「チャカ、これだけは覚えておいて。私は彼に付き合わされたと思ったこと
なんて、一度も無いわ。私は私がしたいから、そのようにしただけのことよ。
借りとか、借りじゃないとか、そういう問題じゃないの。お前だって、分かっ
ているでしょう?」

 言い終わり、ぽん、と娘は弟の方へと繕い終わった服を投げた。弟はそれを
受け取り、もぞもぞと身に纏う。
 「お前にはお前の道がある。お前こそ、私に付き合うことは、ないの。ただ、
もし、出来るなら……。
 父さんの畑を、お願い。あの輝きを胸に、わたし、どこまでも生きて行けるわ」

 ――姉ちゃんは本当に、昔っから、そのままだ。そういう弟にほんの少しだ
け間を置いて、自分で繕う習慣を身につけるか、繕ってくれる、素敵な人を見
つけなさいと、ぽつりと告げた。弟はただ、片手できゅっと服の裾を握り締め、
静かにひとつ、頷いた――。



 「それで?」
 「弟はノーブルに帰ったわ。私もしばらくの間は依頼で忙しいけれど、年に
一度くらいは、顔を出してやろうと思ってる」

 カウンターに置かれたマグカップを、両手でそっと抱くようにして娘は応え
た。スラムの酒場には不釣合いな、柔らかな香りがマグカップから漂う。
 隣に腰掛けた男は、かららん、と氷の入ったグラスを傾ける。酒気が、こぼ
れた。


 「……で、お前さんはこんなことしてていいのか?」
 「良くないわよ。政の類をレムオンはエストに頼みたいみたいなんけど、
やっぱりエストはここに居着かないから。
 私が出て、色々と埋め合わせしなくちゃならないんだけど、私は政治のこと
なんて、やっぱり良く良く分からないし……。
 でも、だからといってレムオンが前に出るのは難しいから……何かあるとき
は私かエストが表立って動くことになっているわ。
 てんてこ舞いよ」

 「そりゃ、まぁ、そうだろうが……大変だな……」
 「同情はいいから!」
 だん! と片手をカウンターへと叩きつける。ぎろり、と神をも屠った者の
目線に、さしもの剣狼も身じろぎした。

 「政に絡む必要は無いから、城に出て、皆の話を聞いてやってよ! ゼネテ
スは、自由気ままにしていたいのかも知れない。それは分かるわ! 私もそう
だもの!
 ゼネテスは、戦争が終わって、自分の出来ることは終わったって、思ってい
るかも知れない。でも、違うの。
 お城に出て、面倒だなって思っても、人の話に耳を傾ける。何かを決めたり、
考えたりしなくてもいい。ただ、聞く。それだけで、少なくとも気に懸けて貰
えてるんだなって人は思うの。そうして、頑張ろうって思えるのよ。
 何事もそうだけど、何かを成すには協力者が必要でしょ? そうした協力者
は、官だけじゃない、民だってそうなの。そうした民の意見を聞いて、協力を
願う上では、あなたの力が必要不可欠なのよ。
 アトレイア様は、勉強家だし、きっといい女王になるわ。苦しみや痛みもき
ちんと分かるし、地位の高さに気取るところも無い。好奇心旺盛だからエスト
とも上手くいっているみたいだし、周りで支えてあげれば、女王も、ロストー
ルも、上手く行く。ディンガルとだってきっと、分かり合える」

 男の前でアトレイアの名前を出した時、ほんの一瞬だけ、娘の眉が曇った。
が、すぐに、言葉を続ける。
 「……もしかしたら、すべての種族が、分かり合える日だって、来るかも知
れない……」

 男はポリポリ、と頭を掻き、お前さんも、さ……と呟く。そこでふいに言葉
が切れ、娘は何よ? と眦を上げた。
 「気になるじゃない。何?」
 「いや、何でもねぇ……」
 「言ってよ。余計気になるわ」
 眉を寄せて問い掛ける娘に、珍しくも項垂れながら、吐き出すように男は言った。

 「辛い恋をしてんな、と思ってな」
 言葉に、娘は凍りついたようにゼネテスを見つめると、しばらく間を置いてから、
軽く頭を振った。そんなんじゃないわ。と溜息と共に言葉を吐き出す。

 「私は、ただ、力になりたいだけよ――それに第一、一緒になれるわけがないわ」
 きょうだい、なのだから。という言葉はうめきとなって、正しい響きにはならなかっ
た。ゼネテスは何も告げず、ただ、くしゃくしゃ、と娘の頭を撫ぜて、ほんの少しだ
け自身の方へと引き寄せた。

 「酒……じゃねぇ、茶が飲みたくなったら言え。いつだって、お前に付き合ってや
る――」
 言葉に、娘は幼子のようにひとつ、頷いた。



 初めて男と出会った時の第一印象は、警戒だった。とにかく腕は立つが、不審な人
物という印象だった。次に驚き――まさかリューガ家の――という点ではなく、まさ
か自分たちを助けてくれるとは――という驚き。そうして、恩という名の好意と、信
頼。

 共に歩める同志が欲しいと言われたとき、このひとの支えになろうと、そう思った。

 男が光の王女と呼ばれるティアナの事が好きなのだということは程なく気付いた。
そうして、ちくり、と胸を刺すものにも気がついた。男には、幸せになって欲しいと
思った。力になりたいと思った。ティアナのことが好きだというならば、叶えてやり
たいと、そう思った。

 けれども、旅をするうちに、どうしても、友と呼べる仲間が出来て。捨て置けない
ものが増えた。

 もうひとりの王女の存在に気付き、目を見えるようにした後の、シャリの言葉が気
になった。責任感も手伝って、アトレイアのもとへと通いつめた。自分の行動が噂に
ならないよう、エリスの良い餌となって、義兄を困らせることのないように、気を配っ
た。

 ティアナのことも、好きだった。明るく、優しい少女にはすぐに好感を覚えた。少
女が少女なりに、不安や孤独を感じていることや、自己嫌悪を覚えていることにも気
がついた。

 義兄と争っていた、エリスの事も嫌いではなかった。彼女は彼女なりに、懸命なの
だということに気がついた。その夫であるセルモノーも、彼なりに苦しんでいたこと
に、後になって気がついた。

 できる限りの人々を、助けたかった。守れる者は、守りたかった。


 「無限の……って言っても、限界っていうものが、やっぱりあるのね……」
 ぽつりと、呟く。

 『お前さんも、辛い恋をしてんなぁ……と思って』

 頭の中でゼネテスの言葉が甦る。
 はじめは、恩なのだと思っていた。だが、ティアナが堕ちた時に、ああ、これは恋
だったのだと気がついた。

 ”彼からティアナを奪ってしまった。”
 ”彼はこれで、幸せなのだろうか。”
 ”私はこれで、良かったのだろうか。”

 そんな思いが、頭を掠める。
 いっそ、あのとき――そこまで思考が伸びてから、慌てて頭を振った。これでは自
分が、闇に落ちてしまう。

 溜息をついて、今は賑わいを増したリューガ家の門番と挨拶を交わし、中へと入る。
執事であるセバスチャンと軽く話し込み、ぱたぱたと忙しげに屋敷を駆けるゴブリン
に微笑をこぼす。アトレイアはスラムの方へと下見に行っているらしい。団員のうち
ふたりが欠けているのは、護衛のためだろう。ひとりで屋敷を守って、偉いね。と声
をかけると、これが自分の務めゴブ! と胸を張って答えたさまに、ほんの少し苦味
の混じった笑みを洩らす。

 ――以前の屋敷のさまよりも、今の方が好きだと言ったら、果たして義兄はどう言
うだろうか?――

 ”――ふん、お前が来てからの慌ただしさに比べれば、静かなものだ――”

 きっと、今の彼ならば、そう、仏頂面をしながらも、許してくれるに違いない。彼
も、変わりはじめていた。
 だが、「兄妹」であるという嘘は、自分がこの国に居るためにも、彼がこの国に居
るためにも、覆せようのないものであり――やはり、一緒になることは出来ないだろ
うと、密かに彼女は溜息を吐いて、「義兄」の部屋の扉を叩いた。



 「護衛ですか? 私が、兄様を?」
 「そうだ。他に適任はおるまい」

 ソファに腰掛け、やや前のめりにして手を組む義兄を、対面した娘は幾許か、不思
議そうにして小首を傾げた。
 これからまた、どこかに行くのだろう。彼が普段纏っている赤い外套は、執務用の
椅子に掛けられている。

 「……お言葉ですが、兄様には護衛なぞ、必要無いと思うのですが……」
 「ほぅ、それは今の俺の身分を揶揄してのことか?」

 兄の言葉に、一瞬絶句し、慌てて身を乗り出し、改める。
 「ち、違います! 兄様の腕ならば、私の護衛なぞ、必要無いだろうという意味で
す!」

 「分かっている。からかっただけだ。こういうところは全く成長していないな、お
前は」
 ”成長していないのは、アンタの方だ!”

 内心毒づきながら、脱力する。ふふ、という男の笑い声に、顔を上げた。


 「だが、安心した。俺は明後日からリペルダムへ行く。お前にも、ついて来て欲し
い。確かに、お前がネメアと肩を並べるように強くなったように、俺の腕も増したが
――」

 そこで、ふと、笑みを消し、かつての彼の顔に戻った。
 「――俺の身は、以前に増して危うくなった――来てくれ、共に」
 義兄の言葉に、はい。と頷く。

 「――では、まだこちらに滞在している仲間にも声をかけてみます。レルラ=ロン
トンやフェティは、ロストールに……」
 「いや、いい」

 首を、傾げる。訝しげな娘の顔に、それこそ、必要無いだろう。と、やや呆れを含
んだ声でレムオンは言った。
 「神をも破ったお前の前で、誰が適うというのだ。――まったく――
 それよりも、連れて行く馬を選ぶ。お前も来い」

 立ち上がり、椅子にかけていた外套を手にする。余談許さぬ独特の口調に、娘はふ
と、顔をほころばせた。



 ぱちぱちという炎に、薪をくべる。くつくつと鳴る鍋の音に、火で炙られた魚の香
り。娘が夕食の準備を進めているのを、眺めながら「そういえば」とレムオンは呟い
た。

 「前にも、こういった事があったな。あの時はお前の弟も一緒で、随分と手際の良
いさまに、内心驚いたものだ」
 「そうしたそぶりは、全く見えませんでしたが」

 言いながら、木に留めている馬の荷から、木製の椀と皿とを取り出す。娘は静かに
座り、休んでいる馬の頭を撫ぜると、また、薪の側へと寄って夕餉をよそう。
 「『内心』と言っただろう――少しは察せ――」

 苦笑を浮かべながらの義兄の言葉に、同じく、苦笑を浮かべつつ娘は食事をよそっ
た器を手渡す。
 「冒険者稼業でなくとも、野営くらいは出来ます。まぁ、あまり料理の出来ない皆
のお陰で、あの頃よりも一層腕が磨かれることになりましたが」

 共に歩んだ仲間のことを思い出し、また、娘は苦笑いを浮かべた。そういえば、娘
の他に率先して作っている者はいただろうかと思い出そうとして――ほとんどこの娘
が行なっていたことにレムオンは気付いた。娘もそれに気付いたのだろう、仕方あり
ません。と溜息混じりに言葉を漏らす。

 「大抵、冒険者は野営のために料理も多少は出来るものですが、癖のある者が多かっ
たですからね。進んでやってくれたのはナッジと、ロイさんと、ルルアンタくらいで
す」

 セラもヴァンも、やろうと思えばやってくれたんですけれどね……という呟きに、
レムオンはふと、ある男が含まれていないことに気がついた。
 「ゼネテスはどうだったんだ? あの男なら、出来そうなものだが……」
 出した男の名前に、彼は駄目です。と娘は答えた。

 「話を聞いても保存食ばかりで、まず、作ろうという気がありません。一度、教え
ようとはしたのですが、野菜の剥き方から教えることになったので、諦めました」

 思い返すと頭が痛いのだろう。果物の皮は剥けるのですけどねぇ、と大きく眉をひ
そめながら、溜息をつく。苦笑いを浮かべながら、レムオンは適当に相槌を打った。
同時に、随分と自分たちはこの娘の世話になっていたことを、改めて感じた。

 手渡されたスープを、一口飲む。柔らかな味わいに、ふっと心が和らいだ。
 「質問が、ある」
 「何です?」
 「――どうして、最後の最後で、俺とゼネテスとをパーティから外した?」

 ”分かるよ。僕も、そうだったもの。今度は僕が、頑張るね”
 ”――ふん。俺の認める者は、ほとほと人が良いらしい――だが、お前らしい”
 ”優しいね、キミは――だから、ボクのコトも、あの、封印から――ううん。何で
もない”

 何故だ!? と声を荒げた義兄を、ゼネテスが慌てて留めた。巨人を討ち、神と王
女は古城にいると、告げられてからの事だった。憤る義兄に、目を合わせることが出
来ないまま、ケリュネイアに入れ替えを望んだ。

 ”考えがあるんだろう。――従おうや――”
 そう、ゼネテスに説得されて、義兄もどうにか静まった。渋々ながらも義兄は光に
包まれて消え、ゼネテスはいつものように、消える前にぽん、と自分の頭を撫ぜた。

 そうして、自分は顔を上げて、仲間を呼んだ。
 「ゼネテスはあのとき、考えがあると言っていた。俺も、そうだろうとは思った。
お前は単純だが、無思慮ではない――お前は――」

 再会してから、それ以降はお祭り騒ぎと再建と、魔物討伐とでそれどころでは無かっ
た。聞かれることなく、ほっとしていた。どう、答えようかと思っていた。
 「――俺やゼネテスが、ティアナを――」

 闇の王女を討ったとき、ああ、やはり、あの二人を連れて来なくて良かったと安堵
した。苦しげに歪む顔。鮮血。彼女を堕としたのは自分だ。彼女をつくったのは自分
だ。彼女自身でもあったが、自分でもあった。

 ――ならば、それを見届けるのは、自分だけでも、良いではないか――

 「私が、そうしたかっただけのことです」
 レムオンの言葉を、遮った。

 「――それで、良いではないですか」
 噛締めるようにそう告げると、あとはもう、木の爆ぜる音と、虫の音がこだまする
ばかりだった。




 リペルダムに着くと、まず、宿をとった。宿帳に名を記しながら、ああ、そういえ
ば二人きりで同室というのは、初めての事かも知れないな、とふと思った。

 一般的な常識でいうのであれば、異性と二人きり、というと互いにそういう関係か、
肉親関係だと思うだろう。実際、旅の当初では弟と自分の顔とを見比べられることが
幾度かあったことを思い出す。

 弟は「異性」ではなかった。「肉親」以外の何者でもなかった。そのため、特に意
識をすることはなかった。その時の気持ちを思い出しながら、義兄に受付が済んだこ
とを告げ、促す。
 義兄は、同室である事に特に何も言わなかった。

 ――恐らくそれは多分、彼にとっても、自分は『肉親』だという、ことなのだろう
――

 「今回は、あくまでお忍びとしてのリペルダム復興支援の様子見……ですが、特に
希望というものはありますか?」
 言葉に、義兄は「いや、無い」と軽く頭を振った。

 「お前こそ、何かここでの希望というものは無いのか?」
 言われて、ぱっと砂漠に住まう友の顔を思い出した。だが、義兄を伴って会わない
方が良いだろうと、すぐに思い直す。

 「……護衛にならないかも知れませんが、少しだけ、街を見回って良いですか?」
 「ひとりで、か?」

 はい。と頷く。義兄は言葉に、腰掛けていた椅子から身を起こすと、すっと娘の傍
らに立ち、耳元へと手を寄せた。
 「……まぁ、良いだろう。しかし、本当にそれだけでよいのか?」
 「いいです。だって、兄様について行くことが私の願いなのですから」

 笑みを浮かべながらそう告げると、ひどく口篭もりながら相槌を打たれた。彼の、
面白い癖だと思う。可愛らしいと思う反面、これだけ分かり易いのに、今までよく政
争なぞやってこれたな、とも思う。

 時々、と、気を取り直したかのように言い、そっと髪に触れられた。
 「……思うのだ。俺はお前の枷となっているだけではないかと。お前は、どこかに
行きたいのではないかと……な」

 「兄様を置いては行きませんよ」
 くすりを笑うと、わずかに身体を押され、胸元へと抱き寄せられる。すぐに抜け出
せるくらいに、軽く、抱き留められる。

 「……旅に出るか、弟と共に、ノーブルに帰るのではないかと、思っていた」
 「行きませんよ。兄様を放っては。……そうですね、もっとずっと落ち着いて、兄
様も、アトレイア様も、おひとり立ちされるようになれば、私も行くかもしれません」


 「……俺はお前の弟以下か……」

 「あら、チャカはあれで、しっかりしてるんですよ? いつ、姉離れしてく
れるのかと思ってましたが、恐らく、大丈夫でしょう。
 今ごろ、父の畑を見ていることでしょう。弟は面倒見が良いから、きっと良
い麦を実らせてくれますよ」

 目を細めて笑む娘に、ああ……と義兄は相槌を打った。
 「出会った頃に見た麦畑の中に、お前たちのものがあったな……確かに、あ
れは、見事だった」

 「御覧になったのですか?」
 ぱっと、笑顔をみせた娘に、やや、虚を突かれたかのような表情で、どもり
ながら男は答えた。嬉しい! と、娘はまた、笑む。

 「まるで、黄金の海のようでしたでしょう? 私、父さんのあの畑を見るの
が大好きなんです!
 知ってます? 麦は10日から4日で発芽するんですけれど、それを促すため
に、麦踏みを行なうんです。麦の蒔かれた畑に、ばらばらと土を撒いて、踏締
めるんです。これを行なうのは冬だから、風とかとても冷たくて、足の指先と
かもかじかんで来てしまうんですけど、ゆっくりゆっくり踏締めて行くうちに、
次第に体も温まって来るんです。そうやって、芽が出て、収穫した時の喜びは、
格別なんです。

 あんなにも冷たい大地から、そうして、上からの力にも負けず、よくぞ芽吹
いてくれたって、褒めてやりたくなるんです。真っ白な小麦粉が出来た時の、
喜びなんて、それは……!
 ――だから、ボルボラは本当に、許せなかった。あれだけは、決して――」

 言い、娘は目を伏せた。しん、と僅かに沈黙が下り、すぐにまた、「でも」
と、娘の声が部屋に響いた。

 「――でも兄様が助けてくれた。私と、弟を――。
 ――力になりたいと、思っていたのです。だから、枷などでは、ありません」

 そう、顔を上げ、レムオンの目を見上げた。レムオンは目を見開き、しばし
娘を見つめていたものの、さっと顔を背けると、ゆっくり、抱いていた腕をほ
どいた。

 そのまま、娘に向かい背を向けると微かに、項垂れた。
 「――――?」

 冷血の貴公子、などと称されるこの男が、その実、繊細な神経の持ち主であ
ることを娘は知っていた。自分は何か失言を犯し、彼を傷つけたのではないか
と、娘は慮って口を開いた。だが、相手の言葉が、先に響いた。

 「――町を見回りたいと、言っていたな。
 ――行って、来るが良い――」
 厳しく冷たい、声色だった。頷くしかない、合図だった。

 「夕刻までには、帰ります――」
 ぽつりと告げて、男に対し背を向け扉をくぐった際にも、男からの言葉は無
く、久方ぶりの冷たい振る舞いに、娘はともすれば涙を浮かべてしまいそうな
自身に、しっかりしろと叱咤するかの如く、強く唇を噛締めた。


 街のシンボルである時計台周辺には、今では広場としてだけでなく、市が並んでい
た。赤茶けたテントの下に、野菜や果物といった類から、一体どこから拾ってきたの
かと思える道具までが集まり、それらがずっと、スラムの方までも続いている。

 かつて煌びやか装いをみせる反面、スラムとの格差を見せていた自由都市は、ディ
ンガルとの戦によって、幸か不幸か、民の間にあった差を縮めていた。

 雑踏をすり抜け、正門へと進む。――とそこで、ふとした影に声を上げた。
 「――エステル!!」

 短髪に、似合いのゴーグルと、マント。一見少年かと思わせるような装いをした少
女は、ぱっと、声に対して振り返った。

 「……あ――!! うッそ! 久しぶり! 元気してた!? 凄いや! 本当に会
えたッ!」
 愛してるよー!! と叫びながら、自分へと抱きついてくる。娘もそれに応えなが
ら、私もだよー!! と言葉を返して友の体を抱き締めた。

 「一体、どうしたのさ! キミってば、もうずーっとロストールかノーブルに居る
ばかりで、会えないかと思ってたよ! ね、ね! ひょっとしてお兄さんの方が落ち
着いて……」
 「ごめん! ここに来たのは一応、手伝いなの!」

 また共に旅することが出来るのではないかと、浮き立つ友を、娘は手を合わせて宥
めた。そうだよねぇ、と、エステルは深く項垂れる。

 「……うん、そうかなぁ、とも思ったよ……
 ――悔しいなぁ、キミのお兄さん、キミを占有してばっかじゃん! キミは、ボク
の友でもあるのにさぁ!」

 膨れながら、橋の手摺にエステルは乗り、腰掛けた。変わらぬ友のありさまに、娘
はひとつ苦笑をこぼし、手摺に両の腕を乗せる。風がひょお、と吹き、エステルのマ
ントと、娘の髪をぱさぱさとはためかせ、二人はふと、空を見上げた。空は、出会っ
たときとも、ラドラスが墜ちたときとも、神を殺めた時とも全く変わらぬ、蒼天だっ
た。

 「……エステルは、どうして、ここに……?」

 「――キミに、逢える気がしたんだ――
 ――って言うのは、冗談! ホントはボク、よくココに来てるんだ。ホラ、ラドラ
スが今までみたいに機能しなくなっちゃったじゃない? だから、砂漠の民も今まで
みたいに内に篭もるだけじゃなくて、外界との交流が必要になってきたんだ。でない
と、生きていけないからね。まだ、おおっぴらに出来ないことばかりだけれど、ボク
たちにはボクたちなりの知識とかあるから、それを上手くウリに出来ないかなぁ、と
色々情報を収集しているところなんだ。

 ――こういうと、まるでボク、きちんと族長やってるみたいだね。ふふっ。
 ――ボク、もう、キミに守られてばっかじゃ、ないんだから!」

 偉いね。と微笑んで言うと、目を一瞬見張った後、友は顔を伏せた。やっぱり、ず
るいや。と、いう呟きが耳をかすめる。
 「キミのお兄さん、キミをひとりじめしてばかりだよ! ホントに兄妹なの!?
 もう! ふたりで、仲睦まじくしちゃってさぁ!」

 ”まるで親友――いえ、恋人どうしのようですわ――”

 ……きょうだいだよ。と、表情を変えずに答える。エステルはじっと娘を見つめて
いたが、ふいに目線を逸らすと、ふぅ。と溜息をついた。

 「……キミがボクのお姉さんだったら、良かったのになぁ……」
 恋人どうしなら、まだ、諦めがついたのになぁ。という呟きが、ひどく、痛かった。

 「――ね! キミ、そう言えば農作物に関して詳しかったじゃない。砂漠に強い植
物とか、うまい用水の仕方とかってさ、知ってたりしない?」

 ぱっと笑顔を向けた友人に、娘も同じく笑顔を返し、ひょいと手摺に腰を降ろした。
目線を足元に移した時に、砂がさらさらと、風に乗って流れて行くさまが見えた。

 ――話は尽きず、気付けばとうに日が傾き、崩れ落ちた瓦礫を茜色に染めていた。
ひょおう、という肌寒さを感じる風に、帰らなければという思いが頭をかすめるもの
の、友の笑顔に、なかなか別れを切り出せず、結局場を辞せたのは、空に群条色が混
じりをみせてからのことだった。

 また逢おう! という別れとともに、友の姿を見送ると、娘は一路宿へと駆けた。
道は暗い。闇路に足をとられぬように、けれども全力で、娘は駆けた。宿に入り、無
作法だときつく叱られて以来、音を立てぬように階段を上ることも忘れ、義兄の居る
部屋へと駆け上がり。息を整えて、軽く二回、ノックした。

 返事は、無い。
 「――――?」

 再度、ノックする。だが、依然と応える声は無く、訝しげな表情を浮かべながら、
ノブを回すときゅるりと回った。開いている。
 恐る恐る、中を窺う。部屋は、真っ暗だった。

 切り取ったかのように、ドアから開けた光が、直線状に伸びる中、娘は一歩、闇の
中へと足を踏み入れた。
 「遅かったな」

 ふいに、声がした。ドアが閉まる。灯りは遮られ、部屋は深海の如く重い闇のうち
に捕らわれる。腕を、掴まれた。痛い。声は義兄のものだ。ならば、この腕も義兄の
ものであろうとは推測ついたが、それまでにされたことのない扱いに、ひどく、違和
感を覚えた。

 「――あ、ぐうぜん、ゆうじん、に――、エステルに、あっ、て――」
 違和感と、共に高まる緊張感に、自然、声が喘いだ。

 「本当か? ――随分と、日が傾いたものだが――友との再会はそんなにも、楽し
かったか?」
 「――にい、さま。エステルは――」

 「知っている。お前がこの世界に災いを招こうとも、助けたかった相手だ」
 違うか? と、声がした。危ない。と、脳裏で何らかの光が点滅した。この感覚に
は覚えがあった。自分と、義兄と、ゼネテスと、アトレイアと、ティアナが、招かれ
た――

 ――空中庭園――


 お前は、と声がした。
 「お前は、本当は、俺などではなく、友と、ゼネテスのように――自由に生きたかっ
たのではないか? お前は俺を、憐れんだのか? 俺が、ひとりでいることを。
 憐れんで、側にいただけではないのか?

 ――真っ平だ! 同情など!!」

 がたんと、椅子が倒れた。押す力に、バランスを取ろうと、たたらを踏む。手が、
カーテンを掴み、支えきれずに、そのまま高い音を立てて引き裂けた。
 月のない、星明りが部屋の中を僅かに照らした。そこには銀色の、赤い目を持つ異
形の者が、自分の上へと圧し掛かる姿があった。

 「にい、さ――」
 「兄ではない」

 影が重い。自分に重なる。銀髪が、ちりちりと肌を、燻す。
 「俺は、お前の兄では、ないのだ――」
 唇が、合わさった。

 くぐもった声が漏れた。ぎりぎりと、平生とは全く異なる力で、異形の者は娘を組
み敷く。長い口付けに娘が呼吸を求めて喘ぐと、男はすっと唇を離し、意にも止めず
に娘の首筋へと口を寄せる。ちろり、と這った舌に、娘の肌は、ぞくりと粟立ち――。

 次の瞬間、痛みが、走った。

 その感覚を、何と言えば良いのか――血が抜かれて行く、脱力感。そうして淡い、
酩酊感――頭のしんが、くらくらとする。異形の者は夢中になったかのように、血を
啜る。音が、ひどく、卑猥に聴こえる。頭の霞は、どんどん酷くなってゆく。押しの
けようと思っていた自分の手足からは、既に、そんな余力などなくなっていた。

 ”このまま。”
 ”このまま、このひとの、糧となって、死ねるなら――”

 ――わたしはそれで、良いかも知れない――
 と、そんなことを、ふと、思った――。



 目が覚めると、ベッドに横たわっていた。ジジッと、ランプの燃える音がする。額
にじっとりとへばりつく汗を、拭いながら娘は身を起こした。身が重い。

 ――夢、だったのだろうか――?

 ぼんやりとする頭で、そんなことを思った。自然、オレンジ色のランプの明かりを
頼りに、義兄の姿を探す。
 部屋の中に、彼の姿はなく、かわりに、彼が普段纏っている赤い外套が、椅子に掛
けられていた。

 ”手洗いか、ひょっとしたら下で何か飲んでいるのかも知れない”
 そう思い、再度、ぽすん、とベッドに横たわる。異様なまでに体が重く、思考が緩
む。これは何なのだろうかと額に手をやり、そのまま頬から首筋へと、手を動かし――

 がばりと、身を起こした。

 ブーツを履き、鎧も身に着けぬ普段着のまま、剣だけを、身に帯びる。部屋から飛
び出そうとしたところで、慌てて思い出し、かのひとの外套を手にする。階段を駆け
下り、宿の主人に簡単に用を告げ、押し付けるようにして金を渡すと、闇路を走った。
月のない夜の道は暗い。果てしなく。いまにも、足を捕らわれそうなほど。

 娘はそこを、ひた走った。手を首筋へと添えながら。


 首筋には、真っ白な包帯が、巻かれていた。




*----To be continued!----*