とある魔術の禁書目録 自作ss保管庫

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翼を広げて 1



「おーい、御坂ー!」
 三月の人波に、どこか遠くで雲雀の鳴く声がかすかに響く。
 上条当麻は久しく姿を見なかった御坂美琴の背中を見つけ、大きく手を振った。
「久しぶりだな。元気してたか?」
「ん……アンタは相変わらず元気そうね」
 上条は美琴の隣に駆け寄ると、歩く歩幅を美琴のそれに合わせて歩き出す。
 一時期は毎日のように顔を合わせ、毎日のように電撃付きで上条を追いかけ回していた美琴の姿が、ある日を境にふっと途切れてもう何日経っただろうか。近頃は遠くで姿を見る事も三日に一度、あるいは一週間に一度など間が空いている。
 ここのところ美琴とは特に話す事もなかったので、上条は最後にコイツと話をしたのはいつだっけ? と思い返して
「こうやって話をすんのは二月の……えーと、バレンタインデー以来か。あん時はチョコレートサンキューな。あれうまかったぞ。そう言えば感想を……?」
「………………」
 美琴はひどく疲れた様子で、上条の言葉に反応を示さない。あれもしかして怒ってんのか? と上条は美琴の言葉を待つが、美琴はどこか遠くを見つめたままぼんやりしている。
「御坂? 御坂さーん? もしもーし? どうしたんだボーッとして」
「……え? あ、ああえっと、何だっけ。ごめんごめん」
 上条が美琴の前でパタパタと手を振ると、たっぷり二分ほどかかって美琴がスリープモードから復帰した。
「い、いや特にどうってわけじゃないんだけどな。なんかすげー疲れてんのか?」
「……あ、うん。ちょっとね」
「そっか。じゃあ短い間だけど、鞄持ってやんよ」
「…………え?」
 上条は美琴の学生鞄をひったくると、自分の鞄と二つ合わせて肩に担いだ。いつもならここで機敏に反応するはずの美琴の動きはどこかスローモーで、空になった自分の手を見つめたまま微動だにしない。
「え? じゃねえよ。本当にどうしたんだ? どっか具合でも悪いのか?」
「あ、ああ……具合はどこも悪くないわよ、うん。ただちょっと疲れてるだけかな」
 首を横に振って、美琴は否定する。しかし美琴の笑顔はどこかやるせないものを漂わせていた。
「そっか。まあお前若いからしっかり栄養摂ってぐっすり寝ればすぐに回復すんだろ」
「そうね。そうよね、私若いもん、うん」
「………………御坂?」
 気持ちが悪くなるほどに、美琴の反応がおかしい。こっそりのぞき見たその横顔は隠しきれないほどの疲労を滲ませている。
 何があったのだろう。
 ここで『うっさいわね!』とか『やかましい!』とか最悪電撃付きで両手を振り回すはずの常盤台のお嬢様の反応がおかしなほど薄い事に、上条はおののく。
「……ごめんなさい許してください」
「は? アンタいきなり何言ってんの?」
「いや、御坂の反応がやけに怖いから。俺またなんかしたのかなーって」
「別にこれはアンタのせいじゃないわよ」
 美琴はふう、とため息をつく。
「そ、そうか?」
 上条は美琴の顔色を伺うように
「そ、そうだ! ホワイトデー! ホワイトデーの事でちょっとだな」
「……ホワイトデーっていつだっけ?」
 そう言って美琴は自分のこめかみに人差し指の先をつけうーん、と唸る。
「御坂、それ本気で言ってるか? それともボケてんのか? 三月一四日だろが。そう言えばお前、先月も俺にチョコ渡すだけ渡してさっさと行っちまったっけな。本当にどうしたんだよ。そこまで疲れるほど何かあったのか?」
「え? ……ああ違うわよ。学校の課題で頭がいっぱいだったから日付とイベントが結びつかなかっただけ」
 超能力開発の名門、常盤台中学は卒業後即第一線に立つ事を目標とし生徒に充実した教育を授けている。その授業内容の出来は普通の中学とは一味も二味も違い、一〇代前半の彼女達には常に大学レベルの講義が施される。
 そう言う学校の課題ってどんなのだろうと、上条は思う。普通の高校に通う上条にはまるで想像もつかない。それにようやく退屈な授業から解放されたのだ。ここで勉強の話なんかしたくない。
「お前も何だかんだ言って大変だな。それでえーっと、ホワイトデーの話なんだが。お前何か欲しいものってある? あまり無茶なものでなければ……」
「……アンタ暇?」
 いきなり話が飛んだ。
「は?」
「だから三月一四日。アンタ暇?」
「……暇じゃないからお前の希望を聞いてんだ。俺はこの春休みずーっと補習で……」
「その補習って、何時までやってんの?」
「補習の時間割は普通の授業と同じで四時三〇分までだな。そう言う事で俺は」
「じゃあその後は時間あるの?」
「そりゃ……あるけど。何だよ藪から棒に」
「んじゃ、その日私に付き合ってくんない?」
「はい? 付き合うって、何?」
「いやだからあのさ……アンタ何でじりじりすり足で間合いを広げてんのよ? 別にとって食ったりはしないわよ」
 取って食いはしないかも知れないけど、超電磁砲は飛んでくるかも知れないじゃんかと上条は独りごちる。過去に下手な返事をして雷撃の槍付きのお怒りを買った事数知れぬ上条としては、命惜しさで腰が引けてしまう。
「あの、御坂さんはその日何かご予定でもおありなんでしょうか?」
「あるわね。ということで三月一四日、私に付き合って。三倍返しでプレゼントよこせなんて言わないから」
「……本当に?」
「ホントホント。だから三月一四日は予定空けておいてくれる?」
 希望を聞いてプレゼントで済ますのと、美琴に半日付き合うのとどっちがマシなんだろう。どっちもどっちなら本人の希望に添う方がまだ良いと上条は脳みそをフルに使って演算結果をはじき出す。
「わかった、三月一四日な。空けとく。どっかで待ち合わせすっか?」
「じゃあここで」
「ここ?」
 上条は足元を見る。二人はいつの間にか、ちょうどそれぞれの寮へ向かう分かれ道に立っていた。いつもここで上条と美琴は顔を合わせ、ここでバイバイをしていた。
「……じゃあ、ここな」
 上条は美琴の態度に何か解せない物を感じつつ、ひとまず頷くことにした。
 美琴の反応と良い、突然の約束と良い、何かがおかしい。
「じゃあ三月一四日の時間はえーと……きりの良いところで午後五時にここで待ち合わせ。私忙しいから遅れんじゃないわよ」
 上条から鞄を受け取りながら美琴は念を押す。それは上条に対してと言うよりも、自分に対して行っているように聞こえた。
「あ、ああ。なるべく頑張る」
「なるべくじゃなくて頑張んの。それじゃ私行くわね。バイバイ」
 御坂美琴は薄い反応のまま、上条当麻にひらひらと掌を振ると鞄を担いですたすたと歩いていった。
「……何があったんだ? アイツ」
 思春期特有のお嬢様の思考なんて、上条にはわからないし理解したくもない。

         ☆

 三月一四日の午後五時になった。
 上条は長引きそうな補習にじりじりしながら四時三〇分の鐘を待ち、チャイムと同時に教室の清掃をすっぽかして走った。走った先には私服姿の美琴が待っていて、上条はあれ? と首をひねった。
「御坂、だよな? 制服はどうした?」
 常盤台中学では、休日でも制服着用が校則として定められている。故に今の美琴の姿は校則違反ぶっちぎりなので、上条は顔をしかめた。
「おいおいお嬢様、制服はどうした制服は? お前その格好はまずいんじゃないのか?」
 美琴の現在の出で立ちを説明すると、上はロングスリーブのカットソーにショートパンツ、その上からシャツワンピースをコート代わりにはおって、足元はパンプスの上からカバーをかぶせたようなブーツを履いている。美琴は何となく着こなしているが身につけたアイテムのどれを取っても高級そうなのは、上条の目から見ても明らかだ。
「ああ、今日は良いの。そう言う日だから」
「そう言う日ってどういう日だ?」
 上条は思わずツッコむ。常盤台中学はいつからホワイトデーなら私服オッケーとかそんな愉快な校則を掲げる学校に宗旨替えしたんだろう。
「ま、いいからいいから。とりあえず行きましょ」
「行くってどこへ?」
「こっちこっち」
 美琴は上条の腕を自分の腕に引っかけるようにして、有無を言わさず歩き始めた。

「――映画?」
「そ。ビバリー=シースルーの新作がちょうど先週から上映されてんの。私この監督好きなんだ。と言う事で今日の一つ目はこれね」
 どこをどう歩いたのかよくわからない。
 気がつけば上条は美琴と共に映画館の前に立っていた。
 ビバリー=シースルーはユーロ系恋愛映画の超新星として一躍注目を浴びているが、上条はそんな知識は持ち合わせていない。ちなみに本日二人で見る映画のタイトルは『その鐘が消える時』。海の向こうでは興行第一週で全米第三位に躍り出た話題作らしく、上映を待つ長蛇の列ができている。
「ちょっと待て、一つ目って何だ一つ目って。ずいぶん不吉な封切りだなオイ」
「何よ。いやなの? 今日は私に付き合うって言ったじゃない」
「い、いやじゃねえけど……いやじゃねえけどよ」
 何やら劇画チックなを宣伝看板を見て顔を歪めながら、この場合はチョイスが問題だろうと上条は思う。アクションやパロディ馬鹿ムービー、ぐっとハードルを落としてアニメならともかく、よりによって恋愛映画だ。
 ……よりによってそう言うのと縁がなさそうな御坂美琴と見る映画が恋愛物だなんて。
 上条は美琴の意志を翻そうと抵抗を試みるが
「すみません、中学生一枚と高校生一枚」
「うおい? いつの間にかチケット売り場の前かよ!」
 必死の抵抗は滑稽なほどに間に合わず、どこか上機嫌な美琴と腕を組んだまま、いや連行されたまま上条は映画館の中に入った。

「はいこれ持って。アンタコーラでいい?」
「……サンキュー」
 ちょっとここで座って待ってて、と美琴に言われて待つこと五分。
 ドリンクのカップを二つ持った美琴が席に戻ってきた。
「そういやお前、今日は体調良さそうだな。ちゃんと寝たのか?」
「は? 私の体調がどうかしたの?」
 シートの座り心地を確認しながら、美琴が怪訝そうな顔で上条を見る。
「どうかしたの? ってお前……この間なんかめちゃくちゃ疲れてたし体調悪そうだったからどっか具合でも悪いのかと思ってさ」
「ああ、それなら一晩ぐっすり寝たら治ったわよ。心配してくれてありがと」
「んならべつに良いけどよ。一応聞いとくけど、この映画って恋愛物だよな? 悪いけど俺五分で撃沈すんぞ? それでなくても今日は補習で疲れてっから」
「ああ、良いわよ別に。その代わりアンタの左手貸して」
「左手?」
 上条はおそるおそる左手を美琴に差し出すと、
「アンタの手って結構大きいのね」
 美琴は上条の手をそっと握りしめた。
「あの。まさかとは思うけど……俺が寝たらつないだ手から即電撃とかそんなステキなイベントを企画されていらっしゃいますか?」
「……アンタの頭ん中じゃ私はどういう人間になってんのよ?」
 薄暗がりの映画館の中でもはっきりわかるほど、美琴が額に青筋を立てる。
 馬鹿正直に頭の中の美琴像をそのまま話せば握られた手から一〇億ボルト直撃コースは免れない。上条は曖昧に笑ってこの場をやり過ごす事にした。
「別に寝ても大丈夫よ。ただ映画の間この手を貸してほしいだけ」
「右手じゃなくて?」
 上条の右手には幻想殺しという不可視の力が備わっている。その右手で触れた物はそれがどんな出自であれ異能の力なら全てを打ち消す。といっても大地を流れる何とかエネルギーや人の命などは消せないため、上条自身でも説明できない。
「右手でも良いんだけど、そっちから右手だと遠いでしょ?」
 美琴は上条の左隣に座っている。上条が美琴に右手を回そうとすると、上条はスクリーンに対し半身を捻らなくてはならない。二時間ちょっとの上映時間でそんなヨガみたいな苦行を行うのは罰ゲーム以外の何物でもない。
 罰ゲームなんて一回やれば十分だ。
「左手で良いって言うなら、良いけどよ」
 上条は自分の掌にすっぽり収まりそうな美琴の右手を見る。こいつの手って改めて見るとちっさいなあと、上条は美琴の手をなるべく力をかけないように握り返した。
 すると美琴が上条とつないだ手を見て、次に視線を上条に移す。
「何だ? 何か問題でもあったか?」
「なっ、なっ、なっ、何もないわよ。あっ、そうそう。アンタ、暗いからって私に変な事したらその場で一〇億ボルト行くから覚悟しときなさい」
「間違ってもそんな事はしねーから安心して映画に集中しろ中学生」
 上条はぷいと視線を美琴から外し、スクリーンに向き直る。
 何か言いたげな美琴を上映開始のブザーが遮り、場内の照明が落とされて二人の間に闇が割って入った。
 宣言通り、上映開始後わずか五分で上条は眠りこけた。
「……ある程度予想はしてたけどさ、まさかここまであっさり寝るとは思ってなかったわよ」
 上条の頭は座席の中心から外れ、首は左に大きく傾いている。
 美琴は上条の頭を引くと自分の肩に寄りかからせ、次いで自分の頭を傾けて上条に寄せる。それからおそるおそる右手の指を開き、その一本一本を上条の指の間に通して握った。
「アンタはきっと、今日の事なんて忘れちゃうんだろうな」
 他の客の邪魔をしないよう注意しつつ、美琴は隣で眠る上条に囁く。
「……忘れちゃうんだろうな」
 小さな寝息を立てている上条を起こさぬように気をつけながら、美琴はあと少しだけ手を握る力を強める。
 忘れて欲しくないと願いながら、小さな手は大きな手を握りしめた。

「あー、良かったなあのラスト。やっぱりビバリー=シースルーの作品っていいわね」
「ふあぁ……そうだな。俺はあのシベリア超特急まがいの列車が走るシーンが良かったと思うぞ」
「んなもん映画の中で一瞬たりとも出演してないわよっ! アンタ寝てたのバレバレじゃない!」
 ぎゃああっ! と美琴が叫びながら両手をブンブン振り回す。
「……、俺は恋愛物だと寝るって最初にそう言っただろうが。一緒に見て欲しいんだったらアクション物かお笑い系が上条さん的にお勧めだな。次はそっち系で頼む」
「………………」
「御坂?」
 上条の腕にぶら下がったまま、美琴が押し黙っている。
「なあ、御坂? 急に黙ってどうしたんだ?」
「……何でもない。ねえアンタ、お腹空かない? そろそろご飯食べに行こっか」
「へ?」
 美琴の急激なテンションの変化について行けず、上条は半開きの口で音を出す。
「腹減ったって言えばまあ……時間も時間だしな」
 現在時刻は八時少し前。いつもの上条家なら夕食はとっくに終わっている時間だ。
「んじゃ行こう。私いいところ知ってんだ」
「……俺の予想の範囲内で頼む」
 それから俺の財布の範囲内で頼むと心の中でこっそり上条は願う。
「大丈夫よ。アンタも知ってるところだと思うから」
「そうか、そりゃ良かった」
 上条がそこを知ってるからと言って、お嬢様が行くようなお食事処が上条の基準と合致するとはとても思えない。
 上条は携帯の待ち受け画面で時計を確認しながら
「そういや御坂、お前門限はどうした? もうそろそろまずいんじゃないのか?
「ああ、今日は良いの。そう言う日だから」
「だからそう言う日ってどういう日だ?」
 上条は思わずツッコむ。常盤台中学の学生寮はいつからホワイトデーなら門限破りオッケーとかそんな愉快な規則を掲げる寮に宗旨替えしたんだろう。
 上条を引きずるように、美琴は進む。
 それはタグボートが自力で動けぬ艀を海上で牽引するように。
 マイペースな子供が困惑する親を好奇心で引っ張り回すように。

「ハンバーグセット、お待たせいたしました」
 上条が連れてこられた店は、上条もよく知っているファミレスだった。上条の通うとある高校からほど良い距離にあり、上条自身も何度か利用した事がある。
 しかしここって常盤台のお嬢様が来るような店じゃなかったと思うけどな、アイツの学校からだとここってちっと遠いし、と上条は考える。
 この店は常盤台中学の生徒が利用する場所としては距離が離れている。ファミレスなら学舎の園の外周にもいくつかあったし、だいたい目の前の美琴とファミレスというのが上条の中で結びつかない。
 上条がナイフとフォークを使って、目の前に置かれたハンバーグをざくざくと切り分けると、対面の美琴はそれをさらに小さく切り分けていた。美琴は上条のようにがぶりと大きな一切れにかじり付くのではなく、一口大のサイズにしてそれから食べるらしい。腹持ちを考慮した上条はライスの和風セット、美琴はロールパンのセットを選んでいる。
「お前がファミレスを知ってるとは思わなかった」
「? 普通に使うわよ? 黒子達とお茶したりとか」
 何で? と言う顔で美琴が上条を見る。
 美琴は上品な手つきでハンバーグを切り分け、そのうちの一切れを口に入れた。
「まあ何だって良いけどな。……口元のソースはきれいに拭いとけよ、お嬢様?」
 その一言で何かを思い出したらしい美琴がテーブルの上の紙ナプキンをひったくるように取り、口元をゴシゴシと拭いた。
 それから美琴は自分の鉄板の上にあるハンバーグをじーっと見つめたあと、そのうちの一切れにフォークをグサッと突き立て、上条の前に突き出した。
「……はい、あーんして」
「あーんして、って俺とお前は同じメニューを頼んでるだろうが。同じ物食ってどうすんだよ」
「いいから。あーんしなさい」
「食いきれないのか?」
「そんなことないけど。良いから口を開けなさいよ」
 ハンバーグを差し出す美琴は笑顔だが、目が笑っていない。何と言えばいいのだろう、たかがハンバーグ一切れでとてつもなく深刻な目をしている。
 上条はそれを見て、『子供が大人の真似をしてやりたがるのと同じか』と納得しておそるおそる口を開け、次に目をつぶり、ちょうどフォークに突き刺さったハンバーグのあたりでえいやと口を閉じる。
「……あれ?」
 上条の口の中にハンバーグの感触はなかった。無論フォークの感触も。
 閉じた時と同じようにおそるおそる目を開けると、ハンバーグは美琴の口の中にあった。
「やーい、引っかかった引っかかった」
 面白い物を見たように、美琴はナイフを持ったまま上条を指さしゲラゲラと笑う。
「この野郎、食い物で遊んでんじゃねーよ!」
 ああ畜生まともに付き合って損したと、上条は自分のハンバーグにかじり付く、ふと上条は何かを思いつき、ニヤリと笑った。
「ほれ御坂、口開けろ。あーんしろあーん」
 上条は自分の鉄板の上に乗ったハンバーグをフォークに刺し、美琴の前に差し出す。美琴はハンバーグと上条の顔を等分に見比べて、疑り深そうな視線を上条に向けた。
「御坂。あーんだよ、あーん」
 上条はニヤニヤ笑いながらほれほれとハンバーグを美琴の顔の前になおも差し出す。
「あ、アンタ、さっき食べ物で遊ぶなっていったじゃない」
「うん? だから上条さんは遊んでなんかいませんの事よ? 御坂、口開けろ」
 なおも美琴は疑り深い視線を上条に向けたまま、様子を伺っている。
「早く食わねーと冷めちまうぞ、ほれ」
 美琴はゆっくり口を開け、上条のハンバーグにあむ、と小さな口でかじり付いた。
 ……かじり付いたまま動かない。
「……御坂さん? 食べるなら食べようなそれ」
 美琴のように上条もフォークを引くと思っていたのか、あると思わなかったハンバーグにかじり付いた姿勢のまま美琴が目だけで上条を見る。
 何故だろう。美琴の顔がどんどん真っ赤になっていく。
「御坂? もしかして窒息してねーかお前? なんか顔が真っ赤になってるぞ?」
 そこで美琴が硬直から復帰し、小さくハンバーグを租借して飲み込んだ。
「水飲むか?」
「どっかで見た事ある構図みたいに神妙な顔して水差し出すんじゃないわよっ! 別に私は窒息も過呼吸も起こしてないってば!」
 そうか、と上条はライスの皿を掴んで大盛りのそれを口の中に流し込む。美琴は上条の学ランの裾をチョイチョイ、と引っ張って
「……アンタの分食べちゃったから。はい」
 フォークの先に女の子の口のサイズに合わせて切ったハンバーグを二切れ刺し、上条の前に差し出した。
「……とか言ってまた手前でフォーク引いたりしないだろうな?」
「しないわよ今度は」
 美琴の顔は赤いままフォークと逆方向を向いている。これなら、上条がかじり付こうとした瞬間フォークを引く事はできないだろう。
「んじゃ、遠慮なく」
 上条はぱくっとハンバーグにかじりつき、歯でフォークから引き抜くとむぐむぐもぐもぐと良く噛んで飲み込む。美琴は空になったフォークを手元に引いてしばらくそれを見つめていたが、上条と鉄板の上を何度も何度も見比べた後フォークを置いた。
「ん?」
 美琴はボックスの中から割り箸を取り出すときれいな手つきで箸を割り、次にハンバーグを箸でつまみ、左手を右腕の下に添えて上条の前に差し出した。
「……ほら」
「……」
 上条はぱくっとハンバーグを食べる。
「おいしい?」
 美琴の問いに上条は一つ頷いて、次をよこせとジェスチャーで示す。
 美琴が次のハンバーグを差し出す。
 上条が食べる。
 美琴が差し出す。
 何か親が子に食べさせてるみたいだよな、と上条は口をもぐもぐさせながら美琴を見る。何が楽しいのか、美琴は微笑みを浮かべて上条が食べる様を見ていた。
「……あの、俺お前の分結構食っちまったけど、いいのか?」
「いいわよ。アンタおいしそうに食べてたし、私はもう十分。お腹一杯と言うより胸一杯かな」
 美琴はロールパンをちぎって食べる。
 胸一杯で腹が膨れるって女の子ってのはつくづく便利な生き物だなと思いつつ、上条はお冷やを一気に飲み干した。

 ファミレスを出る時は支払いでもめにもめた。
 最終的には上条が『映画のチケット代出してもらってんだからここは俺が払う』と言い、美琴はそれに従った。
 お嬢様の金銭感覚で何でもかんでもやられちゃ困ると思いつつ、上条は隣の美琴を見る。
 美琴は立ち止まって上条を見てはうつむき、また顔を上げてはうつむきを繰り返していた。
「……何だ? 何かあったか?」
「えーっと……腕組んでも良い?」
「お前さっきから俺の腕さんざん引っ張っといて何言ってんだよ。……別に良いぜ。この時間じゃ誰かと出くわす可能性もないしな」
 ほれ、と上条は美琴に左腕を差し出す。
 美琴は先ほどとうって変わっておずおずと上条の腕を取り、胸の前で抱いた。
「んじゃ、次行ってみようか。次はあれね」
 美琴は彼方の空を指差す。
「……空?」
「わざとらしくボケるなっ! ……あれよあれ」
 美琴が指差すその先には、かすかに遠く観覧車が見えた。かすんで見えるという事はつまりその物体がこの第七学区ではなく彼方にある、ということだ。
「あのさ……一つ聞くけど。あれって第六学区にあるテーマパークの観覧車で間違ってないよな?」
「そうよ。よく知ってるじゃない」
「よく知ってるじゃない、じゃねえっ! あれは――」
 第六学区と名はついているが、第六学区は数字通り第七学区に隣接しているわけではない。第七学区と第六学区の間には大学生を対象とした第五学区を挟んでいる。件のテーマパークに行くには、二人がいるこの場所から電車を使っても結構時間がかかる。
「今新入学シーズンって事で、ちょうど深夜営業してんのよ。あれ行こう」
「本気かよ?」
「本気よ。ああちなみに歩いていくから」
「何がどこまで本気なんだテメェっ!?」
「今日は私に付き合うって約束したんだから男らしく観念しなさい。ほら顔上げて」
 だからって何が楽しくて深夜の行軍に付き合わなくちゃいけねーんだよ、と上条は泣きたい気持ちで一杯になりながら歩く。
 目的地の観覧車は、まだ遠い。

         ☆

「うだー、疲れた……」
「はいはい、お疲れ様」
 同じ距離を歩いたというのに、美琴は疲れも見せず満面の笑顔を上条に振りまく。
 その笑顔が上条には腹立たしく思えて仕方がないが、約束だ我慢だ忍耐だの一念で順番待ちの列に並ぶ。
 そばにあったパンフレットを広げると、この観覧車は一周するのに一五分かかるらしい。
 っつー事は何かこの列に並んでる連中はこんな夜遅くに全員一周一五分の苦行に挑もうという強者ばかりなのかと上条は感心した。よく見ると強者のほとんどは男と女の二人組だったりする。
 上条は自分の腕にぶら下がった美琴を見る。
 美琴は上条の腕にしがみついたまま上条を見る。
「あのー、御坂さん?」
「何?」
「貴女様は何を企んでやがりますか今すぐ吐けこの野郎」
「? 別に何も企んでないわよ?」
 キョトンとした顔で、美琴は上条を見る。
 上条は大きくため息をつき、目の前にそびえる観覧車を見上げた。
「……まあそうだよな。これに一人で乗るのはちっときついよな」
 夜中にカップルばかりが並んでいる電飾キラキラの観覧車に一人で乗り込む姿を想像すると、背筋が寒いというか猛烈に侘びしい。っつーか、……辛い、悲しい。
 美琴が死出の旅路の道連れに自分を選んだというのなら、乗ってやろう。
 上条は一人で納得し、もう一度観覧車を見上げた。
 観覧者は無数のカップルを乗せて回り、同じ数だけカップルを吐き出す。
 自分たちもそんな一組のうちの一つに数えられるのだろうか。
 答えは観覧車だけが知っている。

 上条と美琴を乗せたゴンドラは頂点を目指し、ゆっくりと動き出す。足元が地面と決別し、ゴンドラは同じ軌跡を描いて他のゴンドラに追随する。
「……きれい……」
 窓の外の世界を眺め、美琴がほう、とため息をつく。
 ゴンドラから見る足元の景色を楽しむためか、ゴンドラ内に照明はない。真っ暗なゴンドラから見下ろす学園都市は無数の明かりが灯り、さながら大覇星祭のナイトパレードを彷彿とさせた。
 昼ならもっと違う景色が見えるんだろな、と思いながら上条も窓の外を見る。
 確かに違う景色が見えた。
 自分たちの乗ってる四つ前のゴンドラの中で男女がキスを交わしているところとか。
「ううぉうわぁっ!?」
 慌てて上条は窓から離れて飛び退る。
 何か心臓に悪いものが網膜に残ったような気がして上条はブンブンブンブン!! と勢いよく首を横に振った。
「アンタ何やってんの? ゴンドラの中で暴れるなって乗る前に従業員が言ってたの聞いてなかったの?」
 美琴が上条に白い目を向ける。
「いえっ! 聞いてました聞いてるしもちろん良く聞いてましたよ軍曹殿!」
 美琴と向かい合わせの限界まで下がりながら上条は美琴に敬礼してみせる。願わくば彼女があの光景を見ませんようにと心の中でお祈りしながら。
 上条が祈っている間に美琴が斜め上をちらっと見て、直後ズバン! とすごい勢いで視線を背けた。
 ……あー、貴女もあれ見ちゃいましたか。お気の毒様そしてご愁傷様。
 美琴は何かをぶつぶつと呟きながらおでこがくっつくくらいまで窓に顔を寄せ下界を眺めるが、どうも視線がさまよってるような気がする。
 気まずい。
 猛烈に気まずい。
 何か話をしないと気まずい。
「あ、あははは、それにしても今日ってあれだよな。映画見て飯食って観覧車って何かもうこれってまるでデートみたいな……………………!」
「……………………」
 上条は自爆した。
 沈黙と一緒に、真っ暗なゴンドラの中なのに、手に取るように美琴の顔が赤くなっていくのがわかる。
「あは、あははは、あはははは、えっとそうだな、お前の私服姿って見るの初めてか? 結構可愛いじゃねえか。似合ってるぞ」
「……………………」
「お前が私服で来るんだったら俺も着替えてくれば良かったな。学校から直で来たから勘弁な。勉強道具は学校に全部置いてあるから鞄は持ってきてないんだけどな」
「……………………」
 ――返事がない。ただの屍のようだ。
「あの、御坂さん?」
「…………な、何?」
「そんなに心配しなくても、上条さんは貴女様に何にもしませんからご安心ください」
「…………そう」
「そうですとも! この紳士にして不幸の権化上条当麻、貴女様には指一本たりとも触れたりなどいたしませんからどうかごゆるりと観覧車の旅をご堪能くださいますよう心よりお願い申し上げます!」
 上条はできる限りの笑顔を作って笑う。
「…………そうよね、アンタはそう言う奴よね」
 美琴は大仰にため息をついてシートに深く腰掛け、それに合わせるようにゴンドラの動きがガクンと止まった。
「あれ?」
「あれ?」
 暗闇の中、二人で顔を見合わせる。
「……御坂? もしかして今能力使った?」
「んなことするわけないでしょっ! 全くアンタは……」
『ご乗車の皆様にお知らせ申し上げます。電気系統のトラブルにより……』
 二人を乗せたゴンドラの中にアナウンスが響く。
「……お前やっぱり能力使って」
「だから使ってないって言ってるでしょ! これ事故だってば! アナウンスだってそう言ってるじゃないのっ!」
 アナウンスは電気系統のトラブルにより復旧まで一〇分ほどかかるという報告を繰り返す。
 とりあえず美琴は元気になったけどあと一〇分もここに缶詰かよやっぱり不幸だと上条は窓の外を眺めながら思う。
 上条は黙ったまんまもつまんねえよなと美琴の方を見て、美琴が小さなポーチのような物を下げている事にそこで初めて気がついた。
「御坂? その小っこい鞄みたいな物は何が入ってんだ? 何かもこもこしてっけど」
「ああ、忘れてた。デジカメ持って来てんのよ」
「デジカメ?」
 美琴はポーチの中からコンパクトデジカメを取りだした。ボディは銀色の、どこにでも売っていそうなデジカメだ。あんな小さな鞄の中からデジタル一眼レフとか出てきたら怖えよと思いつつ、上条は美琴の手からデジカメを取り上げる。
「んじゃ、お前を撮ってやんよ。ほら笑え。ちょうど今ゴンドラ止まってるしこれなら手元もブレないだろ」
「私のデジカメで私を撮って何が楽しいのよ。アンタが高所恐怖症で怯えまくる様を撮って笑ってやろうと思ったのに」
「残念でしたー! 俺高所恐怖症じゃないもんねっ! と言う事で御坂、笑え」
「だから私を撮ったって面白くないっつってんの。カメラよこしなさい」
「やーだね」
「返しなさいったら」
「やだっつってんだろ」
 一つのデジカメを巡って、上条と美琴が奪い合う。本気でやり合ってるわけではないのでデジカメは二人の手の間を交互に移動する。
「……じゃあこうしようぜ。一緒に撮ろう。これなら文句ねえだろ」
「え?」
「ほらこっち来いよ。俺の隣に座れ。ハンディアンテナサービスでツーショットの写真を撮った時と同じだって。ペアっぽくしろって注文があるわけじゃないから平気だろ」
「あ、うん、そうね。そうよね。だったら一緒に撮ろっか」
 美琴は上条の隣に座り、上条が腕を一杯に伸ばしたカメラの方を見る。
「うーん、うまく切れずにフレームの中に入ってればいいけど」
「ま、そん時はそん時よ。ほらシャッター押して」
「それもそっか。でもまあ念のため」
 上条は美琴の肩を抱きグイッと美琴を自分の方に引き寄せた。
「わっ!」
「ほら笑えよ御坂。行くぞー」
「う、うんっ」
 上条がシャッターボタンを押す。
 パシャッというシャッター音と同時にゴンドラががくっと揺れ、上条の手元も揺れた。
「……何でこのタイミングでゴンドラが動くんだよ?」
「……修理終わったみたいね。で、カメラの方は?」
 上条と美琴はデジカメをひっくり返し、二人で液晶画面をのぞき込む。
 ストロボを炊いたとはいえ暗い中での撮影だったため手元が思い切りブレ、液晶画面の中には季節外れの心霊写真のような二人の姿が映し出されていた。

翼を広げて 2



 観覧車を降りても、美琴は何だか暗いままだった。
 そんなに俺が怖がってる写真が欲しかったのかコイツはと思いつつ、上条は背後を見上げた。
 観覧車は先ほどの故障がなかったかのようにゆっくりと回り続ける。
「御坂、ちょっと待った。こっち来い」
「何?」
「良いからこっち。……すいませーんそこの人、これお願いできませんか?」
 上条は美琴を呼び止め手招きすると、二人のそばを通りかかったカップルの男の方に声をかけた。男は上条が掲げるデジカメを見て得心したように頷き、受け取ったデジカメの設定をちょいちょいといじりだした。
「え? あの、アンタ何やってんのよ?」
「何ってほら記念写真。何かあの人カメラ詳しいみたいだから頼んじゃおうぜ」
 男がカメラを掲げ『笑ってくださーい』と二人に声をかける。
「笑えよ御坂。せっかくここまで来たんだ。観覧車をバックに記念に一枚残そう」
「あ、う、うん。そうね、記念に一枚ね、そうよね」
 上条は美琴の目の高さに合わせるように少しかがむと、カメラに向かってVサインを作る。美琴はすき間を空けて上条の隣に立ち、同じくVサインを作った。
 カメラを持った男は左手で美琴に『もう少し寄って』と指示を出す。
 美琴は逡巡した後、少しだけ上条のそばに寄ると先ほどと同じようにVサインをした。
 『それじゃ行きまーす。はい、チーズ!』のかけ声と共にシャッターは切られた。
「ありがとうございました」
 上条が男からデジカメを受け取りながら礼をする。美琴もそれに合わせて頭を下げると男は美琴に『頑張れ』と手を振って、彼女のそばに駆け寄っていった。
「どれどれ……おー、バッチリ写ってんぞ」
 上条が液晶画面をのぞき込んで笑顔になる。
「あの人カメラ詳しいんだな」
 美琴も上条の隣からのぞき込むように液晶画面を見る。
「アンタ知ってて頼んだの?」
「んにゃ。たまたま通りかかったから頼んでみたんだけど、カメラ受け取ったらぽちぽち設定いじってたからもしかして詳しいのかなって」
 観覧車を背にしたその写真は、光源が少ない夜間だというのに、まるで昼間に撮ったかのように笑顔の二人を鮮やかに映し出していた。
「なあ、観覧車だけで良かったのか? 他にアトラクションとか回っても……」
「ううん。観覧車だけで十分」
 上条は美琴と腕を組み、夜更けの街を歩く。
 現在時刻は一一時五〇分。
 第六学区のテーマパークからまたしてもここまで歩いてきて、上条は再びうだー、と呟きを漏らした。
 美琴はそんな上条に苦笑する。
「なあ御坂。寮の門限は本当に大丈夫なんだろうな?」
「大丈夫よ。今日はそう言う日だから」
「……その『そう言う日』ってのはどういう日なのか俺にちゃんと説明してくれよ」
 上条は美琴を見て渋い顔を作る。
 場合によっては寮監のところに顔を出して頭を下げた方が良いよなと、上条は考える。どんな言い訳ならこんな深夜まで美琴を連れ回した事を許してもらえるだろうか。
 上条と美琴の足は例の分かれ道に差し掛かる。
 そこで美琴が歩みを止めた。
「御坂? ちゃんと寮まで送るから……」
「ううん、ここで良い」
「ここで良い、ってお前こっから走って帰りますとか言って俺に若い力を見せつけるつもりか?」
「そうじゃないわよ」
「じゃあ何なんだよ」
「私、寮には帰らないの」
「帰らない、ってじゃあどこに帰るんだよ」
「常盤台中学に私の籍はもうないの、昨日卒業したから」
「……卒業?」
 だってお前今二年生で卒業っつーたら来年の話、と言いかけた上条の口を美琴が片手で塞ぐ。
「昨日付けで卒業したのよ。……明日学園都市を出るから」
「学園都市を……出る?」
 美琴は上条から離れると、上条に向き直るようにして立つ。
「そう。私、いくつか論文を書いたんだけどそのうちの一つが学会で目に止まったみたいでね。学園都市と提携している外の都市の大学から客員准教授として来ないかって誘いを受けたのよ。研究テーマは『筋ジストロフィー』」
 きん……じす? と上条の口が音もなく動く。
「私がDNAマップを提供したのは、筋ジストロフィーの研究と病理克服のためだった。……悪用されて妹達が作られたのは、アンタも知ってるわよね? 日本じゃこの分野の研究で最大手だった水穂機構が手を引いて下火になりつつあるけど、外じゃまだ多くの人たちが戦ってる」
 美琴がつい、と瞳を上げる。
「今度こそ、私はこの手を差し出す相手を間違えない」
 自らの魂をそこに込めるように。
「今度こそ病に苦しむ人たちを助けてみせる」
「御坂……」
「と言っても客員だからそんなに長い間外に出てるわけじゃないんだけど。そうね、たぶん二年くらいかな。私まだガキだもん」
 踊るように、美琴は両手を広げその場でくるりと回って背中を向ける。
 上条の視線を避けるように空を見上げて
「昨日までホント大変だったんだ。残り一年ある教育課程を三ヶ月に短縮したもんだから毎日課題提出に特別授業に試験とギッチギチのスケジュールでさ。アンタが補習で大変大変って騒いでるのがちょっとわかったような気がするわよ」
 美琴は何かを思い出すように苦笑した。
「三ヶ月、ってじゃあお前……その、話は」
「そう。去年受けたんだ。学校側にも相談して、統括理事会にも話が行ってさ。学園都市の学生が学園都市の外に出るのは結構大変なんだけどね。いろいろあったけどやっと飛び級で卒業の準備が整って、ようやく外に出られるようになった」
 美琴は照れくさそうに人差し指で頬をかいて
「ごめん。話をするのがすっかり遅くなっちゃって。アンタに相談したら決意が鈍りそうだったから」
「それじゃお前があんなに疲れてたのって、授業のスケジュールを圧縮したからだったのか?」
「そ。さすがの美琴さんもあれには参ったわ。もうしんどいの何の」
 もうあんな事は二度とごめんだと、美琴は上条にペロリと舌を出して笑う。
「それとね、アンタにはもう一つ話があんのよ」
「もう一つ?」
「そう。……アンタ、ここで回れ右して」
「何で」
「いいから」
 美琴に言われたとおり、上条は美琴に背中を向ける。上条が向いた方角は上条の暮らす寮に続く道だった。
 不意に暖かい何かが上条の背中に寄り添う。
「こっち向くんじゃないわよ。向いたら即座に雷撃の槍をお見舞いしてやる」
「御坂?」
 上条の背中にしがみつくように、美琴が立つ。
「私は……アンタが好き。御坂美琴は上条当麻が好き。すごく好き。世界で一番アンタが好き。アンタの全部が好き。アンタの癖も髪も声も好き。誰よりも何よりも好き。好き。好き。大好き……いつからかわかんないけど、気がついたら私のココロん中はアンタでいっぱいになってた。毎日毎日アンタの事ばかり考えて、毎日アンタの事で頭がいっぱいだった。無我夢中だった。恋人ごっこの時も、大覇星祭の時も、罰ゲームの時も、一端覧祭の時も、クリスマスも」
「…………」
「ほら、やっぱりアンタは何にも言ってくれない。そうじゃないかと思ったんだ、この朴念仁。アンタは私の気持ちなんかこれっぽっちも知らないし気づいてもいない」
「御坂……それは」
「やかましい! 最後くらい黙って人の話を聞けっ!」
 美琴が後ろから上条をギュッと強く抱きしめる。
「アンタと一秒たりとも離れたくない。ずっとずっとそばにいたい。アンタを私のものにしたい。私はアンタのものになりたい。それは私の本当の気持ち。でももう決めたんだ。私は私の夢を追いかける。……、御坂美琴は上条当麻から卒業するって」
「…………」
「昨日付けで学校は卒業したから、私は今ホテルに寝泊まりしてる。寮の荷物は実家に送り返して、生活に必要なもんはもう向こうに送った。あとは身一つで渡るだけ。……わかってると思うけどここで変な気を起こすんじゃないわよ。今日はアンタとの最初で最後のデートなんだからきれいに終わりましょ」
 上条の背中から熱が離れた。
 美琴は上条から二歩離れた場所に立ち、携帯電話をポケットから出して着信画面を開いて時間を確認する。
「今日は私のわがままに付き合ってくれてありがとう。最高のホワイトデーだった。でも、シンデレラの魔法はおしまい。シンデレラの勇気も、これでおしまい。……五、四、三、二、一。今ちょうど一二時。ホワイトデーもこれで終わり。本当に楽しかった……きっと一生忘れない」
 美琴は携帯を折りたたみ、ポケットにしまった。
「アンタは今から三〇数えて。数え終わるまで絶対に振り向くんじゃないわよ」
「御坂?」
「数えて…………これが最後のお願い」
「……、一、二、三…………」
 美琴は何かを言いかけ、それを振り切るように唇を噛みしめ、踵を返して走り出した。
 タタタタという軽い足音が上条の立つ場所から、分かれ道から遠ざかっていく。
「…………………………………………二七、二八、二九、三〇」
 数え終わって、上条は後ろを振り向いた。
 まるで最初から誰もいないかのように、そこにはもう誰もいなかった。
 上条は放心状態のまま、美琴が駆けていった方角を見る。
 少し離れた位置に設置された街灯が照らす先には、誰の姿も見えない。
 今追いかければ間に合うかも知れない。
 けれど、追いかけて何を言えばいいのか。
 上条はポケットから携帯電話を取り出す。そこには美琴の番号とメールアドレスが登録されている。しかし今かけてもきっと着信拒否されるだろうという事は容易に想像できた。
 美琴の覚悟は並大抵ではない。若干一四歳の少女が右も左もわからない世界に飛び出そうというのだから、生半可な気持ちでは決断できなかったはずだ。
「馬鹿、野郎……」
 誰に向けられた言葉なのか、上条の口から呟きが漏れる。
 一度だけ携帯を強く握りしめると、上条は登録番号のリストを開く。心当たりのあるそれにカーソルを合わせ、上条は電話をかけた。
 今は一二時〇五分。
 こんな夜更けに電話をかければかけられた相手にとってはいい迷惑だが、そんなことにはかまっていられない。

         ☆

 三月一五日、午前一一時。
 第二三学区にある国際空港のロビーに、御坂美琴は立っていた。
 見送りの申し出は多々あったが、一人をのぞいて美琴は全員断った。
「黒子、アンタいつまでも泣いてるんじゃないわよ。何もこれが今生の別れってわけじゃないし」
「お姉様! そんな事を言われても黒子は、黒子は……」
「あーはいはいうるさいなぁ。これだから見送りはお断りだっつーのに」
 美琴は白井黒子の頭をよしよしと撫でる。
「元気でね、黒子。アンタには本当に世話になったわ。ここらで一区切りつけて、アンタもそろそろ変態から卒業しなさい」
「お姉様! またそのようなご無体な事を……」
 そろそろ絞れるんじゃないかと思うほど涙で重くなったハンカチを顔に押し当て、白井はさめざめと泣く。
「いや、卒業の方はホントに考えんのよ? それじゃそろそろ私行くからさ」
「お姉様。お待ちになってくださいまし! わたくしの話はまだ終わっていませんの!」
 カートを引いて出入国ゲートに向かおうとする美琴を、白井が渾身の絶叫で呼び止める。
「えぇ? まだ何かあんの? 生水は飲まないしお腹出して寝たりもしないしマンガも一日一時間までにしとくわよ?」
「お姉様、黒子からの餞別を受け取って欲しいですの」
「餞別? アンタまだ何か用意してんの? 防御力ゼロの変な下着なら勘弁……」
 白井が指差す彼方を、つられて美琴は見る。
 そこには息を乱し、どれほど離れた距離でも射貫くほどの視線で美琴を睨み付ける、ツンツン頭の少年が立っていた。
「ジャストタイミング、ですわね。あの殿方に最後を持って行かれるのは癪ですけれど、きっとお姉様にはこれが一番でしょうから」
「嘘……何でアイツが……あの馬鹿がここにいんのよ」
「搭乗時間まであと一〇分ありますの。お姉様との名残は惜しいですけれどここでバトンタッチいたしますの。本当に……つくづく腹が立つ類人猿です事」
 上条が美琴に駆けよるのとほぼ同じタイミングで、白井は空間移動した。
「見つけたぞ、御坂」
 上条は美琴の肩をガシッと掴む。
「な、何でアンタがここにいんのよ。どうやって出発時間を……」
「ああ大変だったさ。小萌先生から始まって警備員やってる先生を紹介してもらって、そこから風紀委員で電話番号を教えてもらえそうな奴を紹介してもらって、最後にお前の出発時間を知ってそうな白井にたどり着くまですげー時間がかかった。白井からも今日のこの時間を聞き出すまでケンカして。おかげで俺は完徹で、ついでに言えば今日の補習はサボりだサボり」
「ああ、朝黒子がホテルのロビーで電話越しに口ゲンカしてた相手ってアンタだったんだ。く、くだらないわね。そんな労力を裂く暇があったらとっとと学校に戻んなさいよ。補習受けないとアンタ進級がヤバいんじゃないの?」
 アンタってばつくづく馬鹿よね、と美琴は上条に肩をすくめてみせる。
「ああ進級はヤバいさ。でも小萌先生や他の先生にも頼んだ。今日は大事な日だから遅れるのは許してくれって」
「……、アンタ、何を」
「俺はまだお前に言ってねえ事があんだよ。それを言う前に勝手にどっかに行くんじゃねえ!」
「今さら何を言うつもりよ。私は聞く耳持たない……」
「ごちゃごちゃうるせえよ! いいから黙って聞け!」
 上条が美琴を一喝する。
「御坂。俺の事を好きだと言ってくれてありがとう。お前が俺の事をそこまで思ってくれてるなんて知らなかった。……、気づかなくて悪りぃ」
「…………」
「俺から言える言葉は今これしかねえんだ。正直今でも混乱してる。明日からお前に会えないなんてまだ信じらんねーし」
「…………」
「お前昨日、期間は二年っつったな? ……二年の間に必ず返事する。だからそれまで勝手に卒業すんじゃねえ」
「…………あの、それって」
「行ってこい、御坂。俺はお前を止めない。お前の決めた夢だから応援する。お前はお前の信じた道をどこまでも真っ直ぐ歩け。俺はどこにいてもお前を応援するから」
「うん。……ありがとう」
 美琴は上条の腕の中に飛び込んだ。
 少しだけ泣いて、美琴は顔を上げる。
「行ってくるね。私の夢のために」
 涙の残る瞳で気丈に笑うと、美琴は一人背筋を伸ばして歩き出し、振り向かず出入国ゲートをくぐり抜けた。
「……白井。いるか? お前、御坂の後ろで俺達のやりとり見てただろ。これがお前の知りたかった真実だよ」
 上条が周囲を見渡すとブン! という羽音のような音色が耳をかすめ、白井が上条の隣に現れた。
「本当に図々しい類人猿です事。朝早くからお姉様の出発時間を教えろだなんて。こんな時でもなければ貴方を八つ裂きにしてますの。初春も初春ですわ、わたくしの電話番号をこんな類人猿にのこのこ教えるなんてどうかしてますの」
 白井が憎々しげに上条を睨む。
 その手には金属矢が握られ、発射態勢を整えていた。
「お前に迷惑かけた事は謝る。今すぐその金属矢で俺を好きなだけ刺せよ」
「貴方に私の能力が通用しない事は十分承知しておりますの」
 白井は心の底から憎々しげに舌打ちして、金属矢をホルダーに納めた。
「貴方には結標淡希の件で大きな借りがありますから、今回で帳消しにさせていただきますの。……それで、お姉様と貴方の関係って結局何だったんですの?」
「戦友だろ。……今はな」
 上条は空港のロビーから彼方の空を見上げた。
 鉄の機体は翼を広げて、上空へ駆け上がる。
 未来へ旅立つ戦友の夢と想いを乗せてはるか彼方の異国の空へ。
 行き先を違えぬように、ただ真っ直ぐに。

         ☆

 オーストラリア・シドニー。
 美琴はとある大学の研究室にいた。
 予定の二年は過ぎたがやりがいのある研究は順調に進み、もうすぐ成果も上げられそうなところまでこぎ着けた。
 伸びた髪を後ろで一つにくくり、眼鏡をかけ白衣を着た美琴は机の上の山積みの書類とマグカップと無数のペン、そして白い小さなフォトフレームに囲まれている。
 エコロジーが叫ばれて早数年。いい加減紙で何かをどうこうするのは止めた方が良いんじゃないかと思いながら、美琴は一つ一つのデータに目を通す。
 フレームの中に収まっているのはVサインをするあの日の美琴とツンツン頭の少年のツーショット。壁に投げつけられたり叩き割られたりしたそれは代を変え形を変え、美琴の机の上に今も置かれている。
 我ながら子供っぽい恋だったと、美琴は思う。
 たった一七歳で何を達観したんだろうと自分を笑いながら、美琴はフォトフレームを伏せ、手元の書類にまた目を落とす。
 ――Genius(天才)。
 学園都市から大学にやってきた美琴を、周囲の人はそう称えた。
 客員准教授待遇でありながらそれ以上の結果を残す美琴を学会は称えた。
 何を言ってるんだろうと美琴は思う。
 学園都市の科学力、技術力は外の世界の二〇年、三〇年先を行っている。これくらいで天才などと呼ばれるようでは困る。学園都市のレベルに並べずとも尻尾に追いつくくらいの気概は見せて欲しい。
 水穂機構の撤退が学会にとってそれだけ大きなダメージだった事が、外の世界に出てきた美琴には痛切に感じられた。彼らが道を過たず研究をまっとうに進めていてくれれば、美琴は今頃こんなところにいなかった。違う人生を送っていた。
 全てはifの物語。
 それは美琴があの日選んだ答えではない。
 美琴は夢を叶えるためにここにいる。
 無情に死んでいった妹達のためにも、そして何より命を救われた自分自身のためにも必ずやり遂げてみせる。
 何を犠牲にしても。

「お姉様。お客様がお見えになりました、とミサカはうんざりしながらお姉様にご報告申し上げます」
 研究室のドアを二回ノックして、御坂妹が入ってきた。
 ここにいるのは学園都市で御坂妹と呼ばれている一〇〇三二号ではなく、ミサカ一七〇〇九号だ。彼女は昔の美琴の姿そのままに成長し、ここでは素性を隠して美琴の双子の妹兼助手として働いている。
「アンタがうんざりって言う事は、ハロルドのクソ親父か。……一人?」
「はい。一人です、とミサカは簡潔にお答えします」
「毎回毎回アンタに相手させんのはアンタがかわいそうだし、ここらで私が出てって追っ払ってやるわ。ホントムカつくのよあのエロ爺。私達はアンタのお人形さんじゃないっつーの」
 ハロルド、というのは美琴達の研究のスポンサーの一人だ。
 金回りは良いのだがやたらと研究室に顔を出したがりついでにセクハラしてくるので、美琴としてはとっとと手を切りたいと思っている。おまけに結婚しないかと迫ってきたので美琴は御坂妹と二人がかりで高圧電流を流し『忘れられない人がいるんです。ごめんあそばせ』と言って再三に渡り迎撃している。
 美琴は髪を束ねていたゴムを外し眼鏡を机の上に置くと、足音荒く研究室を出た。
「ハイ、ミコト。ご機嫌麗しゅうって奴かい?」
「ハイ。あいにくと気分は最悪ね」
 他の研究員と挨拶を交わして、美琴は敵のいる第八応接室を目指す。
 ――いっぺん砂鉄の剣で痛い目見せたろかあのクソ親父。
 ノックをし、深呼吸をして顔の表情を整え、美琴は極力にこやかに敵地へ足を踏み入れる。
 敵であり味方でもある男を迎え撃つ、美琴の孤独な戦争が始まった。

「こんにちはMr.ハロルド。あいにくですが私これでも忙しいので五秒以内にここからとっとと出て行けこの野郎」
「御坂、俺ヒアリングは苦手なんで悪りぃけど日本語で頼む」
「…………?」
 大学では御坂妹を相手にする時以外使う事のない日本語が、御坂妹以外の声で聞こえてきた。
「あれ? ……どちら様?」
「どちら様? じゃねえよ」
 椅子から立ち上がった男は、
「久しぶりだな、御坂」
「……アンタ、どうやってここへ……?」
 上条当麻は写真と同じ笑顔で美琴に笑いかける。
 写真の面影はそのままに、三年ぶりに見る上条は背丈が伸びていた。美琴と並ぶと身長差は一五cmほどに開いている。
「アンタ、どうやってここへ来たの? 学園都市の生徒は簡単には学外には出られないはずでしょ?」
「ああ。だから裏技使った。パスポートに出入国スタンプなんて押されてない、正真正銘の裏技だ」
「…………」
 美琴は言葉も出ない。
 上条を指差し口をパクパクとさせ、信じられない物を見る目で上条を見つめる。
「三年前の返事をしにきた。……テメェ何が二年だ。手紙を出しても返事をよこさねえからこっちから来てやったぞ。向こうで御坂妹から全部聞いた。お前の研究はもうすぐ区切りがつきそうだって。だから御坂、……帰ってこい」
「か、か、帰ってこいなんて簡単に言わないでよ。アンタは私が何をしにここに来たか知ってんでしょ? 私の事応援してくれるって言ったのはどこの誰?」
「御坂妹に全部聞いたっつってんだろ。お前の今やっている研究は区切りがつけば学園都市でも続けられる。戻ってこいよ、御坂」
「戻ってこいって簡単に言うけど、学生でもない私がどうやって……」
「聞いた話じゃこの大学は長点上機学園と学術提携してるんだってな。そのつてを使えばお前は学生として復帰できるし、お前の学力なら高認の試験を受けてこっちの大学を受験する事もできんだろ。それがダメでも、お前の居場所は俺が必ず用意する。だから御坂、帰ってこい。これが俺の答えだ」
「…………」
「ここへ来る前にお前のお袋さん、それから親父さんとも話をつけてきた。夢のために学園都市の外へ出たお前を俺のわがままで連れ戻すんだからそれなりの覚悟はある」
「…………」
「非合法な手段で学園都市を出てきたからお前を迎えに来たなんて事は言えないし、お前にも都合って物があるのはわかってる。だからもう一度だけ言う。御坂、つべこべ言わずに俺のところに帰ってこい」
 上条当麻は、御坂美琴に向き直る。
 美琴はキッ! と上条を睨み付けるとつかつかと歩み寄り、上条の目の前に立ちふさがる。
 ゆっくりとしたモーションで右手を限界まで後ろに引き、引き絞った弓の弦を一息に解き放つが如く猛スピードで上条の右頬を狙い打つ。
 殴られるとわかっていても、上条は一歩も引かない。視線を美琴から外さない。
 美琴の掌と上条の頬の間で乾いた音が鳴り響く直前で、美琴は動きを止めた。
「その言葉は三年前に欲しかったわよ」
「だろうな。けどここに来るのに三年かかった分、お前の事を忘れた日は一日たりともねえよ。今じゃ文字通りお前の事で頭がいっぱいだ」
「……何でよ」
「結局お前の事が忘れられなかった。あんな強烈な告白されたんだ。他の誰でもダメだ。最初から比較になんねえよ」
「アンタ、私が心変わりしたとか思った事ないの? こっちにはアンタよりいい男がゴロゴロしてんのよ? 自惚れてない?」
「勝手に卒業すんなって俺はあの日言ったぞ。律儀なお前が何も言ってこねえんだ、心変わりなんてあり得ないね。お前は俺にさよならを一度も言ってない。自惚れは間違いじゃないって自信がある」
 美琴は上条の頬を打つ寸前で動きを止めていた手を下ろした。
「……………………………………ただ…………いま」
 旅立った時と同じように上条の腕の中に飛び込んで、同じように美琴は少しだけ泣いた。
「お帰り。もう一回やり直そうぜ、あのデートから」
「うん」
「お前と行きたい場所がたくさんあんだよ。見たい物もな」
「うん」
「あんな強力無比な告白で落とされて、あれからすっかり俺はお前に夢中だ。今度は俺がお前に好きって言ってやる。誰よりも何よりも好きだって。お前を他の奴には渡さない。絶対だ」
「……………………うん」
 我ながら子供っぽい恋だと、美琴は思う。
 三年経っても何にも変わってないのだから。
 上条当麻で始まって、上条当麻の元から飛び立った御坂美琴の長い旅は遠回りの末終着点にたどり着く。
 美琴が密かに願い続けた、帰りたがった夢の場所へ。

         ☆

「あのさ……日本に帰ってきて早々にこれ?」
 美琴は机一杯に広げられた上条のレポートを見て、おでこに手を当てる。
「お前に手伝ってくれなんて頼んでないだろ。これくらい自力でやるって」
「アンタが独力で大学に受かったなんて未だに信じらんないわね。……まさかそれも裏技使ったの?」
「んなもんねえよ! 上条さんはやればできる子なんです!」
 帰国した美琴は編入試験を受け、現在は高校三年生。
 奇跡的にも大学受験に合格した上条は大学二年生になっていた。
 美琴は研究を海外の大学に引き継ぎ、今は充電期間と称している。美琴としてはこちらの大学に進学したら然るべき研究室に入って改めて再開するつもりだ。
 美琴の出る幕がなかったとしても、それならそれでいい。大事なのは美琴が成果を独り占めすることではなく、光明を待つ人々に成果を届ける事なのだから。
「ところで、向こうで聞きそびれたんだけど。アンタうちの父さんに何言ったの? こっち帰ってきて電話してみたら青息吐息で激怒してたわよ?」
「普通にお嬢さんをくださいって言っただけだけど?」
 正確には上条と美琴の父・旅掛は現地でちょっとした大冒険を繰り広げ、その真っ最中に空気を読まずに『美琴の人生を自分の都合で曲げてしまうからそれに見合うだけ必ず幸せにしますので美琴をください』と言ったら『今はそれどころじゃないこの馬鹿』という状況で二人してインディ・ジョーンズばりの大脱出を計った。
 そんな状態でそんな話をされたら普通誰だって激怒するだろう。
「アーンーターはー……当の私に話をしないで勝手にくださいとか言ってんじゃないわよっ!」
「馬鹿止めろ今ここでビリビリすんなっつかそこは三年前と変わってないのかよ!」
 電気を帯びた美琴の握り拳を上条がすかさず右手で掴む。
「お前美人になったのにキレやすいのは相変わらずなんだな。しかもキレ方が意味不明だぞ。ムサシノ牛乳飲むか?」
「別に私はキレてるわけじゃないし牛乳はあとで飲むから今グラスに注ぐんじゃないっ!」
 ぎゃあああっ! と第五学区の上条の部屋で美琴が吼える。
「……とにかく。それ終わったら出かけるわよ」
「わーってるよ。第七学区から始めんだろ?」
 三年前と同じ映画は上映されてなくて、三年前のあのファミレスは別の店に変わって、観覧車は深夜営業してないけれど、あの分かれ道からもう一度始めようと上条は思う。
 二つに分かれた道はようやく一つに交わったのだから。
「あ、あのさ。えっと……あああアンタ、あの時観覧車で見た物、その……覚えてる?」
 美琴が頬をほんのり赤く染めつつ、どもりながら上条に問いかける。
「あの時観覧車で見たのって、学園都市の景色じゃねーの?」
「……それ以外には?」
「ああ……思い出した」
 上条は美琴に気の毒な人を見るような目で笑って
「『実は高所恐怖症でブルブル震えてゴンドラの隅っこでビクビク怯えてた御坂美琴さん当時一四歳』」
「私は高所恐怖症じゃないし勝手に記憶をねつ造すんなっ!」
「ははは、冗談だジョーダン。……、そうだな、観覧車に乗ってから降りるまでの一五分間、お前が見たっていう『あれ』やるか? それとももっとすごい事に挑戦すっか? お前の体力と気力が続けばだけど」
 今度はニヤニヤと美琴を見ながら笑う。上条の笑顔の意味を知った美琴の顔がお怒り半分照れ半分で真っ赤に染まる。
「やっ、やれるもんならやってみなさいよ」
「あらー? 良いのかな美琴さーん? 本当にやるぞやっちゃいますよ? スクランブル交差点のど真ん中でキスしろとか自分からバカップルっぽいあれやこれやをリクエストするくせにいつも照れて恥ずかしがって途中でギブアップするのは誰かなーん? お前研究漬けだったから体はともかく頭ん中は一四歳の時から成長してねーんだもんな。強がるなよお嬢様」
「なっ、なっ、なななな何を……あれ? 今アンタ私の事美琴って呼んだ?」
「……さて、何の事やら。さっさとレポート終わらせないと日が暮れちまう」
「あ、こらっ! とぼけんなっ! もう一回ちゃんと呼びなさいよっ! こらーっ!」
 上条の部屋の窓辺に、二羽の小鳥が並んで止まる。
 二羽はひととき春の陽光を浴びたあと、翼を広げて仲良く飛び立った。


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