「戦火の中犯される娘達」SS保管庫

靖康奇耻・概説

最終更新:

匿名ユーザー

- view
だれでも歓迎! 編集

靖康奇耻・概説

作者:4スレ598氏

エロはなし、説明調


 前回の金軍との協議の合意によって、皇帝趙桓は年が明けた正月十日、八名の親王とその侍従たちを
引き連れて、再び開封城を出た。金軍の西路軍が駐留する近郊の青城寨へと赴いたのだ。
 そのまま趙桓は城内へ戻ることを許されずに金軍の兵営に留め置かれた。靖康二年の元宵節を、宋の
皇帝は金軍の兵士たちに取り囲まれながら過ごさなければならなくなったのである。

 元宵節の夜に合わせ、金軍の将領たちは戦勝を祝う酒宴を催し、趙桓も招待された。しかし、それは
屈辱の宴だった。
 金人たちは、開封で獲得した戦利品である金銀財宝を一つ一つ宋の皇帝の面前に並べ立てたのだ。
 また、宴に興を添えるべく音楽を奏でて、歌を唄い、舞い踊るのは宋の女たち――先に金軍の兵営へ
と送られた開封の妓女や楽女たちである。
 女たちは軍妓として、連日何人もの金兵の相手をさせられて凌辱の限りを尽くされており、華やかに
着飾ってこそいるものの、傍目にも憔悴の色は隠せなかった。演奏の音律も乱れがちで、歌声は震え、
舞い踊る動作も明らかにぎこちない。
 もし、この場に風流天子と謳われた趙桓の父――太上皇帝趙佶がいれば、そのあまりの酷さを嘆いた
ことだろう。
 しかし、野蛮な金人たちには音楽の良し悪しなど分かるはずもないのか、乱れがちの歌舞にも無邪気
に喜び、下品な笑い声で女たちを囃し立てている。  
 これら金銀財宝も、女たちも、実のところ、趙桓が和議を請うために、自ら命じて金軍に引き渡した
ものだった。


 宴が終わると、趙桓は金軍の元帥、完顔宗望の本陣に呼び出され、新たな和議の条項を提示された。
しかし、それはとてつもなく法外な要求であった。

一、大金国が宋国の太上皇帝を人質とするのを免除する代わりに、宋国は皇太子、親王、大臣六人を人質
  として差し出さなければならない。あらゆる宋国の宮中の器物は、大金国へ貢物として納めること。

二、大金国が宋国の黄河以南の地及び開封を割譲することを免除する代わりに、宋国は帝姫二人、宗姫と
  族姫をそれぞれ四人、女官二千五百人、童女一千五百人、各種の技術者三千人を大金国に貢ぎ、毎年
  五百万両の銀と五百万匹の絹を大金国に貢ぐこと。

三、最初に定めた親王と宰相各一人、河北、河東の守備に当たっている廷臣の家族を、宋国は速やかに
  人質として大金国の軍中へ送ること。大金国は河北と河東を受け取った後にこれを返還する。

四、先に定めた賠償の金一百万両、銀五百万両を、宋国は十日以内に納めなければならない。もし不足
  するようであれば、宋国は、帝姫及び王妃を一人当たり金一千両、宗姫を一人当たり金五百両、族姫
  を一人当たり金二百両、宗婦を一人当たり銀五百両、族婦を一人当たり銀二百両、貴族の娘であれば
  一人当たり銀一百両として賠償の一部に充てることができる。ただし、対象となる婦女は大金国の元
  帥府が選ぶのに任せること。

※帝姫(=皇帝の娘。当時、二十七歳であった皇帝趙桓の妹たち)
 王妃(=親王妃。皇帝趙桓の弟たちである諸王の妻、皇子妃)
 宗姫(=親王の娘。皇帝趙桓の従妹らが該当)
 族姫(=郡王以下の皇族の娘)
 宗婦・族婦(郡王以下の皇族の妻)


 その中の第四条は、特に宋の皇帝を悲しみ憤らせるものであった。
 二年前、金軍の侵攻から逃げるようにして退位した父皇の放漫財政と、対金戦争による戦費で、宋の国庫は
既にほとんど空っぽなのである。わずかに残っていたなけなしの金銀も、先に金軍へ差し出してしまっている。
 今回提示された天文学的な数字の賠償金を、宋が支払うことは不可能だった。
 だが、この条項には、金銀による賠償金の不足分を代わりに高貴な女性たちで支払う旨が記されている。
 もし、この紙に記された和約に署名したならば、宋の皇族の女性たちの身売り証文――娼婦の身売り証文
と何の変わりもないもの――を書くのも同然だった。
 こんなものが認められる訳がない。
 しかし、完顔宗望は部下の兵士たちに刀剣を持たせ、趙桓の周囲を取り囲ませていた。
 完顔宗望はにやにやと笑うばかりで何も言わなかったが、圧力はひしひしと感じられた。
 もし署名を拒めば、殺されるかも知れない。
 そんな恐怖に支配された趙桓に選択の余地はなかった。
 仮に殺されないにしても、和議が成立しなければ、既に開封の城門を破っている金軍は攻撃を再開し、皇
族も庶民も関係なく、城内にいる者を皆殺しにするだろう。そうなれば、百五十年余りに渡って栄華を誇っ
た宋朝は完全に滅んでしまう。それだけは何としても避けなければならない。
 胸中でそんな言い訳の文句を並び立てながら、趙桓は震える手で和議に署名するしかなかった。
 歴史上、女性は常に社会の弱者であり、敗戦国の女性は更に直接占領者の戦利品となって蹂躙される。
男たちの過ちによって国が破れ家が滅ぶ苦痛は、まさに女たちの肉体が引き受けることになる。
 今回、とりわけ悲惨だったのは、女性たちは何と家長――国の主たる皇帝の手で売られてしまったことだ。


 二月の初め、久し振りの晴天が開封に到来した。しかし、それは宋の宮廷にとっては大いなる災厄の到来
を意味した。
 二千五百人のうら若き女官たちはまさにこの晴天の下、金軍の兵営へと送られたのだ。
 金兵の厳重な監視の下、多くの牛車が何度も往来し、一群また一群の若く可憐な捕虜たちを乗せた。車の
簾の中からは、絶え間なくすすり泣く声が聞こえた。
 女官の中には、辱めを受けることを免れるために自害を選んだ者さえいた。
 今回入城した金兵の一隊を率いるのは、金軍を率いるもう一人の元帥で、宰相の地位にもある完顔宗翰の
二人の息子、真珠大王完顔設野馬と宝山大王完顔斜保の両人である。
 鉄の鎧を身にまとい、色黒く、満面に無精鬚を生やしたその恐ろしげな姿は、普段後宮に住まい、宦官
以外の男と接することがほとんどない女官たちの血の気を失わせた。
 多くの者は髪をぼさぼさにし、顔を泥を塗りたくり、服もぼろぼろにして病気であることを装ったが、それ
でも金軍からの指名を免れることはできなかった。
 完顔斜保はわざと顔を傷つけていた女官を見つけて激怒し、即座に引きずり出すと、全員の目の前で刀を
振り下ろし、斬って捨てた。
 血塗れとなって地面に倒れ伏した同僚の姿に蒼白となった女官たちの前で、完顔斜保は、もし再び顔を傷つ
ける者があれば、この女のようになる。全ての女官は盛装して宮中を出なければならない。美しくない者は、
雑兵の慰め者にすると通告した。
 女官たちは先ほどとは一転、慌てて化粧を施し、着飾って、少しでも自分を美しく見せようと必死に努力
した。
 こうして三日間をかけて、二千五百人の女官全てが金軍の兵営へと送り込まれた。


 金軍が入城して女官を掠奪した消息は、瞬く間に開封の高官貴族の家々を震え上がらせた。
 金軍は身分の高い女性を選んで奴隷にしようとしている。趙桓が結んだ和議の条項の内容はまだ公表
されてはいなかったが、早くもそんな噂が都を駆け巡っていた。
 恐慌状態に陥った多くの貴婦人たちは、髪をさんばら髪にして顔を泥で汚さずにはおれず、更に金兵を
恐れて四方へ逃げ場を求めたのである。
 城内の貧民窟は、時ならぬ一群の珍客を迎えることになった。
 普段薄暗く、ゴミが散乱して不潔で、最下層の貧民が暮らし、乞食がたむろしている。そんな場所へ、
金軍に捕らえられることを恐れた貴族や大臣家の令嬢や若夫人が、匿ってもらおうと押しかけてきたのだ。
 身分の高さゆえに狙われるのであれば、自ら身分を貶めてしまえばいい。
 そう考えた女性たちは、普段から蔑んできた貧民や浮浪者たちに頭を下げて懇願し、収容を請うた。 
 甚だしきに至っては、貴族の女性が喜んで身を売って奴隷となったり、下女となって下働きを始める事例が
続出した。
 ただひたすら、金軍に捕らえられて極寒の北方へ連行されてしまうことを免れたかったのだ。
 開封の最下層の男たち――破落戸や浮浪者たちは、この機会に乗じて思わぬ艶福を享受した。
 貧民窟に逃げ込んできた貴婦人たちは、追い出されることを恐れて、相手がどんなに卑しい男であろうと
媚を売り、機嫌を取り結ぼうとするのである。
 強引に迫り、居場所を金軍に密告するなどと脅せば、たいていは言いなりになり、身を任せた。
 そもそも辱めを拒んで自害するような気概を持っている女性であれば、こそこそとこんな場所に逃げ隠れ
することもなかっただろう。
 高貴な家の女性というものは、下賎な男たちにとって、その肌に触れる機会が来ようとは夢にも思ってい
なかった高嶺の花である。
 大臣家の令嬢がならず者の無頼漢に押し倒され、貞淑な進士夫人が垢に塗れた乞食に求められるままに帯
を解いて裸体を晒すなどといった、非日常的な光景が貧民窟のあちらこちらで現出した。


 金軍の包囲下、人々の間に生じた不安は拭いがたく、それは治安の悪化という形になって表れた。
 金軍の兵士に偽装した男たちが、徒党を組んで高官や富豪の屋敷に押し入り、大金国皇帝の命と称して
強盗を働いたり、婦女をさらうような事件が続発したのだ。
 しかし、都の治安を預かるはずの開封府はこの種の犯罪に無力であったばかりか、逆に金軍の手先に
成り下がろうとしていた。
 金軍に拘留されている皇帝趙桓の命により、開封府の役人たちは、金人の要求を満たすために行われる
掠奪の先頭に立ったのだ。
 我が身可愛さに宋の皇帝は、婦女を捕らえて借金の返済に充て始める。
 開封府尹の徐秉哲はとりわけ、金軍に取り入ることに熱心だった。
 要求された美女の数を揃えて手柄にしようと、城内に住まう民間の女性たちを無差別に狩り集めて、
無理やりに頭数を揃えた。
 上は嬪御、下は妓女に至るまで、およそ五千名の婦女が盛装で京城から送り出され、金軍に引き渡され
たのだ。
 ところが、金軍は意外にもけちをつけ始め、受け取った五千名の女性のうち、三千人の処女を選んで収
めると、 残った者は凌辱した後に、病人であると称して全て城へ送り返してしまった。


 二月七日、宋朝の皇族が最も恐れていた事態がついに発生した。
 上京から来た特使で、金の皇帝の長子たる完顔宗磐が開封に到着したのである。彼は金の皇帝完顔晟から
の、宋の皇帝を廃位するようにとの命令書を携えていた。
 完顔宗望は先に手に入れた茂徳帝姫の美貌に夢中となり、その彼女からの懇願によって善心を起こし、趙
氏の皇族を保護するつもりだった。しかし、金の皇帝と完顔宗翰の二重の圧力は彼の考えを粉砕してしまっ
た。
 完顔宗望の庇護を失って、開封の宋朝の皇族は、彼らの一生の中で最も悲惨な日を迎えた。
 一万余りの金軍は徐秉哲の案内でいくつかの部隊に分かれて開封城へ闖入し、趙氏の皇族を捜索し、次々
に逮捕していったのだ。
 金軍の騎兵の厳重な監視の下、宋の太上皇帝と妻妾、婿と嫁、侍女らは続々と皇城から連れ出された。
 ある宦官の発案で、四人の機敏な帝姫と王妃は民家に身を隠していたが、これも残念ながら金兵に見つけ
出されてしまった。
 全部で二十一人の帝姫、二十九人の皇孫宗姫、三十四人の皇子妃、十八人の親王妃、二十三人の諸王
宗姫、百人余りの皇妃、合わせて三百九人の皇族の高貴な女性が賠償金の抵当として金軍に与えられた。
 女真の騎兵たちは牛車が遅過ぎることを嫌い、何と一人で一人の女を背負って金の兵営へ馳せ戻った。そ
の途上、馬上でからかいといたずらが行われるのは避けられなかった。
 しばらくの間、開封は女真の騎兵の大きな笑い声と皇女たちの泣き叫ぶ声に覆われた。
 その上、以前に何度か売り出された教坊の女性、内夫人、犯官の家属、合わせて一万二千人余りは東西
路軍に等分され、それぞれ劉家寺大寨と青城大寨に収監された。
 彼女たちを待っていたのは極めて悲惨な性奴隷としての生活だった。大多数の女たちは馬に乗ることを
許さ れず、彼女たちは髪を振り乱し、縄で数珠繋ぎにされ、金兵の刀槍の監視の下、罪人同然に金の兵営
へ 連行された。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

目安箱バナー