ビザンツ帝国

ビザンティン帝国 Byzantine Empire

330-1453 専制君主制キリスト教東ローマ帝国。首都の旧名ビザンティウムにちなんでビザンツ(ビザンティン)帝国と呼ばれ、三つに時代区分できる。(1)〔初期〕コンスタンティヌス1世のキリスト教公認、ローマからコンスタンティノープルへの首都の移転、専制君主政中央集権制度の確立、軍隊の再建から始まる。5世紀に帝国領西半分がゲルマン諸族に奪われたが、北アフリカ、イタリア、イベリア半島西南部を再征服した。この成果は6世紀後半には崩壊し始め、フォカスの帝位簒奪が帝国を存亡の危機に陥れた。(2)〔中期〕 サーサーン朝ペルシアやイスラム教アラブ軍の首都攻撃を撃退したが、レオン3世がイコン破壊運動を始め、その影響は国内外に及んだ。セマ制度はイラクリオスのときに始まり、帝国の支配が確立した地方に順次成立した。イコン破壊運動終焉後のアモリオン朝のときに、帝国興隆の燭光が見え、続くマケドニア朝に中期の全盛時代が実現し、帝国領は東はアルメニアから西は南イタリアに及び、伝道によってキリスト教をスラヴ世界に広めた。マケドニア朝後の11世紀後半の混乱期にマンジケルト(マラーズギルド)の戦いでセルジューク・トルコ軍に破れて小アジアへの侵入を許し、同じ年に南イタリアのパーリが陥落して帝国の南イタリア領が消滅した。続くコムニノス朝3代の皇帝の時代には何とか国勢を維持したが、それ以後は衰退に向かい、第4回十字軍のコンスタンティノープル占領によって命脈を絶たれた。(3)〔後期〕 後期はニケア帝国とパレオロゴス朝とからなる。ニケア帝国は堅実な国政を維持したが、復活した帝国はもはやエーゲ海域の諸勢力の中の一弱小国に過ぎず、衰退の一途をたどって滅亡した。
(出典:山川『世界史小事典』560ページ)








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最終更新:2007年12月18日 00:42
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