まるで地上にいるもの全てが憎いと言わんばかりに照りつける傲岸不遜な陽光の中、彼女はしばらく暇を持て余していた。
普段なら元気に外で遊びまわる子供達すら、じりじりと焼け付くような暑さにやられたのか出てこようともしないので、見るものすらろくにない。
自慢の強度を誇る、体の一部である服すら、この状態ではやや恨めしく感じた。
「……何故簡単に脱着できるようなものにしてくれなかったんだろうな」
見た事のない種族的先祖に向かって無茶苦茶な文句を言いながら、パルシェンは遠くの木を見つめた。
陽炎で揺らいでいる気がするのは気のせいという事にしておきたかった。
彼女が普段ついているべき主は、今はちょっとした買い物があるようでこの場を離れていた。
本当にちょっとしたものだから、と言ってほぼ無理矢理彼女を木陰付近のベンチに座らせてさっさと行ってしまえば、
後に残るのは暇を持て余した一匹。
モルフォンは街を歩いている最中に、急にちょっとした用事を思い出したらしく、すぐに戻ると言って踵を返して曲がり角へ消えていってしまった。
状況を鑑みればちょっとした用事でないのは確かなのだが、どちらにせよ彼女の主が許すなら彼女に止めることはない。
ドククラゲと違って面倒ごとを持ってくるわけではないし、迷惑を掛けることもない。
そんなことはモルフォンには出来るわけがない。
どちらにせよ、この暑い中ご苦労な話だ。
こんな暑い中でも毒蛾の微笑みは一片の曇りも見せることはないのだろう。
風が一つ、二つと木々をざわめかせて、また過ぎ去っていく。
古ぼけた木製のベンチから映し出される自分の影の周りでざわざわと音を立てて揺れる木の葉の影が、手持ち無沙汰な自分をやんややんやと
非難しているような気がして、彼女は少しだけ居心地を悪くした。
そんな事を口に出そうものなら仲間の毒蛾は優雅に笑いながら「つくづく暇ですねー」とでも言ってみせるだろう。
基本的に色々なことに不器用な彼女は、モルフォンのように雑多な頼まれ事をする事も自分から何処かに行こうとする事もあまりなく、
ドククラゲのように次々と自分から騒動を舞い込むような事もしない。
結果として仲間のお目付け役やら、単純に空いた時間が増える。
それはそれで重要なのだから素直にしていればいいのだが、それを由とできる単純な性格ではなかった。
不器用なのである。
「ただいま」
「……早かったな」
返した言葉は心中に気圧されるようにして、やや鋭いものだった。……無愛想はいつものことである。
一瞬だけちらりと周りに目を切ってから、暑いなあ、と彼は誰にともなく呟いてベンチに腰掛ける。
聞こえるか聞こえないかくらいの、ぎし、という音と一緒に、座った余波で自慢の強度を誇る二枚貝である彼女の服の裾が僅かに浮いた。
「何かあったのか?」
手団扇で頬の辺りを薙ぎながら、こちらを向かずにぼそりと呟く主の言葉を聞いて、彼女はバツが悪そうに顔を顰めた。
どうという事はない泥沼思考の産物が自分の気付かないところで出てしまったことに苛立ちを感じると共に、そんなどうでもいい事で気を使わせた、
という事を心底恥じた。
今度こそ表に出さないようにと、なるべくゆったりとした声色を心がけて、彼女は僅かに揺れる自分の影法師を見ながら答えた。
「何でもない。気にするな」
後ろで木々が笑っていた。
「そうか」
たったそれだけ零してから、彼は手元に視線を移す。
半透明の袋から音を立てて、たった今買ってきただろう物をのんびりと整理し始める。
殊更に彼女にとっては退屈な時間になってしまったが、一人でいるよりは余計なことを考えずに済む気がした。
「……しかし、今日は暑いな。ドククラゲが茹るのも、分かる気がする」
「同意はしておくが、あれに関してなら、はしゃぎすぎているだけだろう。自業自得だ」
汗を拭う主と溜息をつく僕が見つめた先は同じ、主の腰につけてある紅白の球体。
今は猛暑の中で『しゃくとりむしごっこ』を繰り返した挙句、地面の熱で茹って倒れたもう一人の僕のいる場所だった。
「お前だって入ればいいものを。わざわざこんな日に出ている必要はないんだぞ?」
「別に無理はしていない。根気が違うんだ」
額に汗を一筋流しながらそんな事を言う彼女に、彼は苦笑しながらも嘆息した。
元々光の届き難い海辺や、氷で阻まれるような島が生息地の彼女には、よりこの暑さは耐え難いものなのだ。
「根気って言ってる時点で、いくらか無理をしてるようなものだと思うんだが」
自らの主すら移動手段にするドククラゲのような真似はともかく、パルシェンが多少の無理を嫌うタチなのは彼にとっては気になることだ。
それゆえに言葉を掛けるのだが――
「揚げ足取りは感心しないな、主」
これである。
仕方なく彼は説得を諦めて、手元の作業に戻った。
頭の中で説得失敗、の欄に十数個目の黒い×印を刻み込みながら。
――多少の無理をしなければいけないのではないか、と彼女は知らず思っている時がある。
彼女は元々弱音を吐くことを好まないきらいがある事はあるが、自らの内から知らず知らずのうちにせり上がってくる、
強迫観念のようなものを感じる事は最近のことだった。
自らの主と信頼を交わし、それが続く限り戦い抜いて、また護り抜くのが自分自身の役目だと、彼女が深い深い深海の奥から、
柔らかく暖かな気泡に乗って海上に顕れた時から、そう考えていた。
そう考えて、ある時は背中合わせに、ある時は立ち塞がるようにして自然に遂行していた場所が、時折砂塵の楼閣のように儚いものに感じる。
大抵の場合、そういった感情は居心地のいい空気にほだされて、知らずしらずのうちに露と消えてしまうのであるが、それでも時たま、
思い出すように感じるのだ。
自分が薄氷の上にいると。
(……余計なことを考えているな、私は)
考える必要のないことだ、と彼女はその感情に重石を乗せ代えて蓋をする。
信頼を交わしたその分だけ、この身を張れればそれで良い。
そもそも主の事を考えれば、自分の立場がそれなりに危ういものである事は望ましいことだったし、実際望んでいることだった。
それでも、時折自分の奥深くの海溝から覗く、逆らい難いものが闇から自分をじっと見つめる感覚を感じてしまう。
どれだけ重石を深く乗せ代えても、中からカリカリと鋭い爪のようなものが抉り出し、また闇から目を発芽させるのだ。
それは徐々に彼女の目的が、当初と違うモノにすり替わっていってしまっている証拠でもあった。
仲間が増えるたび、そして戦うたび、まるで振り子のように彼女の歓びと、氷が砕けるような不安は繰り返し、そして大きくなるのだろう。
「――おい?」
「!」
ふと、呼び掛ける声で彼女はハッと目を覚ました。
またもや思考に陥っていたことに静かに焦りながら、目の前の状況に混乱する。
彼女が視界を取り戻すと、目の前では魚を象った作り物がゆらゆらと視界の中で泳いでいる最中だった。
「何だ、主」
よく考えれば特に思考に陥っていることで、今回は礼を失したわけでもない。
なるべく動揺を表に出さないように、今度こそ鋭さを抑えた声で反応した。
「いや、甘い物でも食べるかと思って買ってきてあったんだよ。食べるか?」
なるほど、見れば目の前の魚はいささか不細工で、歪んでいて――
――具体的にいえば、鯛焼きだった。
「……いただこう」
泳ぐ鯛の頭を捕まえて、彼女はなんとはなしに尻尾を指で弾いた。
「モルフォンの分はちゃんと買ってあるから、遠慮することもない」
「クラゲの分はどうした?」
「いや、さすがに茹ってるからいいかな、と思ってな」
「……やれやれ。知らんぞ、主」
「ねだられるかな……? やっぱり。後で」
鯛にかじりつく事もせずにぽりぽりとひとさし指で頬を掻く彼に対して、彼女はほんの少し嘆息した。
「ねだられない。ねだられないだろうが……それをネタに何かされる事は覚悟するべきだ」
失敗だとばかりに苦々しい顔をして、彼は腰を見つめる。
『その通り』と応えるように、紅白の球体がカタカタと揺れた――気がした。
「むう」
振り払うように鯛の頭にかぶりつき、咀嚼した。
……後々に、多少割の合わないことに巻き込まれることを覚悟しながら。
「……残酷だな」
「は? ……何だ?」
横からぽつりと聞こえた言葉に対して、思わず間抜けな声を出して彼が反応する。
反応された方もされた方でそんな事に突っ込まれるとは思っていなかったのか、或いは声に出したつもりではなかったのか、
ほんの少しだけ眉を顰めた。
「いや。鯛焼きを頭から齧ると残酷だ、と言うだろう? ……ふと思い出しただけだ」
「ああ、成る程。成る程……ね」
得心がいったように彼は頷きながら、続けて頭から胴へとかじりついていく。
ふむふむと見えない何かに向かって何度も何度も頷いてから、ぺろりと唇の端の餡を舌で拭う。
「それは間違ってるな」
「間違っている?」
鸚鵡返しのように聞き返すパルシェンの疑問は、半分はやや呆れたように、もう半分は本当の疑問からだった。
言った手前からか、パルシェンは尻尾から齧り始めていた。
「大体、何で頭からかじると残酷なんだ。尻尾からかじると礼儀正しい、とでも言うのか?」
「礼儀正しいかどうかは知らんが、頭からばりばり食べるよりはマシなのではないか?」
「それがもう間違ってるんだ」
一息に胴を全て食べつくすと、尻尾だけが残った鯛をあてつけるように彼女に見せつけながら、彼は語調を強める。
「尻尾っていうのは大事な部分なんだ。大昔から『尻尾を踏むと復讐がある』『尻尾を踏むと恨まれる』だのという言い伝えがあるように、
尻尾を傷つけることはまず失礼なことにあたるだろう。もえもんで言えば、キュウコン辺りは尻尾を踏むとそれはそれは末永く末永く、
恨まれ続けるという話があるじゃないか。彗星の『尾』というように、尾というのは古来から強力な力と自己の象徴でもある」
彼女は一瞬鬱陶しそうにしながら、袖をひらひらとしながら腕で鯛を払った。
憮然とした表情で、尻尾の付け根から胴に向かって歯を進めていく。
「いや、それはいくらなんでも暴論じゃないか? 仏の顔も三度まで。顔を傷付ける方が、どう考えても怒りを買う」
「そもそもその考え方がまずいんだろう。無為に傷付けるような真似をするから悪いんだ。この場合大切なのは、
どちらから接したほうが失礼でないか、という事だろ?」
「意味がわからん」
「要するに、顔から相手を『呑む』ことが要だっていう話だ。中途半端に踏んだり、何も考えずに殴ったりするから恨みを買うんだ。
相手を頭から呑んでしまえばそれはむしろ失礼ではないし、相手との交流の一環だろう。ひいては支配に繋がったりもする。
しかし『尾』――背後からそんな事をしても、誰も交流とは思わないだろう? 尾というのは、誰にも触れ難いどこか不可侵の場所なんだよ」
ゆっくりと飲み下すようにそこまで言ってから、彼は残った尻尾だけの鯛を、角度だけ変えて中身を彼女に見せるようにして笑ってみせた。
「この通り、鯛焼きも頭から『呑んだ』方が美味しく頂ける。従ってみるものだろ?」
中身には、頭の方から食べられることによって押し出されるようになった餡子が詰まっていた。
その尻尾をひょいと口の中に放り込み、満足そうに転がし始める。
「結局、それが言いたいだけだったのか?」
やれやれ、とでも言いたげに彼女は残った頭を自分の口に放り込んだ。
そもそも最初の方に食べた尻尾に餡が入っていたか入っていないかなど、彼女にとっては大して覚えもないことである。
「別にそういうわけでもない。相手にするならやはり後ろからではなく前から、という事だ」
「敵に勝つだけなら後ろからの方が楽じゃないか」
外道である。
もっとも、さすがに後ろから不意打ちをするような真似はしないとはいえ、時に撒きびしと毒の二重苦の上で嬲るような戦法を取る事を厭わない、
彼のPTにとってはあまり真っ向から否定する事も出来なかったりはする。
「勝つだけなら、な」
そう言って彼は柔らかく片目を瞑ってみせると、腰にある生命線をこつこつと指で叩いてみせた。
「勝つだけなら、もえもんトレーナーはやってられないだろう?」
勝つ事だけが必要ならもえもんは従えることが出来ないし、従える必要もまた存在することはない。
そんな事をしなくても、勝つという事だけにこだわるならば、より簡単で楽な方法というものはいくらでもある。
それは何もゲットの際だけの問題でもなく、外道戦法を使う彼にとっても余計な恨みをしょい込むのはお断りなのである。
「本当にか?」
「……パルシェンがそれを言うのか?」
ふん、と彼女は鼻を鳴らして腕を組み、木の葉の影にたゆたう自分の姿をもう一度眺めた。
さっきよりも影が延び、今にも二つの影を覆い隠してしまいそうにも見える。
丁度いいことだ、と口に残った甘ったるい餡の感触を覚えながら彼女は思った。
「その主の言が本当に正しいことなのかどうか、確かめてみて欲しいものだ」
――弱音を吐く自分がいたとしても、そうそう露見してしまうことはないだろう。
「どういうことだ?」
「自分の胸にでも聞け」
それ以上の言葉は不要だ、とばかりに彼女は唇を固く引き結んでしまった――否、閉じた。
開けてしまえば即座に放ってしまいそうになる、そんな理解されないことに対する憤慨と、それよりもなお大きく彼女の心に熱を灯し影を写す、願望。
雪のように真っ白な彼女の指がおずおずと古びた木を這って、その一回り大きな指に重ねられると、時間も経たずに絡め取られていった。
「わかった、わかった」
急にその速度と繊細さを以って絡め取られ、僅かにぴくりと震えたその細い指は、果たして持ち主の鼓動を一つとして逃さずに伝えていった。
控えめで、気をつけてしまえば見逃してしまいそうなものではあったが、それは感じてしまえば間違えようのない自己主張。
するりと完全に絡めてしまうと、拳一つ分程度のほんのわずかな距離だけ、彼は腰を浮かせて接近した。
逃げられることもなく、不満を持たれるようなこともないであろう、細心の注意を払った距離。
必要のない距離。
「……」
それでも必要な距離なのだ、勝つだけなら必要のない距離でも、もえもんトレーナーなのだから。
――いや、何を言おうが結局は、自分も居心地がいいからこうしているだけに過ぎないのかもしれないな――と彼は心の隅で思い、
鋼鉄を超える強度に護られた、その小さな頭を見つめた。
「自分の言葉には、責任を持とう」
じきに、大きな影がまるで大口を開けるようにして迫る。
小さな影は抵抗することもなく、やがて二つの影は一つに重なった。
まるで大口を開けた影が、小さな影を頭から飲み込むようにして。
木の葉はやんややんやと囃し立てるようにして、その二人の姿を人の目から隠すように覆いこむ。
そのざわめきを遠い遠い、どこか夢のようなものに感じながら。
二人はやけに甘ったるく舌につく感触をお互いに突きあって、楽しんだ。
最終更新:2008年08月20日 14:50