春の陽気が混ざりつつある日の昼下がり。
私たちが旅を始めて以来久しぶりの実家帰りの最中。
顔を伏せがちに、時折よろけながら先を歩いていたマスターが立ち止まって振り返り、
「ごめんニーナ、また……いいかな?」
「勿論ですよ。ゆっくりしてください」
「うん……ごめんね」
そう言って最寄りの木陰に腰を下ろし、静かに目を閉じた。
呼吸が落ち着いたのを見届けて、
「……また謝られてしまいました」
お嬢様の件が済んでから度々、こうやって彼は休憩を取るようになった。
理由は分かる。
……毎夜、うなされていますからね……。
だが、
……どうしてうなされているのでしょう。
原因には思い当たらない。
「……ありがとうって言ってほしいです」
うなされる彼の手を握ろうとも、頭を撫でようとも、小さく声を掛けようとも効果はなかった。
以前ならそうすることでおさまっただけに、悔しさを感じる。
そして同時に、私は推理することになった。
……私が何をしようと解決しないということは。
私の行為が届かぬところに、私の知らぬ彼の過去に、彼がうなされる原因があるのだと。
そのことを訊ね問うことができるのは、彼と、彼の母親だ。
そういった事情を含めての、実家帰りである。
気持ちとしては少しでも早く辿り着いて、原因を知り、彼を助けたい。
けれど、
「頼られてます、よね……」
自分のことは二の次で無理ばかりしていたマスターが、こうして自分の体調を考えて行動するようになった。
それは、私を頼ってくれているからこそなのだと、そう思えるのだ。
だから私は、早く帰りたいと思う一方で、
「……ふふ」
少しでも長く、この空気を味わっていたいとも感じているのだった。
到着したのは夕方になってからだった。
私とマスターのただいまの声が重なると、家の奥からすぐさま女性が現れる。
勿論よく知る人物。マスターの母で、私の育ての親だ。
母上は私たちの姿を認めると、数度満足げに頷き、
「おかえり。遅かったじゃない」
「うん……」
休みを途中で挟みはしたものの、やはり家に帰るために無理をしていたところはあるのだろう、マスターは少し疲れた様子で言葉を返した。
マスターの弱い返事を耳にして、母上の表情は一転する。
笑みから驚きへ。
それがどのような意味をもってなされたのか、私には読み取ることはできなかった。
「母上、どうかしましたか?」
「ん、何でもないわよ。さ、早く中に上がっちゃいなさい。玄関で突っ立ってても仕方ないわ」
母上の後に続いて居間に入る。
様変わりした部屋を想像して身構えていたが、ほとんど変わっていない様子に拍子抜けすると共に、
……懐かしい。
家に帰ってきたんだ、ということを再び実感した。
……マスターと出会ってから私の育った家。
不思議なことに、覚えてもいないはずの匂いまでもがここを我が家だと認識させた。
「とりあえずお茶でも入れるから座ってなさい」
「ごめん……眠いから部屋で寝てくる……」
マスターは居間に顔を出すだけで、自分の部屋に帰っていった。
その足取りは不安定で怪しげである。
……やっぱり無理をしていましたか。
でも、
……今回みたいな時は、そのくらいでもいいですよね……。
久しぶりに母親に会うのだから。そういった時くらい。
「布団は出しておいたから敷くだけよー?」
「分かった……」
言葉の後には戸が閉まる音がひとつ廊下から響いた。
母上は盆に並べた湯飲みを一つ棚に戻して、
「帰ってきて早々あの子は……。はい、どうぞニーナちゃん」
「ありがとう御座います」
テーブルを挟んで母上と対面する形になった。
やましいことがあるわけではないのだが、なんだか落ち着かない。
……えぇと、その、なにを話せば……家のことでしょうか、旅のことでしょうか。
膝上で両手指を絡めて、どのタイミングで、どんな言い出しで、何を話すかを考える。
……ど、どうすれば。
悩む私を微笑みと共に見つめ、母上が口を開いた。
「ニーナちゃん、あの子なら部屋で寝てるわよ」
「は、はい。知ってますけど……」
「そういうことじゃなくてね。目が探してたわよ?」
言われてドキリとする。
顔が熱をもっていくのがよくわかった。
頭から湯気でも出ているのではないかと思えるほど。
「そ、そんなことはっ」
「いいのよいいのよー。ニーナちゃんが面白くなって帰ってきてお母さん嬉しいから」
「面白い、ですか……?」
自身の変化というものには中々気付かないものだ。
旅をしたことで私はどう変わったのだろう。
変わったであろう、変わった、そういう意識は私の中に実感と共にある。
それが誰によったもので、何の為に変わったのかも。
「そうよー。前はからかってもほとんど反応なかったもの」
「そうでしたでしょうか……?」
「覚えてないかしら? 半分無視か、暗い否定ばかりだったのよ?」
……思い出せません。というか私そんなかわいくない反応をしてたんですか……。
そういう反応をする自分は想像できる。だが記憶にない。
「全然思い出せません……」
「ふふ、それだけ充実した旅だったってことね」
「そうだと良いですね」
「あの子にとっては充実しすぎてたのかもしれないけど」
母上の目がキリ、と真剣なものに変わった。
「そうかも、しれません……」
「あんまり……だめよ? あの子お世辞にも体力があるだなんて言えないんだから」
「そうですね。少し無理をさせてしまったところもあります。気付いていたんですけど、いいかなと」
「まぁ分かってるならいいの。だけどまだ旅は長いんだし、何かあっても困るからね」
「次からは気をつけます……」
確かにそうだ。
旅はまだまだ先がある。そもそもどこで終わりなのかも分からない。
そんな中で大事があったら問題だ。
……でも、マスターも私も一度は倒れてますよね。
少し遅かった、かも。
しかし私の反省は、母上の一言で粉砕される。
「でも、ニーナちゃんを満足させられないあの子もあの子ね。後で躾けておきましょう」
「……はい?」
今なんと。
「ん? あ、ニーナちゃんは気にしなくていいのよ? あの子にすこーし灸を据えるだけだから」
「いえ、そうではなくて! いや、そちらも問題なのですけど! その前の!」
「ニーナちゃん、満足できないから無理させてるんでしょう?」
「……母上、それはどういった類の話題で御座いますか」
「母上だなんて堅いわねっ」
「それではお母様」
「ママっでもおかーさんっでもいいのよ! 恥ずかしがらずに」
「母上はもっと恥ずかしがってくださいっ! というか真面目な話かと思ったらっ!」
「でもね、ニーナちゃん」
す、と母上の声のトーンが落ちた。
ごくり、と喉が鳴る。
「そういう相性ってだいj」
「お、親子の絆も大事に――!!」
手に持っていた湯飲みがすっぽ抜けた。故意に。
「さてさて、冗談はこんなところにしておいて」
お茶で濡れた箇所をタオルでふき取りながら、母上は仕切りなおした。
……まったく。面白いからって。
ぶつぶつ。
「どう? 少しは話しやすくなったかしら」
「え、あ、はい」
「それはよかったわ。じゃあニーナちゃん、貴女はあの子の何が聞きたいのかしら?」
「……え、どうして……?」
「聞きたいんでしょう? 顔に書いてあるわよ」
「それはそうですけど……」
「なぁにー? もしかしてあれ? ニーナちゃんの聞きたいこともさっきみたいなの?」
「ち、ちがいます!」
「何にせよ、あの子のことなら今聞いておくのがいいと思うわよ?」
……そうですね。
マスターがいない今が、彼のことを聞くチャンスであろう。
……聞かなくては。
彼が何を抱えているのか、私が追い付き知るには、必要なのだ。
マスターの過去が。私の知らぬ昔の彼が。
「では、いいでしょうか」
一息おいて、母上を見る目に力をこめる。
「私が来る以前のマスターのことを聞いても――」
やっぱり、と頬杖をついて笑む母上。
「――いいですか?」
マスターの過去に踏み入る為に、私は足をあげた。
が、
「それ、ダメって言ったらどうするの、ニーナちゃん」
人差し指を立て、指先でくるくると円を描きながら、母上は笑みを崩さず答えた。
その仕草は余裕を感じさせる。
「え、えぇと……ダメ、なんですか?」
「そういうことじゃないの。ただ……」
ただ? と私は促した。
「私は『何が』聞きたいのかを問うたわ。だからニーナちゃんは、コレを『聞かせろ』くらいでいいのよ」
「でもそれは……」
だって、と母上は私の言い訳をいなし、目を細めて、
「そうでもないと、ニーナちゃんのこと疑っちゃうじゃない。本気なのかどうか、ね」
「そうですね……。では改めます。彼のこと、聞かせていただきます」
振り上げた足を、下ろした。踏み入れる。
最終更新:2009年04月01日 00:50