5スレ>>692-1

 春の陽気が混ざりつつある日の昼下がり。
 私たちが旅を始めて以来久しぶりの実家帰りの最中。
 顔を伏せがちに、時折よろけながら先を歩いていたマスターが立ち止まって振り返り、

「ごめんニーナ、また……いいかな?」
「勿論ですよ。ゆっくりしてください」
「うん……ごめんね」

 そう言って最寄りの木陰に腰を下ろし、静かに目を閉じた。
 呼吸が落ち着いたのを見届けて、

「……また謝られてしまいました」

 お嬢様の件が済んでから度々、こうやって彼は休憩を取るようになった。
 理由は分かる。
 ……毎夜、うなされていますからね……。
 だが、
 ……どうしてうなされているのでしょう。
 原因には思い当たらない。

「……ありがとうって言ってほしいです」

 うなされる彼の手を握ろうとも、頭を撫でようとも、小さく声を掛けようとも効果はなかった。
 以前ならそうすることでおさまっただけに、悔しさを感じる。
 そして同時に、私は推理することになった。
 ……私が何をしようと解決しないということは。
 私の行為が届かぬところに、私の知らぬ彼の過去に、彼がうなされる原因があるのだと。
 そのことを訊ね問うことができるのは、彼と、彼の母親だ。
 そういった事情を含めての、実家帰りである。
 気持ちとしては少しでも早く辿り着いて、原因を知り、彼を助けたい。
 けれど、

「頼られてます、よね……」

 自分のことは二の次で無理ばかりしていたマスターが、こうして自分の体調を考えて行動するようになった。
 それは、私を頼ってくれているからこそなのだと、そう思えるのだ。
 だから私は、早く帰りたいと思う一方で、

「……ふふ」

 少しでも長く、この空気を味わっていたいとも感じているのだった。





 到着したのは夕方になってからだった。
 私とマスターのただいまの声が重なると、家の奥からすぐさま女性が現れる。
 勿論よく知る人物。マスターの母で、私の育ての親だ。
 母上は私たちの姿を認めると、数度満足げに頷き、

「おかえり。遅かったじゃない」
「うん……」

 休みを途中で挟みはしたものの、やはり家に帰るために無理をしていたところはあるのだろう、マスターは少し疲れた様子で言葉を返した。
 マスターの弱い返事を耳にして、母上の表情は一転する。
 笑みから驚きへ。
 それがどのような意味をもってなされたのか、私には読み取ることはできなかった。

「母上、どうかしましたか?」
「ん、何でもないわよ。さ、早く中に上がっちゃいなさい。玄関で突っ立ってても仕方ないわ」

 母上の後に続いて居間に入る。
 様変わりした部屋を想像して身構えていたが、ほとんど変わっていない様子に拍子抜けすると共に、
 ……懐かしい。
 家に帰ってきたんだ、ということを再び実感した。
 ……マスターと出会ってから私の育った家。
 不思議なことに、覚えてもいないはずの匂いまでもがここを我が家だと認識させた。

「とりあえずお茶でも入れるから座ってなさい」
「ごめん……眠いから部屋で寝てくる……」

 マスターは居間に顔を出すだけで、自分の部屋に帰っていった。
 その足取りは不安定で怪しげである。
 ……やっぱり無理をしていましたか。
 でも、
 ……今回みたいな時は、そのくらいでもいいですよね……。
 久しぶりに母親に会うのだから。そういった時くらい。

「布団は出しておいたから敷くだけよー?」
「分かった……」

 言葉の後には戸が閉まる音がひとつ廊下から響いた。
 母上は盆に並べた湯飲みを一つ棚に戻して、

「帰ってきて早々あの子は……。はい、どうぞニーナちゃん」
「ありがとう御座います」

 テーブルを挟んで母上と対面する形になった。
 やましいことがあるわけではないのだが、なんだか落ち着かない。
 ……えぇと、その、なにを話せば……家のことでしょうか、旅のことでしょうか。
 膝上で両手指を絡めて、どのタイミングで、どんな言い出しで、何を話すかを考える。
 ……ど、どうすれば。
 悩む私を微笑みと共に見つめ、母上が口を開いた。

「ニーナちゃん、あの子なら部屋で寝てるわよ」
「は、はい。知ってますけど……」
「そういうことじゃなくてね。目が探してたわよ?」

 言われてドキリとする。
 顔が熱をもっていくのがよくわかった。
 頭から湯気でも出ているのではないかと思えるほど。

「そ、そんなことはっ」
「いいのよいいのよー。ニーナちゃんが面白くなって帰ってきてお母さん嬉しいから」
「面白い、ですか……?」

 自身の変化というものには中々気付かないものだ。
 旅をしたことで私はどう変わったのだろう。
 変わったであろう、変わった、そういう意識は私の中に実感と共にある。
 それが誰によったもので、何の為に変わったのかも。

「そうよー。前はからかってもほとんど反応なかったもの」
「そうでしたでしょうか……?」
「覚えてないかしら? 半分無視か、暗い否定ばかりだったのよ?」

 ……思い出せません。というか私そんなかわいくない反応をしてたんですか……。
 そういう反応をする自分は想像できる。だが記憶にない。

「全然思い出せません……」
「ふふ、それだけ充実した旅だったってことね」
「そうだと良いですね」
「あの子にとっては充実しすぎてたのかもしれないけど」

 母上の目がキリ、と真剣なものに変わった。

「そうかも、しれません……」
「あんまり……だめよ? あの子お世辞にも体力があるだなんて言えないんだから」
「そうですね。少し無理をさせてしまったところもあります。気付いていたんですけど、いいかなと」
「まぁ分かってるならいいの。だけどまだ旅は長いんだし、何かあっても困るからね」
「次からは気をつけます……」

 確かにそうだ。
 旅はまだまだ先がある。そもそもどこで終わりなのかも分からない。
 そんな中で大事があったら問題だ。
 ……でも、マスターも私も一度は倒れてますよね。
 少し遅かった、かも。
 しかし私の反省は、母上の一言で粉砕される。

「でも、ニーナちゃんを満足させられないあの子もあの子ね。後で躾けておきましょう」
「……はい?」

 今なんと。

「ん? あ、ニーナちゃんは気にしなくていいのよ? あの子にすこーし灸を据えるだけだから」
「いえ、そうではなくて! いや、そちらも問題なのですけど! その前の!」
「ニーナちゃん、満足できないから無理させてるんでしょう?」
「……母上、それはどういった類の話題で御座いますか」
「母上だなんて堅いわねっ」
「それではお母様」
「ママっでもおかーさんっでもいいのよ! 恥ずかしがらずに」
「母上はもっと恥ずかしがってくださいっ! というか真面目な話かと思ったらっ!」
「でもね、ニーナちゃん」

 す、と母上の声のトーンが落ちた。
 ごくり、と喉が鳴る。

「そういう相性ってだいj」
「お、親子の絆も大事に――!!」

 手に持っていた湯飲みがすっぽ抜けた。故意に。





「さてさて、冗談はこんなところにしておいて」

 お茶で濡れた箇所をタオルでふき取りながら、母上は仕切りなおした。
 ……まったく。面白いからって。
 ぶつぶつ。

「どう? 少しは話しやすくなったかしら」
「え、あ、はい」
「それはよかったわ。じゃあニーナちゃん、貴女はあの子の何が聞きたいのかしら?」
「……え、どうして……?」
「聞きたいんでしょう? 顔に書いてあるわよ」
「それはそうですけど……」
「なぁにー? もしかしてあれ? ニーナちゃんの聞きたいこともさっきみたいなの?」
「ち、ちがいます!」
「何にせよ、あの子のことなら今聞いておくのがいいと思うわよ?」

 ……そうですね。
 マスターがいない今が、彼のことを聞くチャンスであろう。
 ……聞かなくては。
 彼が何を抱えているのか、私が追い付き知るには、必要なのだ。
 マスターの過去が。私の知らぬ昔の彼が。

「では、いいでしょうか」

 一息おいて、母上を見る目に力をこめる。

「私が来る以前のマスターのことを聞いても――」

 やっぱり、と頬杖をついて笑む母上。

「――いいですか?」

 マスターの過去に踏み入る為に、私は足をあげた。
 が、

「それ、ダメって言ったらどうするの、ニーナちゃん」

 人差し指を立て、指先でくるくると円を描きながら、母上は笑みを崩さず答えた。
 その仕草は余裕を感じさせる。

「え、えぇと……ダメ、なんですか?」
「そういうことじゃないの。ただ……」

 ただ? と私は促した。

「私は『何が』聞きたいのかを問うたわ。だからニーナちゃんは、コレを『聞かせろ』くらいでいいのよ」
「でもそれは……」

 だって、と母上は私の言い訳をいなし、目を細めて、

「そうでもないと、ニーナちゃんのこと疑っちゃうじゃない。本気なのかどうか、ね」
「そうですね……。では改めます。彼のこと、聞かせていただきます」

 振り上げた足を、下ろした。踏み入れる。

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最終更新:2009年04月01日 00:50
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