5スレ>>928-7


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「――この手の本が人間の間で流布しているのは知っていましたが、
こうして手にとってじっくり読んだのは初めてです。
実に興味深い文献です。敬虔な方が書かれたのでしょうね」
『空』の妹ことシエルは、『創世記』の文庫本を閉じるとそう言った。


話は三十分ほど遡る。
『アルセウス事変』と呼ぶことにした一連の問題に対して
人間と萌えもんの両面からあたる協力関係を結んだ直後、
李白はシエルに『創世記』と史実の一致の検証を申し出たのだ。
彼はその内容だけをかいつまんで説明するつもりだったのだが、
シエルが本があるなら見せていただきたいと言った為、
李白は彼女に文庫本を渡して読ませることにした。
その間李白はパソコンに向かって仕事を、
エヴィは相変わらず無関心そうに窓際で本を読んでいた。
先程の台詞は、シエルの「終わりました」に続く言葉である。


「しかし、その話を書いた人物については不詳なんです」
と李白。
「これにも諸説ありましてね。実話だから著者は必要なかったとか、
節約の為に省かれたとか、名前のない人が書いたからとか、
書いたのが人間ではなく萌えもんだったから……なんてのもあります」
「おそらく、最初のが有力と見て良いでしょう」
「え……?」
李白の目が輝いた。
それは、長年誰も解けなかった謎が解かれた瞬間だったからに他ならない。
「どこまでが事実なんでしょう?」
目の前の女性に夢中になっている李白は気付かなかったが、
エヴィもページを繰る手を止めて聞き入っていた。

「私が生まれる前のくだりについては、直接お姉様から聞いたことがあります。
私、『大地』、そして『水』の三人は最初に生み出された妹。
それは事実と相違ありません。
その以前の話も私たちがまだ四人だった頃に直接お姉様から聞きました」

「そうか……」
李白は冷静を装いつつも興奮していた。
「この話は、限りなく史実に近いところを記録していたのか」
「ええ。私も驚きました」
シエルはそう言いつつも落ち着き払った様子で、お茶を飲んだ。
「何度か人間に接触する機会があって話を聞かせて貰ったのですが、
その内容が疑わしいものも少なくありませんでした。
お姉様の生まれ変わりだ、なんて豪語する人間もいましたよ」
「それはあり得ない……」
最初のアルセウスの分身たるシエルがこうして生きているのだ、
創造主たるこの萌えもんは不死身であると言っても過言ではない。
だから、『お姉様』と呼ばれる存在が死んで人間に生まれ変わった、
という話は眉唾物でしかないのだ。
「やはり、最初の三人は特別な存在なのですか?」
「特別……ですか。お姉様が特別視しているかは別として、
初期のアルセウスという意味でお姉様を含めた私たち四人は特別だったようです。
生み出される前の話を聞かされたのはおそらく私たちだけでしょう。
それに姉妹で戦いを始めた時も、
三人とも乗り気でなかったというのもありますが、封印は最後でしたしね。
私たちは最初から、最初の妹という誇りを持っていましたし、
そして今でも、協力関係にあります」
「それで、君以外の妹と最初のアルセウスは今どこに?」
「『大地』は先程申しましたように最初から日本にいた妹で、
随分引っ込み思案な……いいえ、引きこもり体質の子でして。
アニーという名前も私がいくつかある伝承の中から付けたものです。
あの子に事情を聞いても分かりませんし、そもそも興味がなさそうです。
お姉様は当然といいますか、行方が知れません。

そして『水』の妹、彼女はオフィーリアと名乗っているのですが、
今はこの国の南の方を見張っています。
出会ったのはだいぶ昔、今はイタリアと呼ばれるあたりでした」

  * * *

風が止まると書いて、凪。
まさにその日は、風もなく穏やかな海だった。
空を見上げれば気持ちよく晴れ、太陽が燦々と輝いている。
どこを見回しても水平線が続き、僅かに陸地が見える。
とても平和な一日だ。

昨日の大嵐が嘘のように思えるほどに。

その海域には鳥も魚も見られなかった。当然人間もいない。
そこにはただ一人の少女が仰向けに漂っているだけだった。
白いドレスに白い長髪、その中に青が混じる、碧眼の少女。
彼女はアルセウスの一人、『水』の妹である。彼女に名前はなかった。
目を閉じ、僅かな波に身を委ねてたゆたうその様子だけでは、
生きているのか死んでいるのかさえ分からない。
それほどまでに彼女は穏やかに、穏やかにしていた。
太陽の眩しさに、薄く目を開ける。
そしてアルセウスは、体を翻して海に潜った。
その海域は、陸からの距離を考えたらかなり浅い。
五メートルあるかないか。
しかも海底に広がるのは砂地でも海草でも珊瑚でもない。

一面、瓦礫と土砂の山なのだ。

しかもその瓦礫は明らかに自然のものではない。人工物である。
集落が怪物にぐちゃぐちゃにかき回されたような、そんな光景だ。
人の姿もなく、水上の平穏とは打って変わってその下は、
死んだ海とも形容すべき光景が広がっていた。
海底に届く陽光さえも、どこか恨めしい。
少女は、海面に飛び出て浮かんだ。
全身ずぶ濡れになり、その表情は暗く沈んでいる。
そこへ、何が別の生命体が近づいてくるのを彼女は察知した。
それは風と共にやってきて、少女の隣に浮いた。
「久しぶり、『水』。とは言ってもずっと眠ってたのよね、私たち」
「そうね。久しぶり、『空』」
彼女は同じアルセウスの眷属、『空』の妹だった。
その格好や服装など、同じ萌えもんから生まれたことがよく分かるほどに、
彼女らはよく似ていた。

「何かあったの?」
「何でもない。それより、どうしてここに?」
「お姉様を捜して空を飛び回っていたら、ちょうど」
「そう。それで私の他には?」
『空』の妹はふるふると首を振った。
「君が最初。他の妹たちの気配がなかったから、
ほとんどはまだ封印されたままなんだと思う。
これから南の方も見ていくつもり」
「ご苦労なことね。もしかしたら、覚醒するのは
封印されたのと逆の順番なのかしら。
そうだとしたら、お姉様と『大地』はどこかにいるかもね」
「確証はないけれどね……封印された場所さえ分かれ良いんだけど。
それにしても、最初に会えたのが君で良かったよ」
と、『空』の妹は微笑んだ。
「確かに、あれだけ喧嘩したものね……
それがここまで復興するのだから、人間や自然の力って凄いと思う」
「まったく。それじゃあ私、そろそろ行くね」
「ええ、何か分かったら教えてね」
そして『空』の妹は、水面に大きな波紋を残して空の彼方へ飛び去った。
相変わらず『水』の妹は水面で沈んだままだった。
下げた視線の先には、やはり崩れた廃墟が広がっている。

「人は水が無くては生きられない。でも、どうして水は人を生かさないの?」

  * * *

この惑星が水の惑星であると言われるのは有名だ。
宇宙に数多存在する天体の中でも、水があるこの星の珍しさを意味している。
生物は水が無くては生きていけないのと同じで、
人の歴史は水との歴史であると言い換えても差し支えはないだろう。
だからこれは、「有史以来」という言葉の最初に近いあたりの出来事である。


ある漁村に、人一人ほどの大きさの石が打ち上げられた。
厳密に言えば、海の萌えもんにより運ばれた、である。
その萌えもんによれば、これは人間と萌えもんにとって大事な存在だという。
対処に困った第一発見者の漁師は、とりあえず長老に相談してみることにした。
すると長老は直接見たいと申し出、海岸にやってきた。

長老がその青みがかった墨色の石に触れると、
石が光って僅かに動き、ひびが入ってから割れて、
中から眠っている少女が現れた。
人々は初めそれがアルセウスの『水』の妹であるどころか、
萌えもんであることさえ分からなかった。
人々がそういう認識に疎かったというのもあるが、
彼女がそれだけ人間じみた様相をしていたというのが大きい。
背格好や顔立ちから言って、美しさの盛り、二十歳過ぎくらいか。
艶のあるふっくらした白い頬には水滴が浮き、
長い髪も生乾きで妙な美しさがあった。

長老が「お嬢さん、大丈夫かい」と声をかける。
すると濡れたまつげが動き、少女が目を覚ました。
おお、と人々がどよめきの声を上げる。
少女はさっと優雅に立ち上がると、その場で一回転した。
彼女の白と青のドレス、長い髪が風を含んでふわりと舞い上がる。
そうして体に付いた砂や石の破片を払ってから、彼女は宙に浮いて人々を見下ろした。
その瞳は決して高圧的な態度ではない。感謝に満ちた、慈愛の目だった。
「私の眠りを覚ましたのはあなたですか?」
穏やかで、そして涼やかな声で、萌えもんは言った。
そして、長老から石が萌えもんに運ばれ、触ったら壊れたのだと説明を受けた。

「そうですか……萌えもんと人間、二つの鍵を必要とする……
なるほど、お姉様らしい粋な鍵ですね」

そしてこの島の小高い丘、そこに築かれた集落に目をやった。
「あれはあなた達が作ったものですか?」
長老はそうですが、と答える。「それが何か?」
「いえ、人間の叡智と、過ぎた時間を感じただけですよ」
そこでようやく、若い男が尋ねた。あなたは誰なのかと。
「名乗るのが遅れてしまいましたね。
私はこの世界を創造した萌えもん、アルセウス。
その妹の一人である私は、『水』の属性を司っています」
人々は、アルセウスという萌えもんの存在を知らなかったので、
アルセウスが何を言っているのか分からなかった。
ただ一つ分かったのは、彼女が水を司る神であることだけだ。
だが、彼らにとってはその情報だけで十分だった。
生活に密着した海の神が形を持って現れたと解釈したからである。
人々は彼女にその神の名、水を意味する言葉「アクア」を名前として与えた。
そして彼女は、守り神としてその漁村に住み着くことになる。

人々はアクアを毎日もてなした。
その恩返しにアルセウスは天候を自由に操って人々を喜ばせる。
そうやってこの村は、穏やかに暮らしていくように思われた。
村の中では、ちょっとした小競り合いが起こり始めたのである。
この頃人々は、世界は神の手により創造され、
神が人と萌えもんを創ったのだと信じていた。
つまり人間達は神と人間と萌えもんを全く別物と考えた上で、
アクアが神様だと信じ切っているのだが、
それに対して萌えもん達はアクアは一人の萌えもんだと主張していたのである。
もちろん後者が正しく、人間がそれを否定していたが、
誰一人としてそれを確かめようとするものもなかった。
それには、アクアには限られた人間しか近づけなかったというのもあるのだが。

そして、一人の若者が現れた。

それは長老の孫で、アクアはアルセウスという萌えもんだと、
周囲の萌えもん達に教えられて育ってきた青年である。
彼はさらに、萌えもんは人間に従うべき存在であるとの考えを持っていた。
だから、一人の萌えもんに尽くして従う人々の姿が鼻持ちならなかったのである。

そして事件が起こったのは、あの長老が死んだ翌日。
その日は朝から灰色の空で、遠雷が聞こえていた。
集落を見下ろす祭壇に、彼女はいた。
その祭壇は、平らな石がなだらかな山になるように積み上げられて作られ、
周囲に八本の石柱が輪を描くように規則正しく配置されている。
アクアはその中央に立って風に吹かれているのである。
青年は柱の影からそろそろと近づき、少女の背中に武器を構えて叫んだ。
「お前は萌えもんなんだろ! だったら大人しく人間に従うべきだ!」
「……私を捕まえようと言うの?」
アクアは身動き一つしない。
「その天気を操る力があれば、外に出ても敵なしだ!」
少女はそう、と答えて振り向きざまに水の刃を飛ばす。
それは青年の手に当たって銅剣を弾き落とす。
その音が何かの合図であったかのように、人々が祭壇になだれ込みアクアを取り囲む。
つまり彼らは、青年の同志だった。
青年の考えに賛同し、アクアを捕らえようとする人々である。
その中に見知った顔を見つけたアクアは、従う意思を見せた。

アクアは縄で繋がれて、奴隷同然の扱いを受けた。
用がない時は独房に閉じこめられ、必要な時だけ駆り出される。
その実力を確かめる為にも、青年はアクアを度々襲撃に同行させた。
父も殺して漁村の支配者になった青年は、思うがままに手腕を振るったのである。
独房にいる時、食事を運んできた萌えもんに彼女は聞いた。
「この島には泳げない萌えもんはいる?」
「はい、大陸から移ってきた三人ほどが……」
「じゃあ、彼らにすぐこの島から出るよう言いなさい」

その三日後である。
青年はいよいよ、大陸にある町を襲撃することにした。
その日も、朝から雲が立ちこめて荒れそうな雰囲気だった。
砂浜にはいくつもの船が用意され、人々は出発の時を待っていた。
青年が大衆の前で宣言をした時、アクアは自信の拘束を全て破壊した。
アクアは不敵に笑い、大粒の雨が降り始める。
それから何人かの男が彼女の体を押さえつけた。
その華奢な体は、いとも簡単に折れてしまいそうだった。

「報いを受けなさい、人間。これは罰」

アルセウスの少女はそう言った。
誰もが強がりと思ったが、青年はそうでなかった。
浮いていたはずの小舟が、全て砂浜に打ち上げられていた。
いや、上げられたのではない。海面の方が下がったのだ。
人々はなすすべもなく、やってくる津波に飲み込まれた。
それは一度や二度ではない。

全てを壊滅させないと気がすまない怒りは、何度も何度も繰り返された。
激しすぎる波は、小さな島を容赦なくえぐり取っていく。
その度に海岸線が大きく動くから、飲まれた人間はなすすべもなくただ踊らされる。
土砂や岩石がおぼれかける人々の上に降りかかり、海は阿鼻叫喚の地獄と化していた。
流れてきた祭壇の石や壊れた船で怪我をする人も後を絶たなかった。
殺人鬼と化したアクアは、あの青年の姿を見失わなかった。
おぼれているのを見ると、助けさえしたのである。
だが、それは悪意だった。
水面に連れ出して息を整えさせると、再び波に飲み込ませたのである。
今のアクアには、蹂躙されたことに対する怒りしかなかった。

そうして一晩中、惨劇の嵐は続いたのである。

翌朝太陽が昇る頃には、嵐を起こしていた雲はすっかり消えて、
それと同時に一つの島も消えていた。
だがこの頃はまだ地図というものがなかったので、
作ったものを書き換えるという必要もなかった。
その島があったところには、例の青年とアクアだけがいた。
青年は、まだかろうじて生きていた。だが死ぬのも時間の問題だろう。
穏やかな水面に浮く青年に、アクアはいくつか言葉をかける。
だがそれは届かない。
もうアクアの中に怒りは消え失せ、
代わりに取り返しの付かない後悔だけが残された。
青年にかけたのは、その後悔の言葉である。
アクアはその青年を埋葬するべく、手を引っ張って潜っていった。

  * * *

他の住民の死体は、嵐によって流されてしまったようである。
だからもう、弔うことは出来ない。
だから彼女は考えた。もう二度とこんな悲劇を起こしてはいけないと。
そして『水』の妹のアルセウスは、アクアという名前を捨て、
旅に出ることにしたのだった。
萌えもんと人間は互いに争ってはいけないと説く為に。
また、強大な力を持った萌えもんを怒らせない為に。


彼女がオフィーリアという別の名を手に入れ、
事態に向けて動き出したシエルと再会するのは、
これからまた、千年以上後の出来事である。
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