「急いでかえらないと……」
太陽が沈んでから、もう二時間ほどが経とうとしていた。
塾でいねむりなんかしちゃったせいでいつもよりずっと遅くなってしまった。
お母さんには電話しておいたけど、暗いし寒いし、早く帰りたい。
川沿いの堤防の上をがしゃがしゃと自転車で走り抜ける。
と、川からばしゃん、と人型の何かが姿を現した。
……なんだろう。
ボクは興味に負けて、人影の現れたあたりへ進路を変えた。
自転車に乗ったまま堤防を駆け下りる。
ブレーキを強く握ると、きぃ、という音を立てて自転車が止まった。
……さっきの人影は……あ、いた。
近くで見るとはっきりと分かった。
人影の正体はジュゴンだった。
でも……ジュゴンって……川に生息してたっけ。
「ねぇ……」
「――!?」
ボクが話しかけるとジュゴンはビックリして跳びはね、バシャンと川に飛び込んだ。
水飛沫があがり、ボクの服にも水がかかる。
ポケットからハンカチを取り出して、濡れた場所を拭いた。
ジュゴンは水面から顔だけを見せ、こちらの様子を窺っていた。
「どうしたの?」
問い尋ねると、少しオドオドしながらジュゴンは口を開いた。
「――」
だけど、答えはボクらの話す言葉では返ってこなかった。
透き通った高音のみが聞こえていた。
……言葉を話せない?
喋れないの? と聞くと、コクリと頷いた。
言葉は理解できるみたいだ。
……どうすればお話できるかなぁ。
ボクは必死で考える。
そしてようやく案が浮かんだ。
塾の鞄からノートと鉛筆を取り出して、真っ白なページに文字を書く。
『どうしたの?』
ボクの言葉は分かってくれるだろうけど、こうしてあげないとノートでお話しようって分からないかもしれない。
ノートの文字をジュゴンに見せる。
ノートと鉛筆を水の傍に置いて、ボクは少しだけ場所を離した。
……こわがってるなら離れなきゃ。
ジュゴンは水からあがり、おそるおそるノートを手に取った。
綺麗な白い肌が月の光を浴びてきらきらと輝いていた。
書き終えたのか、ジュゴンは再び川へと戻る。
ボクは文字の書かれたノートを取りに行った。
『おなかがすいてます』
綺麗な字ではなかった。
でも、読めないというほどじゃなかった。
……食べ物……持ってないや。
塾帰りなのに食べ物なんて持ってない。
ボクはもういちど鉛筆を手に取った。
『うちに来るならあるけど……来る?』
『うち……?』
『ボクの家』
『……』
『あ、それともボクが持ってきてあげようか?』
『うち、にいきます』
ジュゴンを自転車の後ろに乗せて、ボクは家へ帰ることになった。
落ちないように掴まってて、というと首周りにぎゅっと抱きついてきた。
……あわわわっ、や、やわらかいよ。
その感触に驚きながら自転車のペダルを思いっきり踏んだ。
いつもは長く感じる道のりも今日は少しの時間にしか感じられなかった。
その日は誰かの誕生日かと思うくらい皆でわいわい楽しんだ。
ジュゴンもおなかいっぱいになるまで食べてくれたし、お母さんがお風呂にも入れてくれた。
寝るのはボクと一緒がいいとジュゴンがノートに書いてから家族中で口論になったけど。
結局、ジュゴンの望みどおり一緒に寝ることになった。
着ていた服は洗濯してるみたいで、ジュゴンは大きくて着られなかったボクのパジャマを着ていた。
ベッドは大きくないのでジュゴンと抱き合う形になったけど、何でか気持ちよく眠れた。
そうして、朝がやってきた。
目が覚めて真っ先に気がついたことは、
「ジュゴン? ジュゴン!?」
隣で寝ていたはずのジュゴンがいなくなっていたこと。
パジャマが綺麗に畳んでおいてあったこと。
ノートに文字が書かれていたこと。
『なかまのところへかえります。ありがとうございました』
ボクはノートを抱えて部屋を飛び出した。
「お母さん!」
「あら? 早いじゃない? もうすぐご飯できるわよ?」
「ジュゴンがいないのっ!!」
「? いない? トイレにでもいるんじゃない?」
「違うよ! ノートには仲間のところに帰るって! ほら!!」
「おかしいわねぇ……だって……干しっぱなしよ?」
「な、何が?」
「あの子の下着」
こうしてはかないおとめがまた一人生まれた。
最終更新:2007年12月28日 16:51