3スレ>>950


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 繁茂した植物が立ち並ぶ、緑の向こう。
 独特の鳴き声と共にもたらされた小さな小さな翼の羽ばたきに、思わず視線を上へ上げる。
 青く青く澄み渡った吸い込まれそうな空を、茶色と赤のアクセントが掻き分けていった。
 視線の右から入ってきたそれは間もなく左へ消えて、首を追っても高く茂った緑に邪魔されてそれ以上はうかがえない。
 息を吐いて、彼女はもう一度ちらりと正面を見据えた。
 左右対称のように並ぶ崖、恐らく以前は水の通り道だったのだろうか、それとも最近までだったのか。
 生えている草はまばら。
 黄土色の土は少しだけやわらかくて、それが少し心地悪くて、彼女は右足で足場を踏み固めた。
「うーい、ただいま」
 音を立てて踏み固めていたせいか、それが近づくのを察するのに少し時間を要した。
 ぱたぱたと両手をはたきながらその青年が近寄ってくると、彼女は振り返って、その赤い瞳を向けた。
「……おかえり、ユーキ」
「何さ。何かアレだな、不満そう」
 むすっとした顔に嵌めこまれているのは、凛々しいほどの紅い瞳。
 軽装鎧と鋭い爪が付いた手甲、そして赤く光る瞳のような一本の線が刻まれた黒いバイザーという出で立ちは、あたかも戦士か何かのよう。
 背中には小さな六つの羽、髪や、その鎧は濁った藍のような色で染められている。
 アーマルド。
 それは大地を覆う生物の一つ、もえもんの内の一つの種族。

「ああ、あたしは不満だよ。あたしは不満だよ」
「二回も言うのか。じゃあ、とりあえず理由を聞こうか」

 青年がそう言いながら彼女の横まで歩いてくると、お互いに崖を背にするようにして向き合った。
 そうして、ぶすっとしながらアーマルドは文句をつける。
「乙女に対するデリバリーが足りないんだよ、ユーキは。普通小便とかストレートに言うかお前?」
「お前本気で間違えてそうだから言っておくけど、デリカシーな? 俺に何を運べって?」
「そっ……それだよ、それ! とにかく、ユーキは気配りが足りない!」
 照れ隠しなのか、声を大きくしながら怒鳴る彼女に耐え切れず、青年はじりと後ろに下がった。
 半歩下がってから、彼は改めて彼女を半目で見つめてから呟く。
「……って言ってもさぁ。ストレートに言わないとお前付いてくるだろ? 独りに出来ない、って言って」
「そんな事ないって。ユーキがもうちょっと言い方を工夫してくれればさ」
「例えば?」
 青年がどこか困ったような、諦めたような視線をしているのにも気付かずに、彼女は腕を組んで真剣に考える。
 唸って唸って、必要以上に唸るようにして、爪が抉らないように多少緩く組んだ腕のまま応えた。

「小用とか」
「それ、この前に試したら付いてきたよな」

「雰囲気を読んで、思わせぶりにちょっと用事が」
「何処に行くんだとか言って怒鳴ってきたよな、お前。街中で羞恥プレイとか無くね? 何の罰ゲーム?」

「……」
「もう終わりか。あと三つくらいあると思ったんだけどなぁ」

 致命的に何かが足りない。
 おまけに最後のとどめが入ると、彼女の感情は――非常に青年にとっては理不尽なことではあるが――ぐつぐつと煮え滾った。
 そして、やかんが高い音を吹き出すように、その溜まった息を吐き出す。
「うるっせー、ユーキが悪いんだよ! しょんべんぐらい我慢しろ、この馬鹿! 大馬鹿! ユーキがしなけりゃいいんだろ?!」
「いや、死ねと? マジで死ねと? つーか開き直っただろお前」
「うるっさい、いちいち口応えすんなッ!」
 そう叫ぶと、いよいよ彼女は不機嫌の極みといったように頬を膨らませてそっぽを向いた。
 むしろ好き放題された本人である青年は、仕方なく彼女に近寄る。
 悪かった悪かった、そう言って彼女が見つめるように、崖に挟まれた谷の向こう側を見つめた。
「……」
 暫く、間があった。
 そよ風すら吹かない無風の日で、森すら少しもざわめきを立てずに彼らを見守る。

「……」
 そうなると、我慢できなくなってくるのはアーマルドの方。
 元々自分が酷い難癖をつけたのは分かりきっているわけで。
 嫌われたままである事などないとは分かっているし、青年が気分を悪くさせていない事は分かっているが、それでも心のざわめきは消えない。
 静か過ぎる事が沈黙を際立たせて、逆に彼女にとってはとても居心地が悪い。
 ちらちらとバイザーの下から、右隣に立っている彼女の主人の表情を窺うと、相変わらずの呆けたような表情で道の先を見つめていた。
 ちらりと見て、また視線を戻して、でもまた見て、また戻して。
 そんな反復運動が絶え間なく繰り返される、その運動も段々と速度を増して。

「……大体、もうすぐ仕事だってのに」
 耐え切れなくなったように、ぽつりとそう呟いた。
「いや、まだ余裕あると思ったからなー。それに、実働は俺じゃなくてお前だし、大丈夫だろ?」
 もっとも一人で働かせるつもりはなかったのだが、それは彼の本心の一つでもあった。
 自分がいなくても、このもえもんは上手くやれるだろうとは思っている。
 しかし彼女はそれを聞くと、ほんの少し俯いて、その赤い瞳を不安に濁らせた。

「……大丈夫じゃない。ユーキがいてくれないと、あたしはちっとも安心して働けない。……困る」
「そう?」
「そう」
 思いの外にしおらしく呟く彼女の様子に、今度は彼の方が言葉に詰まる番だった。
 何せ今日という日は、また特別な日だったから。
 変わった事を言われると、それが否が応にも頭の中で連結してしまって、それをまた打ち払う。
「そう、か」
 それだけ言って、また静寂。
 しかし、今度は存外に早く終わった。
 こつこつと靴で地面を叩いてから、彼は空気が完全に逃げないように、会話を追いかける。
「分かった、それならちゃんといてやるから。……だから、頼むぞ」
「……うん」
 先の事へのフォローも忘れずに。
「さっきの事は、仕事の前の張り詰めた空気がもたらした事故ってことにしといてやんよ」
 そう言われても、やはりアーマルドの表情は完全には晴れなかったけれど。
 彼女は気を取り直すようにすうっと背を伸ばして胸を反らし、目を閉じて。
 辺りの空気をたっぷり吸い込んでから、右足をだんっ、と土に踏み込んで、彼女は目を見開いた。
「……うしっ」
 その瞳に、先程までのようなしおらしい雰囲気は微塵もない。
 精力に溢れた凛々しい目つきで道の先を見据えると、ぐりぐりと左手で右手の肘から先をぐりぐりと運動させる。
「分かってると思うが、出来るだけ引きつけてくれよ。違う道に突っ込まれると困るし」
「あー、そこらへんはユーキに任せるわ。あたし、そういうの計るのは苦手だし」
 悪びれもせずにそう言う彼女を見ながら、へいへい、と呟いて彼も視線を正面に戻した。
 それは確認に過ぎなかったから。
 唐突に、鳥ポケモンの鳴き声が響いた。

「来た、かな?」
「多分な。楽な仕事だ、気楽にやんなせー」
「……いっつもそれ言ってないか、ユーキ?」

 それには答えずに、僅かに顎の角度を上げて、崖の向こうを眺める。
 慌しく飛び去る鳥ポケモンの群れは、まるで何かから逃げるようにばらばらに羽ばたいている。
 そしてそれに追従するように、崖上の森がざわめき、木立がおもむろに揺れ始める。
 それは天変地異ではない、作為的な何かが動いたことの現われ。
「……」
 遠くから響く地響き、水音、何かが空気を裂くような音が大挙をなして近づいてくる。
 ほんの微かな雑音だったものは、明確な何かを感じられるほどまで。
 空を奔る羽ばたきがいっそう強くなると、それらは姿を現した。
「じゃ、いっちょうやりますか」
 それらは、もえもん達の群れ。
 いや、群れというよりは単なる行列の集まりというべきか。
 意思の統一が全く為されず、各々がバラバラに動き回った結果に出来た強者弱者をかき集めた垣根のない行列。
 それが後から後から、数え切れないほど、何かを求めて、或いは何かから逃げ惑うように、一本の道をひた走る。
 ――その道を塞ぐようにして彼らを睥睨する、かっちゅうもえもんと呼ばれる屈強な彼女と、その主人。

「おい、止まれよこの雑魚共ッ! 大人しくしておけば、危害は加えないぞ!」

 彼が三歩後ろに下がってから声を張り上げてそう叫ぶと、逃げ惑う彼女達も、ようやく明確に目の前の道を塞ぐそれが敵だと分かったようだった。
 先頭で走っていたピクシーが一瞬だけ、口を半開きにして絶望に塗れた表情をする。
 が、すぐに変わった。
 唇を噛み締めるようにして、目つきは今度こそ細く鋭く。
 走ってきた勢いを強めるように地を蹴ると、砂埃が舞ってさらに速度が上がり、その壁を突破しようと試みる。
 他のもえもん達も、ほとんどが同じ行動を取る。
 突撃力を持ったまま、数を恃みに逃げられる者だけが逃げる――。
 それを見て取ると、道を中央で塞ぐ彼女は軽く右手を後方に払って、溜まりに溜まった緊張と力を解すためか、大きく一つ息をした。
 その合図にしたがって、彼がさらに距離を取る。
「――!!」
 声にならない声、怒鳴るような地響きで空気を打ち鳴らしながら彼女達の先頭は近づいてくる。
 40m――30m――20m――

「……ここッ!」
 主の声が響くのと、道の中央に陣取った彼女が、振り上げた右足を一歩前に大きく踏み込むのとは同時だった。
 さらに踏み込んだ右足から、黄土色の柔らかい地面を伝って亀裂が現れ、放射状になって彼女の周りを走る。
 驚愕に目を見開いたもえもんの群れたちの姿も一時、次の瞬間には別の驚愕に彩られた。
 その地面が、爆発したように上下振動を起こす。
『な……なあっ?!』
 あっという間に起こった直下型の局地地震に、全力で走っていた彼女達に対抗策を取る術はない。
 それは群れの向こう側にいて彼女の挙動を見ていなかったもえもんについても同じこと。
 激しい縦揺れが起こると、ある者は足を取られて、ある者はひっくり返って惨事の様相を呈していた。
 奥までは揺れは届いていないが、前のもえもん達がまとめてひっくり返った事で、後続のもえもん達は戸惑ったまま一瞬立ち止まる。
 立ち止まって、それでも後ろを一瞬見つめてから――怯えたような表情で、仲間達を踏み台に次々とのったりとした速度で近づいてくる。
 対して、程なくひっくり返った者達も、時間を置いて立ち上がり、必死に足を回転させようとする、が――

「らっしゃおらぁぁぁああッ!」

 さらに地面が、揺れた。
 地面に叩き込まれたのは彼女の両腕。
 その揺れは上下振動ではなく、先に比べれば微弱な揺れとしか言えないものだったが、しかし。
 斜面自体が大きく揺れると、次の瞬間に彼女と迫り来ようと立ち上がるもえもん達との間の斜面が突然爆発した。
 それは瀑布。
 土の中から無理矢理吐き出されるように、次々と大玉の岩が向かい側の斜面にぶつかり、或いは岩にぶつかって、地面に並んでいく。

「――よし」
 一瞬の沈黙の中、彼女はとりあえずの成功を収めたことに、拳を握った。
 土石流のように斜面という川から吐き出された岩は、連なり積み合って、大きな壁を――そう、壁を。
 まるで境界線のように、たった一つの道に作られた土石の壁。
 程なく向こう側から、叫ぶような声が重層する不協和音になって響き渡る。

『――えっ、えぇっ?!』
『通れない……どうしてぇ?! 何で?! 何でこんなこと!』
『まだだ、まだ道が無くなったわけじゃないッ! こんな岩の壁、乗り越えるかぶち壊すかして進めば!』

『駄目だ、後ろから――!』

 絶望、希望、全部ひっくるめ。
 突如として通行止めになった空間で、大量のもえもん達が背後からの『それ』に追い詰められている。
 彼女達は用意された食器に自ら滑り込んだ、いや、滑り込まざるを得ない状況に追い込まれたに過ぎないのだけれど。
 それでも足掻ける内は足掻く、だから。

「ユーキ。んじゃ、ちょっと行ってくるわ」
「あいあい。頑張れ、怪我すんなよ」

 あいよっ、と、そう答えて彼女はぐっとその場で屈みこんで膝を折り曲げる。
 跳躍するために、その膝に、太腿に、ふくらはぎにきりきりと全力の負荷をかけて、そして解き放つ。
 あっという間に彼女は日の中に溶け込んで、巨壁と化した岩の頂点へと着地した。

「……と、と。あっぶね」
 ぐらり、と彼女の着地した岩がバランスを失って足を取ろうとすると、慌てて隣の岩へと飛び移った。
 気を取り直して、彼女は鉄板すら貫通する自慢の鋭い爪が入った手甲をもう一度しっかりと嵌めなおす。
 そして下を睥睨、続けて左右。
 右側から岩山にへばりついて足場を確保し、今にも跳び越えようとしている一匹のイシツブテを見つけると――また、軽やかに跳ぶ。
 それが頂点に辿り着くのと、彼女がそのしなやかな右足を、弧を描くように伸ばしたのは同時。
 ほうと息をついて一瞬油断したその少女が、次の瞬間に驚きの顔で彼女の方を見つめていた。

「悪ぃ……ねッ!」

 あっ……と、掠れるような声。
 弧を描いて加速した、本気ではないが特に手加減したわけでもない足が、その幼い胴体に直撃する。
 みりっと一瞬何かにめり込むような感触が彼女の足に入ってから、一瞬遅れて彼女は即座に岩の台から弾き飛ばされた。
「い……いやああぁぁぁぁっ?!」
 弾き飛ばされた彼女は、岩にしがみつき、或いは登りあるいは崩そうとするそれらの中にもみくちゃにされて、すぐに見えなくなってしまった。
 どうやら壊そうとするもえもんもいるようだが、あまりの混乱の中のせいで全く上手く行っていない。
 踏み合いへし合い、ただお互いがお互いの足を引っ張り合う。
 或いは彼女達の統率役が活きていれば別だったが、生憎と彼女達に強力なまとめ役は存在していなかった。

「よっ、とっ、とっ」

 ごった返すもえもんの後ろから、追い詰めるように群がってくるのはまた別の人間達と、そのもえもん達。
 どれもが醜悪、或いは凶悪。
 その中には逃げ惑うもえもん達と重なる種族もいたが、特に表情が変わることはなかった。

 そう、最初からこれは罠。
 荒らされたのは彼女達の連動する棲家、あぶりだされたのは大半のもえもん達。
 リーダー格のもえもんが真っ先に捕獲されると、彼女達は統制を失って、ひた走るだけの集団と化した。
 後は行く先々に、ある程度の戦力を立たせておけばいい。
 一箇所だけの逃げ道を空けて。
 しかる後に人目のつきにくい場所までさらに誘導、そして――その結果は、この様子を見ればお分かりいただけるだろうか。
 次から次へと雑多なもえもんが後ろからボールで捕獲され、或いは特殊な網でまとめてとりあえず一括りにされる。
 そしてその逃げ道を『行き止まり』へと変化させる他、彼女達の逃走阻止がアーマルドとその主人の、この場における役目だった。

「おーい、早く離せよ。痛い思いするだけで、ちっとも利口じゃないぞ?」

――まあ、無理を言っているって分かってるんだけどさ。

 そんな事を考えながら、岩の上にしゃがみこんだ彼女は、今まさにその岩に手を伸ばしてしがみついている一匹のもえもんの指を剥がしにかかった。
 指の先をほんのり赤く染めながら必死にしがみつくもえもんの指に、彼女の人差し指が隙間を割るように差し込む。
 ぐっ、と下から上へ。
 ぴん、と人差し指が弾かれ、続けて中指、そして――薬指。
「やだああぁぁぁぁぁっ!」
 間もなく、小指が岩肌を引っ掻きながら、無様に肉の群れへと滑り込んでいった。
 彼女はしゃがみこんだまま下を眺めて、あっという間にもまれた挙句踏みつけられているそのもえもんを眺めながら、小さく何かを呟こうとして。
「……ん」
 きゅっと唇を引き締めて、それを飲み込む。

 後はただひたすらに、繰り返し繰り返し繰り返し。
 積み重なったまばらな岩石の上を跳び回って、時折頂点に辿り着く彼らを、下に追い返すだけ。
 或いは蹴りを叩き込み、或いは手を弾きあるいは岩石をぶつけて弾き飛ばし。
 動きが俊敏で、縦の動きに慣れたもえもん――ポニータの群れでもあれば別だったかもしれないが、この場所にはそんなもえもんはいない。
(もっとも、いたらいたで別の方法になるだけだろーけどさ。人気あるからコストに見合うんだってユーキが言ってたしなー)

 いまいち登ってくるもえもんが少なくなると、彼女は最も高い部分に着地して、下の様子を眺めた。
 後ろから迫ってきた捕獲部隊が彼女達を捕らえているために、時が経つにつれて壁を登ってこれるような暇はなくなる。
 抵抗を試みるが、準備万端の捕獲部隊に敵うはずもなく。
 泣き叫ぶ声、捨て身の抵抗を試みて突撃する声、それら全てが野生としての断末魔の叫び。
 彼らの世界は、侵食された。

 やがてぶらぶらと腕を伸ばしながら暇を持て余す彼女に、遠くから別の人間が大きく両腕で輪を作った。


  ◇ ◇ ◇


 陽に影が差す。
 その影はあっという間に形となって、地面に辿り着いた。
 手をはたきながら、屈伸するそれに対して彼が顔を向ける。

「ん、終わったのか?」
「あぁ、もういいってさ。まーあそこまで減らしたら逃げらんないよ、もう。後ろ側に『ジャック』がいたし」
「……額に傷付きのストライク?」
「そそ」
 珍しいねえ、と呟きながら、彼は向こう側を見つめるように、岩石の壁の方に目をちらりとやる。
 質量感のある岩の群集が、どこかのバランスを失ってがらりと端から一つだけ崩れた。
 彼の方からは見れないその向こう側の岩には、無数の個体から流れ落ちた、その体液がへばり付いている。
 だからこそ『こちら側』でいるというのは、とても幸せな事だと彼は思った。

「どーしたよ、ユーキ。服の裏地でも破れたか?」
 ぱたぱたとその服を摘んで空気を入れるように引っ張る彼に、彼女は腰を手にあてて尋ねる。
「いや、そうじゃなくて……ちょっとなぁ」
 そう聞かれると少しだけ眉をひそめて、彼は自分の胸元を見つめた。
 その、

「この服、ダサくね?」

 胸元に付けられた真っ赤なRの字がロゴされた、その黒ずくめの服を。

「スゲー今さらじゃないか、それ? ユーキ」
「いや、そう言うけどさぁ。俺ロケット団に入ってかなり経つけど、これが良いと思えた日がない」
 うんざりといった表情をしながら、彼は摘んでいたその指を離した。
 黒い事は黒いが昔の隠密服などではないし、むしろ目立つがためにあるような服。
 畏怖畏敬の対象として見られる事も多く、意味がないわけではない、のだが。
「ぶっちゃけこれを制服として採用したヤツは何考えてるんだ? 頭悪いだろ、正直」
「んー、まぁ何かこだわりがあるんじゃないのか? 悪の制服的な」
「んな馬鹿な、大体ロケット団は悪というか地下組織だろ?」
「……そんなのあたしに言われても困るんだよ、ユーキ」
 ねーよなあ、と彼はその服を引っ張った。
 基本的にロケット団の活動はその制服が一体となって行われる。
 幹部や一部の役職、その他活動の極限られた範囲内でのみ制服を着ないことが許されているが、それ以外はまず着用義務がある。
「正直、この制服だけは我慢したくない」
 彼はブランドを理解しない人間ではなかったが、それなりの基準は持っていた。
「色々と悪事をやったり、もえもんを道具として扱ったりするのは我慢できるのかよ?」
 首を捻る彼に、棘を刺すようにでもなく、じと目で見るわけでもなく、純粋な疑問を言い放つ。
 疑問を呈されると、んー、と唸りながら岩石の山を見つめて、彼は呟いた。

「いや、それはもうしょーがないからさ。入った時から覚悟はしてたし、そこまでは」
 岩石から目を外して。
 黄土色の崖を見て――というより、どこかに視線を外してから言葉を続ける。
 悪事をするといっても、悪の権化ではない。
 道具にするといっても、それが全てに適応されるかは定かではない。
 彼らの中には家庭を持つものもいたし、普通に友人や恋人がいるものもいて、同時に仲間意識だってあったりする。
 道具にするといっても、自分の手持ちのもえもんだって、道具として扱っている者もいれば手厚く扱ってる者もいる。
「俺も案外、薄情なんだなぁって分かったけど。それぐらいだろ」
 ただ、他人に薄情なだけ。
 店先でモノを買うよりは暗いところで、しかしごく単純に金と物のように取引されていく命を見ていって。
 響く怨嗟の声と、訴えかけるようなつぶらな瞳に対して、平然とはいかないまでも目を瞑って無視することが出来る。
 それが続くと、段々と感覚が麻痺して、特に何も考えずに済むようになっていく。
 ……だから。

「そういうお前は疑問を感じた事はあるのか?」
「……あたしは別にいーんだよ、この世界にあたしの仲間なんて一人もいないし。どんだけ世間様から嫌われたって、知ったこっちゃねーや」
 彼女もまた、ため息をつきながら視線を外してそう呟いた。
 彼女は実際にそう思っているし、そうやって実践する事を躊躇うことはなかった。
「まあ、可哀想だって思った事はあるけどさ……。あたしだって、似たような身の上だし」
 そう言ったきり、お互いに黙り込む。
 可哀想だと思っている……それでも、見過ごせるならそれは一体どういう事なんだろう、と彼女は思って。
 それを口に出してしまったら、酷く自分で安っぽい言葉に聞こえて――彼女は黙り込んだ。
 腕に絡みつくように付いた、一滴の他人の血の跡を拭って。

「……長い付き合いに、なったよなぁ。実際」
 彼女が血の跡を拭うためにちろりと伸ばした赤い舌が引っ込む。
 横を見ると、こちらの様子を窺うように眼だけが向いていた視線とぶつかって、すぐに彼は視線を正面に戻していた。
「確かになぁ。最初に会った時は、ユーキとこんな長い間一緒にいる事になるとは思わなかったよ。……色々な意味でな」
「色々な意味について詳しく聞こうか」
「……あたしと最初に会った時、どんなやりとりしたか憶えてるか? ユーキは」
 いいや、憶えてないな。
 中空を見上げて、悪びれもせずにそう言った彼に対して、彼女は諦念の意を込めて息を吐いた。




  ◇ ◇ ◇

 彼女は、アーマルド。
 かっちゅうもえもんと呼ばれる――既に絶滅したはずのもえもん。
 人間の遺伝子研究が進んでくると、その絶滅したはずの彼らを再び現代に復元させる技術まで現れた。
 彼女はその技術によって、ロケット団に化石から復元されたもえもんの一人。
 当然、その価値を売りつけられるために。
 しかし現場の独断によって復元された彼女には、思うように最良の買い手がつかなかった。
 その間も彼女の面倒は見なくてはならない。
 当然お金も掛かるし、気性が荒い分だけそれなりに面倒もかかる。
 さらに言えば売りつける時のために定期的な検査と、恒常的な彼女の観察結果を採れることが望ましい。

 そこで白羽の矢が立ったのが、今の彼女の主。
 その時に彼は、まだもえもんの持ち手ではなかった。
 実働部隊ではなく、組織の横の連絡役や各種連携、取引や会計をこなす裏方仕事で、そういう意味では表で暴れるロケット団よりはずっと貴重。
 ある程度の条件を出すから、そのかっちゅうもえもんの面倒を見てくれないかと、そう彼は頼まれた。
 もえもんを持たない彼の活動現場がある程度限られていた事もあり、ある程度研究肌に通じる観察結果を提出できて、etcetc。
 こうして、彼は彼女の価値が取引されるまでの仮の主人として働くことになった。

 そして。


「いや、ほんと仕方なく面倒なんだけど給料とか立場とか地位とか老後の生活とか、色々なものにほだされて一応面倒を見ることになった。
そんな俺の名前は、ユウキだ」

 二人は出会う。

「これからよろしくな!」
「死ね。氏ねじゃなくて死ね」


 ◇ ◇ ◇


「誰だろうな、その失礼なヤツは」
「お前だよお前。つーか自分で名乗っただろ。……ユーキ、目ぇ反らすな、こら」
「……いや、まあ……嘘を使う気力がなかったんだよ、そん時さぁ。……多分」
 べっちんべっちんと左の手甲で頬を叩かれると、彼は決まり悪そうな顔で視線を戻した。
「まあ、どーせすぐにお別れだと思ってたから。単なる気違いだと思ってやり過ごそうと、その時は決めたんだけどさ」
「気違いてお前、気違いてお前」
「いや、仕方ないだろ? ……ああ、今は違うけどさ」
 彼女は左腕を下ろして、そのまま腰に手を当てて。
 じっと顔に固定したまま、その視線を離さなかった。
 ぺちぺちとはたかれて少しだけ赤くなった頬を、彼は自分の手でさする。

「……色々あったしなあ。それに俺も、すぐにお別れだと思ってたのは同じだし」
「だよなー。あたしって結構微妙なのかと思ったら、割と複雑な気分になれたぞ」
 終わると思っていた時間は存外に来ず、その間に引き伸ばされていくのは今の時間。
 険悪な雰囲気が走っても、元々どちらかがどちらかを嫌っていたわけではないし、憎んでいたわけでもない。
 むしろ相手ではなく、険悪な雰囲気そのものと自分に対して嫌悪感を示した。

「あー、初めてまともに話したのって、俺の仕事終わりに死ぬほど不味い紅茶を入れてくれた時だったっけ? あの時は笑えたな。
お前は赤面するわ硬直するわ、一瞬何考えてるのかと思ったよ俺」
「うっせ、ユーキだって茶葉入れすぎの紅茶を飲んで何も言わずに『ありがとう』とか顔を背けて言った癖して。声小さいし、かんでるっつーんだよ」
「で、お前が嬉々としてもっと入れすぎの二杯目を持ってくるのな。死ぬかと思った」
「うるっせーな、見様見真似だったんだよ! 言ってくれなきゃ分かるわけねーだろ、そんなもん!」

 偶然のように重なった手は、すぐに振り解かれたけれど。
 お互いに熱を求め合って、二度目は偶然ではなく必然に、一度目よりも違和感なく重なった。
 やがてそれが普通になって、小さな小さな輪の中で、消えてしまいそうな温もりを守る。

「そのうち戦力分としていつの間にか計算されるようになってたしなー。正直心配だったけど」
「あたしは良かったけどな。外に出たってろくな事やらされねーけど、中にいて退屈してるよりはマシだ」
「……それが心配だったっつんだよ」

 深まっていくのは信頼と理解。
 素質があったのか、それとも二人の間柄が特別だったのかは知らないけれど、気付けばトレーナーとしてもそれなりに評価されるようになっていた。
 彼女は彼の領分を信頼して居場所を作り、彼は彼女の領分を信頼して居場所を護る。
 家はない。
 真っ直ぐに顔を上げられるほど澄み切って生きてはいない。
 けれど、確かな日溜りはあったんだ。

「しかし、相性が良かったのやら何やら。お前、どうして懐くようになったんだろーなー」
「んー……なんつーかほら、ユーキは放っとけない感じがするんだよ。母性本能をくすぐられるっていうか」
「狩猟本能の間違いじゃねぇの?」
 胡散臭い表情をしながら彼がそう言うと、彼女は『あはは』とおかしそうに笑った。
「狩猟本能か、そりゃいいや。ユーキ、お前のこと犯していいか?」
「そのうちな」
「おっし、約束もーらいっと」
 ぐっと拳を握り締めて脇をしめる彼女を、何とも言えない表情で彼は見つめていた。
 そんな表情も気にせずに、ははっと快活な笑顔を披露している。

「ははは……あー、おっかし。……そのうち、か」

 ひとしきり笑うと、どこかぎこちない動作で背をぴんと伸ばした。
 快活から、柔らかい笑みへ。

 ふっと戻しながら、彼女は――

「……でも、……今日で終わりなんだよな、あたし達」

 溜まりきったそれを、こぼした。

「……そうだなー」

 忘れていた。
 本当はそうなんだっていう事を、つい忘れてしまっていた。
 日溜りはずっと同じ場所にはとどまらない。
 けれど彼らは、ずっと同じ場所にいなければならない。
 あまりにも他が冷たすぎる時間だったから、いつの間にか離れていくと思った時間が悠久に思えて――忘れていた。

「まー、在庫処分にならなかったと思えば感慨深くもあるけどさ。……いきなりだもんなあ」
「知らせってのは急に来るもんさ。まあ、誰かが見つけたのかもなあ」
 それは予想外の打診。
 思うような買い手が付かなかったアーマルドに、それまでの詳細なデータ付属という条件付きで、『金を吐き出す』買い手が現れた。
 そしてその取引は、既にまとまってしまっている。
 明日には彼女は、誰とも知れない主のところに旅立たなければならず、彼はその所有放棄を夕方には行わなければならない。
 依頼主と立ち会うのは、彼の役割ではない。
 それは許されない。
 二人はロケット団に所属しているのであって、アーマルドは元々商品となるべく復活させられ、彼に面倒を見られたもえもんだから。

「なぁ、ユーキ」
「んー?」
 少しだけ間があった後。
 声を掛けてきたアーマルドは、相変わらずの快活な笑みを浮かべて、彼にぐっと親指を立てて見せた。


「一緒に逃げようぜ!」
「……直球だなー、お前」


 にへへー、と半分照れたようなぎこちない笑い。
 脱力感のある声だったが、彼は呆れているわけではなかった。
 それは、そう、彼も考えた一つの可能性だったし、二人で取ることが出来る共通の道で、共通の考えでもあった。

 その手を取って逃げる、地の果てまでも逃亡奪取駆け落ち。
 茨の道を覚悟して?
 

 ――彼は口を開いた。
 彼女をしっかり見据えたまま。

「……無理だな」
「そっかー、無理かぁ」

 ほとんど迷わずに口を突いて出たのは、否定的な言葉。
 それでも彼女は表情を変えずに、にへらと笑いながらそれを受け取ってみせた。
 それがかえって痛々しくて、彼はむしろちくりと心が痛んだ。
 彼女と同じく、それを見せることはしなかったけれど。

「……うん、無理だな」

 念を押すように呟いた言葉は、あるいは彼女以外の違う者に対してだったのかもしれない。
 相変わらず無風の中、彼らに対して、ただ陽が照っていた。
 遠くで捕獲されたもえもん達の残響が聞こえて、時々森の中がざわめいて。
 暫くの間、彼らはそこで許された時間をまどろんでいた。


 やがてアーマルドが、ふうと息を吐き出すと、それを合図にしたように彼が口を開いた。
「そろそろ、帰るか。もう用はないし、後は基地に帰ってから報告かな」
「あー、今日も疲れたなぁ。早く帰って休みてー」
 大きくのびをしてから、彼女は岩壁の反対側へと歩き出して。
 唐突に止まった彼を見て、足を止めた。
「どーしたよ、ユーキ?」
「んー……」
 彼は暫く、惑っているようだった。
 彼女に背を向けたまま、腕を組んで首を捻る。
 相変わらず彼女にはとても近い背中だったけれど、それがほんの少しだけ、いつもより弛んで見えた。
 惑った後、彼は口を開く。

「……道に迷った。帰り道を憶えてねーや」

「……やれやれ。本当に大丈夫かよ、ユーキ。あたしがいなくなったら仕事できなくなんじゃねぇの?」
「安心しろ、裏方に回るだけだから。じゃ、道案内よろしくな」

 最後の声は、かすれていたけれど。





  ◇ ◇ ◇




 寒かった。
 寒かったんだ、要するに。

 古代のもえもんだとか、そういう事は色々と言われたけど、正直実感は沸かなかった。
 だってそーだろ?
 別に生前の記憶があるわけじゃなし、大体古代とか言われたってあたしが生きてるのは確かに今『ここ』なんだ。
 ただあたしが研究価値としての役目を果たすために復元されて、まるで物の売り買いをするように生きるって事を実感した時。
 それが古代のもえもんだからかどーかなんて、知らないけど。
 寂しかったんだ。
 まるで自分が、何も認められていないみたいで。
 あたしの意思はそこに必要としない。

 一つしかなかったわっかがちょっと広がって暫く経った時。
 ぎこちなくて、まだあたしも無駄に生意気で、口論も結構耐えなかったけれど。
 あのうんざりするような小世界にいるのが嫌で、ベッドを占領して半分くらい眠ってた時。
 子守唄みたいに聞こえた逸話を、覚えている?

「俺はさ、平和なトコロに生まれたんだよ。いや、産み落とされたって言うか」

――自慢かよ

「まあ、自慢だな。どこの街とか言うとアレだから、それは内緒にしとくけど。お世辞を言わなくてもすっげぇ平和な街だったよ?」

――

「で、俺は『妖精の子』って呼ばれてた」

――何だそりゃ

「妖精の子って知らないか?」

――可愛らしかったのかよ?

「いーや。妖精ってのは、美しい人間としわくちゃの自分の子供を取り替えちまうんだとさ。そういう事だ」

――不細工だったのか?

「しらね」

――……? あ、

「うん。……俺はそういう事なんだよ。どっかの家の三つ目の子供である長男と。俺は、病院にいた時にすり替えられたらしい」

――誰が?

「いや、俺の母親な。で、その母親はそのまま長男を抱えてどっかに行方不明になっちまった。全部聞いた話だけどさ」

――で、お前は代わりに育てられた?

「まあな」

――よく育てる気になったな、そんな仇の女の子供。子供に罪はないってか?

「いんや、だからこそだろ。仇はいなくなっちまったんだぜ? その怒りを何処に持っていけばいいんだ?」

――おい

「世間様はきびしーからさ。表面的な事は、そうされなかった。けど濁流みたいにべとべとの言葉は山ほど吐きかけられたし、気が付けば服が破られた。
俺の家族としての役割は他の姉二人を褒める時の引き立て役だった。
誰かの家のガラスが割れたり、盗みが起きたり、火事が起きたり、誰かの子供が木から落っこちて死んじゃったり……そういうのは、全部俺に被せられた。
言い返せないじゃないか、俺は犯罪者の子供だぜ?
生まれる街も親も俺は選べやしないけど、それでも親の間違っているところは子供が正さなくちゃいけないらしい」

――平和な街じゃなかったのかよ

「平和だぞ? 争いも起きないし、旅人には親切だ。祭りは盛大で、よく近くからも人が来てさ。
もえもんの保護にも結構熱心な街だし、麻薬の類がはびこってるわけでもないし。俺らみたいな仕事のヤツが関わる事も、割と稀だ」

――

「うん」

――

「要するに、ゴミ箱だったんだよ。……本当にいらないヤツは無視されるってアレ、真理だと思うぞ?
俺は確かにあの街で必要とされてたんだよ。平和の礎ってヤツじゃないか?」

――逃げなかったのかよ?

「逃げるアテもなかったし、方法もなかったからなー。とはいえ俺も、正直なところ結構うんざりきててさ」

――それでか?

「そう、それでだ。要するに集団にハブにされてて逃げられない。つまりもっと大きな集団に囲われればいいんだよ。
……って、結構単純に考えた。まあ、街にロケット団が来るときがあってさ。その時に連れて行ってもらった。こっそり」

――それで、今か

「それで今だな。おかげで少しはマシな生活してるけど、代わりに結構嫌なことに気付いちまったよ」

――何だよ、それ?

「……俺、あいつらの事がすっげえ嫌いだったけどさ。
立場が変わったら、あいつらと同じような事を平気で出来るような人間だったんだなあって、気付いちまった」

――

「惨めだよな、正直。あのまま生活していれば、こんな事にも気付かないで済んだかもしれないのに。
心だけは綺麗なままだって、ずっと自分の中で言い張っていられたのかもしれないのに。
……だから残ってたほうが幸せだったなんて、思わないけどさ」

――どうしようもねえヤツだな、お前

「うん、そうだな。割とどうしようもないな」

――そこで開き直れない辺りが、割とどうしようもねえよ、お前

「損してる?」

――してる。だから、仕方ないな――



 あたしとはまた、違うけど。
 その手を繋ぐことを躊躇わなくなるには、十分で。

 無理矢理手を繋いだ時に見た、ユーキの顔ったらなかった。
 行って帰って、その関係。
 表現できないほど、暖かかったんだ。





  ◇ ◇ ◇




「……ん」

 ふと、彼女は目を覚ます。
 薄暗い。
 小さな灯りがついた箱の中は、ごとごとと不規則に揺れていた。
 欠伸をしてから、辺りを見回す。

「……そっか。もうあたし、トラックの中だったっけ……?」
 両腕には、もえもんの力を奪うための特殊な腕輪。
 すでに昨日の夕方に、彼女達はもえもんとその主人としての一切の関係を断ち切った。
 別れの言葉はなかった。
 どちらからも言うことが出来ずに、ただ自然に別れて、それ以来会わなかった。
 彼女は限られた範囲内で動いてみたけれど、彼の姿はなかったし、何処にいったのか誰かに聞いてみても行方は知れなかった。
 あるいは、意識的にそうしたのかもしれなかった。
「……そうだよなぁ」
 無理だよと。
 その否定の言葉が、彼女の頭の中でいつまでも螺旋階段を上り下り。

 それがお互いの為だったからだと彼女は思っているし、また彼もそう思っているだろうという不思議な自信があった。
 彼女は自分がこれからどんな運命を辿るかは知らない。
 それなりに綺麗な研究対象として保管されるかもしれないし、酷い扱いを受ける可能性もなくもないし、単純に観賞用にされる可能性もある。
 そこには自由はあまりないかもしれない。
 けれど二人で逃げていれば、そんな生活すらも保障されなくなる。
 ロケット団からは逃げられない。
 そもそも犯罪生活を続けてきたのは生半可な事実ではなく、表に出たところで警察を頼ることも出来ない。
 万一上手くいったとして、その時はアーマルドである彼女の所有権は彼には無い。
 ……それは、違法にロケット団に採掘された化石であったから。
 結局上手くいっても、二人で一緒にいられなければ同じこと。
 そして何より、それまでに築き上げたものを全てゼロにするという行為は、どちらにとっても生半可なことではない。

 でも。それでも。
「……本当、損だよなぁ」
 うつ伏せになって闇の中を見つめながら、彼女はそう呟いた。
 彼の腕を無理矢理引っ張ってでも、二人で逃げられたらどれだけスカっとしただろう?
 どれだけ欲求不満にならずに済んだだろう?
 ……それでも、その提案を取り下げざるを得ない。
 何より彼のため。
 そして彼は、何より彼女のため。


「……っと」
 ごとん、と目の前で積まれていた荷物が崩れて、ノートが落ちてきた。
 2冊のあまりにも分厚いノート。
 そのノートの中身を、彼女は知っている。
 化石もえもんである彼女の価値を出来るだけ上げるために彼が取っていた、観察日記。
 片方はあくまで客観的に。
 片方は普通の日記形式で書いている――そう話していた彼の言葉を、彼女は頭の中でリピートした。

 無意識に腕を伸ばす。
 青い表紙の方をめくってみた。
 意味の分からない台詞を初対面で会った時にかます人間と同人物とは思えないほど、客観的な事実が並んでいた。

 ぱらぱらとめくる事もなく、彼女はそれを後ろに投げ捨てた。

「……」

 そして、硬直。
 顔だけ振り返って彼女が後ろをみると、音を立てて落ちたノートは足元あたりに落ちていた。
 やる気無く、うつぶせのまま手を伸ばしてみるが取れるはずもなく。
「何やってんだろ、あたし」
 ため息をついて、彼女は視線を前に戻した。
 そしてもう一冊の、赤い表紙の方を手にとって、ページの端に手をかけて――そこで、一瞬止まる。
 ごとん、と大きくトラックが揺れた。
 彼女は差し迫る何かを振り切るようにして、そのページを開いた。


 中身は、やっぱり彼だった。
 日によってあまりにまちまちな文章量の日記は、いかにも日記らしい勝手な独白に満ちている。
 最初に出会った時の不安から、打ち解けていくまでの様子は思わず彼女も少しにやけてしまう内容のものだった。
 あまりに感じていることが、彼女と鏡のように同じだったから。


『触った。俺は触ったぞ!』

「……んな事で喜ぶなよ、バカ」

 読んでいるうちに、開く前にあった妙な胸のつっかかりは段々と消えていって、捲るスピードも早くなる。


『やっべ、マジやっべ。喧嘩したまま明日を迎えるしかない時間になっちまった。これって気まずい。
知り合いに聞いてみたら、プレゼントをやればいいんじゃないかと言う。
だがちょっと待ってほしい、それで解決したら今後俺とあいつの仲が悪くなった時に、あいつも同じことをするんじゃないだろうか?
そう考えると結構虚しい、かといってクラブの会員券なんて手渡されたら俺は袖の下に仕舞わないという行為ができそうにない。
ここは俺がやってほしいと思う事で仲直りするべきではないだろうか?』

「受け取んなよ」

 思わず突っ込みを入れずにはいられなかった。
 そして彼女もこの時はよく憶えていた。
 確か――。
 頭の中で答えを用意しながら、彼女は次のページを捲る。

『膝枕してみた』

「……やってほしかったのか」
 本当にアホだな、と彼女は独り呟く。

 ぱらぱらとページを捲る手は止まらない。
 楽しいこと嬉しいこと、悲しいこと気持ち悪いこと、思いついたこと感じたこと。
 禁忌に触れている感じが、また彼女の心持ちを興奮させた。
「……」
 そして、途中で突然ページの様子が変わり始める。
 それは彼女の今の状況に関すること。
 彼女の取引先が決定したその日から、日記は大幅に使用量が増えている。
 日記のくせに歯切れが悪くなり、答えを次から次へと有耶無耶にしたり先延ばしにすることが多くなっていく。

 そして。
 最後の一ページ。
 そこには前日までとは全く違って、ただ一言、簡素極まりない言葉で――書いてある、だけだった。




『疲れた。もう寝る』

「……」



 ぱたん、と日記を閉じた。
 がたんがたん、と不規則な揺れも気にならずに、彼女はただ日記の向こう側を見つめていた。
 日記はそこで全部読み終わってしまった。
 全部終わってしまった。

「――あ」

 彼女が自分の様子を認識するよりも先に――雫が一滴、その赤い表紙に染み込んだ。

「あ、あ」

 理解してしまった。
 その雫が何であるか理解してしまうと、彼女の中でかたくなに何かを守っていた堤防が音をたてて崩れていった。
 思わずその、分厚すぎる日記帳を抱えて――胸に抱えて、彼女は膝立ちになる。

「うくっ……っく。ぐすっ……あ、ふ、……っ、うぇぇっ……!」

 一度流れ出すと、止まらなくなった。
 涙が両頬を伝って次から次へと零れ落ちていく。
 それを止めることなんて、もう彼女には出来そうもなかった。
 我慢することは出来そうもなかった。

「ゆーきっ……! ゆーきぃっ……!」

 何かに呼びかけるようにして、擦り切れるような声で彼女は呼びかけた。
 そこに彼がいるような気がして、彼女はその日記帳を強く強く抱き締める。
 誰も答えるものはないけど、だからこそ想いをぶちまけることができた。

「逢いたいよ、ユーキぃっ……!」

 彼女の半身と言ってもいいその名前を呼びながら、彼女はただ泣き続けた。
 噴出した想いは、ずっと彼女の中で蓄積されていたもの。
 誰にも邪魔することなんて出来ないけど、彼女の中でそれを押さえ込む力があれば仕方なく従うしかなかった。
 無理をしてでも。
 そうしなければ、きっと困った顔をされてしまうはずだから。

 その抑止力が砕け散った今、彼女に我慢は必要とされなかった。
 いなくなってしまった自分の半分を喪って、ただ彼女は泣き続けた。
 そして――



 瞬間、大きく自分の視界が揺れた。

「……ッ!!」

 重力がひっくり返る。
 その四角い箱の空間が90度回転して、彼女も荷物ごと壁から床へと変化したその場所へと、叩きつけられる。
「……ぐすっ、うぇっ」
 それでも、彼女にはどうでもいいこと。
 遠くから何かの喚き声が聞こえる、近づいてくる何かの音。
 きいきいと音を立てて、出口の蝶番は壊れ、明るい外の光が差し込んできた。

 それでも、どうでも良かった。

「……うくっ……う」

 途切れてしまった涙を、右腕でそっと拭う。
 何がやってきた?
 敵対組織のテロ? 事故? ああ、どうでもいい、もうどうでもいいよ。
(あたしを殺すつもりなら、好きにしろよ)
 温もりがあった。
 でもそれは露と消えていった。
 この世界に救いというものがないのなら、そこに救いがあるんじゃないかと。
 彼女はその瞬間だけは本気でそう思っていて、来るであろう何かに対して、特に身構えることもしなかった。


 やがて半開きの扉を開いて、一つの人型の影が差した光に形を作る。
 死神? ロケット団? 正義の味方? 警察?
 ぐすぐすと涙を拭いながら、左目だけを半分あけて捉えるものの、逆光になっていてそれはよく見えない。

 影が、口を――開く。


「おーい、生きてるか」

 それは、

「……え」

 そんなはずもないのに、とても懐かしい――声だった。

「……ゆーき……?」


 それは在り得ないはずの。
 けれど彼は彼女の中で変わらない、何ともいえない表情を少しだけ赤らめて――頬をかきながら、そっぽを向いていた。
 涙が、完全に止まった。

「……何で、ここに……?」
「……いや。その」

 バイザーの下、元々赤いものだったのがさらに赤くなったその瞳で、影を凝視する。
 ぽりぽりと頬を掻く彼の表情は、これまでに見ないほど困惑した表情だった。
 それはむしろ彼女に対してではなくて、自分自身に対してだったかもしれないけれど。

「……道に――迷ったんだよ。そう、迷ったんだ」

「……」

「案内、してくれないか?」

 それがどういう意味を持つ台詞だったのか、彼女が理解するには0.1秒すら必要ない。
 大事に大事にと、ひっくり返っても離さなかったその赤い日記帳を未練もなくその場で投げ捨てた。
 彼女は駆け出した。

「うん……ッ!」

 差し込む光の、その下へ。




  ◇ ◇ ◇



「今回のことでよく分かったよ」
「……何が?」
 頂点に昇った日がさんさんと照らす中で、彼らは大きなその自転車に二人乗りで走っていた。
 懸命の思いで漕ぐ彼に後ろからぎゅうと抱きつく彼女を、特に止めることもなく、誰も止めることもなく。

「俺には覚悟が足りなかったんだな、多分。人間、死ぬ気でやろうとすればそれなりに可能性が広がるもんだ」
「結局、どういう事だったんだ?」
「俺達の存在を、色々と消したんだよ」

 遠く、彼らのはるか後ろから、一つ大きな爆音がする。
「あのロケット団を襲ってる奴は、何なんだ?」
「いわゆる正義の味方ってヤツだろ、警察でもジムリーダーでも、俺とお前が絶対に問題になるから、個人しかないんだ。
そういう情報を流せば動きそうなヤツがちょうどこの辺りにいたからって、あいつが――。
ああもう、ちょっと待て喋らせろ。
俺達の過去を全部すっぱり消せる手続きが出来るやつの話だけどな」
 爆音を聞いて彼はペダルを速めながら、可能性を供述し始める。

「そういう事が出来そうなヤツは、俺の取引相手として知り合った顔見知りの中で4人いた。……で、全部当たったら、1人は見事ビンゴ」
「……そんな事、出来るのか? 誰だ?」
「色々方法があるらしい。お前も会ったの、憶えてないか。ほら、あのモルフォンだ、モルフォン」

 訴えかける彼に、彼女は運がいいと呟いた。
 『日溜りの土地を買いたいですか?』とも。

「ああ、あの」
「おかげで相当ぼられたけどなー。……ほら、これ見てみろよ」

 右手をハンドルから離して懐をまさぐると、取り出した紙を後ろ側へと送る。
 彼女も彼の胴体から名残惜しそうに右腕を離して、その紙を受け取った。
 前金と後金。
 そう書かれた文字の後に、それぞれ数字が並んでいた。

「うわ、……何だこれ」
「マジひでえだろ、足元見すぎだよ。前金は手数料とか他への依頼料とかの総額だってさ。で、俺は『じゃあ後金は何なんだ』って聞くんだよ。
そしたら、何て言ったと思う?」
「何て言ったんだ?」



――ああ、そのお金ですか?
――それは、私があなた達の情報をロケット団にリークした時に得られるはずの価値分ですよ?



「だってさ?」
「うわー……」
 ため息をつきながら彼が忌々しげに吐き捨てると、彼女は思わず声を出さずにはいられなかった。
 間違いなくそれは非道と呼ばれる類のもので、同時に商才でもあり、脅迫まがいの行動でもあった。
 とはいえ、それを平気で笑い話にできるほど、彼の中で終わった出来事になってはいるのだが。

「……ま、よく考えたら俺はロケット団に入った時に、一回は人生捨ててるわけだしな。もう一回捨てたぐらいじゃどうってこたーない」
 照れ隠しのように声音を大きくしながら、彼は空に向かって何かを告白するように、大きく叫んだ。
「まったく、これで金も運もコネも全部使い果たしちまったよ? 老後とか、どうしたもんかね、全く……」
 そんな彼の告白に対して、左腕で胴体を抱き締めたまま、アーマルドはふるふると震えていた。
 恐れや武者震いといった類ではない、彼女が今までに一度も感じることのなかったそれは。

「あぁもうユーキ、お前ってヤツはッ!」

 壊れるほどの、歓喜。
 無論のこと、言外に含められた彼の死ぬほどの苦労も全て飲み込んでの――。

「おい、こらッ、いきなりそんな風に抱きつくんじゃない爪が刺さる――おわっ?!」

 右手に握っていた紙は捨てられて。
 そのまま体重を乗せてぎゅうと抱きつかれると、バランスを取りきれずに自転車が転倒した。
 勢いを殺しきれずに自転車は地面に跡をつけながら吹っ飛び、椅子台から吹っ飛ばされた彼らは一塊になってごろごろと転がる。
 それでも彼女は、彼をその抱擁から離さなかった。
 下にした彼が重さやら何やらで苦しむのを他所に、その胸元に顔を擦り付ける。

「いって、お前バイザー痛ってえ! っつーか聞いてよ、離れてよちょっと?」


「大丈夫だってユーキ、あたしが責任取ってやるよ! お前の老後までばっち面倒見てやるから! ……っあーもう、ユーキ、ホント最高だお前ッ!」

 華やかな、笑顔。


「~~……っ! ……ああ、もう……」

 やれやれ、と呟いて彼は抵抗することをやめた。
 気恥ずかしくて、何とも言えなくて。
 溢れるぐらいの幸福感に満たされて彼女の向こうの空を見上げれば、眩しいくらいの陽が輝いていた。

 これからしょっちゅうこの幸せが続くと思うと、半分信じられないようで、それを掴み取ったのがまた自分と彼女というのも半分信じられず。
 縋りつく彼女の後頭部に手を添えて、陽の中で融けるように抱き合った。






 幸せが終わらないように、騒動が終わることはない。
 彼らも永遠の平穏でいられる事はないし、いずれは過去に悩まされることもあるかもしれない。

 ――でも、きっと。


 その小さな輪っかを繋ぐ手は、二度とは離れない。
ツールボックス

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