5スレ>>211


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 ――2月14日。
 それはある意味一年のうちで、最も甘く溶かされた一日。
 女の子も、男の子も。
 人間も、萌えもんも。
 誰もが胸の裡にほんのりと燻るものを抱え、心を浮き躍らせる。
 惑い、昂ぶる無数の想い。
 それはあたかも、一つの巨大な鍋に注ぎ込まれ掻き乱されるチョコレートのように、
 たやすく蕩けて見えなくなってしまいそうなほどに儚くて――

 だから、誰もが希うのだ。
 この、バレンタインデーという特別な日が。
 誰にとっても貴く、尊く、心安らかな一時であれと。

  
 
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  萌えっ娘もんすたぁ異伝・紫水晶ver.

      番外編・Ⅰ 『尊くあれ、甘き聖よ』

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 それは、足先の高さに等間隔で設置された小さな非常灯のみが支配する、ほの暗い廊下でのこと。
 ――ぬきあーし、さしあーし、しのびあーし。
 廻り回ってちどりあーし。
 ……そんな、いかにも間抜けな表現で括れそうなステップを押し止めたのは。

「――――イズミ?」

「ひゃあぁぁぁぁぁぁああああっ!!!?」
 背後から投げかけられた鶴の一声――正確にはペンギンだが――に、面白いほど背筋を引き攣らせる少女。
 慌てふためいて腰を抜かしかけた白の身体を支えつつ、呼び声の主が小声で叱責する。
「ちょ、静かにしなさい。こんな夜中に」
「は、はは……ごめん、姉御」
 驚きをもたらした張本人である相手――ユカリに助けられながら、どうにか体勢を整えてみせるイズミ。
 危うく転ぶところであったが、手にした一抱えの袋を手放したりはせず、むしろぐっと胸元に引き寄せて保持。
 そんな様を一瞥――蒼の女性がふう、と息を吐く。
「作るの? チョコレート」
「いいっ!」
 氷水を浴びせられたように硬直する、少女の体。
 ぎぎぎ、と機械の如き動作でユカリに向けられるその表情からは、あからさまな動揺が見て取れる。
「ななな何のことかなぁ!?」
「いや、ばればれでしょう……」
 ――そう、知的なユカリならずとも容易に察せることだ。
 イズミの普段、料理などからきし出来ないくせに、こんな深夜に道具込みでキッチンに赴くという違和を差し引いても。
 ……今日が、2月13日で。
 人、萌えもん問わず多くの女性が、昼間から浮ついた様子で盛んに出入りしていて。
 センターのそこら中から甘ったるい匂いが漂ってくれば、誰にでも。

 
 各地の萌えもんセンターは、宿泊施設としてトレーナー達に格安開放されていたりもする。
 まあここに来れば最低、柔らかい寝具と熱々の食事にはありつけるという算段だ。
 慈善事業か、と疑いたくなるほどのサービスの良さ、それは決して画一的なものだけに止まらず、
 例えば主人の手料理以外はイヤッ! というような忠義溢れる(?)萌えもんにも対応できるよう、
 厨房その他資材すら貸し出してくれる、という点などに見ることが出来る。
 とはいえ、それは当然昼のみの話であり。
 こんな真夜中にセンター内を堂々徘徊していては、不審者と見做されても文句は言えないのだが――
 この夜だけは、別。
 主人を一心に慕う萌えもん、供への感謝と愛情を宿すトレーナー。
 それら純粋な想いたちのために、この一晩だけは厨房が開かれているのだから。
 和気藹々とした微かな喧騒、それに揃って歩み寄りながら、恐る恐る口を開いたのは白の少女。
「……あの、さ。やっぱり姉御もチョコ作るの……?」
 誰に、とは口にする必要もない。対象となるべき者など、一人しか居ないのだから。
 イズミの質問、というよりは確認に、応えるのは静謐なる流し目。
「――もう作ってあるわよ」
「嘘っ!?」
「本当よ。当日の夜なんて、混んでてやりにくいに決まってるでしょう」
 ユカリの言う事は至極もっともだ。
 鈍い音と共に押し開かれた扉の先――普段センターの職員が右に左にと動き回るその大厨房から漏れ出したのは、まず熱気。
 そして、心奥の何かを絆されてしまいそうなほどの甘さ。
 皆が皆、あと数時間後の夜明けに想いを馳せて……一様に夢見る乙女の顔をして、せっせと動き回っている。
 その大部分を占めるのはやはり萌えもん。あくまで一般的にだが、人間よりも感情に素直な個体が多いとされている所以か。
 いずれにせよ、溶かし固めを嬉々として行う少女たちの顔は、目映い至福に満ち溢れていて――
 はっきりしていることは、ただ一つ。
「……出遅れたわね」
「――――ううぅぅう~~っ!」
 唸り声を上げるイズミを置いて、人混みを縫うようにしてさっさと歩き出してしまうユカリ。
 その背を追いつつ、少女はふと込み上げてきた疑念を口にする。
「あれ、姉御。じゃあなんでここに来たのさ?」
「……そんなの決まってるでしょう」
 返答と共に指し示されたのは、暗がりに備え付けられた小型の臨時冷蔵庫。
 彼女の手によって開かれたその中には、色とりどりの心が込められたチョコレートたちが冷え固まるのをじっと待っており――
 そのうちの一つを指差しながら、小さく肩を竦めてみせる蒼の女性。
「ちゃんと形になってるかどうか、確かめに来ただけ」

 それは――海。
 ユカリの用意した贈り物、怜悧なる水の真心を差し示す、最も的確な単語。
 言うなればチョコタルトだろうか、クッキー状の枠の中に優雅に流れる茶褐色の波。
 既に冷えて固められているというのに、今にも揺れだしそうなほどに滑らかなその表面は、菓子というよりもはや一つの芸術のよう。

 ごくり、と我知らず喉を鳴らしたイズミの姿をどう見たか、呆れ声でユカリが補足する。
「ちゃんと貴女たちの分もあるから。心配しないで」
「……え、ち、違っ」
 慌てて否定するイズミだが、見入っていた以上は説得力の欠片もない。
 更に、うろたえる白の少女に追い討ちをかけるように――
 静かな動作で冷蔵庫を閉め、立ち去りかけた蒼の女性の手が、思い出したように机の上に伸びる。
「そういうことだから――頑張りなさい」
 冷蔵庫にほど近い机の端、これだけ熱気溢れる厨房の一角を静謐に押し止めていたとある物体。
『アメジストご一行様ご予約』――そう書かれた札を持ち、あっけなく去りゆく蒼の背中に。
 ……痛烈な敗北感のみをひしひしと抱くイズミであった。



 (だいたい姉御は無敵すぎなんだよっ)
 ペースト状のチョコが流し込まれたボウルを、これでもかといわんばかりに高速で掻き回しつつごちるイズミ。
 その度に茶色の飛沫がぼとぼとと周囲に飛び散っているのだが、
 それに眉を顰めるのは近くで作業をしている見も知らぬ萌えもんばかりで、当の本人は全く気付いていない。
 一応エプロンに三角巾もしているので自身への被害こそ少ないが、それでも最終的には悲鳴を上げることとなるだろう。
 そんな現世の状況とはある意味切り離された次元で、脳裏に宿すのは己が姉貴分のことばかり。
(バトルも強くて落ち着いてて大人で、美人でしかも家事全般も得意なんて超人過ぎるよっ!)
 ……或いは戦闘に際してなら、近距離で殴り合えばイズミが勝つのかもしれないが、そうしたところで何の意味もない。
 ただ、魂としての格が違う。
 彼女と接しているとふとした拍子に湧き上がってきてしまう、そんなささやかな劣等感。
 無論、ユカリのことが嫌いなわけではない。
 むしろ敬愛しているし、主人という立場であるアメジストよりもある意味では信頼のおける、そんな女性ですらある。
 先ほどまでの一連の流れにしろ、わざわざ妹分用のチョコまで用意してくれていたり、場所を確保しておいてもらったり。
 これがなければ最悪、人波に押され、今こうして調理を試みることさえ困難だったかもしれない。
 彼女の根底にあるのは、確かな妹分への配慮と愛情。
 だからこそ。
 酷く、濁って見える。
 自分の存在が、今こうして掻き乱されている茶褐色の波と同じ、型を為さない粗悪品のように感じられて。
  ――ちん、と音がする。
 設置されたオーブンが、イズミに中身の完成を訴えかける。
 引き出したそれ――ポピュラーなものばかりでは味気ないだろうと、欲を出してみたミニチョコケーキは――
 空気を含ませすぎたのか、時間設定を誤ったか。
 あるいは――イズミの心層をそれこそ泉の如く写し取ったか。
 焦げていた。
 完膚なきまでにどす黒く。
「…………あー、もうっ!」
 思わず口を突くは、紛れなき苛立ち。
 近くで作業をしていた萌えもんの女の子がびくりと後ずさり、それを見てようやく我に返るイズミ。
 曲がりなりにも戦闘種族の唸り――気が立っている様は、さぞかし剣呑に映っただろう。
 全力で頭を下げ、気にしないでとの言葉を貰い――その時ようやくにして、チョコに塗れた情けない己に気付く。
 ――姉貴分ならきっと、こうはならない。
 調理の手際というだけでなく、もっと根本的な部分で。
 ……いかなる時も冷静沈着、常識的かつ客観的な姉に比べ、自分は感情に任せ過ぎる。
 弱いくせに、心を抑えきれない。
 抑えきれないから、弱い。
 無限にイズミを陥れる、それはメビウスの輪。
 ユカリならばそもそも、こんな感傷を抱きもしないだろう。
 誰かに謝らなければならない事態に身を置くことすらありえないはずだ。
 それくらい彼女は高潔で、正しく生きられる人だから。
 故郷への罪悪を悶々と抱き、心を沈ませる自分とは大違い――
 考えれば考えるだけ虚しくなり、何の気なしに傍らにある冷凍庫、その扉を開ける。
 ひんやりと澄んだ気配、その中にあってなお目を引くのは、他のチョコを圧倒するほど精巧に仕立て上げられたユカリの贈り物。
 ――手の内にあるのは、本に載っている程度のごく初歩的なチョコレート……となるはずのもの。
 それすらも、満足に為せないかもしれないのに。
 いったいどれだけ研鑽すれば、こんな美しいものを作り出せるのだろう――?
 渇望は、翳りとなり。
 イズミの心に黒く囁きかける。


 もし……これが無くなってしまえば?


(……な、何考えてるんだよボクはっ!)
 叱りとばす。箍を外し始めた己が心を。
 けれど黒き侵食は収まるところを知らず、イズミを犯して止まない。
 背徳にか、歓喜にか、小刻みに震え始める白き指先。
 何も、完全に砕いてしまう必要などない。
 ほんの少し、海の縁を為すクッキー部分を抉ってしまえば。
 波打つ鈍色の水上に、鋭いばかりの爪で痕を残してしまえば。
 
(姉御のチョコが、綺麗でさえなければ――)

 人肉すら容易く切り裂ける、その獰猛な白銀の爪先が、

(ボクの、ぼろぼろなチョコでも――)

 揺りそよぐ冷気の箱の中、

(……旦那に、喜んで受け取ってもらえる?)

 麗しく鎮座する、ユカリの想いへと――


 
「駄目っ、そんなのダメッ!!」



 漏れ出でた鋭い叫びが――周囲の少女たちの動きを余さず止める。
 浴びせられる奇異の瞳。交わされるざわめき。
 広がる不穏な空気、その渦中で期せず声を放った白き少女は――
 片腕をユカリの逸品へと伸ばし。
 もう片方の掌で痛々しく口元を押さえ。
 ――己が行為に、ただただ戸惑うばかり。
 幸いにも爪先は、ユカリが作ったそれを傷つけてはいない。
 波打つ表面、そこに差し掛かるか否かの位置に固定されている。
 ――けれど、それで自分の行おうとした事が無に帰すはずもなく。
 恐る恐る周囲を見やる。己が不敬、罪への救いを求めるように。
 迎えるのは、決して断罪ではない。
 ただ――怯えと不審に凝り固まった、淋しき瞳。
 群れに入った異端者を眺めやる、容赦なき目つき。
 その中にあって大事なものだけは護らんと、各々がぐっと胸に抱えるは作業中のボウル――


(……あ)


 靄が、晴れるように。
 唐突に甦り広がりゆく理性と――理解。
(そ、か……)
 こちらを遠巻きに見やる少女たちは、まず手元のチョコレートを庇ってみせた。
 それはおそらく無意識であり、故に偽りなき本心であるという事。
 大事なのは、その気持ち。
(……姉御がどうとかじゃ、ないんだ)
 敬意だけでは語れない姉への想いは、確かにあるのだろう。
 例えば常日頃の、青年に対する貢献度。
 例えば、自分が青年にとって一番初めの――最良の相棒ではないという事実。
 そういった些細な事象から一息のうちに芽吹くそれは、嫉妬、といって差し支えないのかもしれない。
 その感情を持つこと自体は、別にいい。
 それは人として、萌えもんとして、ある種自然な心動だから。
 けれど、それを菓子作りの際などに込めてしまっては。
 どんなに上手く模れても、どんなに良い味を引き出せても。
 受け入れてもらえるはずがない。
 喜ばれるはずが――ない。
(……ごめんなさい、姉御)
 ユカリの心は清い水のようなものだから、あそこまで見事な一品を形作れるのだ。
 自分がそう在れるとは思わない。弱く穢れたこの心では無理だろう、とすら感じる。
 けれど、青年に喜んでもらいたいというこの気持ちもまた、嘘ではないから。
 挑んでみたい。もう一度、心をまっさらにして。
 本当の真心だけを、茶色き鏡に映し出す。
 だから、そのために――
 『頑張りなさい』
 ユカリが去り際に残した静かな励ましが、イズミの背を押し――

「――お騒がせして、ごめんなさいっ!」
 
 深々と頭を下げる、白き乙女。
 あっけに取られた周囲の気配を直視するのはまだ恐ろしく、何より一刻も早く気持ちを切り替えていきたい――
 そんな少女が選び取る最良の動作といえば、一つしかない。
 ――もう一度、初めから。
 不純物の混じらない、そんな地平から。
 まず、べたべたに汚れきった己が衣装を軽くはたこうとして――埃が散ったら大変と思い止まる。
 清潔な紙ナプキンを用い、こびりついた茶の飛沫を拭い去ること数度。
 三角巾と共に、緩んだ心を締め直し。
 掌と魂を、冷たき水で漉し澄まし。
 準備は万端。原料もまだ半分ぐらいは残っている。
 自分でも失敗を見越し、色々と多めに用意しておいたのが功を奏したようだ。
 洗い立てのボウルに、生温い流体のチョコを流し込み。
 嫉妬でも嫌悪でもない、ただ清らかな思慕だけを腕先に乗せ。
 ……一掻き、一掻き。
 赤子の肌を撫でるようにゆるりと、それでいて力強く――想いを宿す。
 そんなイズミの懸命な様は、いつしか周囲の緊張までも解きほぐし。
 ふと、顔をあげてみれば。
 ちらりと目線を合わせ小さく頷く、ハクリューの少女。
 可愛らしくガッツポーズをしてみせる、ニドリーナの娘。
 励ますようにウインクしてみせたのは、ペルシアンの女性か。
 ――みんなが、みんな。
 イズミの心を、ほんの僅かずつ向かい歩く先を、見守ってくれていて――
 ああ、とイズミは確信する。
 きっと……否、絶対に。
 このチョコは青年の心に届くに違いない、と。
 誰かを想って何かを行うことは、こんなにも温かくて。
 ……涙が滲むほどに、甘切ないのだから。


 
 ――暗雲の帳から、ほの白い光が覗き始める刻限。
 すでに大方の娘は撤収し、各々の待ち望む瞬間、
 それぞれの主――あるいは仲間――その目覚めの時を見守っているのだろう。
 先刻までの喧騒虚しく、がらんどうと広がる大厨房の片隅、冷蔵庫の前に跪く白き少女。
 開け放たれた扉の先、冷気の里に眠る幾つかの茶色の粒は――
「……やった」
 紛れもなくイズミが産み落とした、さざめき零れた心の欠片たち。
「やったあああああああああっ!!」
 それは、苦いかもしれない。
 粉っぽいかもしれない。
 ひょっとしたら、とても口にできるほどのものではないのかもしれない。
 それでも、胸を張れる。
 これは、自分の想いそのものだと。
 途中、ピジョットやウインディの女の人が手伝おうかと申し出てくれたのを丁重に断り、
 どうにか自分一人の力で作り遂げてみせた、イズミだけのチョコレート。
 ……これから、青年のものとなるはずのチョコレート。
 作業工程が無我夢中だっただけに、忘れていられたこと――嫌が応にも視界に映るのは、
 自分の小さな小さな甘粒とは比べ物にならぬほどの、ユカリの逸品。
 結局、あれからユカリは一度も姿を見せなかった。
 途中でチョコを取りに来れば声くらい掛けていくであろうし、そもそもまだ現物がここに鎮座している。
 つまりここでこうしていても、いずれすぐに鉢合わせることになるわけで。
 ……どんな顔をして会えばいいのか、解らない。
 自分の中に眠る混沌、それにはっきりと目を向けてしまったから。
 ――今こうして見ても、美しいお菓子だと思う。
 その流れる海の世界に爪を突き立てようとした行為がどれだけ愚かなことか、今ならはっきりと解る。
 ユカリは当然の如く何も知らないはずで、黙ってさえいれば日常はすぐそこに還って来るに違いないが――
 謝らなければならない。
 謝りたい。
 ユカリが、好きだから。
 例えどんなに妬んでも、嫉んでみたとしても。
 それでも敬愛すべき姉であることに、なんら変わりはないのだから。
「……よしっ」
 暗がりで一人勢い込み、まずは自分のラッピングに集中する。
 姉御の分も持っていってあげようかな……と一瞬思いはしたものの、流石にそれはお節介に当たるだろうし、
 何より先ほど自分が為そうとしたことを思い返せば――触れることなど、できはしない。
 ユカリは自分たちの分まで用意してくれたと、そう言っていたが。
 それを受け取れるのは、全てを告白した後だ。
 心の汚らわしい部分まで全て打ち明けて、赦されるかは解らないが――全ては、その後。
 そう結論付け、手早く周囲を片し終えたイズミは、色々と思案しながら厨房の出口へと向かう。
 脳裏を巡るのは、これから迎えるであろう様々な展開。
 少なくとも、今すぐではない未来のこと。
 そう思っていたから――気付かなかった。
 厨房を出てすぐ、廊下の壁に寄りかかるようにして立つ、一人の女性の存在に。


「――――イズミ」


「っ!!」
 気息が、詰まる。
 大厨房から切り離された廊下の薄闇、そこに浮かび上がるように佇む蒼の水鳥。
 気難しく腕を組み、眉根を寄せ、淡白に向けられる瞳は揺らぎもしない。
 ユカリ。
 今最も遭いたくないその女性が――イズミの行く手を塞ぐように、聳え立っている。
「……あ、姉御……」
 イズミの脳内で交錯する、無数の信号。

 ――タイミング悪すぎるよ――
 ――今だ、謝っちゃうんだ――
 ――どうしよう、何て言えば――
 
 そんな、取り留めのない瞬時の思考の中。
 ……気が付いて、しまった。
 今、自分のチョコを取りに来たのだとすれば、覚えざるをえない確かな違和感に。

 ――どうして、服が昨日の夜と一緒なの?
 ――どうして、ボクを待ち構えるように立っていたの?
 ――どうして、そんなに目の下に隈を作っているの……?

 それらが、意味することは。
「…………あ、姉御…………?」
 イズミの半ば、涙交じりの問いかけに。
 氷の能面と称するに相応しい美貌が、ふっと崩れ。
 柔らかく、羽毛で抱くように、白の少女を引き寄せて。
 そっと、頭を撫でながら。
 彼女は――告げた。


「頑張ったわね、イズミ」


 ――それからしばしの事は、よく覚えていない。
 多分自分の奥で、何かぴんと張り詰めていたものが切れてしまって――
 慰められた、ような気がする。
 子供じゃないんだからよしなさいな、と窘められた気がする。
 姉のくたびれた服の胸元を、気の済むまで雫で湿らせ。
 溜め息混じりに紡がれた柔らかい言葉だけが、今でも脳裏に刻みついている。


「――イズミ、今日はお昼までぐっすり寝ましょう。
 たまにはゆっくりと……一緒に昼寝するのも、悪くはないわ……」












 


 
 ちなみに、余談ではあるが。
 このあと仲良く揃ってアメジストの寝室に特攻を掛けた二人は、驚愕の光景を目の当たりにすることとなる。
 僅かに皺の寄った、使用済みのシーツ。
 無造作に置かれた白の枕。
 そのすぐ傍に可愛らしく置かれている――小さな緑の包装箱。
「……ジスト……」
「だ、旦那、それって……」
 震える声の二人に対し、既に起きて荷物の整理をしていた青年――アメジストが応じる。
 どこか照れくさそうに、ぽりぽりと頬を掻きながら。
「ああ、それ……昨日の夜、多分日付が変わった頃だと思うけど、どっかからふらふらっと飛んできたんだ。
 多分、シンだと思うんだけど――」


『……――先越されたぁーーーーーーーっ!!!!』
 
 

     ◆    ◆    ◆    ◆    ◆



 ……バレンタイン。
 それは基本的に、文化を持つ洗練された魂たちへの慰労の日。
 けれど、温もりが交わされるのは何も、都市部に限った話ではない。
 谷だろうと、海だろうと。
 氷雪入り乱れる霊峰の淵であろうとも。
 そこに命が在るのならば――想いも、また在る。 



 ――夜陰。
 彼女をまどろみの淵から揺り起こしたのは、ほんの微かに香るほろ苦さだった。
 身を起こし、重い手付きで自らの編んだ毛布を除ける。
 ゆるりと澱み、纏わり付くのは何の勘違いでもない、食べ物――それも菓子めいた匂い。
(――誰か、起きているの……?)
 自問、しかしこんな夜の更地の中で応える者はいない。
 頭を一つ振り、外気の冷たさに期せず身震いしながら、そろりと寝床を後にするアリアドスの女性。
 周囲で静かに寝息を立てる姉妹たち、その安眠を妨げぬよう足音を消しながら、二歩三歩と仰ぎ回る。
 起きてすぐに思い至ったのは――誰もが頷かざるを得ない食いしん坊の娘・カビゴンのクライのこと。
 しかし当の彼女が、同じ姉妹の一人であるミフリを護るようにその巨体を横たえ、うつらうつらと舟を漕いでいるのを確認し――
 深まる疑念。
 放っておいても良い些事かもしれない、けれど何故だか気にかかる――
 虫の知らせとも呼べない微弱な感覚だけを頼りに、突き動かされる美麗な脚。
 ただ、香りの発生源だけを求め。
 皆が眠る岩棚を後に、獣道、草を幾度か掻き分けたその先に。
 赤き少女が、在った。

「……オキビ……」

 寒々とした夜を嘲笑う、ぐつぐつと煮立つ幾つかの大鍋。
 その合間を縫い、のそのそと動き回る緋色の塊。
 昂ぶる火よりもなお赤く。
 盛る炎よりなお熱く。
 紅玉の汗をだくだくと流し、ただ険しい表情で這いずり廻るマグマッグの少女の姿は、明らかに人の目に触れさせてはならない類のものであり――
 それでも目にしてしまった以上、看過することも憚られ。
「――オキビ」
 もう一度、呼びかける。
 今度ははっきりと耳に届いたのか、少女の体がびくりと硬直。
 向けられた、幼いながらに端正な貌は――明確な苦渋と疲労によって、色濃い負を刻まれている。
「……アルマ姉ぇ……」
 涙ぐむのを必死に抑えた、詰まった声色。
 それを放っておくことも、見てみぬ振りをすることも、中途半端に優しいアルマには選択できず――
「……どうしたの、オキビ。それ……チョコレート?」
 そう、問いかけざるを得ない。
 この距離まで近付けば嫌が応にも察せられる鍋の中身、それはアルマ自身が口にした――チョコレート。
 アルマにも、人並みかそれ以上の洞察力はある。
 皆が寝静まるのを見計らい、つまり隠れるようにしてチョコを作ろうとしている。そして翌日は如月の14日。
 ――バレンタインデーに備えてのもの。そこまではいい。
 ならば何故、そうまで辛そうな色を浮かべているのか。
 あの方にか、自分たちへかは解らないが、薄らと涙を湛えてまで無理をする必要などないのではないか――
 そんなアルマの意図を察したか、オキビが口を開く。小さくしゃくりあげながら。
「……固まって、くれないのよぅ」
 湿り気を帯びた、その一言で。
 疑問は容易く氷解し、しかし赤き少女の独白は止まらない。
「みんな焦げちゃうのよぅ、溶けちゃうのよぅ。あたしの体温じゃ……」
 ――オキビは普段、極力自らの熱を封じ込めて過ごしている。
 傍らの姉たちに不快な思いをさせないようにと。決して楽ではない体熱の調整を、稚い表情の下で必死に為している。
 けれど、そんな健気な努力をもってしても。
 器越しの水は、瞬く間に煮え滾り。
 油の乗った肉も、どろりと潤みを帯びた木の実も、瞬時に消し炭へと変わる。
 ましてどんな工夫を加えようと、熱に弱いチョコレートが型を為す道理はなく――

「……あたし、お世話になりっぱなしなのに。ようやくありがとうを言えるって思ったのにぃっ……」

 ――自分たちの仲間、『十二神鏡』の一員となってから、一月ほど。
 その長いとも短いとも言える時間、彼女が何を思って過ごしてきたのか。
 姉たちの歩みに、縋ることすらままならないその足で。
 荷物持ちを手伝うことも許されない、その燃え盛る掌で。
 和む姉たちの輪を、静かに遠巻きに見つめる、その紅の瞳玉で――。
「……バレンタインっていうの、小耳に挟んだけどぉ」
 ずっと人里離れた場所で、一人きりで過ごしてきたオキビ。
 バレンタインはおろか、チョコレートの存在すらつい最近になって知ったのだろう。
 ――思い出す。アルマが生み出す丈夫な糸、炎熱ですら焼かれぬそれをもって、自分用の道具袋を作って欲しいとせがまれた事を。
 今、それは彼女の足元に虚しく投げ出されていて。
 その内側が、茶色い液体に濡れているのが見て取れて。
 ……きっと、どうにかして材料を調達したのだ。
 調達して、いざ作ってみようとして――或いは買ったものを純粋に確認しようとして――
 半ば溶けているそれを目にしてしまった瞬間。
 少女は、何を思ったのだろう。
「――あたしには、ちょっと無理だったみたいよぅ」
 己が魂すら見下し嗤う、そんな哀しい微笑みに。
 アルマの唇が、ごく自然に、動く。

「……一緒に、作ろう?」

「え……?」
 漏れ出でたのは、ただ呆然とした声色。
 そんな頼りない少女の傍に寄り、アルマはたおやかに笑んでみせる。
 虫である身に、熱は毒でしかないけれど。
 ――その熱は、自分たち家族を思って放たれる純然たる温もりは、泣きたくなるほどに心地良い。
「冷やすのと皆に渡すのは、私がやるわ。オキビは頑張って溶かすの。……ね?」
 火は、確かに全てを焼き消してしまうけれど。
 それでも妹の炎が、皆の心を溶かし繋いでくれることを願って。
 唐突ともいえるアルマの提案に、ただ茫洋と突っ立っていたマグマッグの少女は。
 ゆっくりと、その言葉を噛み砕き、
 意味を理解し、
 暗夜から密やかに立ち上る太陽のように、

 ――笑った。



     ◆    ◆    ◆    ◆    ◆
  


 ――それは、テンガン山にて『神』にまつわる悪夢が幕を開ける、ほんの十月ほど前の事。
 どこかの街中で、青年を巡って微笑ましい取り合いが繰り広げられたりだとか。
 どこかの山中で、姉妹の絆がほんの少しだけ深まっただとか。
 それら全て、待ち受ける吹雪の前では無残に打ち砕かれる運命のものでしかない。
 けれど、それでも。
 この一時だけを切り取ってみれば、そこには確かな価値があるはずで。
 忘却に浸し捨てていい程、不要な欠片でもないはずで――

 だから、誰もが希うのだ。
 この、バレンタインデーという特別な日が。
 誰にとっても貴く、尊く、心安らかな一時であれと――。



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