それを感じたのは水を汲みにいっていた時だった。
「――っ」
突然の痛み。
下腹部に大きな石を詰め込まれたような、鈍い痛みだ。
予期せぬそれに、足が揺れるが、僕は歯を食いしばってこらえた。
一度沢山の空気を肺に押し入れて、ぐっとお腹に力を入れる。
……心配はかけられない。
だが、意志とは反しての、軽度の眩暈と吐き気。
……。
しかしそれも、耐える。
彼女が過労で倒れて以降、随分の作業を代わりに引き受けているのだ。
ここで倒れてしまうわけには……いかない。
鍋に満ちた水を両手で掬い、ぴしゃりと顔を濡らす。
「……ふぅ」
痛みも不快感も継続しているが、気は引き締まった。
鍋に浮かぶ僕の顔を見れば、笑みこそ浮かんではいなかったが、苦しそうな表情には映っていなかった。
戻ってきてみれば、彼女――ニーナは、簡易台所に向かっていた。
その背中は、僕より少し小さいくらいだが、とても頼もしく感じられる。
あまりこういうことを言うと、ニーナは嫌がるのだが、『お母さん』のような感じだ。
そんな彼女に、僕は近づきもせず、トトン、と軽快なリズムが刻まれるのを聞いていた。
不思議と、そうしている間は、痛みのことを忘れられた。
けれど、心地よい独奏は長くは続かない。
通り雨が去るように音楽は消え、風の小さな囁きが代わりを担う。
僕は今一度肺の中身を入れ替えて、その背中に、ニーナ、と呼びかけた。
ノートに文字をいれ、
『ただいまー』
「あ、おかえりなさいマスター。丁度水が必要になったところです」
振り返ったニーナの顔は笑み。
輝くほどのまぶしさはないが、素朴で整った、いつも通りの彼女の笑顔。
面と向かっていえる日が来るかはしらないけれど、僕はそれが好きだった。
『本音』
「もうちょっと早ければ、動きが止まらなくて済んだかもしれません」
少しだけイジワルに笑みが変化する。
誘導したのは僕だけど。
『イジワルだね』
「そうでしょうか?」
『そうだと思うよ?』
「……そうかもしれませんね」
イジワル、という筋が顔からすっと抜け、ニーナにいつもの笑みが戻った。
……大丈夫、だよね。
バレてない。
僕のことに気付いて心配するような素振りはない。
隠し通せてる。
「それではマスター。水を」
『うん』
鍋を手渡すと、ニーナは作業に戻ろうとアチラに振り返って……止まる。
そして、
「……ありがとうございます」
『律儀だね』
「えぇ、それは……まぁ。では、もう二十分ほどで出来るので待っていてくださいね」
『他に何かやることある?』
「そうですね……ty――特にないです」
『そう。じゃあ頑張ってね』
「はい。任せてくださいっ」
彼女の一言が、とても頼もしく全身に響いた。
いただきますの掛け声とともに、僕は台の上に並べられた料理を見渡した。
全五品。いつもより一品多い。
『今日は気合が入ってるね。何かいいことでもあった?』
「いえ、特にいいことはなかったと思いますけど」
いつもなら手放しで喜べる状況なのだが、今は勝手が違う。
……全部食べないと。
残してしまっては何かを察知されて、心配されてしまう。
吐き気とお腹の鈍痛は、そうするのには最悪のコンディションだが。
僕は喉を鳴らして、箸を手に取った。
食後。
ニーナも洗い物を終えて、後はぼんやりと眠くなるのを待つ時間。
さっきまで二人で地図を見て、今後の進路を話し合っていた。
だが、不調が限界付近に達し、僕はトイレと言って抜け出してきていた。
……ふぅ。
その不調によって、汗が噴き出したのは立ち上がってニーナに背を向けたとき。
顔が崩れたのはさらに歩いてから。
だけど、何とか隠し通した。
後は眠い、と言って早く寝て、明日に体調が改善していることを祈ればいい。
小川の水面に自分の顔を浮かべ、汗を流す。
歪んだままの表情は、頬を両手で叩くことで矯正した。
膝に手を当て、腰を持ち上げる。
そうして正面に顔を上げた僕の目の前が一瞬フラッシュ。
立ちくらみ。
視界一杯の白はすぐに反転して黒へ。
これも一瞬。
ぼやけた視界が段々と姿を元に戻していくと同時に、僕の足はゆらぐ。
くら、と大きく姿勢が崩れるが、浮いた足を力をこめて地面に落とす。
固定する――が、支えとなるはずのその足、膝が折れた。
慌てて重心を移動させようとするが、
……倒れた方が楽かもなぁ。
やめた。
視界がするりと夜の空へと流れていき、完全に天を仰ぐ。
その寸前で、止まった。
背中には二箇所、暖かい感触。
地面ではない。
ならば……。
「マスター」
ニーナだ。支えてもらっている。
背中には両手。
「……どうしたの?」
声。問う。彼女に。
「どうしたの……ではないです! 私がっ。私のほうが聞きたいですっ」
「少し立ちくらみを起こしただけ」
情けない言い訳だ。もう、意味も持っていない我慢を、さらに空しく装飾する。
もう、僕は、僕の行動に責任が取れなくなった。
背にある開かれた両手が力を持って閉じ、僕の服を握り締めた。
「……そう、ですか」
「うん。そう」
ゆっくりと、背から、気持ちのよい感触が離れた。
僕は力を振り絞って直立し、ニーナへ振り返る。
俯き、影になった彼女の口元が小さく動いていた。
『話してくれないんですね』
僕は気付かない。
大丈夫、というように笑顔を貼り付けて、
「さ、戻ろう」
「……はい。ですが少しだけ」
ニーナがずい、と一歩。大きくこちらへ寄る。
元より離れているというほどの距離ではなかった。
だから結果として、ニーナの顔は眼前に迫っていた。
あ、と思ったときには、既にニーナの腕の中。
「ねぇ、マスター。本当のこと、話してくれませんか」
「……」
「話したくないのでしたら、振りほどいてください。事情があるのだと納得……します」
……したくはない。
「マスター」
……したくは。
「マスター!!」
……ニーナを振りほどくなんて、したくはない! / 体に、振りほどくための力を籠める。
……。
……。
……。
「これだけ、ですか?」
「……」
「こんな力しか……出せないくらいの……」
籠るはずの力は、最初からない。
そうしたくないという気持ちと、そうさせない体の調子。
「……話して、くださいね」
「……うん」
理由が出来た。
振りほどくか話すか。
僕は振りほどけなかったから。
だから話さなければならない。話したくなくても。
きっと彼女は、僕以上に、僕のことを理解しているのかもしれない。
第一、気付くべきだったのだ。
彼女は僕の視線と会話をしていることを。
既に最初から、僕の調子の悪いことを分かっていたということを。
その上で、色んな配慮をしてくれていたことに。
……すごいな。
彼女は何も言わずにただ僕を抱きしめて、耳を傾ける。
話し終えても彼女は離れようとせず、ただ、一言。
「喋ってくれない方が、心配なんですよ……」
涙が、こぼれた。
最終更新:2008年05月24日 21:04