5スレ>>365

 それを感じたのは水を汲みにいっていた時だった。

「――っ」

 突然の痛み。
 下腹部に大きな石を詰め込まれたような、鈍い痛みだ。
 予期せぬそれに、足が揺れるが、僕は歯を食いしばってこらえた。
 一度沢山の空気を肺に押し入れて、ぐっとお腹に力を入れる。
 ……心配はかけられない。
 だが、意志とは反しての、軽度の眩暈と吐き気。
 ……。
 しかしそれも、耐える。
 彼女が過労で倒れて以降、随分の作業を代わりに引き受けているのだ。
 ここで倒れてしまうわけには……いかない。
 鍋に満ちた水を両手で掬い、ぴしゃりと顔を濡らす。

「……ふぅ」

 痛みも不快感も継続しているが、気は引き締まった。
 鍋に浮かぶ僕の顔を見れば、笑みこそ浮かんではいなかったが、苦しそうな表情には映っていなかった。





 戻ってきてみれば、彼女――ニーナは、簡易台所に向かっていた。
 その背中は、僕より少し小さいくらいだが、とても頼もしく感じられる。
 あまりこういうことを言うと、ニーナは嫌がるのだが、『お母さん』のような感じだ。
 そんな彼女に、僕は近づきもせず、トトン、と軽快なリズムが刻まれるのを聞いていた。
 不思議と、そうしている間は、痛みのことを忘れられた。
 けれど、心地よい独奏は長くは続かない。
 通り雨が去るように音楽は消え、風の小さな囁きが代わりを担う。
 僕は今一度肺の中身を入れ替えて、その背中に、ニーナ、と呼びかけた。
 ノートに文字をいれ、

『ただいまー』
「あ、おかえりなさいマスター。丁度水が必要になったところです」

 振り返ったニーナの顔は笑み。
 輝くほどのまぶしさはないが、素朴で整った、いつも通りの彼女の笑顔。
 面と向かっていえる日が来るかはしらないけれど、僕はそれが好きだった。

『本音』
「もうちょっと早ければ、動きが止まらなくて済んだかもしれません」

 少しだけイジワルに笑みが変化する。
 誘導したのは僕だけど。

『イジワルだね』
「そうでしょうか?」
『そうだと思うよ?』
「……そうかもしれませんね」

 イジワル、という筋が顔からすっと抜け、ニーナにいつもの笑みが戻った。
 ……大丈夫、だよね。
 バレてない。
 僕のことに気付いて心配するような素振りはない。
 隠し通せてる。

「それではマスター。水を」
『うん』

 鍋を手渡すと、ニーナは作業に戻ろうとアチラに振り返って……止まる。
 そして、

「……ありがとうございます」
『律儀だね』
「えぇ、それは……まぁ。では、もう二十分ほどで出来るので待っていてくださいね」
『他に何かやることある?』
「そうですね……ty――特にないです」
『そう。じゃあ頑張ってね』
「はい。任せてくださいっ」

 彼女の一言が、とても頼もしく全身に響いた。





 いただきますの掛け声とともに、僕は台の上に並べられた料理を見渡した。
 全五品。いつもより一品多い。

『今日は気合が入ってるね。何かいいことでもあった?』
「いえ、特にいいことはなかったと思いますけど」

 いつもなら手放しで喜べる状況なのだが、今は勝手が違う。
 ……全部食べないと。
 残してしまっては何かを察知されて、心配されてしまう。
 吐き気とお腹の鈍痛は、そうするのには最悪のコンディションだが。
 僕は喉を鳴らして、箸を手に取った。




 食後。
 ニーナも洗い物を終えて、後はぼんやりと眠くなるのを待つ時間。
 さっきまで二人で地図を見て、今後の進路を話し合っていた。
 だが、不調が限界付近に達し、僕はトイレと言って抜け出してきていた。
 ……ふぅ。
 その不調によって、汗が噴き出したのは立ち上がってニーナに背を向けたとき。
 顔が崩れたのはさらに歩いてから。
 だけど、何とか隠し通した。
 後は眠い、と言って早く寝て、明日に体調が改善していることを祈ればいい。
 小川の水面に自分の顔を浮かべ、汗を流す。
 歪んだままの表情は、頬を両手で叩くことで矯正した。
 膝に手を当て、腰を持ち上げる。
 そうして正面に顔を上げた僕の目の前が一瞬フラッシュ。
 立ちくらみ。
 視界一杯の白はすぐに反転して黒へ。
 これも一瞬。
 ぼやけた視界が段々と姿を元に戻していくと同時に、僕の足はゆらぐ。
 くら、と大きく姿勢が崩れるが、浮いた足を力をこめて地面に落とす。
 固定する――が、支えとなるはずのその足、膝が折れた。
 慌てて重心を移動させようとするが、
 ……倒れた方が楽かもなぁ。
 やめた。
 視界がするりと夜の空へと流れていき、完全に天を仰ぐ。
 その寸前で、止まった。
 背中には二箇所、暖かい感触。
 地面ではない。
 ならば……。

「マスター」

 ニーナだ。支えてもらっている。
 背中には両手。

「……どうしたの?」

 声。問う。彼女に。

「どうしたの……ではないです! 私がっ。私のほうが聞きたいですっ」
「少し立ちくらみを起こしただけ」

 情けない言い訳だ。もう、意味も持っていない我慢を、さらに空しく装飾する。
 もう、僕は、僕の行動に責任が取れなくなった。
 背にある開かれた両手が力を持って閉じ、僕の服を握り締めた。

「……そう、ですか」
「うん。そう」

 ゆっくりと、背から、気持ちのよい感触が離れた。
 僕は力を振り絞って直立し、ニーナへ振り返る。
 俯き、影になった彼女の口元が小さく動いていた。
 『話してくれないんですね』
 僕は気付かない。
 大丈夫、というように笑顔を貼り付けて、

「さ、戻ろう」
「……はい。ですが少しだけ」

 ニーナがずい、と一歩。大きくこちらへ寄る。
 元より離れているというほどの距離ではなかった。
 だから結果として、ニーナの顔は眼前に迫っていた。
 あ、と思ったときには、既にニーナの腕の中。

「ねぇ、マスター。本当のこと、話してくれませんか」
「……」
「話したくないのでしたら、振りほどいてください。事情があるのだと納得……します」

 ……したくはない。

「マスター」

 ……したくは。

「マスター!!」

 ……ニーナを振りほどくなんて、したくはない! / 体に、振りほどくための力を籠める。
 ……。
 ……。
 ……。

「これだけ、ですか?」
「……」
「こんな力しか……出せないくらいの……」

 籠るはずの力は、最初からない。
 そうしたくないという気持ちと、そうさせない体の調子。

「……話して、くださいね」
「……うん」

 理由が出来た。
 振りほどくか話すか。
 僕は振りほどけなかったから。
 だから話さなければならない。話したくなくても。
 きっと彼女は、僕以上に、僕のことを理解しているのかもしれない。
 第一、気付くべきだったのだ。
 彼女は僕の視線と会話をしていることを。
 既に最初から、僕の調子の悪いことを分かっていたということを。
 その上で、色んな配慮をしてくれていたことに。
 ……すごいな。
 彼女は何も言わずにただ僕を抱きしめて、耳を傾ける。
 話し終えても彼女は離れようとせず、ただ、一言。

「喋ってくれない方が、心配なんですよ……」

 涙が、こぼれた。

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最終更新:2008年05月24日 21:04
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