朝。
陽の出るか否かという頃合。
裏山に人の気配があった。
辿れば、森の中、やや開けた箇所に、少女が一人。
イワークだ。
長いポニーテールを朝靄に揺らし、組み木に対して、構えをとっている。
視線は組み木へ真っ直ぐ一本。
吐息。
肩が落ちたと同時、イワークは動き出していた。
沈んだ体が、バネを踏んだかのように突然前へ。
静と動。
彼女に相対しているのが人であっても、それは避けられない不意の一撃だった。
快音。
拳が組み木を捉えた。
ぎし、と一瞬の軋む音を残して、組み木の上部はちぎれ飛んだ。
ふ、と満足とも不満ともとれる吐息が漏れる。
彼女は拳を引き、構えを解いて、組み木を無表情な瞳で見つめた。
断面がささくれ立っており、このまま使うには少々危険である。
一度目を閉じて視線をきると、前もって用意してあった換えの組み木を取りに向かった。
組み木の背後、十メートルも行ったところに置かれた箱。
蓋を開ければ数体の組み木が並べられている。
内一つを取り出し、交換を始めた。
慣れた手つき。
故に頭の中では別のことを考えていた。
……また、褒められたいな。
それは彼女の初めての記憶。
今も鮮明に思い出すことの出来る、二年前の話だった。
組み木に打ち込みながら、私はいつもと同じことを考えていた。
褒められたいな、と。
今までの人生、私が他者に褒められ、認められたことはなかった。
私の残す結果は常に誰かのものを下回り、陽のあたる場所にいない。
だからいつだって努力をしてきた。
その上で結果を残せなかったとしても、それは努力が足りなかったからなのだと言い聞かせた。
この打ち込みもその一つ。
いつか褒められている自分と、いつまでも認められない自分の狭間に落ちないように、もがき続けた。
そんな思いで、私は毎日欠かさず努力を続けている。
苦しい、と思うことはない。
いつか褒められる日が来ると信じているから。
楽しい、と思うこともない。
いつまでも認められない未来が怖いから。
……五百三十五! 五百三十六!
一定の思考を展開したところで、頭がこちらへ戻ってくる。
気がつけば、太陽は上にあった。
私は構えを崩さずに組み木から距離をとって、一呼吸。
組み木を睨みつけたまま構えを解いて、大きく吐息。
した途端に、肩がガクリと落ちた。
その辺りに転がしてある水筒を手にとって、一口含むと残りは全て頭から被る。
汗で湿った長髪が、さらに湿り気を帯びて纏まった。
……さてと。
ナップに入れておいた昼食を摂ろう、と私が振り返ったときだ。
「凄いな、お前」
ナップを掛けておいた木の傍で、一人の男が片手を上げてそこに立っていた。
年齢は……私と同じほどだろうか。
そして、私は男の言葉の意味を理解し損ねる。
……?
「よく半年も毎日欠かさず練習したな、ってこと」
「……は?」
待て。
待て待て待て。
この男は一体何を言っている意味が分からないだって半年って言ったらそれは……。
「……半年。私がこの練習を始めたころじゃないか」
「おかげでなんか吹っ切れた。ありがとな」
おい。
ちょっと待て。
まだ全然理解が追いついていないんだぞ。
少しくらい説明をしたっていいじゃないか。
お前は誰で、どうしてそんなことを知っているのか、それくらいは。
全て言葉にすればいいものを、驚きからか、少しも出来ない。
男はその場から去ろうとして、しかし、思い出したというように手を打って、近づいてきた。
歩みはざくざくと、遠慮なしに私の傍までやってきて、
「ちょっと静かにしててくれ」
その一言のみを呟いて、男の手はおもむろに私の長髪を触った。
抗議の声をも上げられず、ただ為すがままに男に委ねる。
数分も掛からずそれは終わり、
「よし。これで少しは練習しやすくなるだろ」
触られた感覚からして私の長髪は三つ編みに。
髪型はポニーテールへ。
「……あ、ありがと」
「それじゃなー」
ようやく振り絞ったお礼はさらりとかわされて、結局何も説明せずに、男は去っていった。
その背中を、何も考えられないまま、私はぼんやりと見送った。
……出来た。
新たな組み木を地に突き立てて、彼女は練習へと戻る。
嵐のように現れ、去っていった男。
それが誰だったのか、どうしてそこにいて、さらに半年もの練習のことを知っていたのか。
未だに謎のままだ。
二年前より幾段と鋭く、重くなった拳を見舞いながら思考する。
こうしていれば、またいつか、あの男が現れるかも知れないと思いながら。
また、褒めてくれるのではないかと期待しながら。
もう彼女の中に、未来への恐れは一片も残っていなかった。
最終更新:2008年05月24日 21:35