「アマレット」



約束があった訳じゃない。

そんなもの一度もした事は無い

する必要も感じない

ただ、彼女には

彼が来るだろうという予感だけがあった。

手首の時計は日付が変わろうとしている事を静かに、だが悲しいほど正確に主張しているが

だからどうした と彼女は思う。

だから、それで。そんなことで

彼女の予感が不安へ変わる事はなかった。

そして、それは確かに正しかったのだ。





/ * /


 その日のクエルクスは、ドアを開けたときに空気の層が変わるのが聞こえるほど静かだった。
勿論そのままの意味ではない。それは彼がそう感じたに過ぎない。
深夜であるが客はいるし、リンネのピアノは静かに彼の耳を心地よく撫でる。
 ただ、酒を飲んで赤くなったり青くなったりする者は無く
室内の空気が深夜の酒場独特のベタ付きを見せていないせいだろう。
その空気は深い青。光の薄い深海を想わせるような静謐さと心地よさにみちていた。


「いらっしゃいませ。かくたさま。」アルバが静かに言い、店の隅のブース席へそっと視線を向ける。


視線の先をみて、静かに頷くかくた。アルバに「ありがとう」と言い
約束をしていない約束の相手の元へと、ためらいなく足を運んだ。

「あと15分遅れてたら帰っていたわ。」深海のお姫様は頬を膨らませながら言う。

 その様子が余りにも可愛いので、思わず頬を緩ませるかくた。
「次からは気をつけるよ」と微笑みながらも、申し訳なさそうな声で言うと彼女の横に座った。

その言葉にお姫様は。坂下真砂は彼以外には見せた事も無いであろう、えへへーな感じの子供っぽい無邪気な笑顔で返した。


/ * /


 少しだけカレンダーの日付を巻き戻して、ひとつ話をしようか。


それは、私と真砂が出会った日のはなし。
まだ冬の寒さ厳しく、雪がごうごうと降る夜のできごと。

 その日は降りしきる雪に大人はため息をつき、子供達は歓声をあげながら外を駆けまわる
夜になっても止まない雪は人々の家路を急がせ、街の店も早々に店じまいをするような、そんな日だった。

 その日も私はいつもの様に、この店で独り飲んでいた。
      • いや。この日に限っては酒に飲まれていた と言った方がいいかもしれない。
それは普段どんな時も、紳士の中の紳士を心掛けている私には似つかわしくない事だった。

 何が私をそうさせた、のか、って?

…そうだな。理由はあったよ。

店には私とアルバさん以外の人間はいなかったし
私の友人の訃報が届いたばかりだった
そのせいか、少しだけ昔の戦場を思い出しもしたし
これからこの国が辿るであろう未来を想うと、気分は鉛色だった。

まぁ、そんな所だったかな。
ホント言えば理由なんてどうだってよかった。
ただ少し休みたかっただけかもしれない。

でも、そんな事はどうだっていいんだ。

この話で大切なのは一つだけ。
その日の私は、普段の良く言えば‘紳士的な’、そうでなければ‘少々堅い’私じゃなかった って事だ。

 ともかく、そういう訳で、あの日の私はいつもの私じゃなかった。
この身と1つに溶け合うほど馴染んだ「紳士」という仮面を剥ぎ取り、「史族」という肩書きをなぐり捨て
ただの『かくた』として、ただ機械的にアルバさんの作る酒を喉に流し込んでた。酒の味なんて分からなかったのに。

普段とは違う私に、アルバさんも口にも表情にも出さなかったが、戸惑ってるようだった。
さすがにこれ以上困らせる訳にはいかない。そう思って最後のカクテルを注文した後だったかな

彼女がドアを開けたのは。

 彼女が、真砂が入ってきた、その一瞬、バーの中が静まりかえった。
ちょうど、指揮者が譜面台をかるくたたいて、指揮棒をあげたときのようだった。
いや、元々静かだったんだけど、私には確かにそう感じられたのだ。

彼女は背の高い、すらりとした女性で、淡い桜色のコートに身を包み
頭にかぶった帽子の中には銀髪が巣の中の小鳥のようにまるまっていた。

 そして、彼女は私から二つ目の椅子に腰をかけた。
彼女は私をちらりと見て、グラスに目を伏せた後、「今日は余り飲む人がいませんね」と言った。
私は霞がかかった頭で、イエスともノーとも取れるような音を漏らしたに過ぎなかった。
彼女は再び私の方を見た。とても大きく吸い込まれそうな瞳だった。
爪は薄い赤に塗られていたが、下品な感じは皆無だった。

ありていに言えば、彼女はまったくすばらしい女性だったのだ。
そばに居ると、からだがしびれるような類の女性だ。

 その後、私達はグラスを傾けながら談笑した。
内容はよく覚えていない。近所に越してきた変わり者の道化師の話かもしれないし、夢で見た空とぶ魚の話かもしれなかった。

ただ、彼女の笑顔と、さっきまでの陰鬱な気分がいつの間にか消し飛んでいた事だけは、今でもはっきりと覚えている。


/ * /


「あの日の貴方、酷かったわねぇ」長い爪でくるくると髪を弄りながら、嬉しそうに言う真砂。

 何度も投げかけられた言葉ではあるが、未だに苦虫を1000匹噛み潰した様な表情で「ぐぅっ」と言うだけのかくた。
あの日以来、彼女には、真砂だけにはミスターホテルマンではなく、素の「かくた」として接している。
というか、素の自分を知る彼女には壮年紳士として接して「へ?なにそれ?」と大爆笑されて以来、そうせざるを得ないのだ。

 そして、彼が苦虫を噛むのは
真砂の言葉の『酷かった』の意図する所が
『クエルクス』での事なのか、その後の事なのか、もしくはその両方なのか。
それすらも分からない故である。

 そう。あの日、あの後、『何があったのか』を、かくたは覚えていなかった。
いや、断片的に特に意味の無い話をした後、彼女を家まで送ったような記憶はあるのだが
自分が、何を喋り、何をしたという詳細がスッポリと彼の記憶から欠け落ちていた。


/ * /

 あの雪の日の翌日、ベッドの上で意識を取り戻したかくたが見たのは、知らない天井
そして、自分腕を枕にすやすやと眠る、昨日知り合ったばかりの女性であった。

 静かに寝息を立てる彼女を見て、良い夢だなと思うかくた。
まどろみに浸りながら、2回、3回、4回、目を瞬かせる。
奇妙な違和感。というか現実感。
痺れて重い手のひらをぐーぱーしてみる。
指がサラサラとした髪に触れ、彼女の規則正しい寝息が少しだけ乱れた。
熱い鍋にでも触れたように、反射的に指を戻すかくた。

 そして、しばしの思考停止。
宿酔の霞でぼやけた頭に、この状況は重すぎた。

(オーケー。少し落ち着こうか・・・先ずは、深呼吸、はマズイな。
そうだ。こういう時は、目を強く閉じて、閉じて、閉じて、開けば!)

やっぱり同じ光景だった。

恐る恐る彼女と自分の姿を確認してみる。

彼女は桜色のコート。自分も見慣れたロングコート。

着衣の乱れは・・・無し。

思わず安堵するかくた。
どうやら彼女を送った後、何かがあって、そのまま2人してベッドに倒れこんだのだろう。・・・たぶん。きっと。

喜ぶべきか悲しむべきかは微妙だが、『酔った勢いで』という間違い、というか犯罪はせずに済んだようだ。

 その後、目を覚ました彼女に対して、彼がどんなリアクションをしたかは・・・まぁ、彼の名誉のために伏せておくが
記憶と一緒に紳士の仮面も何処かに落としてきたらしい。
それは壮年紳士、ミスターホテルマンとは程遠い、完全に素のグルグルな対応であった事は記しておこう。

/ * /

 勿論、かくたとて、あの夜に何があったのか、気にならない訳は無い。
しかし、アルバは微笑しながら「とても楽しそうでしたよ」としか教えてくれないし
真砂に(主にクエルクスを出てから)何があったのかと、それとなく聞いてみたが
「さぁ、どうかしらねぇ~」と意味ありげな表情というか、にゃーんな笑顔で流されるだけであった。

 またその笑顔が、その、なんだ。魅力的だったりするから、彼としては余計気になるというか、困るのである。

 だから、という訳ではないが、そんな奇妙な出会いをした
かくたと坂下真砂は、恋人とも友人とも言えない微妙な関係を続けている。
デートの約束もしないし、同じ天井を見つめる事も無い。
けれど、どういう訳か週に1度は必ずこの場所で出会い、一緒に飲むような、そんな関係。


もっとも二人の楽しんでいる様子を見る限り

この関係は少しずつ変わってきている、の、かもしれない。


/ * /

「ところで、なんで後15分なんだ?」
そう言うかくたに、真砂は唇を尖らせてブーというと

「ていっ」とかくたの額にちょっぷした。

額を押さえ、訳が分からないといった表情のかくた。

そんなかくたを見て、真砂はため息をひとつだけ。
そして、スッとかくたの前に苦心して綺麗に包装した小箱を差し出す。

それを見て、この日が。
あと5分しか残されていない、この日の意味に気付いたのだろう
耳が熱くなるのを感じながら、「あー・・・」と惚けるかくた。

やっと出た台詞は「っと、その。開けていいかな?」

「どうぞ」と真砂。暗くてよく分からないが、彼女も自分と同じような表情に見えた気がした。

中から出てきたのは小さなチョコレート。

所々形が歪なのは、手作り故だろうか。

宝石を扱うような手つきで、ひとつ摘んで口に入れる。それを見つめる真砂。なんかドキドキした感じ。

それは、口に入れた途端にスッと溶け消えて、後から杏仁豆腐の様な甘い香りで満たされる。そんなチョコレートだった。

「あの、すごく美味いね。これ」出てきたのはそんな稚拙な言葉。
普段の壮年紳士なら、もっと気の利いた事を言うのだろうが、今の彼にはこれが精一杯。

その言葉に、いや。その言葉だからこそ、嬉しそうに笑う真砂。

「でしょ?アルバさんに頼んで貰ったアマレットのリキュールを使ってみたの。確か名前はアマレット・ディッサローノ。
ん~、でも喜び方が足りないわねぇ。65点。来年はもっと喜んで100点を目指すように」

その言葉の意味を理解したのか、していないのか。ただ目を見開いて閉口するかくたに

真砂は、この日いちばんの、輝くような笑顔をみせた。


                                     おわり


アマレット・・・イタリア語で『友達以上、恋人未満』の意味

アマレット・ディッサローノ・・・杏が原料の甘いリキュール。別名「愛のリキュール」



(文:槙 昌福)