訃報日記2003:07月〜09月

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【キャサリン・へプバーン】

日記 :: 2003年 :: 07月 :: 01日(火曜日)
キャサリン・へプバーン死去。キャサリン・ヘプバーンとくれば『旅情』を語らねばならないのだろうが、私が学生時代に池袋の文芸座でこれを観たのは、『事件記者コルチャック』のダレン・マクギャビンが出ていると知って、いったいどんな役で、と、それを確認するためだけであったので(もちろん、まっとうに感動もしたのだけれど)、あまり語る資格はない。むしろ、もっと年をとってからの、『オレゴン魂』での気の強いおばちゃん、『冬のライオン』での怖いおばあさん(王妃さまだ)といった役が印象に深い。


【ニカウ】ブッシュマン

日記 :: 2003年 :: 07月 :: 06日(日曜日)
読売では昨日の夕刊、夕刊のない産経では今朝の新聞に、ブッシュマン・ニカウさん死去との報。映画もテレビもなんかあざとくて嫌な気がして、一回も観ていない。ただ、推定年齢が58、9歳で、日本人から言えば短命ではあるが、老衰もせず、病気もせず、薪拾いに高原に出かけて、そこでの自然死というのは、うらやましいくらいの大往生ではないかと思える。80いくつの老人が嫁や孫に殺される事件の報道が相次ぐ中、長生きだけが価値のように言う日本は間違っておるよ。B級映画ファンとしてはこの人が香港で出た『ブッシュマン対キョンシー』とかは是非、観てみたいのだが。


【バディ・イブセン】

日記 :: 2003年 :: 07月 :: 09日(水曜日)
産経新聞に、バディ・イブセン(エブセン)死去の報。6日に死亡、95歳。読売にはこの訃報がなく、載せてくれた産経には感謝したいが、しかし代表作を『ビバリー・ヒルビリーズ』と表記していたのは残念。『じゃじゃ馬億万長者』としなくちゃ、わかる人は少ないのではないか。日本だとせいぜいそれくらいの知名度だが、アメリカでは国民的人気者で、ファンサイトでは“アメリカの象徴、伝説の人物”などと称している。前から言っているように、アメリカというのは田舎者で成り立っている国で、彼らが都会者を右往左往させる『じゃじゃ馬億万長者』(このドラマ自体がアメリカのフォークロアをそのままテレビ化したものだ)は国を代表する番組だったのだ。本人は純朴なジェドおじさんとは異なり歌手、ダンサー、ボードビリアン、劇作家、画家などにも才能を発揮する多才な人物だったらしい(『オズの魔法使い』でバート・ラーが演じた泣き虫ライオンは、本当は彼がキャスティングされていたのだが病気で降板したとか)。後年演じた『名探偵バーナビー』では一転、知的な探偵役を演じていた。引退した探偵が、息子を殺されたことで再び復職し、息子の若い未亡人を助手に悪にいどむ、という役柄で、アメリカでは7年も続いた人気番組(コジャックでも5年である)だった。この義理の娘役が『バットマン(ムービー版)』でキャットウーマンを演じたリー・メリウェザー。凄いコンビだね。


【小松方正】

日記 :: 2003年 :: 07月 :: 12日(土曜日)
朝刊には載っていなかったが、ネットで小松方正の死去を知る(夕刊にあり)。演技ばかりでなく顔も体も、存在すべてが名優の名に価した役者、とは思うが、訃報を聞いて真っ先に思い浮かんだのが『電撃! ストラダ5』の冒頭で殺されてしまう主人公の父親の刑事役だったというのはなんでか。あと、『美人はいかが?』のお父さんとか、ゲバゲバ90分で“タメゴローの次にうけた男”と言われた喜劇演技とか。『絞死刑』とかは誰かがもっとまっとうな映画関係のところで評価するからいいだろう。と、いうより、私はあの映画を前半のドタバタ不条理喜劇のところしか評価したくない(後半に例の“ヨカチンチン”があるけれど)ので、そこでは小松方正、ほとんどしゃべっていないのである。
「芸者の“芸”の字と人足の“人”の字、あわせて“芸人”である」(小松方正)


【坂口祐三郎】

日記 :: 2003年 :: 07月 :: 15日(火曜日)
読売の朝刊に坂口祐三郎死去の報。61歳とはまた若い。尤も、数年前から生まれ故郷の九州に帰っていたというから、俳優業はほとんど廃業していたと言っていいだろう。新聞にも『赤影』のことしか書いてなかった。新撰組血風録とか、水戸黄門とか、キカイダーとか、桃太郎侍とか、土ワイとか、必殺シリーズとか、探すとちょこちょこ出ているんだが。『壬生の 恋歌』では桂小五郎役だったな。
子供の頃からワキ好みだったんで、赤影も敵方の忍者ばかり見ていて、主役はほとんど注目していなかった。大学一年あたりで、つきあっていた女の子が“でも、あの坂口祐三郎って絶対ヘンだよー、首筋がやけに細いしさー、目キラだしさー、唇色っぽすぎるしさー”と熱心に主張してから、そうかと思って改めて見てみると、なるほど、これはヘンだった。役者においてヘン、というのは褒め言葉である。ああいう、中性的な魅力というのは、現代だったらもっとさまざまなドラマに応用が効いて用いられていたのではないか(竹内義和氏は赤影はホモ人気に支えられていたと主張している)。また、一時ライターに転業し、東スポにナンパ記事や玉門占いなど書いて、東映の先輩に怒られたりしたらしいが、これだって今ならもっと話題になり、バラエティ番組などに用いられていたろう。時代が早すぎた、のかも知れない。ちなみに、ワープロで“あかかげ”と打ったら、“赤陰”と出た。玉門占いならこっちの名前の方がよかったか。


【ジョン・シュレシンジャー】

日記 :: 2003年 :: 07月 :: 27日(日曜日)
朝刊でジョン・シュレシンジャー監督、『南京大虐殺のまぼろし』の鈴木明氏の死去を知る。シュレシンジャーと言えばオクスフォード大出身のインテリ監督で、『真夜中のカーボーイ』『イナゴの日』『日曜日は別れの日』など、人間ドラマを、常に哀しみの目を持って描く人……とされているが、実はそれ以上に映画マニアで、映画大好き、といった子供っぽい感覚を多く有していた人ではなかったか。『真夜中のカーボーイ』の冒頭、セックスシーンでテレビのリモコンのスイッチが押され、いろんな番組が次々登場する(スカイドンが出てくるのが有名だがジャミラらしい足も一瞬出てくる。どちらも実相寺!)お遊びでもわかるし、『マラソンマン』でかのオリビエに演じさせた、映画史上に残る悪役“白い天使”ゼルの描写なども、彼が背負っているナチズムの烙印なんて深い設定を軽く飛び超え、個人的スーパー・ヴァリアントとしてのカッコよさを徹底して目立たせてしまった。テーマ好きストーリィ好きな、頭の固い映画ファンが怒る部分なのだが、私のような、ただ単にオモシロイもの好きな馬鹿にはたまらない、オシッコもらしそうになるほどのほれぼれとする大悪党ぶりで、監督の“映画好き”を再確認したことだった。そう言えば話題にもならない作品だったが、邪教集団から我が子を守るために戦う父親(マーチン・シーン)を描いた『サンタリア・魔界怨霊』という作品もあった。この作品の原題は、と学会ファンに はうれしい『ザ・ビリーバーズ』なのである。


【鈴木明】

日記 :: 2003年 :: 07月 :: 27日(日曜日)
一方の鈴木明氏は、訃報には『南京大虐殺のまぼろし』のことが大きく扱われていたが、個人的には『リリー・マルレーンを聴いたことがありますか』がベスト。万博会場で聴いたディートリッヒの『リリー・マルレーン』に魅せられ、その曲のルーツを訪ねてはるばる東西ヨーロッパを経巡り、ついにその作曲者ノベルト・シュルツェに邂逅するまでを描いた壮大な探訪の記。もともとは軽快なマーチ風の曲であったリリー・マルレーンは、アフリカ戦線で多くのドイツ軍兵士たちに愛唱され、その放送を傍受した連合軍兵士たちにも熱狂的に愛唱され、さらに連合軍の兵士たちを慰問したディートリッヒによって歌われ、次第に第二次大戦全体を象徴するような、重く、深い歌へと変化していった。その過程をたどる、時間と空間を隔てている空白をひとつひとつ埋めていく実証的かつ壮大な筆致は、読んだ当時、いろいろ事情があって精神的にやさぐれていた私に、ひさびさに “ロマン”という言葉を思い出させてくれた本だった。例の『南京大虐殺のまぼろし』で鈴木氏を“大東亜戦争肯定の右翼論者”などと表現する人々がいまだにいるが、彼がそんな単純な動機であの事件を調べ始めたわけでないことは、実際に彼の本を読めばよくわかる。そこにあるのは、とにかく歴史の空白を埋めたいという、知的探求者の衝動なのである。


【ボブ・ホープ】

日記 :: 2003年 :: 07月 :: 29日(火曜日)
新聞にボブ・ホープ死去の報、100歳。最後に姿を見たのは『スパイ・ライク・アス』のカメオか。ところで、ボブ・ホープの作品はわれわれテレビ世代には柳沢真一の吹き替えでお馴染みなのだが、柳沢氏はまだご健在なのか。『スパイ・ライク・アス』のときは一言、セリフがあった筈だが、テレビではあれは誰が吹き代えたのだろう。……ちなみに、わが家にはボブ・ホープのフィギュアがある。『GIジョー』の第二次大戦シリーズの一環で、前線慰問に回っていた時のものである。
ボブ・ホープと言えば戦後のポピュラーヒット第一号の“バッテンボー”で有名だが、 “buttons and bows”をバッテンボーとは、よく当時の日本人も耳に取ったりな、という気がする。時代ならではで、戦後のヒアリング授業に慣れたこちらの耳には、ホープの歌もダイナ・ショアの歌もどちらを聴いても、せいぜいが“バッゥアンボウズ”としか聞こえず、しかしバッテンボーという、目にも耳にもユーモラスな語でなければ、あそこまで当時の日本で人口に膾炙したかどうかは疑わしい。“♪にぎやかなバッテンボー、指輪に飾りにバッテンボー”という、語呂だけで意味不明な歌詞の日本語版を歌ったのは池真理子だが、昭和40年代、懐かしのメロディというような番組で、この池真理子がこの歌を歌っているのを見た母親が「あら懐かしい! ベッテエ・ブープ!」と大声を上げた。丸顔で短髪で、大きな耳飾りをつけている彼女のことを、母方の祖父がベッテエ・ブープとあだ名していたのだそうで、ベティさんでもベティ・ブープでもない、さらに一時代前のベッテエという呼称が、いかにも彼女の容姿にピッタリしていた……と、思い出はどんどんボブ・ホープを離れていってしまう。


【竹田千里】

日記 :: 2003年 :: 07月 :: 31日(木曜日)
元東京医科大教授・竹田千里氏死去。喉頭癌で亡くなった池田勇人首相の主治医。確か『ガン回廊の朝〜わが首相のベッド』という読売テレビ製作のドラマで、丹波哲郎が彼の役を演じてなかったか(がんセンター局長の久留勝役か?)。このとき池田勇人役は芦田伸介、大平正芳を岡本喜八映画でおなじみの小川安三が演じ、“アー、首相の、容態は、ウー、どうです”とそっくりさん演技でやっていた。変なことを覚えている ものである。


【沢たまき】

日記 :: 2003年 :: 08月 :: 09日(土曜日)
新聞には間に合わなかったようだが、テレビで沢たまき死去のニュース。中野貴雄監督がらみでプレイガールのビデオなど見返したばかりだったので驚く。個人的には『独占! 女の時間』での大姐御ぶりが印象に極めて深い。女性恐怖症を引き起こしかねないくらいであった。ご冥福をお祈りする気持ちにウソはないが、しかし、以前に選挙に出たときの、八代英太とのミもフタもない妨害合戦が面白すぎた。八代側は選挙区に“公明党はオウムと同じ”というビラをまき、沢陣営は八代英太の選挙ポスターの目をくり抜く、という嫌がらせに出た。八代陣営は、それならと八代英太のポスターの下に、池田大作のポスターを重ねて、その目の部分がちょうど合致するように貼ったという。すると、さすがに学会員はやはり会長さまの目をくりぬくことは出来ないらしく、この妨害はパッタリやんだとか。……何か、カラス撃退法みたいなエピソードであったな。


【グレゴリー・ハインズ】

日記 :: 2003年 :: 08月 :: 12日(火曜日)
新聞にグレゴリー・ハインズ死去の報。彼のタップが好きだったか、と言われるとうーむ、と首を傾げるが、80年代の彼の出演作は日本公開されたものに関しては『ウルフェン』(凡作)から始まって『珍説世界史パート2』(まあまあだがハインズのエピソードは面白くなし)、『コットンクラブ』(まずまず)、『ホワイトナイツ』(なかなか)など、ほぼ観ていて、スターの階段を駆け上がっていく状態(まさに『コットンクラブ』状態)を、リアルタイムで追いかけていたので、印象に深い俳優である。なぜ彼のタップが好きとストレートに言えなかったかというと、私にとってタップとはアステアの洗練されたシアター・タップだったわけであり、ハインズのワイルドなタップにはちと、なじめぬものを感じてしまったのだった。ハインズ自身、自分の先達はアステアよりもダイナミックなジーン・ケリーの方だと思っていたのではないだろうか。ジーン・ケリーのAFI功労賞受賞記念番組に出演したハインズは、ステージに上がり、“偉大なるジーン氏に、私のハートと、両脚から、最高の感謝と尊敬を捧げます”と挨拶し、タタタン、と一瞬だけタップを踏んでみせた(記憶だけで書いているので違っているかも知れないが)。その“粋”な姿が最も 印象に残っている。


【ジャック・ドレー】

日記 :: 2003年 :: 08月 :: 12日(火曜日)
そう言えばジャック・ドレーも死んでいた。『ボルサリーノ』のラスト、ベルモンドの死に方を見て、ああ、やっぱり粋に死ぬ芝居はベルモンドが一番だなあ、と感心しました。なぜか日本ではアラン・ドロン主演というだけで、『太陽が知っている』とか、『友よ静かに死ね』とか、過去のヒット作の二番煎じ的なタイトルをつけられて公開されて、気の毒であった。配給会社に才能を認められてなかったということだ ろうか。


【戸部新十郎】

日記 :: 2003年 :: 08月 :: 14日(木曜日)
戸部新十郎氏死去、77歳。いわゆるクラブ雑誌作家の一人。クラブ雑誌というのは戦前から戦後にかけてゾロゾロと刊行された、娯楽読み物雑誌群で、『面白倶楽部』だとか『講談倶楽部』、『探偵倶楽部』、『傑作倶楽部』など、“クラブ”と誌名につくものが多かったのでそう総称された。罵倒癖のあった百目鬼恭三郎などには、クラブ雑誌小説というのは“読者に頭を使わせずに、低俗な欲求を満たすことだけが要求され、従って文章は下品でなければならず、登場人物は紋切り型で、月並みな行動パターンと、必然性のないご都合主義の筋書きに乗って動くのが特徴”であると、これ以上ないというくらいひどい表現で説明されている。大衆娯楽小説の復権とかが叫ばれているコンニチでは、まさかここまでひどいことを言う人もいないだろうし、その多作性、通俗への徹底性こそが “時代の欲求に応える”プロのテクニックを持っていた証拠、と言えるだろう。が、しかし、それでもクラブ雑誌から出て一頭地を抜いた作家たちの持っていた強烈な個性、例えば山田風太郎の奇想とか、柴田錬三郎のダンディズムとかいう“ウリ”が、戸部氏の作品には欠けていた。直木賞候補にまでなる筆力を持ちながら、氏がいまいち知名度という点で劣ったものがあったのも、あまりに大衆の欲求に合わせることばかりに徹しすぎた作家の悲哀であったかも知れない。…… ところで、クラブ雑誌の最後の生き残りと言われていたのが桃園書房から出ていた『小説CLUB』であった。私はここに、7年もの間エッセイを連載していたし、短編小説も一本発表している。私もまた、クラブ雑誌作家の末席に名を置くことが出 来ると思うと、ちょっとうれしくなる。


【アミン】元ウガンダの人喰い大統領

日記 :: 2003年 :: 08月 :: 21日(木曜日)
この日記に書き忘れていたが16日に元ウガンダの人喰い大統領、アミンが死去。80才。大正14年生まれ、と書いてあったサイトがあったが、そう考えると、いい歳であった。猪木と異種格闘技戦(このときはアミン自身がレスリングで戦う、と言っていたので厳密に言えば“異種”ではない)の話があった(政変で流れた)が、あのときすでに53歳であったか。コミケで奥平くんが“アミン追悼企画をどこかでやらなくちゃ”とはしゃいでいたが、まさにわれわれの世代における一個の“異人”であった。われわれがいま現在、呼吸して生きているこの世界が、自分たちの矮小な常識で判断できるような、一筋縄でいくものものではないということを認識させてくれたという意味で、大きな存在だったと思う。
アミンが人喰いと呼ばれるのは、政敵であるマイケル・オンダンガ外相の死体が発見された(1973年)とき、その肝臓が抜き取られていて、食べられたらしい痕跡があったためだが、アミン大統領の出身部族であるカクワ族の間では、殺した相手の肝臓を食べればその怨霊にとりつかれない、という言い伝えがあったらしい。案外迷信深い質だったのである。ちなみに、フルネームはイディ・アミン・ダダ・オウメ。ダダてのも凄いな。長いことウガンダ経済を支配していたインド人を追放して主権をウガンダ人に戻すなど、功績も多々、あった政治家だった。

【穂積由香里】

日記 :: 2003年 :: 09月 :: 02日(火曜日)
新聞に訃報記事が二つ。チャールズ・ブロンソン81歳、穂積由香里(『積木くずし』のモデル)35歳。穂積由香里に関しては、やはりドラッグで肉体を痛めつけると早死にするなあ、という感想。父親の穂積隆信自身が、『積木くずし』ブームで金が入って、すぐに女をこさえてしまったりして、俳優だから仕方ない部分があるとはいえ、父親としては失格(俳優としてはかなり好きな方なのだが)だった。本人があまりに強く父親への反発心を持ち、自分を破滅させることで復讐を遂げた、という感じがして仕方がない。これは私見だが、親子が徹底して反発しあってしまった場合、娘と母、息子と父という組み合わせはまだ後に修復が効くけれども、娘と父、息子と母というのはもう、骨がらみで一生どうしようもない場合が多いような。手元にある『キネマ旬報日本映画俳優全集』79年版の、穂積隆信の項目の末尾“65年結婚、 一女あり”の記載が悲しい。


【チャールズ・ブロンソン】

日記 :: 2003年 :: 09月 :: 02日(火曜日)
チャールズ・ブロンソンに関しては、もう81歳か、と驚き、マンダムのCMをわけもわからずに真似していたあの時代の遠く去ってしまったことをしみじみ想う。それにしても、どうしてあの当時の日本人は、ああまであのCMにハマってしまったんだろう? 今から思っても異常な浸透の仕方であった。醜男であってもカッコいい、という存在がいることを、日本人が初めて知った(いることは理解出来ても実例がなかった)、その文化的ショックなのかも知れない。その一点で、クリント・イーストウッドだとか、ポール・ニューマンだとか、スティーヴ・マックイーンだとかとは比べ物にならない強印象をわれわれの世代に残していった俳優なのである。アラン・ドロンとの共演が有名だが、もう一人、彼とは名コンビだった俳優がヴィンセント・プライスで、『肉の蝋人形』『空飛ぶ戦闘艦』で共演しており、『空飛ぶ……』では頼りになる男役だったが、『肉の……』ではマッド・サイエンティストならぬマッド・アーティストの唖の召使い役、名前がもう、そういう役ならこれ以外ないでしょうという、“イゴール”であった。


【青木雄二】

日記 :: 2003年 :: 09月 :: 06日(土曜日)
朝刊に『ナニワ金融道』青木雄二氏死去の記事あり、驚く。58歳、まだまだ死ぬ年齢じゃない。98年にまだ私が手塚治虫文化賞選考委員だったとき、優秀賞を受賞して大阪から上京し、舞台挨拶したのを同じ壇上の選考委 員席(つまり背中から)見ていた。
「ゆうべの晩、大阪の自宅でワシの頭の中に響いておりましたのは、村田英雄の『王将』の、“明日は東京へ出てゆくからは、何が何でも勝たねばならぬ”という文句でありまして、決意を新たにしたわけでありますが、しかしよく考えてみますと、受賞はもう決まっているわけでありまして、行けばくれるのはもうわかっておるんでありまして、勝たねばならぬと気張らんでも別によかったわけで……」
 と、これをどうもギャグでなく素でしゃべっているらしくて、大阪人の自己表現スタイルの凄さよ、と感心したのを覚えている。この受賞を本当に喜んでいるらしく、上機嫌のあまり、あれだけブチ殺すとかいきまいていたいしかわじゅんとも仲直りし てしまったほどだった。
『ナニワ金融道』については、ストーリィには講談社の編集の手がだいぶ入っているらしいが、私にとってはそんなことはどうでもいい。そもそも、金貸しの話などというものに、あまり興味はなかった。私がはじめてあのマンガを読んで仰天したのは、その、表現というか構成というか、いわゆるマンガはこびが、それまでの、手塚治虫が手本を示し、石森章太郎が理論化した現代における“マンガの描き方”を一切、無視した(と、いうか知らなかったのだろう)ものであったことだった。「おい灰原、これをあの家に届けてくるんや」「はい、わかりました、これをあの家に届けるんですね」この二つのセリフに二コマかけて、しかも、そのコマ同士の構図や人物配置は全く同じなのである。無駄なコマを使うな、コマごとの構図は変化させて読者を退屈させるな、表現は説明口調でなくソフィスティケートさせろ、等々、われわれ『マンガの描き方』世代の“常識”を一切守らず、しかも、その表現が呆れるほど面白かったのである。当時、徳間書店の『少年キャプテン』誌の編集者だった(現・SFジャパン編集長の)Oくんに「ヤーイ、あんた方編集の言っているマンガのセオリーが一切ムダになった」と言ったら憮然とした顔で、“ソンナことはないです、いまにあのマンガは破綻しますよ”と口をとがらかしたが、破綻もせず最後まで描き切ったのはお見事というしかない(もっとも、後半手慣れてからはかなり普通のマンガぽくなった)。手塚治虫がたぶん、最も自分から遠いと思ったであろう内容の作品で手塚治虫文化賞をとると いうのも皮肉な受賞であった。


【レニ・リーフェンシュタール】

日記 :: 2003年 :: 09月 :: 10日(水曜日)
新聞にレニ・リーフェンシュタール死去の報。101歳。リーフェンシュタールの評価として私が鮮烈に覚えているのは、二十代の半ばくらいに読んだ、現代教養文庫『ベストワン事典』(W・ディビス編、1982)におけるもの。この本は、映画や小説、アニメから絵画彫刻俳優、さらに日用品まで、全てのものの“質”におけるベストを独断してしまおうという無謀なことを敢えてした本であったが、その中の“宣伝映画のベスト”として挙げられていたのが、彼女のナチス宣伝映画『意志の勝利』であった。そして映画担当の筆者アレクサンダー・ウォーカーは言う。「ベストというカテゴリーには、よく考えてみれば道徳というものは含まれません」この一文が当時の私に与えた影響というのがいかに大きかったか。実際、その当時は、『機動戦士ガンダム』を“戦争の悲惨さをテーマにしているからいい作品だ”というような評がまかり通っていた。そうではない、アニメを批評するのに作画や演出技術、キャラクター設定という基本的なものをなおざりにして思想や哲学なんてものを基準にしてどうする、と、大向う相手(本当に衆寡敵せずという感じだった)に論陣を張った、その(大げさに言えば)思想的バックボーンになったのがこのリーフェ ンシュタール評価だったのである。
そして、ウォーカーによるこの文章の末尾の一文。「(この映画は)悪は平凡である、という信念を根底からくつがえします」彼女が戦後、長く“評価せざるべきもの”とされていたのはまさに、彼女の映像の持つ、この恐るべきパワーによるものであって、逆に言えばそれは彼女の勲章であったのではないか。ちなみに女史は佐川一政氏あこがれの人だった。彼女のきわだったエリート的自尊精神は佐川氏の美学にまさに一致していたが、それ以上に“過去の犯罪行為により、その才能を無知な世間に押しつぶされている”というイメージが、佐川氏に(あくまで氏の内部で、であるが)自分との同一性を感じさせていたのだろう と思う。


【エドワード・テラー博士】

日記 :: 2003年 :: 09月 :: 11日(木曜日)
新聞に“水爆の父”エドワード・テラー博士死去の報、95歳。ハンガリー出身で、母国名テッレル・エデ。ハンガリーは日本と同じく、姓の後に名がくるのである(5へぇくらいか?)。
水爆の父、という称号を彼は嫌がるどころか、生涯、誇りにしていたらしい。なにしろ、科学が現代のように人類をおびやかす脅威ではなく、未来への希望、人類の発展という言葉と100%結びついていた時代に生きていた人である。彼がどれほど科学を純粋に信奉していたかは、自分の息子に、“アストロ”という、鉄腕アトムか、というような名前をつけたことでもわかるだろう。ちなみに、このアストロ・ボーイならぬアストロ・テラー氏も当然科学者になって、今、人工知能の研究をしているそうだ。……だって、こんな名前をつけられたら、科学者になるしかないではないか。
親父のテラー氏の研究への没頭ぶりは、『カール・セーガン科学と悪霊を語る』に詳しい。自分の作った水爆の平和利用を熱心に唱え、港や運河を造ったり、山を除去したり、大量の土砂を片づけたりするときには核爆弾を使用したらいいとか、一般相対性理論の証明には太陽の向こうで水爆を爆発させればいいとか、月の化学成分を調べるには、月面で水爆を爆発させ、その閃光と火の玉のスペクトルを調べればいいとか、実にもう、うれしくなるほどのマッド・サイエンティストぶりである。その極めつけが彼と宇宙人の結びつきで、宇宙人来訪説信者には、エリア51でテラー博士は宇宙人J−RODと何度も対談した、と信じられている。彼が伝説の科学者であればこそこういう話も生み出されるのだろう。トンデモ科学者自体が、最近は小粒になってきてしまったなあ、という感じである。
日記 :: 2003年 :: 09月 :: 13日(土曜日)
訃報がらみで、一件訂正を。一昨日の日記で、エドワード・テラー博士の息子の名を“アストロ”と書いたが、あれは孫の間違い。で、アストロ・テラーのアメリカのバイオグラフィサイトを読んだら、そのアストロという名はアストロノーツなどとは関係なく、サッカー少年であった子供時代に、髪を短髪に刈り上げていたのが人工芝(アストロターフ)に似ていたのでチームメイトから呼ばれていたあだ名を、自分の名にしてしまった(両親がつけた名前はエリック)のだという。野球少年でアストロ ならアストロ球団か、とも茶々を入れられたのだが。

【ジョニー・キャッシュ】

日記 :: 2003年 :: 09月 :: 13日(土曜日)
朝刊にジョニー・キャッシュ死去の報。あのボブ・ディランをも小僧扱いしたという超大物歌手なのだが、日本での知名度はどれくらいなのか。産経は読売の倍の行数で業績を伝えていたが、読売はちゃんと“『刑事コロンボ』にも出演”と書いているのがエライ。彼の演じた犯人は、『別れのワイン』のドナルド・プレザンスと並ぶ、“被害者より可哀想な加害者”の代表格だった。……ところでネットで調べたら、この人、なんと日本映画に出ているのであった。『海嶺』という、日本聖書協会協力の文芸映画(西郷輝彦主演)である。1983年公開。バブル前期の景気のよかった日本映画界を象徴して いるなあ。


【グレート・アントニオ】

日記 :: 2003年 :: 09月 :: 14日(日曜日)
『サンデー・モーニング』で、“密林男”グレート・アントニオが8日(日本時間9日)に死去していたことを知る。享年77歳。昔(私の記憶でもかなり昔)の少年誌には、よくこのグレート・アントニオがバスを引っ張っている写真やイラストが載っていたものである。純朴だった当時(60年代はじめ)の日本人には大人気もので、その人気をねたんだカール・ゴッチやビル・ミラーなどガチンコ派にボコボコにされてカナダへ逃げ帰り、よせばいいのに77年にも来日、やはりそのころガチンコ勝負で人気をとっていた猪木に顔面キックを喰らって鼻を骨折し、わずか229秒でノックアウトされた(“秒殺”だとか当時のスポーツ新聞に書いてあったが、229秒ってことは3分49秒で、秒で換算すりゃなんだって秒殺になるじゃねえか、と読んで思った)。この試合は見ていて、猪木の容赦なさばかりが目立ち、どこか自分の心の中にあった猪木嫌いの心情を再確認したものだ。ミスター高橋も『流血の魔術・最高 の演技』の中で
「彼は、こと観客動員ということについては、立派な貢献をしてくれていたのだ。あんなことをしていい理由はどこにもない」
 と、厳しく猪木を批判している。晩年は地下鉄の中でエンピツを売っていたというから、まあ乞食をしていたということだろう(あのエンピツは金を払ってもとっては いけないのだ、と星新一が書いていた)。寂しい話だなあ、と思う。


【河原崎長一郎】

日記 :: 2003年 :: 09月 :: 21日(日曜日)
河原崎長一郎氏死去の報が新聞に。64歳。脳梗塞で倒れたと聞いたのはもう何年前であったか、まだそのときは50代であったはず。その後も糖尿病の合併症などで半身不随の状態だったらしい。惜しい、とはまさにこのような人に言える言葉だ。倒れる寸前はまさに日本で一番存在感のある性格俳優の一人だった。大ファン、と言っていい人だったと思う。多少回りくどい言い方だが、何故かというと、とにかくこの人、サスペンスものなどで情けない被害者の役をやらせるともう抜群で、いわゆる普通の“カッコいいからファンになる”という心理とはまったく違っていたから、である。タイトルも何も忘れてしまったが、その類の一本で、事業に失敗し、自分が死んでその保険金を家族のために残そうとする中小企業の社長の役を演じていた。自殺では保険金が下りないので、自分が被害者になる偽装殺人の準備を思い詰めた表情で、しかし淡々と進め、アリバイ作りもきちんと済ませた後、妻にロープを渡し、これで自分の首を絞めろと命ずる。妻が、“いやっ……できない……”と拒否すると、“馬鹿ッ。これまでのことを思い出せッ。……オレのために、お前たちがどんなに悲惨な目にあってきたかを……”と怒鳴る。涙にくれながら妻は夫の首にロープを回し、必死の思いで絞めるが、絞めているうち本当に、うらみの表情がその目に浮かび、その手に力がこもり、夫のぐうーっという断末魔の声が……という、こんな役を演じて、それが魅力的だったんだから、不思議な人気俳優だった。こういうマゾヒスティックな役が好きなのかしらん、と思ったものだ。
知的な風貌で、その気になれば知性派悪役も充分に務まる人であり、その代表作がNHKで放映された柴俊夫主演の『新・坊ちゃん』における赤シャツだったろう。自分の出世のために、軍需産業に関係する地元の有力者(伊藤雄之助)に接近、その娘であるマドンナ(結城しのぶ)を婚約者うらなりから横取りし、校長のたぬき(三國一朗)も追い落として、卒業式で教え子を戦場に送り出す演説を堂々と行う、という冷酷な権力崇拝者の教頭を見事に演じていた。似たようなタイプの俳優に米倉斉加年がいる(彼も当然、赤シャツを演じたことがある)が、米倉がまず、弱者の役は演じないのに対し、河原崎長一郎はその両極端を演じることの出来る分、幅の広い役者であった。こういう情けない役が定着したのはニュー東映の最高傑作、いや、人によっては日本時代劇の最高傑作に挙げる一本である倉田“赤影”準二監督の『十兵衛暗殺剣』における、柳生の一門・城所早苗役からだったかも知れない。役名からして早苗などと女々しいが、将軍家指南役の座を奪おうと柳生但馬守の道場を近江柳生の一党幕屋大休(大友柳太朗)の一団が襲ったとき、一人だけ逃げて助かり、そのために一門から臆病者よばわりされて大いに傷つき、汚名返上のために、大友柳太朗を追う十兵衛(近衛十四郎)の一行に加わろうと後から追いかけ、そこで出会った大友柳太朗に必死に戦いをいどむが、子供扱いされて、ほとんどなぶり殺しに殺されてしまう。凄く強い奴がさらに強い奴に次々殺されていく、というこの映画の中で、唯一“徹底して(腕も心も)弱い”役柄であり、それだけに見ていたこっちに極めて強烈な印象を与えた。この映画が1963年公開であり、河原崎長一郎23歳。その後の役柄を決めたかも知れない。翌年公開の『幕末残酷物語』では沖田総司役という、“強い”役もやっているのに、そっちでは全然印象が薄かったのである。


【夢路いとし】

日記 :: 2003年 :: 09月 :: 30日(火曜日)
一昨日、談之助さんとのライブ中に、お客さんから夢路いとし死去の報を伝えられたのだった。昨日の朝は新聞でその記事を読んでいた。あの二人のキャッチフレーズの“生まれたときから兄弟で、それからずっと兄弟で、今でもなぜか兄弟で……”という文句を、小学生のとき、われわれ兄弟も真似して兄弟揃っての自己紹介のときに使っていたものだ。ダイマル・ラケットの漫才におけるボケとツッコミの対立が、時に凄みまで感じさせるものだったのに対し、いとこいの漫才はその対立にどこかにほんわかとしたところがあって、これは兄弟ならではの味だったのだろうか。無理な比較とはわかっているが、あえて言えばダイラケは談志、いとこいは志ん朝という芸風であった。


【ドナルド・オコナー】

日記 :: 2003年 :: 09月 :: 30日(火曜日)
その記事に比べれば小さく、同じ日にドナルド・オコナーの訃報もあった。私は、『雨に唄えば』はジーン・ケリーよりも絶対オコナーの方が贔屓なのである。アメリカでは彼の出世作はしゃべるラバ(ロバとなっている資料もあるがラバが正しい)、フランシスとコンビ(?)を組んだシリーズで、1949年から6本(7本という資料もあるが最後の一本はオコナーでなくミッキー・ルーニー主演)作られ、『雨に唄えば』を中にはさんで6年続いたこのシリーズは、アメリカ人にとってはそれこそ、大阪人にとっての吉本新喜劇みたいな位置づけにあるシリーズらしい(無名時代のクリント・イーストウッドもこのシリーズの中の一本に出演している)。B級映画マニアのジョン・ウォーターズが『クラックポット』(徳間書店)の中で、このシリーズの関係者を追いかけるというインタビュー記事を書いており、オコナーのところにも行っている。オコナーはフランシスを懐かしがって、「見つけたら連絡をくれと言っておいてくれ。また一緒にやりたいから」とジョークを言っていた。


最終更新:2010年03月05日 18:49
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