アドレナリン

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1999年11月26日(金曜日)

以前のこの日記にも書いたが、私は原稿を書くときは原則としてテンション上げて書く派、である。書いているうちにアドレナリンがどんどん分泌されてきておうおうおう、とか言いながら書き進むのが理想である。書いていての快感がとにかくある。しかし、この方法でいくと、テンションが肉体的に上がらなくなったが最後、一枚も書けなくなる可能性がある。今日聞いた話では女流作家のKは徹底したテンション下げ派のようだ。それだから一日何十枚というノルマを淡々とこなせるし、書いた原稿にまず、ゲラ段階で手を入れるとか単行本にする時点で書き直すということもないという。誤字脱字もほとんどないとか。テンションを低く保っているから、書きながらチェックができるのだろう。テンション下げて原稿を書く技術も、そろそろマスターせねばならないトシかも知れない。

2000年02月18日(金曜日)

で、本番。オレはライブ人間だな、と思うのは、本番になるとアドレナリンが射精のように噴出して、急にシャキッとなることである。特に今日はリハで失敗しているし、“マシンガントークのカラサワさん”などと紹介されているので、全速力でトバす。当社比15パーセント増しの早口で、脇の女性陣が呆れて“倒れませんか?”と心配した。しかもトチリによる撮り直しナシ。私は早口であればあるほどしゃべりやすい人間なのである。アナウンサーやっている子に“なぜそんな早くしゃべって文法が正確なんですか”と大感心された。早口と文法は関係なかんべえな。

2000年08月22日(火曜日)

7時半起き。なにげなくカレンダーを見て、寝惚けていたのか、今日を水曜と思い込み、昨日ロフトをスッポかしていた! と、青くなる。いろんな人に対する陳謝と言い訳がダダダダ、と一瞬にして頭の中で創作、分類、整理されるのだからアドレナリンって大したもの。カン違いとわかって一気に気が抜ける。

2001年01月18日(木曜日)

朝8時起き。朝食はまたチリコンカン、それにミカン一ヶ。食ってすぐ、薬局新聞を一本。いろんな予定がひしひしと迫ってきて、や や脳内アドレナリンが大量分泌

2001年04月05日(木曜日)

もっと練習をすべきなのだが、原稿読み、2回半くらいで放擲。徹底して練習するのが本来なのだろうが、私は基本的にアドリブ人間で、完全な練習というのが出来ない。意識下では、完全に練習することで自分の芸の未熟さや才能のなさを自覚するのがイヤなのかもしれない。で、“練習不足では不完全な出来でも仕方ない”と自分に言い訳をしているのかもしれない。しかし、一発本番というのはアドレナリンがワッと分泌され、快感であることは快感なのである。そのため、故意に練習中は全力を出さない、という部分もある。完全練習型の人とはどうもそこらへん、ソリが合わないようで、以前、パントマイムの吉沢忠さんと銀座小劇場の舞台に立ったときは、練習中、忠さんに“お願いですから台本を覚えてください”と泣かれたものである。忠さんは、徹底練習人間なのだ。で、本番をなんとかアドリブで無事こなした後、忠さんに、“なんでそれを練習でやってくれないんですか”と、また怒られた。本番で全力出したんだからいいじゃないか、というリクツは、練習派には通じないらしい。

2001年06月03日(日曜日)

電話するとき、K子に“電話番号わかるかな?”と訊くと、“キミは昨日、メモしていた”と言われる。メモ帳を見てみると、確かに書いてある。まるで覚えがない。無意識のうちに二次会に頭を悩ませていたものと見える。ここでも何か狂躁的盛り上がりで、ありとあらゆる話題でワヤワヤと。モツ鍋とチャンポン、焼酎水割り。大いにアドレナリンを放出した。二次会で初代事務局長のKさんに、“しかし、よくここまで大きくなりましたねえ。覚えてますか、カラサワさん、と学会を創設するとき、「大丈夫、こんな変な趣味持っているヤツなんて、日本に二○人いるかいないかだから」と言ってましたよ”と言われる。そうなんだよ、日本にそんなヘンな奴らがこんなにいるとは思ってもいなかったのだよ。

2001年11月24日(土曜日)

と学会とこの深夜ライブの連チャン、どちらも会場と家が至近であったから出来たようなもの。一時間ほど横になり、6時半、起き出して出発の用意。何かアドレナリンが分泌されそうなハードスケジュール。ぶっ倒れぬよう、麻黄附子細辛湯、アリナミン、それに救心という組み合わせのテンションアップ用薬をのむ。

2001年12月07日(金曜日)

朝から原稿、SFマガジン。50枚の枚数を足りない、と感じるのはいいことなのか悪いことなのか。S編集長からは、小説・コラムに加え、さらに書評の依頼まで来た。脳内アドレナリン出ずっぱり。昼飯食い損ねる。

2002年04月01日(月曜日)

家をまた出て新宿ロフトプラスワン。
7時半、開演。開場は以前のようにギチギチではないが、ほぼさっくり満員。二日連続公演の、今日は初日でネタ編ということだったが、久しぶりのアミーゴスなので話がはずみ、それがまたクイツキがいい。
テンションあがってアドレナリンの血中濃度が増大したらしく、少しハイになったまま打ち上げに行く。

2002年04月02日(火曜日)

5時半に、ロフトプラスワンへ。
客もウケてくれるし、話す方もノる。性的なプライバシーまでどんどん公開して、いいのか、こんな捨て身で、という感じでしゃべりまくり、テンションはどんどんあがる。それこそ、今日は仕切りは岡田さんにまかせたという感じで、話をいくらでも脱線させていいというノリ。自分でも不思議なくらいアドレナリンが放出された。話だけでダレたときの用心にネタもいくつか用意してきたのだが、全く使わぬまま、11時ジャストですべてのフリップを使い切ったのはまるでしつらえたようで見事

2002年07月08日(月曜日)

朝8時起床。3時間半睡眠にもかかわらず、まあ元気。脳内にまだ昨日のアドレナリンが分解されずに残っている感じ。こういう日は午後にがっくりオチる。(編者注:前日は新宿ロフトプラスワンでのエロトークショウ)

2002年10月20日(日曜日)

ぼやぼやしているうちに夕方になってしまうが、なにかテンションあがらず、と、言うよりは気圧による軽い鬱で、人生とか考えてゴロチャラとする。夕刻、宅急便で豪貴から麻黄附子細辛湯届く。おとついで切れていたのである。さっそく服用。効果覿面というか、急に仕事する気になって、Web現代原稿。アドレナリンが出ていると見えて腹が減らない。11時までかかって10枚アゲ、メールする。こういうときは一人暮らしが便利だなあ、と思う。長生きは出来ないだろうが。そう思っていたらK子から電話。

2002年11月20日(水曜日)

買い物して帰宅、麻黄附子細辛湯を服んで、4時ころからさて、とWeb現代にかかる。書いているうちに、脳にどんどんアドレナリンが出てくるのがわかる。6時になって、三分の二以上書いたところで、もっと面白い書き方があった、と気がつき、全部破棄。一から書き直して、同じ分量を40分で書き上げてしまう。テンション最高潮。ただし、こういうときはまとめられず、結局次回へ続く、というカタチになってしまう。まあ、いいか。

2002年12月31日(火曜日)

日記を書こうとパソコン前に座ったが、急に鬱の発作。十分ほどピクリとも動けなくなり、じっとしている。別に大したことではなく、昨日が朝から深夜までテンション上がりっぱなしの一日であった反動であることはわかっているので、さほど不安も感じず。これで脳がはしゃぎすぎのアドレナリン過分泌状態とバランスをとっているのであろう。

2003年03月03日(月曜日)

雨もよいである。一昨日ほどの本降りではないが、気圧は乱れ、調子悪し。パソコンになかなか向かえず。気圧のせいばかりでなく、昨日、あまりにハシャギすぎてアドレナリンを分泌させた反動のようにも思う。いい年をして

2003年08月17日(日曜日)

コミケ参加にもいろいろと人とのしがらみがある。3時ころ、植木不等式さんが缶コーヒーを買ってきてくれたので、それで墨絵のサンドイッチをパクつく。しかし、アドレナリンが出ているせいか、あまり腹が減らないのは毎年のこと。

2003年09月03日(水曜日)

マッサージ、今日は童顔の、いや実際若いお兄さんの先生。揉んでもらっている間も雷頻々。先生、“ボク、雷が鳴って雨が降り出すまでの、この時間が好きなんですよ”と言う。“空気中のイオンバランスが一気に変わって、バリバリと周囲が帯電している緊張感があって、何かこう体が活性化するんです”と。“花火とか太鼓とかも好きじゃない?”と訊くと、大好きだと答える。皮膚感覚が鋭くて、皮膚の感じ取る情報(気圧、振動、帯電など)ですぐアドレナリンが放出されるのだろう。

2003年09月10日(水曜日)

あとはロフトの準備。コピーしたりビデオさがしたり。こう、いつもいつもドロナワで準備するたびに自分の計画性のなさがイヤになり、もうやめよう、準備の出来ていないライブなんてものはしばらく休もうとか思うのだが、終わってみると、ああ、またやりたいな、と言う気になる。ドロナワ準備もそれなりのアドレナリン放出を誘う快感になってしまう。不思議なものだと思うが、このドロナワ性格のみは改めねば いかん。

2003年10月04日(土曜日)

これらの報告を済ませたのが9時20分。本日の長野旅行の集合が11時45分なので、10時20分には家を出る、とK子言う。それまでに、と、Web現代原稿を書き出す。普通は11枚の原稿であれば3時間弱が平均の執筆速度だが、こういうときはアドレナリンが噴出する。それほどダダダ、とキーを叩いた記憶もないが、なんとか1時間10分で、11枚を書き上げた。ざっと読み返してみるが、さほど文章も荒れていない。そのまま講談社へメールする。とはいえ、出発は10分遅れとなり、K子に叱られる。

2003年10月08日(水曜日)

これだけつまった予定だと、脳内アドレナリンが分泌されてそれほど肉体的疲れを感じないのだが、やはりこないだの旅行以来、疲れは溜まっているはず、と、残った執筆予定をキャンセルし、新宿に出て、マッサージを受ける。

2003年10月10日(金曜日)

原稿は三本、一本が400字詰め10枚という決めなので、都合30枚。3時半には1時間、5時半にしても4時間しかない。こんな時間で30枚は物理的に不可能。とはいえ、すぐにでも取りか からねばならんので、青くなりながら書き出す。
幸い、書く内容はもう構成メモを作ってだいたい頭に入っているので、書き出すのに時間はかからない。だだだどどど、という感じで、アドレナリン大放出させながらパソコンのキーを叩き、3時半にまず一本アゲ。すぐTくんから電話があったが、その声調から、これなら今日じゅうに出せばなんとか無理言っても間に合いそうだ、と判断、少し気が楽になった。5時45分に二本目、7時半に三本目と、まず順当なスピードでアゲていった。三本書き上げて、注釈部分FAXあったところにも赤を入れて、後はメシから帰った深夜にゲラ送付されたのをチェックすればいいや、と言うと ころまでやって、外出。

2003年10月19日(日曜日)

帰宅、サンマーク出版原稿やり出す。60wから400wと長短はあるが、100本近い一行知識に、それぞれ補足情報、コメント、派生ネタなどを書き込まねばならない。案外面倒な作業。とはいえ、ネットや書庫の本などを徹底利用してガリガリと書き進めていくうちに、脳内に無用雑学アドレナリンのようなものが分泌されて、なかなかの快感である。20本ほど書き上げて、まずは第一段のメール。

2004年02月13日(金曜日)

朝、と学会東京大会の夢。準備がまったく出来ていないままに当日の朝を迎え、進まない舞台設置にイラつく夢。こういう土壇場をクリアするのが芸能プロダクションに初めて足をつっこんだその日からの、アドレナリン噴出状態の快感ではあったのだが、その代わり、こういう土壇場人間である限り、このような夢には一生悩まされ続けるだろう。

2004年07月18日(日曜日)

これは生の舞台や寄席の裏方を経験した人でないとわからないかも知れないが、私にとっては芸能プロダクション時代、何十、何百編経験したかというアクシデントであり、何度も書いたエピソードだが、初めて横浜そごうでブタカンを 勤めたとき、あまりのアクシデントの多さに驚いていたら、バンマスさんに「このアクシデントが癖になるんです」と言われた、アドレナリンあふれまくりの経験である。たぶん、今日の楽屋は全員にとって楽しいものであったろう。談笑の声の嬉しそうだったこと。……と、考えてみて、ア、オレの“なんとかなるだんべい思想”は、ひょっとしてこのアドレナリン 放出を意識下で望むが故のものか、と、ちとオソロシクなった。

2004年08月12日(木曜日)

竹書房のアンソロジー用にいろいろピックアップした作品の掲載本を探してしばし書庫に籠もる。それから昨日書きかけた企画原稿の続き。これが、書いていてムチャクチャに楽しい。脳内アドレナリンが出て、いい気分で書き進める。本来書かねばならぬ原稿があるときの、こういう原稿というのはとにかく楽しい。困ったものではあるが楽しい。

2004年10月09日(土曜日)

タクシー出勤、まずコピー機で今日の東放で配ってもらうチラシ作り。窓の外の雨を眺めながら朗読原稿。都市伝説の資料を読み散らかしながら昨夜あたりはどうやって書けばいいんだ、と頭を抱えていたが、すでに二本、書き上げて我ながらなかなかという手ごたえを得て自信をつけ、どんどん書き進める。男女ペアでの朗読だから会話が中心になり、会話なら昔コントの原稿をオノプロの若手の練習用に書きまくっていた経験があるから得意なのである。結局、家を出るギリギリの時間までに三本、書き上げて講談社Yくんと島さん、土田さんにメール出来た。その際に、家で書いたやつのデータをあっちのパソコンに保管して忘れてきたことに気がついたが、K子に電話して送ってもらって事なきを得る。綱渡りの連続でヒヤヒヤ、しかしアドレナリンは確かに分泌されるし、こういうものを書くことが面白くなってきた(創作モードに切り替わった)自分を確認できたのは貴重な経験だったかもしれない。。出かける前にホンコン焼きそば作ってかき込んでいく。

で、ここの特異な焼肉に目を丸くしている美女二人前にして演劇ばなし、うまいもの話などとめどなくしながら、極ホルモン、豚骨タタキ、シビレ、ゲタカルビ、レバ刺しなどを食し、ホッピーを飲む。もっとも、私は声仕事の後の特徴で、アドレナリンで興奮状態のためかあまり食がすすまず。

2004年12月18日(土曜日)

仕方ないと度胸を決め、それっぽい顔で出演。心なしか司会の堺正章、上田晋也の二人も前のときよりフランク。上田の結婚をネタにおしゃべりをして、いざ授業に。アドレナリンの血中濃度がぐーんと上がり、しゃべりだしたら、何か自分でもとまらなくなる。

2004年12月20日(月曜日)

怒りという感情は、一瞬のアドレナリンを放出し、快感を得られるものではあるが、やがてその快感に中毒しはじめると、自分ではその噴出を制御出 来なくなる、やっかいなものなのだ。

2004年12月23日(木曜日)

鬱進行がとまらず、明日〆切のフィギュア王エッセイ、書き出すテンションどうに も得られず。思いついてタントンマッサージに行き、「揉み返しがきてもいいから、ちょっと強く揉んでください」と頼む。それでアドレナリンを分泌させてテンション上げようという魂胆。
揉まれ終わって仕事場に帰る。思惑当たって脳内にアドレナリン充満、バリバリと書き出す。4時から6時半までの2時間半で400字詰め換算11枚を書き上げた。1時間平均4.4枚。プロのライターの最低執筆速度とされているのが1時間3枚だからだいぶ上回っている。とはいえ、多作と称されているモノカキなら同じ時間で5枚から6枚は書くだろうから、私などものの数ではなし。

2005年01月09日(日曜日)

ナニが面白いと言って、自分たちと異なる常識、異なる世界観の連中に混じって刺激を受けるくらいアドレナリンの出ることはない。視野がぐんと広がっていく。今回のライブも、初体験ではあり、正直言って今日が今日まで非常に気が重かったのであ が、出てみれば若返ったみたいな気分。ときどきはやるべき。

2005年02月16日(水曜日)

それからすぐ、FRIDAY増刊号原稿にかかる。こっちは2時半くらいにアゲてメールできる。何か、好天高気圧のときより仕事しているような気がするが、これは確かに神経が高ぶっているせい。体があまりに不調なので、アドレナリンが出ているのだろう。低気圧ハイである。気にかかっていた予定が二つばかり無事クリアされそ うなのでこれもハイの要因のひとつ。

2005年04月23日(土曜日)

打ち上げ会場は津田沼。モノレールで移動し、やる気茶屋で。うわの空という劇団は打ち上げ含めて見所、みたいな感じがあるが今日もまたいろんなことを考えさせられた。も少し明るくパーッと騒ぎたかったが、そこらで、午前中テレビ収録でアドレナリン放出した反動がきたか、やや考え態勢になる。クリエイターとしては素材を前に考えるのはいいことだ。ティーチャ先生がダジャレを連発して清水さんとおぐりに 呆れられていた。

2005年06月15日(水曜日)

あわてて仕事場へタクシー飛ばし、そのイラストに準拠した形で焦点(テーマ)を変える。案外変更した故の、それまでこっちも思いつかなかった視点などが出てきて書いていて膝を打った。ケガの功名? などと喜んでいてはいかんが。これをメール、用心のためファックス。プリンターとファクシミリがどちらも紙詰まりを起こしイラだつこと。とはいえ、このアドレナリン放出のため、雨の日のダルさだの仕事したくなさだのは吹っ飛んだ。

2005年07月06日(水曜日)

しかし、運を引きつけることの出来る人間と出来ない人間の差は如実である。“みんな仲良し”からは何も生まれてこない。全ては少年マンガの黄金時代の高揚感のなせるわざだとしても、読んでアドレナリンが湧いてくるエピソードだ。

2005年07月18日(月曜日)

15分遅れで渋谷着。仕事場でお茶漬けカッ込み、原稿続き。二本目を送る。あと2本。原稿枚数にして8枚。普通に書けば3時間弱の枚数。しかし残された時間はあと1時間半。こうなるとアドレナリン噴出。通常のほぼ倍の速度で運転、5時に週プレ対談で時間割、だが、なんとかギリギリ、5時ジャストに最後の一本をアゲて二見 に送ることに成功。うぎー。思えば大変な毎日であった。

2005年09月05日(月曜日)

週刊連載三誌の最後の一本、アサヒ芸能の『こんニュー』原稿。ニューオリンズのハリケーンをテーマに、やや不謹慎に。山田さんが「単なる時評なら同じことくり返し主張してればいいけど、カラサワさんのは必ずネタ入れるわけやから毎週はしんどいでしょう」と言ってくれていたが、しんどくない原稿というのは書いていてつまらんと思う。ときどき投げ出したくなるくらいしんどいことはしんどいが。今回はネタふりのマクラ、時局とのからませ方、トリビア的ネタ、ラストでのギャグ、とだいたいまんべんなく入れられて満足。ものを書くという作業が大変なのは、ライブでステージに立つような、イヤでもテンションがあがる行為と違い、パソコンの前で自己コントロールでアドレナリンを出さねばならないところである。
自分の中に第三者的評価軸を持ち、作品の出来に善し悪しの判断をくだし、その出来、かつ作品(原稿)が構成され完成されていく過程に興奮し、テンションを上げていく。その行為でさらに原稿に勢いがついていくわけである。この、自己興奮コントロールが出来ないものにとっては原稿の執筆は単なる苦痛でしかなく、結局、長い期間、ものを書くという仕事についてやっていくことが出来なくなる。私ももの書きとしてはホント、種々雑多なことをやっているが、それが本業(文筆業)からの逃避であったことは一回もない。そこがひそかな誇りでもある。

2005年09月16日(金曜日)

なんやかやで、最後の挨拶の立ち位置まで含め最終稽古終わったのがなんと開場の20分前。プロデューサー業に経験ある身としては冷や汗が出て、逃げ出したくなる状況だろうが、役者として出る身としてはこのスリリングさがたまらない。たぶんここの団員みんながそのアドレナリンの中毒なのだろう。いいことか、というと客主体になったときはどうかと思うが。

2006年07月13日(木曜日)

7時、いよいよ初日開幕。本番ではやはりアドレナリンの出方違うなと実感。セリフ噛んだりモヨったりするというのはまああるが、稽古でよくつっかかるところもなんとかクリア。ただ、最後の最後、菊ちゃん相手に〆のセリフ言うところで飛び上がったら、その前の楽曲のところで腰のホルダーに入れたはずの拳銃がホルダーから飛び出して床に落ちてしまった。サッと拾ってことなきは得たが、こういうアクシデントは痺れるものあり。自分採点58点。

2006年07月21日(金曜日)

『猫三味線』予告ビデオ、紙芝居のあと、私があとは主体でいろいろと梅田佳声リスペクトトーク。ウケたウケた。しゃべることが心底好きなんだろう、ああ楽しい、と壇上で思う。私のクセで、芝居にしろトークにしろテレビやラジオ出演にしろ、引き受けたときは大乗り気で、やがてそれにからむスケジュール調整や準備などを考え、「アア、引キ受ケルデハナカッタ」と憂鬱になり、いよいよ逃れられなくなって現場にいくとアドレナリンが出てノリノリになる、というダンドリを大抵踏む。これで一生、忙しい忙しいと言ったまま、たぶん死んでいくのである。楽しがってだからいいのかも知れないが。

2006年10月15日(日曜日)

新書原稿の資料読んだりしてゴロゴロ。いつの間にか夕方、いつの間にか夜。ああ、贅沢な時間の使い方だ。もっとも、贅沢すぎて少し鬱になる。ここ数日、毎日毎晩人と会い、仕事の話をし、ヨタ話をし、ワイワイやってアドレナリンの血中濃度を上げていた反動。

2006年11月13日(月曜日)

調整室の中で橋沢さんが時間や台詞の指示を出すのだが、収録時間と残り時間(8分)がほぼ重なるという緊張感で、さらにアドレナリンが放出され、まるで学芸会のノリでどったんばったん、

2006年11月17日(金曜日)

海保アナのテンションもかなり高く、これまでにないノリ。田舎の親戚に不幸があり、急遽帰省しなくてはならなくなったがその葬式の翌日がなんと友人の結婚式で、服を揃えたりなんだりで1時間しか寝られなかったそうである。そんな体調で相手が中野貴雄というのが、脳内アドレナリンを分泌させることになり逆に好結果を生んだか、と思う。

2006年11月29日(水曜日)

12時過ぎ、かなり酔ってタクシー乗り込んだら、携帯にアルゴのHさんからの電話。当然、試写会のことだと思っていた。「実は、実相寺監督が」ここの時点でもまだ、試写会の話だと思っていた。「亡くなりました」一瞬、何のことだかわからずに「あー、そうですかー」と間抜けな受け答えをしてしまい、その後で蒼くなる。「まだ葬儀とかは決まっていないんですが、とりあえず」「わかりました、では詳しいことが決まりましたら、すぐに」と言って切るが、酔いが一気に醒めていた(潮健児さんの死去の報を聞いたときも、かなり酔っていたが、聞いたとたんにすーっと酔いが醒めていくのがわかった。アドレナリンというものの凄さよ)。それにしても、今日はまったくこれを予想せずに、何度も実相寺さんの名前が(試写会の件、書斎の件)出ていた。西手新九郎も遠慮がちだったか。

2007年02月05日(月曜日)

朝8時起床。寝床でしばらく鬱々。昨日原稿書きと読み合わせでアドレナリンを出し過ぎた反動らしい。

2007年03月10日(土曜日)

4時半、閉店で追い出される。すでに始発は走っているのでそれで帰るというみんなと別れ、タクシーで新中野へ。就寝5時。やり通したという満足感あり。スケジュールをひとつも狂わせなかったという達成感もある。アドレナリンハッピーの中、こんな楽しいことばかりやっててバチは当たらないかな、とも思う。楽日のあとは原稿書きに邁進しよう。

2007年05月06日(日曜日)

四十年近く前、あれはどこの遊園地だったか、“ポリプ”なる、病気みたいな名前の、巨大なタコ状生物を模した遊具に乗った。(略)この死の恐怖はバーチャルなものでなくホンモノだったのか、と気がつき、それから回転が止まるまでの数分、全身が硬直したままだった。それ以来、この手の遊具は苦手であるが、しかし、死を間近に感じるときのアドレナリン放出の感覚も覚えた。恐怖と快感は紙一重なのである。

2007年07月24日(火曜日)

同人誌原稿カリカリ。大変だが、書いていて非常に楽しいし、勉強になる。こういう原稿だけ書いて食べていけないものだろうかと真剣に考える。もっとも、本業にしたらすぐ飽きるかもしれない。惚れて惚れて惚れ抜いた女を妻にした男に限ってすぐ浮気するというような事例を、至近に書いた本の資料を読んでいてやたら見て呆れたものだ。あれは、惚れて自分のものにしようと努力している、その興奮時のアドレナリンに中毒しているのだろう。

2007年12月31日(月曜日)

売り上げも上々、バリバリだった身体も、大掃除がマッサージ代わりになったか、痛みもなくなり(疲れが限度を超してアドレナリンが出てきたのかもしれず)、酒も肴もいずれもうまい。気分も高揚してきて、実に楽しい大晦日となる。

2008年03月10日(月曜日)

自分の教え子だった女性に脅迫メールを延々出していた某高校の校長のニュース、典型的なリスク・アディクション(危険嗜好)型恋愛。バレたら身の破滅、というギリギリの線でのこういう行為は、とにかくアドレナリンが出て快感度が高い。「ああ、俺っていま、崖っぷちだなあ」という思い自体が快感なのだ。この校長はもう、脳内麻薬中毒でわかっちゃいてもどうにも出来なかったのだろう。

2008年04月23日(水曜日)

朝、なんと9時半に目が覚めてしまう。睡眠時間4時間。老化で眠れない、というのでなく、ベッドの中にいたくないというテンション。まだアドレナリンが放出されているのか。

2008年05月28日(水曜日)

昨日生じたトラブルは何とか向うで対応してくれる見込み。ホッとする。これ以上何かあったらパンクである。もっとも、そういうときの方がアドレナリンが分泌されてハリキルだろうが。

2008年08月08日(金曜日)

とはいえ、こういう時間ギリギリの移動とかカケモチというのはアドレナリンが出て、燃える。和泉元彌のダブルブッキング騒動ももう古い話になってしまったが、あのとき、元彌ママは時間やりくりに燃えたことであろうな。

2008年11月23日(日曜日)

自室で原稿、冬コミ用同人誌。これも一種の偏執狂の話。偏執ってアドレナリンがかなり出るだろうな、と思う。

2009年12月23日(水曜日)

6時、夜の部開演。やっと及第点の演技出来た。と、いうか、長ゼリフの快感がわかってきたというか。『ガスノート』、上手くできるとアドレナリンが脳にワッと分泌されるのがわかる。

2009年12月25日(金曜日)

で、あっと言う間に時間経って、本日は一回のみのステージ開演。回を重ねるたびにアドレナリンが出てくる。

最終更新:2010年02月25日 18:43
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