訃報日記2003:04月〜06月

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【マイケル・ウェイン】

日記 :: 2003年 :: 04月 :: 05日(土曜日)
新聞、産経が雨のせいか、配達少し遅れ気味。その遅れた産経に、マイケル・ウェイン死去の報。ジョン・ウェインの長男で、親父の映画のプロデュースをしていたとか。彼を筆頭に、ジョン・ウェインには七人の子供がいるそうで、いつだったか、ジョン・ウェインを讃えるあちらの番組をテレビ東京で見たとき、ボブ・ホープがこんなジョークを言っていた。
「ジョンは七人の子持ちだ。なかなか出来ることじゃない。一日一人作っても一週間かかる……週明けは仕事にならんだろうネ」


【フィリップ・ヨーダン】

日記 :: 2003年 :: 04月 :: 05日(土曜日)
この死亡についてネットを調べていたら、脚本家フィリップ・ヨーダンが3日に死去していたという記事を発見。88歳。『キング・オブ・キングス』『エル・シド』みたいな歴史・宗教劇、『バルジ大作戦』のような戦争もの、『黒い絨毯』のようなスペクタクル、『大砂塵』みたいな西部劇、『探偵物語』のような犯罪もの、『人類SOS(トリフィドの日)』みたいなSFもの、さらには『悪魔の祭壇/血塗られた処女』のようなB級ホラーまで、行くところ可ならざるはない器用ぶりと、単なる器用な才人に終わらぬ骨太いストーリィテラーとしての力量を示し、『折れた槍』ではアカデミー原案賞を受賞、ハリウッドの脚本家の一典型として君臨した大物、と言ってオシマイであれば、通例の追悼でかまわないのだろうが、実はこの人物、単なる脚本家に終わらず、“ハリウッド史上最もミステリアスな男”と称されて、赤狩り時代のハリウッドに隠然たる位地をしめていた、クセモノであった。その怪物ぶりは
http://www.esquire.co.jp/scenario_i/scenario_06.html
 から始まる論考にくわしいが、さて、果たしてヨーダンはベン・マドゥのような才能ある人物を食い物にしていたのか、それとも赤狩りで仕事を奪われた人々にとって彼のような存在は救いの手だったのか。また、ヨーダン自身には本当の才能がどれくらいあったのか、なにはともあれ一筋縄ではいかない怪人である。アメリカのことだから、いずれ生前には発表できなかった様々な資料がこの後出てきて、詳細な研究書 が刊行されるだろうが、楽しみなことではある。


【桜井昌一】

日記 :: 2003年 :: 04月 :: 05日(土曜日)
で、この訃報について、あちこちの訃報サイトを回っているうちに、またまた訃報を発見。訃報日記みたいな感じだが、4日、劇画家・劇画出版社経営者、桜井昌一氏死去、70歳。水木しげるのマンガに出てくる、四角い顔のメガネのデッパ男のモデルと言えば、今の若い人にもなじみが深いのではあるまいか。あのメガネ氏は、日本人の典型のような、欲望に弱い俗物で、しかしながら悪にも染まりきれない律儀さを持ち、努力を厭わない好人物でありながら、どこかでいつも人生のタイミングを踏み外し、幸運の星からは縁遠い存在であった。この人物像は、そのまま、桜井氏に当てはまるのではないかと思われる。桜井氏が佐藤まさあき、さいとうたかを、そして実弟の辰巳ヨシヒロなどと設立した『劇画工房』は、大阪の一隅から確実に日本のマンガ史を変革させ、彼らの東京進出にノイローゼとなった手塚治虫は仕事場の階段を踏み外して転げ落ちたという。しかし、そのようなニュー・ウェーヴの中心にいて、才能あるもの同士の集団ゆえの集合離散常無き状況の中、最も律儀な態度をとり続けた結果、常に貧乏くじを引きっぱなしだったのが桜井氏であった。そのあたりの状況は佐藤まさあき『「劇画の星」をめざして』(文藝春秋)、桜井昌一『僕は劇画の仕掛人だった』(東考社〜桜井氏自身の出版社である)に詳しい。そして、両者における視点の違い(成功者とそうでない者からの)も確認しておきたいところである。長い間病床にあったというが、最期は安らかなものであったことを祈りたい。


【山内雅人】

日記 :: 2003年 :: 04月 :: 09日(水曜日)
新聞に山内雅人氏死去の報。声優の草分けというか、小学二年生の頃観た、劇場版『サイボーグ009』のブラックゴースト役で記憶したのだから、私が名前を覚えた最も早期の声優の一人である。アニメでは『新造人間キャシャーン』の東博士、『未来少年コナン』のラオ博士が代表作か。読売新聞は“海外ドラマ『ドクター・キルデア』のリチャード・チェンバレンの声を吹きかえた他、テレビアニメ『未来少年コナン』のラオ博士の声などを担当した”という程度の記述だったが、産経は“外国映画やテレビドラマの吹き替えのほか、アニメ『未来少年コナン』のおじいとラオ博士の2役などで親しまれた”と、ちょっとオタク風な記述。ネットで調べると毎日及び朝日も“おじいとラオ博士”となっているが、この二役はネットなどで検索すればすぐわかること。二つのうち、主要キャストであるラオ博士のみを記す読売の記者の方が“きちんと見ている”ということなのかも知れない。74才。


【松本善之助】

日記 :: 2003年 :: 04月 :: 09日(水曜日)
ちなみに、産経には他に松本善之助氏の訃報も。他の新聞は報じず。産経の記事も単に“ホツマ研究家”とあるのみで、ホツマとは何なのか、松本氏がどういう人なのか、の説明がないから、一般読者には何でこの人の訃報が載っているのか、わからないかも。言うまでもなくホツマは“ホツマツタヱ(松本氏表記ではホツマツタヘ)”のことで、いわゆる神代文字により書かれた歴史書で、記紀の原典と言われているものである。この文書の写本を昭和41年にこの松本氏が神田の古書店で偶然発見したことから世に知られることになったという、いわくつきの古文書であって、これが本当であるならば、漢字伝来以前に日本には独自の文字があり、その文字で歴史がちゃんと記録されていた、ということになる。当然のことながら偽書として学会からは無視されたが、今なお少なからぬ信奉者がいるのは、日本が古代から大陸の影響とは無関係に文化を独立させていた、という考え方が、ナショナリストたちにとって快いものだからであろう。産経新聞にのみ、その訃報が載ったのも故なしとしない。ネットでは確認できなかったが、著書『秘められた日本古代史ホツマツタヘ』を出した毎日には載ったのか? なお、氏はホツマ研究家になる前は『現代用語の基礎知識』で有名な自由国民社の編集者であり、翻訳事業に深く携わっていた(氏の著者が日本翻訳センターから英語に翻訳されているのはそのつながり)そうで、“コピーライター”なる言葉を日本で初めて使用したのも、編集者時代の氏であったとか。83才。


【華倫変】

日記 :: 2003年 :: 04月 :: 15日(火曜日)
ネットで、マンガ家の華倫変死去の報。3月19日に亡くなっていたとのこと。人の死に関して、いちいち動揺はしないタイプの人間なのだが、今回のこれに関してはいささか愕然とせざるを得ず。心不全という発表があったが、その死因をこれほど信じられない人も珍しい。大体、連絡がぷっつりとれなくなってから、あちこちから電話やメールが何度も何度も届いていながら、なぜ一ヶ月近くも、その死を家族は出版社や知人等に報せなかったのか? いろいろネットなどを回り情報を集めるが、どうも塚原尚人くんのときと似たような精神状態であったようだ。痛々しい。

 私が最初に彼の『カリクラ』を取り上げて評論したのは、1999年、ぶんか社の『ホラーウェイヴ』で、であったか。それから同時期に出た『B級学』でもやはり取り上げ、私はいささかはしゃぎながら、この、たぶん現代のマンガ状況の中でのおさまりどころがなさそうな才能を、喧伝しまくったように記憶している。そういうタイプの作家が好きなのである。偶然だが、彼もまた私の本はよく買って読んでいたそうで、また、後に私が連載をはじめたWeb現代の初代担当Iくんが、彼の担当だったこともあって、これだけご縁があるのならと、その連載をまとめた『裏モノ見聞録』を出版するとき、彼に前書きマンガを描いてもらった。しかし、なにしろその頃彼の住まいが東京から遠い土地であったため、なかなか顔をあわせる機会がなく、また、たまの上京のときはこっちが忙しいというようなことで、Iくんに、会える折があったら一緒に飲ませてよ、と頼んであった。結局、一度も会えないままになってしまった(彼の日記の中には何回か“カラサワ先生がこう言った”とかいう文章が出てきているが、全てウソである。会ったことも、メール一通交わしたこともなかった。あ、ナンビョーさんの旧BBSに書き込みしてきたことがあったな)。

 彼の作品を読むたびに感じていたのは、現実感覚の消失である。ちょうど今の自分が風邪をひいて、味覚があまり効かなくなっているのが、何だか華倫変の作品に似た感覚だなあ、とぼんやり思う。ものを食べても、味がぼんやりとしか感じられない。はっきり感知できるのは、苦みや辛味ばかりである。彼の作品の登場人物たちは、まあ最初から世間との折合いが悪い者たちばかりなのだが、それがさらにまた、摩擦係数の大きい方へ、大きい方へと自らハマりこんでいく。逃げればいいのに、なにも自分からつらい方へ近づかずともいいのに、と思うのだが、傷つき、痛みを感じなくては、現実感覚が取り戻せないのだろう。サイトでも、自虐的なばかりに露悪的な発言を行う一方で、鬱病などについては凄まじい真剣さで、その病気への理解を訴えていた。一人の人間の中に二つの人格があった、などというと陳腐な言い方になるが、どちらも、彼の本質であったと思う。自分を救う(現実社会とのつながりを取り戻す)ためには、自分を破滅の淵にまで追い込まねばならない、という二律背反の中で、華倫変はもがいていた。……そのつらさを、作品を描くことで客観視し、昇華できればよかったのだが、彼は作品の中にまで、ストレートにその状況を反映させてしまっていた。こう言ってはなんだけれども、死の報を聞いて驚きながらも、どこかで、その意外性のなさもまた、感じてしまっているのである、私は。冥福を祈りたいのはやまやまだが、まず、どうしたって冥福などしそうにないタマである。永劫に中有の闇に迷っているのではないか、そんな気がして仕方ない。


【宮崎尚志】

日記 :: 2003年 :: 05月 :: 04日(日曜日)
朝刊に宮崎尚志氏死去の報。68歳。“スカッとさわやかコカコーラ”のCMソングの作曲者、として報じられていたが、それ以上に、というより、そのCM製作でのコンビを引き継いで、大林宣彦監督作品、『さびしんぼう』『廃市』といった映画の音楽担当として、日本映画界に貴重な足跡を残した人。いやいや、私の世代ではアニメ『海賊王子』の音楽を担当、幼少時の愛唱歌のひとつだったエンディング『海賊稼業はやめられない』を作曲した人(オープニングは服部公一による)。と、いうよりなにより、私にとっては小野栄一の親友として、オノプロ時代から、私の代になってもいろいろおつきあいのあった人だった。

舞台での小野の仕事で何度も脇についたことがあるし、私が社長を引き継いだ頃、お仕事の話も持ちかけていただいたことがあるが、当時(平成四〜五年ころ)、宮崎氏は自作オペラのプロデュースに凝っておられ、お笑い芸人のプロデュースでかつかつな弱小プロダクションとしては、話があまりにも雄大というか遠大というか、いやむしろ茫漠としていて(どこだかの県の山奥の採石場跡を買い取って屋外オペラ劇場にする、とか)、ウチではまったく力不足でして……と、引かざるを得なかった。その後その話が実現したということも聞いていないから、あれもいわゆる芸術家病、という口の、夢に酔った計画のひとつではなかったかと思う。その後、病気から復活してからの小野栄一や、娘のひとみちゃんの舞台でのピアノ演奏につきあってくれていた姿を何度か見たが、正直なところ、作曲家としては超一流でも、舞台演奏家としてはアドリブが効かず、あまりはまり役ではなかったと思う(小野の舞台でのピアノには以前も書いた長島史幸先生や、あのバロン滋野の子息であるジャック滋野などという、パリのクラブに連れていってもトップのギャラをとれるような、生粋の舞台音楽家が常連だったので、それと比べるとどうしても……ということもあった)。最後に姿を見かけたのは、昨年10月、小野の芸術祭参加公演での舞台で、新内と電子オルガンのコラボ、という、どう考えてもミスマッチなものであった。私の評価も、当然ながら高いものでなかったのが残念である。いや、もっと無念なのは、せっかく数年にわたり一緒にお仕事する機会を持っていながら、『海賊王子』の話などを一度も聞かないままになってしまったことだった。映画自体はトンデモであるが、大林作品のブラック・ジャック『瞳の中の訪問者』のピアノ曲など、実にこの人らしい、傑作曲 であったと思う。


【宜保愛子】

日記 :: 2003年 :: 05月 :: 09日(金曜日)
朝のニュースショー、パナ研ももういいかげんいいよ、というところで、宜保愛子死去の報道あり、少し驚く。6日に死去していた、という話も。71歳というのは、何かいやに若いような気がする。古怪とも言うべきあの顔から年齢が読めなかったから かも知れない。
私は昔、テレビ出演用の占い師をプロデュースしていたのだが、私自身は占いというものを全くと言っていいほど信じていなかった。ある日、一時うちの顧問もやっていた業界ゴロのMという人がやってきて、なんとかうちで宜保愛子さんと連絡をとれないか、と依頼してきた。そのM氏の知り合いで、貿易関係で老舗の会社の女社長がおり、彼女は父親の後をついで社長業をやっているのだが、事業のことで、どうしても、亡き父のアドバイスを受けたいので、宜保さんなら信じられるから、宜保さんに顔をつないで、父の霊を呼び出してもらってほしい、ということだった。で、もしつないでくれたらそのお礼として、と示された額というのが、当時貧乏プロダクションの経営で頭をいためていた私にとっては、なかなか魅力的なものであったのを覚えている(世はバブルだったのである)。
実は、宜保さんとはつながりがないこともなかった。K子の友人のマンガ家のTさんというのが、当時宜保さんの伝記マンガを描いており(少女時代の宜保さんを大変な美少女に描いており、K子とよく笑い合っていたものだが)、そっちのルートから依頼すれば、どうにかなった、と思う。ただ、私の中に、占いを信じないものが占いをプロデュースするのは、それがお笑いとしての範疇のもの(トイレットペーパー占いであるとか、SM占いであるとか)だからなのだ、と、いうような、一種の矜持の線があったのだろう。そこで宜保さんを本物の心霊能力者として紹介し、信じている人からお金を貰ったら、自分はこのさき、彼女を批判したり笑ったりする権利がなくなってしまうのではないか、と思い(若かったねえ。今ならツラリとして貰ってしまうところだが)、未練を残しながら、丁重にお断りしたのであった。
宜保愛子の霊能力というものを私はカケラも信じないが、インチキだってこの世の中にあっていけないことはない。ただ、宜保愛子はインチキであっても、そんじょそこらのインチキ霊能力者とは比べものにならない、カンと頭のよさと、人を引き込む会話能力と自分を信じさせる親和力と、自らをどうマスコミに売り出していくか、という企画力に長けていた。自分自身の、どうみたって魁偉としか言いようのない容貌すら、武器にしていた。そういう頭のよさも持ち合わせない自称霊能力者のオバサンたちが、彼女の成功以来、二番を狙って何人もマスコミに売り込みをかけてきたようだし、私のところにもやってきたりした。彼女らは一様に、宜保愛子なんかインチキだ、私の方が霊能力では数等まさる、と豪語していたが、しょせん器が違っていた。なにより、彼女たちのほとんどには、背後に男の影があった。これは、宜保さん以前に霊能力とか占いで売り出した藤田小乙女や、細木数子もそうだった。宜保愛子にはそういう影がない(これも顔の御利益だろう)のがさわやかだった。後年、彼女を売り出した光文社と喧嘩別れして以降は人格も変わってしまったようで残念だったが、少なくとも売り出して数年間の彼女は、日本に登場した有数のタレントであったことは間違いないだろうと思うのである。


【井上一夫】

日記 :: 2003年 :: 05月 :: 13日(火曜日)
新聞に翻訳家・井上一夫氏死去の報。肝硬変、80歳。作家や学者の副業でない、プロの翻訳者として名前を記憶された、草分けの一人ではないかと思う。マクベインの『87分署シリーズ』やフレミングの『007シリーズ』は、この井上一夫という名と共に世に受け入れられた。“007で蔵を建てた男”とか言われて、“そんなに儲からないよ”と、どこだったかの対談で憮然と言っていたのを覚えている。とはいえ、蔵でなくとも家が建つくらいは儲かったのではないか。007の翻訳は最初いろんな訳者をたらい回しにされた末に、都筑道夫氏に強引に押しつけられたというが、と、いうことは乗り気のしない仕事だったのだろう。人間、何がどこで代表作になる かわからない。
私はミステリでは、同じ井上でもクイーンやヴァン・ダインを訳していた井上勇氏の方によりなじみが深かったが、こちらは一夫氏より二十年以上も年齢が上ということもあり、文章はいささか古色蒼然としていた(そこがまあ、好きだったのだが)。それに比べると一夫の方の井上氏は、戦後のモダンなアメリカ会話が訳せる人、という感じで、かといって田中小実昌ほど軽くなく、田村隆一ほど日本語としてこなれすぎず(この人は何を訳しても田村隆一、だった)、原文をきちんと律儀に訳して、しかも日本語として成立させてしまう名人だった。言語感覚が優れていたのは、氏の訳した本はタイトルがいずれも実にしゃれていたことでもわかる。007翻訳の第一作となった『Live and Let Die』を『死ぬのは奴らだ』としたのは都筑氏のアイデアだそうだが、しかし『You Only Live Twice』を『007は二度死ぬ』とするのも、180度逆手からの発想で、なかなか出来るマネではない。87分署シリーズ『Like Love』の訳題『たとえば、愛』など、後にあちこちでパクられるほどの名訳だった。しかし、極めつけはフレドリック・ブラウンの『The Mind Thing』の邦題『73光年の妖怪』。理知的な感じのする、どちらかというとソッケない原題を無視し、怪談調のおどろおどろしいタイトル(しかし、“光年”という科学用語を入れることでSFであることを示す)にして、通俗娯楽作家としては最高の腕を見せるブラウンのこの作品の面白さを徹底し て表現した、その才覚に脱帽する。


【ロバート・スタック】

日記 :: 2003年 :: 05月 :: 16日(金曜日)
新聞にロバート・スタック死去の報。14日、84歳。日本とのかかわりで言えば、国辱映画、とまで言われたサミュエル・フラーの『東京暗黒街・竹の家』に主演したことで有名。この作品に描かれた戦後まもない日本の情景は、今見ると実にキッチュで凄まじい。DVD出ないかな。


【堤幸子】

日記 :: 2003年 :: 05月 :: 24日(土曜日)
『本当は恐ろしいグリム童話』の作者、桐生操の片割れ、堤幸子さん死去。70歳、というのに驚く。私などよりずっと若い人かと思っていた。


【銀髪鬼フレッド・ブラッシー】

日記 :: 2003年 :: 06月 :: 04日(水曜日)
新聞に銀髪鬼フレッド・ブラッシー死去の報。ブラッCはしばらくこれでネタが出来るな。さっそく、ネットで私がいつも最も長居をしてしまうサイトである『ミック博士の昭和プロレス研究室』に行ってみるが、ちゃんと新聞よりずっと早く、訃報を掲載していた。さすが。
http://members.tripod.co.jp/drmick/proresu/hansoku/brasse.htm
以前別のところにも書いたが、某出版関係のパーティで会った人が、“僕のお爺さんは、あのブラッシーの噛みつきをテレビで見て心臓発作で死んだ被害者なんです”と自己紹介して、聞いたときは大変にうらやましく思えたものである。昭和史とか戦後史とかに必ず紹介されるエピソード、いわば歴史の生き証人ならぬ “死に証人”である。ブラッシーの凄かったところは、素顔が実に整った紳士顔であったところだ。ギャング紳士ではあったが。インテリの面影もあり、実際引退後は名マネージャーとして、スタン・ハンセンやハルク・ホーガンを名レスラーに育てあげている。ブルート・バーナードやブル・カリーといった異様な面相のレスラーが噛みつくのはこれはまあ、アタリマエといった感じであまりインパクトはないのだが、ルー・テーズの弟弟子という正統派のテクニシャンが、形勢不利と見るやガラリ一転、反則技、いや技とも言えない噛みつき攻撃で相手を血達磨にするという展開が、モデルとなったドラキュラのイメージにも相通じ、テレビの前の日本人を、心臓が止まるほど大興奮させたのでありました。

【厚木淳】翻訳家

日記 :: 2003年 :: 06月 :: 06日(金曜日)
昨日の日記でつけ落としたが翻訳家厚木淳氏死去。新聞記事は翻訳家としてしか紹介していなかったが、東京創元社に編集者として入社、創元推理文庫創設者にして、推理文庫のSFマークを立ち上げた、日本SFの一方の育ての親。どこやらのサイトで氏を“バローズに憑かれた男”と評していたが、さもありなんというくらい、創元推理文庫はバローズ(バロウズではない。エドガー・ライス・バローズである)を延々と出版し続けた。ただし中学生くらいの私は、当時の潮流でSFとはスペキュレイティブ・フィクションなり、などと主張していた生意気盛りだったので、火星シリーズだのペルシダーシリーズだのを読んだのはだいぶ後のことになり、さしてハマらなかった。とはいえ早川で野田昌宏氏が訳していたキャプテン・フューチャーなどには大ハマりしていたのだから、別にスペオペが嫌いだったわけではない。やはり、最初の釘の打ち込みがズレてしまい、それが尾を引いたのだろう。ああいうものに熱中して夜も日もなく読みふける、というのは若い頃の読書の特権だろうから、ちとくやしくはある。もう一度『モンス ター13号』あたりを読み返してみるか。


【グレゴリー・ペック】

日記 :: 2003年 :: 06月 :: 13日(金曜日)
朝刊には載っていなかったがワイドショーでグレゴリー・ペック死去の報。87歳だからまあ、年齢に不足はない。聖職者になるつもりが俳優になった、という“アメリカの良心”“信念の人”の体現で、『白鯨』のエイハブ船長ですら彼が演じると、怪物的どころか、神の怒りをかった非業の人、という感じになってしまった。この役はオーソン・ウェルズが是非にと希望していて、体重がありすぎてあきらめた(そのかわりにマップル神父役で特出。後の再映画化時にはペックがこの神父役で特出)のだが、ウェルズがやったら凄まじいエイハブ像が現出したことだろう。そんなペックだから悪役はほとんど演じてないが、例外が78年の『ブラジルから来た少年』でのナチの軍医、メンゲレ役。この映画はクライマックスが71歳のローレンス・オリビエと62歳のペックの、往年の二枚目同士の死闘という、女斗美ならぬ爺斗美映画で あった。


【長谷川公之】脚本家

日記 :: 2003年 :: 06月 :: 16日(月曜日)
新聞に脚本家長谷川公之氏死去の報、72歳。千葉医大を出て警視庁の法医学室勤めをしながら映画のシナリオを書き、後にそれを本職とするようになったという異色の経歴の持ち主。東映の『警視庁物語』シリーズが代表作であるのも故なしではないが、その経歴が示すように多才極まる人であったようで、シナリオも警察ものばかりか歌謡映画に博徒もの、テレビでは七人の刑事からプレイガールまで、さらには仮面ライダーも確か二本ほどやっている(イソギンチャックとユニコルノス)。ただし、多才なだけに脚本もあまり個性のようなものは感じられず、要するに何でもこなす便利屋みたいな感じだった。……しかし、いやしくも医大を出て公務員になった人物がシナリオライターに転職したがるほど、当時(昭和30年代)というのは映画界が活気にあふれた黄金時代だったわけだ。監督にも役者にも、綺羅星の如き才能が集っていたわけで、彼らには、さして個性を主張しない長谷川氏の脚本がありがたかったのではないか。逆にそこに、自在に自分の演出プラン、演技プランをつけ加えられるのである。彼が脚本を書いた『陸軍中野学校・雲一号指令』などは、増村保造が戦時下の青春群像として中野学校のエリートたちを描き出した前作を、通俗娯楽作にしてしまったストーリィ的にはどこといってとるところのない作品なのだが、森一生のキレ味鋭い演出、主演の市川雷蔵のニヒルなカッコよさ、助演の村松英子、佐藤慶、戸浦六宏らの怪演がとにかく光る、スパイ映画の傑作たりえていた。こういう役割での黄金時代の支え方もある。


【春風亭柳昇】

日記 :: 2003年 :: 06月 :: 16日(月曜日)
訃報続く。K子の掲示板の方に、春風亭柳昇師死去の報。82歳。こないだ昇輔さんが、“もう、元の顔がわからないくらい痩せちゃって……”と言っていたので、歳も歳、と思ってはいたが。新作派の落語家のうちでも、話芸というようなものとは対極にある芸風で、滑舌は悪いわ、早口過ぎるわ、人物の描き分けは出来ないわといった人であった。昔NHKの『減点パパ』に出演したとき、子供が“お父さんの落語は下手です。本当に下手だと思います”と作文を読んで、本人がやたらあわてふためいていたのが可笑しかった。それくらい下手だったのだが、それでも客を爆笑させていたのはえらいし、また、彼の才能を見抜いて人気者にした師匠の柳橋も目があった。いわゆる傷病兵であり、障害者(手の指が数本欠けている)なのだが、それを高座では一切、客に悟らせなかった(私も長いこと気がつかなかった)のは、やはりこれは“芸”だったのだな、と思う。お仕事は一回、やったきりだったが、こちらの用意した出囃子のテープのメモに、柳昇の名がない。それでもプロか、と怒鳴られるのを覚悟で、「すいません、師匠の出囃子は何だったでしょうか」と楽屋に訊きにいったら、「何だっていいです。あンなものア、鳴ってればいいってだけで……なンなら『星条旗よ永遠なれ』だっていい」と答えたのが、いかにもこの師匠らしくて、落語以上に記憶に残っている。


【ヒューム・クローニン】

日記 :: 2003年 :: 06月 :: 17日(火曜日)
俳優ヒューム・クローニン死去、91歳。初めて見た時から爺さん役だったような気が。演じる役もインテリが多かったが、本人も単なる俳優ではなく、『疑惑の影』で出演し、親友となったヒッチコックの『ロープ』や『山羊座のもとに』などでは脚色に加わっている(どちらもテン・ミニッツ・カットと呼ばれる長回しが特長の作品なので、演じる役者としての立場からの助言をしたのだと思われる)。未見だが『コンラック先生』での冷酷な差別主義者の教育家の演技が凄かったというし、『クレオパトラ』では、ローマとエジプトの宥和を提言する平和主義の学者役。しかし、ローマ軍がアレクサンドリア図書館を焼いたことに抗議して殺されてしまう。この場面は観ていてグッときた。そういう重厚な役者が、『コクーン』で、宇宙パワーで若返って男性機能がよみがえったときの、もうこれ以上ないという、はしゃぎ回った嬉々たる表情を演じてみせたりするから、むこうの役者というのはあなどれないのである。


【名古屋章】

日記 :: 2003年 :: 06月 :: 24日(火曜日)
キオスクの新聞見出しで、名古屋章氏の急死を知る。去年だったか、大阪のホテルのテレビで闘病体験の講演をしていたのを偶然見たが、喉のあたりが異様にふくれて、顔が変わってしまっていたのに驚いたものだった。死因は肺炎ということだが、身体の各部位に変調がやはりあったのではあるまいか。かなりアクの強い俳優だったと思うが、善人役が記憶に多いのは、NHK放送劇団出身という、出自の上品さからか。声優として『ロックフォード氏の事件メモ』をはじめ『真田十勇士』などで聞き慣れた人(『空飛ぶゆうれい船』の、冒頭で死んでしまう父親役が妙に印象的だった)なのだが、二代目ドン・ガバチョだけは、初代・藤村有弘の演じたあのキャラクターを人生の師とあおいでいた(まあ、それも問題かも知れないが)私にとってはどうしても納得できないものであり、聞く気になれないでいた(マンガ評論家の藤田尚氏もそうらしい)。今にしてみれば惜しいことだったかも知れない。
日記 :: 2003年 :: 06月 :: 25日(水曜日)
ワイドショーでは名古屋章氏訃報。“ウルトラマンタロウの隊長役で子供たちにも親しまれ”という報道はまあ、仕方ないのかもしれないが、あの作品での朝比奈隊長は特別出演格であり、親しまれるほど出演はしていなかったと思う。考えてみれば副隊長、隊長ともに亡くなってしまったのだなあ。


【山根赤鬼】マンガ家

日記 :: 2003年 :: 06月 :: 25日(水曜日)
訃報が続く。マンガ家の山根赤鬼氏死去、68歳。双生児の天才マンガ家として、兄の青鬼氏と並んで私の子供時代には売れっ子だった。絵も作風も似ているのでややこしいが『よたろうくん』『丸井せん平』が赤鬼氏の作で、『なるへそくん』『でこちん』『親父バンザイ』が青鬼氏の作。どちらかというと青鬼氏の作風の方がモダンで、時代に合わせて、ハレンチも取り入れれば現代風俗も描く、という自在性があった(それ故にずっと後期になっても、アニメ化もされる『名探偵カゲマン(探偵少年カゲマン)』というヒット作を出せた)のに対し、赤鬼氏の作風は師である田河水泡譲りの正統派の少年マンガとしての笑いを頑固に守っている、という感じだった。昭和40年代末に読んでもうそんなことを感じたくらいだったから、すでにしてその当時、赤塚不二夫など新感覚派の台頭で、過去の作家になりつつあった人なのである。赤塚と山根赤鬼(当然青鬼も)は実は同じ昭和10年生まれなのだが、赤塚が満州からの引き揚げ者で、デビューまでに辛酸をなめたのに対し、青鬼、赤鬼はなんと14歳でデビュー、師匠の田河水泡の後押しを受けて、雑誌や新聞連載で瞬く間に売れっ子になったという、苦労知らずのマンガ家人生のスタートだった。そのあたり、時代に“乗った”ものと、時代に“齧りついていった”ものとのバイタリティの差が、後になって出たような気がしてならない。グーグルで検索してもたった一件しかヒットしない作品なのだが、少年画報誌に昭和42年に連載された赤鬼氏の『東京アニマル探偵局』というマンガが、私もなをきも大好きだった。当時流行りのスパイもののパロディだったが、悪の組織の子分が隠れ家に帰って「へへ、うまくいきましたぜ、あたま!」「あたまじゃありません、私は“かしら”です」「へえ、どうもすいません、ガス!」「ガスじゃない、ボスだ!」というような落語的ギャグの、なんとまあほのぼのとしていたことか。旧世代と新世代の作家の間をつなぐ中間世代の人として、もっと研究されていい作家ではなかっ たかと思う。ご冥福をお祈りする。


【小島貞二】落語評論家

日記 :: 2003年 :: 06月 :: 25日(水曜日)
さらに訃報、落語評論家、小島貞二氏死去、84歳。力士あがりの演芸評論家という異色の存在。志ん生、圓生などの聞き書きを数多く残してくれたことが、若い世代の落語ファンにとってどれだけ有り難い遺産であったか、はかりしれない。快楽亭ブラック(もちろん先代)の伝記も書いている(『快楽亭ブラック・文明開化のイギリス人落語家』1984・国際情報社)。ブラックの伝記としては後に講談社からオーストラリア人のジャーナリスト、イアン・マッカーサーのもの(『快楽亭ブラック・忘れられたニッポン最高の外人タレント』1992)が出ている。調査の行き届き方としては、同郷の強みもありこちらの方が優れているのだが、やはりそこは外国人の悲しさで、芸人という特異な職業人のものの考え方や行動原理が伝わってこない。小島氏の著書の方が、ブラックという人物像をずっと的確に把握できるのである。ほんの数年前、神田の中野書店で、この人の落語関係の本を買った。新書版の軽い内容のもので、値段は600円だったが、店主が、“こないだ、小島さんがウチに来て、この本手にとってねえ。「これはいい本なのに、こんなに安いのはけしからん!」って怒って帰ったんだよねえ。まあ、確かにいい本ではあるんだけど……”と言っていた のを思い出す。


【八代駿】

日記 :: 2003年 :: 06月 :: 26日(木曜日)
朝刊に八代駿氏死去の報。70歳。ああ神様、これ以上吹き替え洋画ファンを悲しませないでください、と天に祈りたくなった。最近までくまのプーさんで活躍していたのがせめてもの慰めか。『トムとジェリー』のトム、『いなかっぺ大将』の西一、仮面ライダーの怪人たちなどの声の思い出がこれからネットで沢山語られるだろう。
私的には、この人の声と名前を一致させて覚えたのは、『ブラボー火星人』のティム(ビル・ビクスビー)役で、だったと記憶する。トムとティムが持ち役だったのである。普通の日本人の発声とは一種根本的に異なる、バタ臭い声と芝居で(これは翻訳劇を多く手がけていたテアトル・エコー出身者だったからだろう)、それがTV洋画初期の、日本人の日常レベルとはまったく異なったアメリカ家庭の生活を表現するのにピッタリであった。上記『ブラボー……』で、開拓時代にタイムスリップしてしまったマーチンとティムが、ラストで無事現代に帰れたことを喜び、腹が減った、ステーキを食べよう、とはしゃぎながら冷蔵庫から分厚い牛肉を何枚も取り出すシーンがあった。家庭の冷蔵庫の中にビフテキ用の肉が何枚もストックしてあるのである。私はあまりの驚きに、その回の話を、そこしか覚えていない(タイムスリップでは驚かなかったのに)。あれを、日本的新劇役者の演技で演じたら、まるきりぶちこわしだったと思う。生活離れした八代駿の声が、お茶漬け的リアリティからかけ離れたドラマに血を通わせていたのである。……ちなみに、その回のオチは、台所にいるティムにマーチンが“もう一人前、ステーキ追加を頼む”と言う。お客さんかい? とフライパン片手に居間にティムが行くと、そこには開拓時代からついてきてしまったインディアンが、むっつりとした顔で腕を組んでいる。ティムが仰天しながら、焼き加減は? と訊くと、一言、 “なま!”……というモノであった。もう一度見てみたいが、いま、放映できるかどうかは疑問だと思う。


【山本廉】俳優

日記 :: 2003年 :: 06月 :: 29日(日曜日)
訃報と言えば、掲示板で知ったが、俳優の山本廉氏も17日に亡くなっていたとやら。享年72歳。われわれの世代には、特撮ものの常連というイメージで、特に『ウルトラマン』のギャンゴの回の小悪党・鬼田の大笑いの顔の繰り返しが、怪獣ギャンゴの顔にダブって連想されてしまうのだが、時代劇の巨匠・稲垣浩が現代劇で島崎藤村の原作を元に撮った人情劇の佳作『嵐』(1956)では、笠智衆演ずる大学教授の長男・太郎役。ちなみに次男が次郎という名で大塚国男、三男が三郎で久保明、末娘の長女が末子という名で、雪村いずみが演じていた。そんないい加減な名前をつけられたせいでもなかろうが、次男、三男が内向的でなつかなかったり、長じて反政府運動にかぶれたりと、男手ひとつで子供たちを育てる笠を悩ませるのだが、体が弱くて農家に預けられた長男の山本廉だけは、山暮らしが性にあったのかめきめき健康になり、“次郎も三郎もこっちに寄こして百姓をさせれば、変なことなんか考えないよ うになるさ”といたって楽天家なのが笑わせた。


最終更新:2010年03月05日 18:48
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